『財界太平記』

 第二篇 小栗上野介炯眼三野村利左衛門を用ふる事
明治七年三井組大厄難、三菱飛躍の事

 「二」 三野村利左衛門と小栗上野介 (三二-三八頁)

 但し、三井家の番頭の中でも、幕末から明治の初年にかけて、三井家の大黒柱となつて働いた三野村利左衛門といふ人は、齊藤とか、西村とか、中井とかいふ舊來の番頭達とは全く其人物の生ひ立ちと、素質とを異にし、三井家は此人の力によつて非常の大變革に際し、よく無事に幾多の危険と困難とを凌いで今日あるを得たものらしい。三野村利左衛門の傳記は「大日本人吊辭書」にも載つて居る。殊にその上半は利左衛門の直話とさへ註されて居るが何うも少し怪しい所があるやうだ。僅か半世紀ばかりの間に維新の財政史に非常に重要な地位を占める此人物の傳記が斯くまで曖昧になるといふことは想像も出來ぬ程變なものであるが燈臺元暗しの譬への如く、世間の事は往々近い事ほど曖昧であり勝ちなものである。該辭書によると利左衛門は信州の人で、眼に殆んど一丁字もなき者のやうに記述されて居るが、三井家の方の諸記録を綜合して考へると却々さういふわけのものではない。彼は幕末駿河町なる三井組兩替店の總支配人齊藤純藏に頼まれて勘定奉行小栗上野介を説き、三井家の爲に苛酷なる御用金の斟酌をさせたのが、三井家に用ひられて要職に置かれる初めであつたといひ三井家に用ひられると間もなく外國爲替方即ち當時の所謂神奈川御用達を命ぜられたことといひ、三井銀行の創立と同時に其副頭取に任ぜられたことといひ、死ぬまで井上馨に信用せられて居たことといひ、何處から推して考へても彼が信州の素性も知れぬ農家の子で「文筆を善くするに非ず、但々活發にして膽力あり、性頗る理財に長じ」て居た男とは思はれない。「大日本人吊辭書」の傳記はその他の點にも疑ふべき所が多いが、特に此點は怪しい。

 一説によると彼は出羽庄内の藩士、木村又太郎といふものの子で、幼少の時から家中の人々に神童と呼ばれたものである。十四歳にして大阪に出で、商業界に投じて志を成さうとしたが果たさず、江戸に來て赤貧洗ふが如き生活を送る中、世話する人があつて神田三崎町なる紀伊國屋利八といふものの養子となり、初めて姓を三野村と改めたとある。辭書によると、紀伊國屋は油屋で、利左衛門はその人足に雇はれたのであるといひ、一説には菓子屋であるといふ。又、辭書には三野村は三井家の番頭であるが如く書いてあるが、當時三井家の番頭に三野村といふ人が居たといふことはまだ聞かぬ。又紀伊國屋の養子になつたのも上野の世話であるといひ、三野村家の養子になつたのも上野の世話であるといひ、少しをかしい。

 三野村利左衛門が信州の人であつたか、出羽庄内の人であつたか、神田の紀伊國屋が油屋であつたか、菓子屋であつたか。その邊の事は別に考證をして呉る人があらうからそれに譲るとして、塚本松之助の『小栗忠順傳』によると、利左衛門がその三井家に用ひられる前、小栗上野介に知られて用人に取立てられて居たことは確かであるらしい。して見ると、利左衛門が三井組兩替店の總支配人齊藤純藏に頼まれて上野介に同家の窮狀を訴へ、其御用金割當額に斟酌を加えさせたのも、小栗家の用人としてした仕事であつたに相違なく利左衛門は上野介が江戸を去つてその舊領、上州權田村に退去して後、齊藤純藏によつて三井家に用いられたものである。

 但し、利左衛門が如何にして上野介に識られ、又齊藤純藏に知られたか、その事の起りは依然として明らかでない。之は僕の想像に過ぎないのであるが、上野介は是より先、萬延元年一月幕府の使節として二百餘人の一行と米國に赴き、歸朝後勘定奉行兼外國奉行に任ぜられたものであるが、彼の米國から持つて來た最も大きいお土産は金銀量目の比較のことであつた。彼は彼地で研究して來た新智識により、日本の小判の價を昇せて三倊以上とした。かように小栗上野介は金銀量目のことに興味を持つて居たし、三野村利左衛門は地金銀の賣買を営んで居たといふし兩人が何かの機會に此金銀量目のことを媒介として互に相識るやうになつたものではなかろうか。無學文盲な油屋の人足が其行商から直ぐ飛ぶ鳥も墜とす勘定奉行に知られたといふのは少し變である。

 慶應四年四月五日、小栗上野介は叛逆の嫌疑ありとて、上州權田村で、東山道總督岩倉具定の配下の兵に捕へられ、六日烏川の畔に於いてその家來三人と共に斬殺され、養子又一も七日、高崎の牢舎から引出されて從者三人と共に斬首された。此兇變に接し、上野介の母國子と夫人道子とは四月三日女中二人、百姓足軽十四人に伴われて間道から越後の新潟に遁れ、會津から迎への人に案内されて家老横山主税常徳の家に引取られ、六月十四日道子は安らかに一女児を擧げた。此女児こそ矢野文雄氏の令弟で、後に大隈の世話で小栗家の吊跡を嗣いだ小栗貞雄氏の夫人國子さんである。

 上野介の未亡人道子は、會津落城の後、その女児と共に東京に送られ、深川の三野村利左衛門の邸に引取られた。三野村は深く上野介の恩誼を思ひ、よく母子の面倒を見て、未亡人の死後上野介の遺愛國子を大隈家に引渡した。抑も道子の家は日本武尊の直系と稱する播州林田の小大吊、建部内匠頭の女で、法學博士蜷川新氏の母堂はその實の姉妹である。
 小栗貞雄氏の夫人國子さんが、三野村から大隈家に引取られ、伯爵夫人の手許で育てられたのは、伯爵夫人が徳川家の旗本三枝氏の出で、小栗家と親類であつた關係によるものである。三野村利左衛門は一生涯上野介のことを忘れず、「若し先生をして今日の要路に立たしめ、財政の局に當らしめたならば、國家の難局を打開し、その發展に資益した所何ほどであつたかを知らぬであらう。」と云つて居たとのことである。  國子夫人の利左衛門に關する記憶その他に關し、先輩として多年教えを乞へる小栗貞雄氏から、次の如き來翰があつた。

 荊妻も追々老境にて古き事は餘り記憶し居らねど、利左衛門氏は荊妻十歳前後の頃、死去したる由にて、子供の事故、利左衛門氏に關しては何事も承知致し居り上申、利左衛門氏に伴なわれて(三井の子供男女をも一緒に伴はれて行きたる様子に候)大隈侯の早稲田の別邸(其頃大隈侯の本邸は今の日比谷大神宮の所なりしか雉橋の佛國公使館跡に移轉後なりしかハツキリ記憶致さず候)などに行きたる事あり、深川の三野村の邸内に一軒の家を貸されて、母子の外に祖母と女中と四人位にて生活致し居り、三野村氏の庭に遊び居る時など、時々利左衛門氏より話しかけられたる事あるのを記憶致し居る位に御座候。
 利左衛門氏に三女あり男子なく、二女の中長女はソコヒにて盲目となり、利市といふを養子として本家を相續せしめ、之に銀町の自分の質店を任せ次女には利助氏を養子として別家と爲し三井に入れたり。利助氏の方は別家なれど深川の本邸に居住し、利市氏の方は、本邸内にて本邸の後隣りに當る一段劣りたる家屋に居り、本家といふも長女の爲の吊義だけらしく、利助氏の方に本家相續の實がありたるやう被存候。
 利助氏は戀婿との評判もありたれど、利左衛門氏が見出したる養子にて好男子には相違なきも相當の人物にて、小生も何度か面會致したる事有り、上野介との關係にて利左衛門氏が入牢したることありとて他に話し居るを聴きたることも有之候。三井家の基礎を安定させたる上に於て利助氏も可なり功勞者と承り居り申候。
 利助氏の長女が久方久徴氏の夫人に候。(下略)

 「三」 三野村利左衛門と小栗上野介 (三九-四十頁)

 小栗上野介も勘定奉行となつてからは、度々江戸、大阪の町人に命じて御用金を徴發した。それが大阪の町人の分として僕の手許に分つて居るのは、元治元年九月の六百八千餘貫目と、慶應二年四月の二萬二千餘貫目とであるが江戸の町人には此外にも度々命ぜられたことであらう。(福地源一郎――幕末の政治家)それは恐らく慶應二年度の徴發であつたらうと想像されるが。その三井家に割當てられた御用金の高は非常なもので、三井家としては既に是までも度々幕府の誅求に應じて來た關係もあり、唯々として之に應ずることは出來なかつた。併し上野介は剛毅果斷を以つて評判の政治家であつたから、三井家でも膠もなく之を拒絶することは跡が恐ろしいといふので、江戸勤番の主人、三井高喜を始めとして、重役達もいろいろ相談をして見たが施すべき策がない。その時齊藤純藏がフト三野村利左衛門のことを想出し、之に上野介説得のことを依頼して見ると、利左衛門は早速に引うけ、情理併せ畫して三井家の苦しい立場を告げ、完全にその諒解を得て事を圓満に解決することが出來た。利左衛門は此功によつて純藏から上野介上州退去の後、三井家に推擧せられ間もなく神奈川御用達に任ぜられた。

 『大日本人吊辭書』には此時三井家の全権を握つて居たのは齊藤專藏であつたとあるが之は間違つて居る。專藏は純藏の子であつて、父純藏の後を襲ひ三井家に用ひられたが、專藏の代になると、三野村利左衛門の實子利助と地位が顚倒してその下風に立つこととなつた。利左衛門は三井家に入り、殆ど三井家の全權を委ねられて、事實上の總支配人であつたが、それでも自分は一代は何處までも純藏を立てて、決して之を凌ぐといふことがなかつた。純藏に二人の子があり、長男を專藏といひ、次男を銀藏と云つた。

引用・参照

『財界太平記』白柳秀湖 著 (日本評論社, 1929)二九-三八、三九-四十頁
(国立国会図書館デジタルコレクション)