『幕末の英傑小栗上野介を偲ぶ:横須賀海軍工廠創設の由来』

 本書の發行について

 小栗上野介の最後には、誠に悼むべきものがあったことが窺はれる。徳川幕府末期、幾多の要職にあった身でありながら、上州の權田河原に引き出されて斬に處せられ、剰えその首級と胴體を異にして埋められたといふが如き、武士の最後として、實に悲惨極まるものありといはざるを得ない。…小栗上野介の功業中、我國にとって最も重大なる意義を有する、横須賀海軍工廠の前身たる製鐵所の創立について、史実を明白ならしめようとするに過ぎない。
 小栗上野介のこの功業は、かくれて世間に傳はる處が少なくない。それは、彼が強硬なる長州征伐論者であった関係上、薩長を中心とする歴史の上では影が薄かったからだ、と唱える向きもあるが、必ずしもそうばかりとは限らないと思ふ。
 寧ろその主なる理由は、抑々海軍工廠は、艦艇兵器機關の造修を司る處である。從ってその機能の完備如何は、現有の艦艇兵器の能力と相俟って、海軍兵備の物的二大要素であるに拘らず、世人動もすれば、後者を知って前者の重視すべきを閑却傾向が失せないのと同時に、問題が海軍に關する事柄である關係上、汎く一般に傳はり難かつたからであろうと思われる。
 尚又、かの幕末財政窮乏の際に於て、幾多の異論を排し、製鐵所の建設に巨費を投じたことに尊しては、之を當時の經濟状態に鑑み、『せめて土蔵附賣家』といふ點を捉へて、論議を挿むものがあるために、折角の功業を幾分上鮮明ならしめてゐる嫌いがあるからであらう。
 さりながら、功業は功業である。本書は、此等の論議を捉へて、それをこゝに究明しようとするものではない。全然看點を異へて、彼の英斷よく巨費を投じて製鐵所の創立に當つた結果、之が礎となり果を今日に結んで、遂に我國が今日の如き偉大なる海軍を保有するに至つたものであるといふ事實を、鮮明ならしめようとするものに外ならない。
 從つて本書収むる處は、編者の言の如く、私見でなくして、單なる資料の蒐録である。この點、讀者の意を充すに足りないものがあらう思はれるが、それを知りつゝ尚且つ資料の蒐録に止めたのは、かくすることが、史實を明らかならしむる所以であると信じたからである。
 かくして出来上がつたこの小冊子が、幾分でも、幕末の英傑小栗上野介の我海軍に尊する功業を偲ぶ所縁ともなるならば、又以て聊かたりとも、地下の英霊を慰むるを得ん……か?、これ敢へて本書を發行して、江湖に頒たんとするに至った所以である。

 昭和九年晩秋
       マネジメント社 矢持輝治

 自  序

 私は、貮拾有餘年の海軍生活中、約二ヶ年の間、横須賀海軍工廠に勤務したことがありました。その當時、この工廠の前身は、徳川幕府の製鐵所であつて、時の勘定奉行小栗上野介の卓見に依つて、幕末財政窮乏の折柄にも拘らず、國防上一日も忽にすべからざる緊急施設として創設されたものであるといふ經緯を詳かにすることが出來ました。次で、昭和三年の頃、蜷川博士著『維新前後の政争と小栗上野の死』と題する著書が出たので、大いなる興味を以てその本を讀むに及んで、上野介の概貌を知り、又その他の文献を散見してまして、彼が時勢の洞察力に富み、一身一家の利害を顧みず、所信に邁進する剛直の烈士であつたことに尊して、深く畏敬すると同時に、その最後は、あまりにも悲惨であつたことを悲んだ一人でありました。
 ところが、先般、知友矢持氏から、小栗上野介の菩提寺である普門院にその招魂碑が建設せられるから、この機會に上野介の海軍に尊する功績について、一層詳しく調べて貰ひたいといふ依頼がありましたのが縁となつて、先月末大宮町在の普門院に赴き、阿部住持から親しく話を聞くに及んで、益々この企てに共鳴した譯であります。
 然し私は、茲に更めて上野介論を試みようとは思ひません。只横須賀海軍造船所の創設を中心として、上野介の功績、人格、識見等を偲びたいと思ひ、菲才圖らずも、大急ぎで筆を採つた次第であります。從つて、本書に記したところは、統一もなく連絡もない抜書であります。尚又、私は、上野介の創意に依つて出來上がつた、横須賀海軍工廠が、以來大に發展して、世界に誇る大日本帝國海軍の代表的工廠となつて、最早十數年前に、世界の驚異となつた、かの戰艦陸奥や、現代科學の粋を集めた、精巧無比の兵器機關を製造し得るに至つたことをその創設者であつて、悲惨な最期を遂げ、しかも今日まで慰められることが少なかつた彼に尊して報告するのは、海軍に奉職した私の義務であり、且は又、これが彼の靈魂を慰むるよすがともなりはしないかと思ふものであります。
 尚本書に尊し、題字及序文を賜はりましたのに尊しては、私の最も光榮とするとこであります。又卷頭の寫眞其の他、重要なる資料を提供せられた横須賀海軍工廠總務部長中島海軍大佐の御厚意に尊して、深く御禮を申し上げる次第であります。

          昭和九年十一月八日 觀菊御會に
                     御召を賜はりたる日
                              編 者 識

 お断はり

上野介は軍艦奉行や海軍奉行として幕末海軍の功勞者であるから、海軍全般との關係を述べるのが適切であつたかも知れない。然し、彼の偉業として殘つたのは、何といつても横須賀造船所の創設であるから、此處には横須賀造船所創設を中心としての上野介を紹介するに止めた。然しこれが爲に彼の氣宇、抱負を少にするものでは斷じてない。蓋し、造船所の創設は、海軍の基礎的施設であるから、寧ろその遠大なる抱負を窺ふべきである。

    石 原 生
(『幕末の英傑小栗上野介を偲ぶ : 横須賀海軍工廠創設の由来』「本書の発行について」他 一-八頁

 小栗上野介を偲ぶ
          石 原 戒 造

 第一章 國防上より見たる海軍工廠 一一-一三頁

 海軍の兵力は、軍艦の隻數と噸數を以て表示するのが通則である。そして、軍艦そのものゝ強さ――威力といふものは、排水量(噸數を以て示す)速力、攻撃力、防禦力等の大小によつて、判定するのであるが、今日の海軍は、軍備制限條約のために、戰艦にしても、はた又巡洋艦、駆逐檻にしても、夫々皆、排水量と備砲の大さは、最大限が定められてゐるから、一艦の威力を増大するには、右以外のものに之を求めなければ、外國の軍艦に優つたものとすることが出來ないのである。そして、その力を増大するのは何かといへば、一に、技術、科學の力であり、之を製作するのは、工業の力に依らなけれぱならないものである。
 我海軍工廠は、實にこの軍艦に必要なる兵器機關を製作する所であつて、謂はゞ海軍の物的威力の全部を擔當してゐるところである。從つて、海軍工廠の施設や技術その他萬般の能力如何は我海軍力を直接に左右する要素である。しかるに、この如き施設や技術は、一朝一夕に出來上るものではない。今でこそ、海軍工廠は、英米列強の工廠に較べて些の遜色がないのは勿論、世界に誇る戰艦、巡洋艦、潜水艦も亦、之に搭載する精鋭なる兵器機關も、全部製造し得るのであり、殊に横須賀工廠は、日清、日露の戰役には、非常な功績を擧げたのであるが、その當時の精鋭なる軍艦の大部分は、遺憾ながら未だ外國製である有樣であつた。
 日露戰爭は、横須賀工廠が明治五年十月に海軍省所管となつてから、既に三十有餘年を経過してゐたのであるが、それにも拘らず、以上の如き有樣であつたのを思へば、若しこの横須賀海軍工廠の前身たる横須賀製鐵所の創設が後れてゐたならば、我海軍の實勢力も亦、夫れ丈け後れてゐたであらうと思はれる。
 申すまでもなく現代の國防力は、武力のみではなく、軍艦、兵器の製造能力が負擔する分量が頗る大きいものである。換言すれば、現代海軍の實力は、現存する兵力と、この軍艦兵器の製造能力とに存するものであつて、就中、軍艦兵器の装備と戰爭持久力は、一にかゝつて、後者の力に俟つものである。かくして、現代に於ける工廠の能力如何は、日清、日露戰爭時代に較べて、國防上、尚一段とその重大性を増加した譯である。
 今や世界は均しく非常時局に際會してゐる鮎より見ても、時局が、我海軍工廠に期待するところ、愈々切なるものがあるのを、痛感せざるを得ない。

 第二章 横須賀海軍船廠創立の由來(碑文) 十三-十七頁

 徳川幕府の末、外舶の我が近海に出没するもの漸く多きを加へ、遂に相踵いで互市を強請するに至れり。是に於て幕府は國防の一日も忽にすべからざるを覺り、旗下の士に命じ、蘭人に就いて海軍の諸科を習得せしめ、又外國より艦船を購入して教練警備の用に供せしが、更に自ら之を製造して大に海軍の擴張をを図らんと欲し、安政四年技師を和蘭より傭聘して始めて製鐵工場を長崎に設く。然れども其の地僻地加ふるに規模狭小にして巨艦を造るに適せず。仍て別に一大船廠を江戸灣に創設せむと欲し、有司を會して之を議せしむ。當時國用多端、府庫空乏の故を以て之を難ずるもの多く、議論百出容易に決せず、會々小栗上野介勘定奉行を以て海軍所の事務を兼掌するあり、夙に時勢を洞察し、極力異論を排して船廠設立の急務たるを主張す。幕府遂に之を容れ、上野介及び目付栗本瀬兵衛に命じ、本邦駐箚佛國全権公使ロセスに就いて諮問せしむ。
 公使乃ち横濱在泊の佛國艦隊司令長官ジョーライスと謀り、且船廠創立主任として佛國海軍技士ウェルニーを薦む。次いで幕府は船廠創立の計畫を擧げて之を公使に委託す。時に元治元年十一月十日なり。
 是れより先、佐賀藩主鍋島齊正は蒸汽工作機械を和蘭より購ひ、將に工場を封内に起さんとせしが、董事人なく財力亦た乏しきを以て遂に之を幕府に献ず。幕府之を紊れ、工場を江戸灣に設けむとし、遍く瀕海の地を檢して相州長浦を選定せしも、適任の技術者なきを以て竟に工を起すに至らざりき。然るに今や船廠創立の事を擧げて佛國公使に委託することゝなりたるを以て、幕府は同月二十六日小栗、栗本及び軍艦奉行木下謹吾、淺野伊賀守をして公使、司令長官を始め佛國軍艦の艦長、士官等と共に長浦に赴き、更に其地を檢しむ。此日佛國士官自ら錘測せしが、灣内に淺所あるを以て更に隣灣横須賀を査測し、始めて船廠設立の好適地と決せり。其の翌慶應元年正月ウエルニー來着せるを以て、幕府は公使以下關係諸員と共に船廠設立方案を議定し、小栗、栗本、木下、淺野及び山口駿河守、柴田日向守、石野筑前守、増田作右衛門等八人を製鐵所委員に任じて、創立事務を擔せしむ。
 越えて九月二十七日、内浦山地に於て鍬入初めの式を行ふ。之を横須賀海軍船廠事業の起工とす。實に今を距てること五十周年前なり。王政維新に際し、本所も亦た朝廷の収むる所となり、首めに神奈川府裁判所の管轄に屬し、次いで大蔵省民部省及び工部省等に転屬せしが、明治五年十月海軍省の所管となり以て今日に及べり。
 今茲に創立五十周年祝典を擧ぐるに際し、本廠創立の由來を略記し、以て永遠に傳ふと云爾。

                 横須賀海軍工廠長海軍中將 黑井悌次郎

 (註)
 小栗上野介の卓見によつて創設された横須賀製鐵所は、幕末から明治初年にかけての間は艦船の製造、修理、海軍々需品の供給、技術員の養成と共に、土木、建築並に附近海面の航海に必要ななる燈臺の建設、管理等もしてゐたのであるから、現在の組織から見れば、海軍工廠、軍需部、港務部、建築部及び逓信省燈臺局の仕事も、一手に引き受けて居つたやうな次第である。從つて造船所の創設といふよりも、寧ろ、軍港の創設であつて、軍港施設中最も重要な此の造船所の設立は帝國海軍の基礎を作るべき一大事業であつた譯である。
 上野介の最初の腹案では、大規模の造船所でなく、當時佐賀藩から寄贈した機械を以て、艦船の修理を行ふ四萬弗程度の工場の創設であつたらしいが、佛公使ロセスの活躍で、遂に二百四十萬弗四ヶ年計畫と云ふ大規模の造船所創設となつてしまつたと云ふのが眞相であるらしい。然し小栗が時の趨勢を洞察して、其の意見を容れ、實際に於て、立派な造船所が出來上がつたのであるから、横須賀造船所創設の功は正しく上野介に歸すべきであらう。

 第三章 横須賀海軍工廠の今昔 一六-二八頁

 第一節 慶應元年より明治二年に至る迄の横須賀製鐵所(横須賀造船廠史より摘記)

 幕末國多端、財政窮乏の折柄なるにも拘らず、國防上、一日も忽にすべからざるの故を以て小栗上野介に依りて建設せられた横須賀製鐵所(實は造船所)は、慶應元年九月二十七日、始めて設立の鍬入れ式を行つた。これが、現在世界に誇る横須賀海軍工廠の前身である。今その當時、佛國海軍技師ウエルニーの設計に基く製鐵所の狀況を示せば、次の如きものである。

 (一) 横須賀製鐵所設立原案の要旨並製鐵所約定書

 横須賀に製鐵所設立の議が決定するや、幕府は主任佛國技師ウエルニーが上海から來着するのを待つて、佛國公使及び我老中以下の諸員會して製鐵所設立方案書を議定せしめた。この方案書は大體次の如きものであつた。

 一、造船所設立端緒

 日本政府が製鐵所(造船所)を設立するには、之に先ち先づ一の製作所を横濱に設けて、現在米國から購入して持つて居る機械を据付け、而して艦船修理の工事を行ひ、同時に本邦人に西式工業を修得せしめ、工場が整備し、我邦人が技倆上進するに從つて、逐次重要機械を製作し、且つ横須賀造船所所設立の日に至らば、之に要する物品を製造せしめ、努めて海外輸入を防止することを目的としたもので、この製作所を設立する經費は、製鐵所設立費から支辨するといふことであつた。
 製鐵所は、假令其の規模を小にするとしても、船渠二箇所、船臺二箇所を設け、佛人四十名、邦人二千名を要する。而して之は横須賀に設け、所費經費は二百四十萬弗とし、四ヶ年を以て竣工せしむる如くすること。

 二、製作所設立方法

 本製作所は、汽船修理及ぴ工業傳習の二目的を以て横濱本村に設立し、煉鐵、鑄造、模型、旋盤、鑢鑿、製罐、製帆、船具、木工の各工場を設け、鐵工場の中央後部には、汽機を据附けて動力とする。而して、技術指導者として、造船工事に通暁する佛國士官一名を首長とし、機關専門の技工二名、造船専門の技工一名を置き、その他佛國職工第干名を雇ひ入れ、本邦人職工は百名を採用すること。而して本製作所建設の經費は、洋貨二萬弗を要し、起初一ケ年間の工業費(材料買収及職工賃金を合算す)は五萬弗を要する計算であつた。

 三、造船所事務制限

 造船所首長以下の事務に關することを規定したるものである。(省略)

 四、佛人組織事項

 製鐵所設立の際に雇ひ入るべき佛人は、左の通りと定めた。
 首長 一名 課長 三名(工事課長、建築課長、會計課長)
 書記、船工其の他の頭目十一名及び屬工二十六名
 右の人員は、首長が佛國各工廠から選抜することにし、雇入期間は四カ年で、就業時間は一日西洋辰儀十時間、日曜日は休日とするも、邦人は就業するから、その傳習及び監督として總員の三分の一は出勤する。而して俸給は、首長は年俸一萬弗、課長級一ケ月洋貨 四百弗、頭目百五十弗、屬工七十五弗を以て標準と定め、業務の巧拙、勉惰に由りて、その俸給の十分の二を増減するといふ契約であつた。

 五、内國官吏組織事項

 内國官吏は
 總 監 一名
 部 長 四名(會計部長、倉庫部長、職工部長、通譯部長)の下に、書記屬僚を置く。
 職工は、業務上は萬事、工事課長及び頭目の指示に従つて技能を見習ひ、一日の就業時間は原則として佛人と同樣であつた。職工に對する懲罰及び解雇等の處分は、内國官吏が之を掌ることに定めた。

 六、佛國品購人概略

 佛國より購人を要する器械物品は、之に要する運賃及び旅費を加算して、合計佛貨二百二十萬法であつた。(我邦と外國との標準通貨たる墨西哥銀貨に換算すれば、大略三十七萬弗である)

 七、内國品購入概略(省略)

 八、造船所創立順序

 本項には、横濱製作所を速かに建設すること及び横須賀の測量、山地開鑿、海岸埋立の土工を起し、日本理事官は、佛國に赴き、ツーロン造船所を視察し、佛國政府に對して、(一)我製鐵所設立原案を佛國海単大臣に致してその檢閲を經べきこと、(二)我製鐵所の首長たるに適する佛國海軍技術官一名を招聘すること、(三)前記首長は、佛國海軍各造船所の技手、職工を選抜して、我製鐵所に雇入ることの照議をなすこと等を定めた。

 右の如くにして尊府は、製鐵所設立に關する佛人との約定書を作つて、製鐵所掛老中水野和泉守、若年寄酒井飛彈守連署の條約書を、佛公使ロセスに授け、ロセスは之を歸國の途に就かんとする佛艦司令官ジョーライスに交付して佛國政府に送附した。その製鐵所約定書の全文は次の通りである。

        製鐵所約定書

 今般横須賀灣へ佛蘭西ノ周旋ニ依テ製鐵所ヲ取建ルニ付公使へ商議セシ處上等機械官うゑるにー最モ其技ニ長ジタル故ヲ以テ薦揚セラレあどみらーる厚情ヲ以テア上海ヨリ右うゑるにーヲ呼寄ラレ同意シタリ之ニ依テ爾後ノ爲メ約スル處ノ條目左ノ通リ
 一、製鐵所一箇所修船場大小二箇所造船場三箇所武器藏及役人職人等ノ役所共ニ四箇年ニシテ落成ノ事
 一、横須賀灣地形地中海岸つーろん灣ニ似タルニ寄り製鐵所ハ右地方ニ取建アル模式ニ 倣ヒ大概横四萬五十間竪二百間ノ地坪ヲ以テ取建ル事
 一、製鐵修船造船ノ三局取建諸入用總計凡高一筒年六十萬どるらる都合四箇年二百四十萬どるらるニテ落成ノ事
 但佛蘭西政府へ約定書相届候上ハ右ノ六十萬どるらる取揃置クベシ猶四箇年ノ間年々納方どるらる差支不申樣可致事
 右ハ兩國政府ノ允准ヲ經テ公使ニ於テハ其上等機械官うゑるにーニ専任ヲ命ゼラレ我等ニ於テハ勘定奉行松平對馬守軍艦奉行木下謹吾目付山口駿河守栗本瀬兵衛並浅野伊賀守ニ専ラ其取扱ヲ命ジ只成功ヲ要スルモノナレバ互ニ彼我内外ノ間隔ナク懇誼ヲ本トシ取極ルモノ也
  元治元年二丑年正月二十九日 水野和泉守   花押
                酒井酒井飛彈守 花押

 (二) 建設

 幕府は製鐵所委員を設けて佛國海軍技師ウェルニーの設計に基き、横須賀製鐵所の建設に當らしめた。今その要點を摘記すると、次の通りである。
 一、慶應元年三月十二日製鐵所委員は、横須賀村三賀保、自仙、内浦に亘る七萬四千三百六十坪の土地を以て、製鐵所の敷地と決定した。而して、工場その他の家屋の建坪は、合計七千八百五十坪で、建築費は金二十二萬六千兩を要する見積りであつた。
 二、同年四月二十五日幕府は外國柴田日向守に、製鐵所設立に關する談判の爲、全権委員を命じた。日向守は、五月三日江戸を發して佛國に赴き、使命を果して翌慶應二年正月二十六日横濱に歸着した。
 三、同年八月二十四日横濱製作所の建築物が竣工したので、委員小栗上野介以下が、之を檢視し後、直ちに、工作機械の据付方を命じた。
 四、同年九月二十七日製鐵所敷地開拓の鍬入式を行つた。
 五、ウエルニーは、一旦佛國に歸り、諸準備を整へ慶應二年三月五日佛國を發し、四月二十五日横濱に到着した。而して、専ら製鐵所設立に努力した。
 六、慶應二年三月二十六日、初めて工場の建築を始めた。(建築用煉瓦は、横須賀にて製造)
 七、同年九月、三十馬力船(後横須賀丸と命名す)及び十馬力船の建造に着手した。三十馬力船の機械は、佛國から購入し、十馬力の船の機械は、横濱製作所で製造した。之が本所に於ける艦船製造の嚆矢である。
 八、同年十月三日雇佛人到着、ウエルニー以下四十三名となつた。
 九、同年十二月二十九日、幕府は始めて寄合一色攝津守を製鐵所奉行に任命した。
 十、慶應三年三月、第一船渠の開鑿を始めた。
 十一、明治元年四月朔日明治政府に引渡された。
 十二、同年五月我國始めての修船豪(曳上ドツク)竣工。
 十三、明治二年四月に於ける官吏、職工數は、次の通りであつた。
  (イ)内國官吏及び職工
    官吏及附屬員  五十三名
    水夫、火夫   七十六名
    抱職工     六十五名
    定雇職工    五百十名
    寄場人足   百五十八名

  (ロ)佛人首長以下  三十二名

 斯くして、工場、船渠の築造、船舶の製造も漸次進捗した。尚製鐵所創業から、明治元年四月迄に、舊幕府が支出した額は、左の通りであつた。
 横須賀製鐵所 金九十八萬八千二十三兩永百三十七文五分
        此洋貨百三十一萬七千三百六十四弗五十二仙(但一弗に付銀四十五匁替)
 横濱製作所  金九萬八千九百四十七兩一分永百九十四文九分
        此洋貨十三萬千九百二十九弗九十三仙

 第二節 今日の横須賀海軍工廠

 今日の横須賀海軍工廠は小栗時代以来、年を閲することこゝに七十年、その間、明治維新と共に明治新政府に移管せられてから、主管官廳も度々變更せられ、明治五年十月始めて海軍省所管となり、明治三十年九月横須賀海軍造船廠と改稱し、次で同三十六年十一月には、横須賀海軍造兵廠を併合して横須賀海軍工廠と改められた。爾釆すくすくと成長して一途に向上發展の途を辿り、初代工廠長海軍中將伊東義五郎氏(明治三十六年十一月)より現工廠長海軍中將村田豐太郎氏に至るまで、既に二十代(製鐵所首長より第四十五代)に及び、終始帝國海軍の一等工廠として指導的地位を占めながら今日に至つたものである。そしてその施設は擴張に次ぐに擴張を以てし、突出せる岬角は切り去られ、埋立護岸も完備した。又大正十二年には關東大震災の厄に邁ひ、多大の損害を蒙つたのであるが、之も殆んど復舊して今や全く昔の面影を存してゐない。又その諸施設、能力も、現代式に能率的に整備されて、内容は益々充實し、從業員は歴代卓越せる指導者の統制、管押の下に、父子相傅的に永年勤續のものを中心に、毎日多數の職工が、朝から晩まで、着實に働いてゐるのである。
 茲にその施設、能力を表示することは許されないが、今より十數年前に、世界の驚異となつたかの三萬三千噸の軍艦陸奥がこの工廠で出來たことを思へば、その能力の發展が、ウエルニー時代に比して、正に隔世の感あるは申すまでもない。然し、之も種子あつてのことで、その源は、之を上野介及びウエルニー時代に求めなければならない。横須賀工廠では、その源を忘れないためでもあらう、別記「横須賀海軍船廠創立の由來」なる碑と、「工廠廳舎沿革」を記した碑とが、廳舎の前――工廠敷地の中央部に建てられてゐる。そして後者には、ウエルニー時代の官廳の圖か彫刻してあり、その當時の舎密掛佛人ポエルが小海方面から得た赤土を以て、當製鐵所で焼いた煉瓦を、額椽に飾つてある。又横須賀工廠内の食堂には、歴代工廠長の寫眞を列掲してあるが小栗上野介の寫眞は、第一代工廠長伊東海軍中將の寫眞の前に飾つて、創設者としての榮譽を顯してある。その外同工廠を眼下一望に眺め得る諏訪山公園には、小栗上野介とウエルニーの胸像建てられ、大正十一年九月二十七日(九月二十七日は鍬入式の記念日)その除幕式が行はれた。二つの胸像は何れも、工廠に直面して、活氣ある、エアーハンマーの高い音を聽き乍ら、天に聳ゆるガントリー・クレーンや、船臺上には、今將に進水せんとしてゐる巡洋艦鈴谷の雄姿を見守つて、末永く横須賀海軍工廠の幸と、帝國海軍の武運長久を祈つてゐるかの如くに見える。
 次に、横須賀造船所が、ウエルニー時代に最初に建造した軍艦清輝(勿論國産軍艦の魁)と同じく當工廠で建造した、戰艦陸奥とを比較して見ると、工廠發展の一班が窺はれる。

 艦名 艦種     起工年月日    進水年月日   竣工年月日
 清輝 木製二等砲艦 明治六、二、一〇 同八、三、五  同九、六、二一
 陸奥 鋼製戰艦   大正七、六、一  同九、五、三一 同一〇、一一、二三

 排水量(噸)  長サ(呎) 幅(呎) 吃水(呎) 速力(節)
    八九七 二〇〇   三〇   一三   一〇
 三三、八〇〇 六六〇   九五   三〇   二三

 尚驅逐艦水雷艇潜水艦の第一艦建造の艦名及び年月日は示せば次の如くである。

 艦名    艦種  排水量(噸) 起工       進水
 春雨    驅逐艦  三八一  明治三五、三、一 三五、一〇、三〇
 第一號   水雷艇   四〇  明治一三、七、三 一三、一一、一六
 呂號第二十 潜水艦  七五四  大正八、七、三   九、一〇、二六

 竣工
 三六、二、二八
 一四、五、二
 一一、二、二

 第四章 小栗上野介 二八-四六頁

 第一節 小栗の家柄と官歴

 小栗家は、徳川譜代の旗本で、世祿二千五百石であつたが、萬延元年に上野介がお目付として日米條約締結批准交換の爲、遣米使節として米國に使した功に依り、三百石の加増があつた。而してその領地は、武州大成村(普門院所在地)、上野國邑樂、多胡の三所で、上野介は第十二代として、文政十年(西暦一八二七年)呱々の聲を揚げたのである。
 上野介名は忠順、通稱剛太郎或は又一、豊後守と稱し、後上野介と改めた。通稱又一は代々の襲名で、「先祖の忠政が家康に從つて四方に轉戰したときに、毎戰一番乗り、一番槍、一番首といふ風に、殊勲をたてたので、家康公から、また一か、また一かと賞せられたのをとつて、又一と名乗つたといふことである。」
 小栗の官歴を見ると(「開國起原」附録職員録による)

  安政六年九月目付
  同年十一月諸大夫
  萬延元申年正月米國奉使、此時正に三十一歳、豊後守に任官、
  歸朝後三百石加増
  同年十一月外國奉行
  文久元酉年七月辭
  同二戌年三月寄合より小姓組出頭
  同年六月勘定奉行勝手方
  同年閏八月町奉行
  同年十二月勘定奉行歩兵奉行兼帯
  同三年四月辭職
  同年七月寄合より陸軍奉行並
  同年九月辭
  元治元年子年八月寄合より勘定奉行勝手方
  同年十二月軍艦奉行
  同二年丑年二月免職
  慶應元年丑年五月寄合より勘定奉行勝手方
  同二年寅年八月海軍奉行並兼帯
  同四年辰年正月免職 時に四十二歳
  同年四月六日上州群馬郡權田村烏川に於て斬殺さる

 「歳三十三にして、日本最初の遣外使節として派遣せられた位だから、とにかく特色のあつた人物に違いない。併し、小栗が小栗として特色を發揮したのは、勘定奉行としてなんだが、前の經歴を見ると彼は、御勘定奉行として、三度政府に出てゐる。即ち第一回は文久二年六月から、同三年四月となつてゐた處を見ると、これは例の生麦の償金問題で意見が合はなくて辭めたものらしい。その世職中に將軍最初の上洛と云ふ問題もあつたが、特に小栗の仕事として傳ふべきことは殘つてゐない。第二回目の勘定奉行は、元治元年の八月から翌年二月までだから彼は、この間に行はれた、あのべら棒な下の關事件の三百萬弗償金支拂ひに關係してゐるわけだ。第三回目は、慶應元年五月、丁度長州再征の爲、將軍上洛の時から、慶應四年正月、慶喜將軍が鳥羽伏見の一戰に敗れて、江戸へ逃げ歸つた時までだ。これは幕府の財政が極めた時代だから從つたまた、小栗が勘定奉行として、畢生の手腕を振つた期間でもある。」(昭和八年八月一日ダイヤモンド誌)

 第二節 小栗の最後

 慶應四年正月、鳥羽伏見の戰に敗れ、將軍慶喜が大阪から歸東したとき、上野介は、強硬なる主戰論を主張したために、到頭將軍から直接免職されてしまつた。將軍お直の沙汰で、免職されたといふことは、徳川三百年の政治に於て、小栗一人であつたといふ。
 そこで小栗は、慶應四年二月二十八日江戸を退き、その食邑上州權田村の寺院東善寺に寓居して居つたのであるが、「陣屋嚴重」に相構へ加之砲臺を築き容易ならざる企て之ある趣諸方注進聞き捨て難く、深く探索を加へ候處、逆謀判然、上は天朝に尊し奉り上埒至極……」として、東山道總督岩倉具定から、高崎藩主松平右京、安中藩主板倉主計、小幡藩主松平鐡丸に小栗追捕の命を下したのである。このとき小栗は、只管陳謝、恭順の意を表し、大砲一門、小銃二十挺を引渡したので、三藩は、彼に異心なきを諒として撤兵したのであつたが、監軍原保太郎、豊永貫一郎等のために、東善寺を包圊され、翌四月六日早朝烏川邊水沼河原に引出されて、從者三名と共に斬首せられた。時に四十二歳であつた。次で七日には、嗣子又一(忠通)も從者三名と共に、高崎に於て斬首された。母堂國子並に妻道子は、幸にも、從者十六名を從へ、上野介の父忠高の奉行地であつた新潟に逃るゝことが出來た。

  ◇

 「……あの際、幕府の有司で、小栗のやうなひどい目に會つたのは外にない。政府に反抗して戰つた會津の松平容保でも、函館の榎本武揚でも、みな命は助けられて居る。伊庭八郎や人見寧を引つれ、箱根の天嶮を扼して、官軍を食ひ止めようとした林昌之助の如きも、後には、子爵家の樂隠居として天壽を全ふして居る。また、一時朝譴を蒙つた小笠原壹岐守でも、板倉周防守でも、後には皆宥されて、王政の餘澤に浴して死んだ。然るに、小栗だけは、おとなしく草深い片田舎に引込んで、朝廷に反抗する處か、世を捨てた形で愼んでゐたのを、兵器を貯え城砦を築いて、朝廷に尊して反逆の企てありとか何とか、あらぬ罪を着せられて、慶應四年四月六日、上州群馬郡權田村は烏川の川原に引出されて、縛り首同様な殺され方をしたのだから、實に氣の毒な話さ」

 「元来小栗と云ふ人は、徳川幕府一元論者で、長や薩の如き幕府に反抗する雄藩を倒して置いて日本に郡縣の制を布かうといふ腹だつたから、強く長州征伐を主張した處が、其の長州征伐が思ふやうに行かないで、彼は江戸にあつて獨りで切歯してゐると、あの政權奉還だ。慶喜もひどいことをしたもので、あれほどの大事を江戸へ相談せずに斷行してしまつたのだ。尤も相談しても纏らぬと思つたのだろう。江戸へは、相談でなく通知が來た。この時には小栗は、熱涙を流して口惜しがつたといふが、彼はどこまでも、薩長を叩きつぶす腹で、佛蘭西士官のシヤノアンやブリユネなどに命じて、攻防の策を研究させてゐたのだ。處が、續いて王政復古の大令が降る……」(ダイヤモンド誌「御勘定奉行小栗上野介」より)

 第三節 勝海舟の小栗觀

 海舟の談話を集めた「氷川清話」の一節に曰く、
 「小栗上野介は幕末の一人物だよ。あの人は、精力が人にすぐれて、計略に富み、世界の大勢にも略略通じて、而も誠忠無二の徳川武士で、先祖の小栗又一によく似て居たよ。一口にいふと」あれは三河武士の長所と短所とを兩方具へて居つたよ。然し度量の狭かつたのは、あの人のために惜しかつた。
 小栗は長州征伐を奇禍として、まづ長州を斃して、幕府の下に郡縣制度を立てやうと目論んで佛蘭西公使レオン・ロセスの紹介で、佛蘭西から銀六百萬兩と、年賦で軍艦數艘を借り受ける約束をしたが、これを知つて居たものは慶喜以外閣老を始め四五人に過ぎなかつた。
 さうする内に。慶應三年の十二月に佛國から破談の報せが來た後で佛蘭西公使はおれに、小栗さん程の人物が、僅か六百萬兩位の金の破談で腰を抜かすとは扨ても驚き入つた事だといつたのを見ても、この時、小栗が何程失望したかは知れるよ。小栗は、僅か六百萬兩の爲に徳川の天下を賭けようとしたのだ。越えて明治元年の正月には、早くも伏見鳥羽の戰が開けて、三百年の徳川幕府も瓦解した。小栗も今は仕方がないものだから上州の領地へ退去した。それを豫て小栗を憎んで居た土地の博徒や、また小栗の財産を奪はうといふ考の者どもが官軍へ讒訴したによつて、小栗は遂に無惨の最後を遂げた。然しあの男は案外清貧であつたといふことだよ」、(註)六百萬弗借款問題の眞の張本人は、小栗上野介といふことにされているが、その首謀者は原市之進であつたといふことである。而して又この借款問題は二回起こつて、第一回は慶應二年で第二回が其の翌年であつたが、第一回は勝海舟が反対尊して、幕府は佛國から拒絶されたのが眞相であるらしい。

 又「六百萬弗借款問題の眞相」(ダイヤモンド誌)に曰く

 「……小栗上野介の事蹟を語るに當つて、省略することの出來ない事件は、例の六百萬弗の借款問題だ。小栗が主唱して、佛蘭西から六百萬弗の軍資金と軍艦何艘とかを借りて、長州を叩きつぶし、薩摩亡ぼして、全國に郡縣の制を布かうとしたといふ問題だ。このために、小栗は、一部の人からは、徳川の權力を張るために、國を賣らうとした奸物のやうに觀られている。小栗の上人氣といふのも、大部分此の問題から來てゐるが、この問題をお話することにしよう。
 全體此の問題は、幕府秘密政策の一つだつたので、確實な資料は、殆んどないといつてもいい位だ。そのために、これまで、いろいろの憶測や誤傳が加つて、随分おかしな話になつてゐるから、此の際此の問題の眞相をはつきりさせて置くことも、史家の任務の一つだらうと思ふのだ」

 「……此の問題に於ては、小栗などは稍不當の毀謗を浴びて居ることがお解りにならう。小栗は勘定奉行ではあるし、主唱者でないまでも、熱心なる賛成者であつたか…、もし佛蘭西黨一味の行動が避難さるべき性質のものとすれば、彼も當然其の分け前にあずからねばならない。併し彼の外に、彼以上に、その分け前を引受けねばならない原市之進や、徳川慶喜のやうな人が居るのだ。それにも拘らず、彼が、此の問題の張本人として、上當な非難を受けて居るのは甚だ氣の毒な話だが、これには、勝の毒筆が預かつて力があるやうだ。勝は自分で、あの問題の張本人は原市之進であり、慶喜も十分承知の上と知つてゐながら、日記其の他で、小栗に痛烈なる非難を浴せて居るのは、とういふわけか、恐らく、原因は、その問題ばかりでなく、彼の志が政府に容れられなかつた處から、満腔の上平を當時羽ぶりのよかつた佛蘭西黨に爆發させたものではなかろうか。何れにしても、この問題に於ては、小栗はやゝ上當の分け前に預つてゐるやうだ。勝の日記から、その非難の箇所を一二抜いてお目にかけよう。

 海舟日記(慶應三年三月二十五日)

 ……志を奮て忠諫せんとす。如何せん言跡壅塞して通ぜず、司農小栗上野介、小野内膳が輩跋扈して、上者是に壓せられる。氣を張つて進言する者無之、雷同して黨あり、此輩見る所規模小にして、天下の大勢を深察せず、佛郎察に頼みて大いに國内を併呑せんとす。誠に其の力を量らずして終に邦家に災を發せんか。

 海舟日記(慶應四年正月二十五日)

 ……近く五六年、我官吏佛郎察の教化師カシヨンと云ふ僧妖に心朊し、偏信して我社稷を盛大にせんとす。是何の所爲ぞ、英吉利人其偏執あるを憤りて、西諸侯と結び、王政復古、諸侯を剥ふして郡縣の説を主張す、我官吏之を聞いて、益佛郎察に依頼し、倚角の勢を保持せんとす。嗚呼今日の事何人の手に出づるや、我是を辯ぜず、殊に悲嘆して訴ふる處なし……

 第四節 小栗の片影

 其一、徳富猪一郎「近世日本國民史」
 其二、砲兵大佐山縣保二郎「吁、不幸なる兵器技術の先覺者」
 其三、福地源一郎「小栗上野介」より
 其四、栗本鋤雲「横須賀造船所經營の事より」
 其五、蜷川 新「維新前後の政爭と小栗上野の死」

 其の一 「近世日本國民史・開國初期篇」より

 「此の一行(最初の遣米使節)に若し岩瀬が在つたならば、如何に多大の獲物を携へて歸國したであらうかと思はるゝが、新見、村垣の正副兩使は、別段それ程の獲物も齎し來つたとは思はれなかつた。但だ其の目付として同行したる小栗忠順に到りては、實に其人を得たるものにして、彼は此の十箇月の旅行中、其の見聞より得たる所、頗る多大であつたらう。
 咸臨丸にて桑港に渡りたる勝鱗太郎と、ポーハタンにて米國を縱觀し、喜望岬を廻りて歸朝したる小栗豊後守とは、偶然にも幕政の末期に於ては、尤も傑出したる兩人として、然も兩人は、何れも其の殘局収拾の方法に於て、反尊の位置を占め、其の志は同一にして、其の仕事は、敵と味方の立場に立つ様になりたるは運命の遊戯と云へば、それ迄に止まるも、實に上思議の因縁だ。
 尚ほ小栗及勝に關しては、本書は爾後に於て、屡ば語らねばならぬ機會が出で來る可きであらう」(開國初期篇第五章遣米使節の派遣)

 「要するに咸臨丸の一行中には、實際上の船長にして、教頭職にあつた勝鱗太郎と艦長木村の從僕として乗り組みたる福澤諭吉、使節一行には目付小栗忠順、何れも幕末より維新、明治の歴史にかけ、それぞれ重要なる役目を働いた。而して是皆な此の渡航が與へたる感化の一端として見る可きであらう。固より三人以外にも、それぞれ海外の知識を、此れが爲に直接に輸入したるものは、多大にして、其の影響の及ぶ所は、更により多大であつたことは疑を容れない。」(同上第七節遣米使節歸る)

 「元來小栗は、幕吏中の錚々者流にて、獨斷専決にては、決して人後に落ちざる快腕、寧ろ時としては辣腕とも云ふ可き程の腕利きだ。然るに尊州に於ては、前記の如く「此上拙者共限取扱兼候間、急速江戸表へ立歸、夫々可申上」と、如何にも當人に上似合なる文句もて、歸府の途に就きたるは、何故であらう。田邊太一氏は曰く
 「小栗は英果の質をもて、有爲の才に富み、かつて亜米利加に使いして、外國の風光をも見聞せし人物にて、岩瀬肥後守、水野筑後守と並稱して、幕末の三傑とよばるゝ人たり、しかるに此一瑣事(露人對馬領主との會見)を了するを得ず、空しく江戸に歸れり。斯人にして斯事ある。吾人の解を得ざる所なり。是何事か秘密の存するあるにあらざらんや。」
と記してある。此れ何人も同様の感を做すであらう。尚ほ田邊氏は、小栗の心事を揣摩して曰く
 小栗は大局に著眼するの士なり。對州の地、英公使の意見の如く、これを開港とするも、また防衛を嚴にするも、到底小弱の藩侯に委すべきものならざるを、實地に悟り、上地の上得已ものを見て、其狀を親しく具稟して、政府の底意を固め、然る後に露艦將と、應尊するにあらざれば、たヾ一日も苟もするものたるを知りて、一旦江戸に還りたるに非ざるを得んや。而して對州藩にも、其機を知りて、自らの此の内願を提出せるものと知らる。
と云ふてゐる」(同上第十六章露艦の對馬占據)

  ◇

 我等はそれから大宮町の外れにある普門院に赴いた。此處は小栗家の菩提樹だ、我等は住職に導かれ、小栗家の墓に赴き歴代の墓に詣した。初祖忠政の石塔には、元和二年の文字が微かに現れてゐた。而して上野介の首を埋めたる土饅頭に向かつて一瓣の香を献げた。記者は上野介とと政治的見地を異にした勝海舟翁の門下である。然も上野介が果敢、勇往、其の信ずる所に篤く其の仕うる所に忠に、横須賀船渠を創始するに際し、せめて土蔵附賣家にとの志を憐み、且悲しむものだ。(昭和八年五月十日 東京日日新聞徳富蘇峰氏夕刊所載の一節)

 其の二 「噫、不幸なる兵器技術の先覺者」より

 小栗上野介は徳川幕府に於ける偉大なる政治家、經濟家、軍事家、兵器技術家であつた。又彼は大の革命家、急進家、開國家であつて、鋭意歐米の新事を取り入れるのに汲々であつた。從つて彼が軍事に尊する經綸にも亦嶄新卓越のものがあつた。我が陸海軍の今日あるは上野介に負ふ所決して尠くないのだ。

  ◇

 文久元年五月幕府は軍制の一大改革を斷行する爲小栗上野介、勝鱗太郎、木村攝津守等二十二名を擧げ軍制取調委員命じた。委員等は愼重審議の末、親衛常備として歩、騎、砲の三兵合して一二、二一九人の兵員を定め、其の意見書を提出した。幕府は之を容れ文久二年三兵を編成した。是に於てか上完全ながらも、始めて洋式兵制を見るに至つた。

  ◇

 元治元年五月幕府は湯島大小砲鋳造所及關口製造所改革に就き上野介に意見を徴した。彼は仔細に兩所査閲の上、重要なる意見を覆申した。(中略)幕府總て其の意見を嘉紊にした。上野介は取敢へず反射爐建設地を廣く江戸附近に物色し、巣入り運搬の便を顧慮し、之を瀧野川に定め元治元年七月之を上申し、直に其の築設に着手した。但し該反射爐は未だ竣工せざる中に、明治維新となり中止したので、今は其の位置さへ詳らかでない。尚上野介は製砲事業は鐵鑛と石炭及木炭の産地附近ならざるべからざるを認め、上野國小幡領小坂村に反射爐建設の件を上申し、慶應元年八月先づ反射爐一基取建ての儀仰せ渡された。

  ◇

 慶應三年三月上野介は武田成章と協議し、火藥製造所の位置を瀧野川に選定した。

 其の三 「小栗上野介」より

 「小栗は敢て上可能の詞を吐きたることなく、「病の癒ゆべからざるを知りて、藥せざるは孝子の所爲に非ず。國亡び身斃るゝまでは、公事に鞅掌するこそ眞の武士なれ」と云ひて、屈せず撓まず、身を艱難の間置き、幕府の維持を以て、進みて、己れが負擔となし、少なくとも幕末數年間の命脈を繋ぎ得たるは、小栗が與りて力ある所なり。余は親しく、小栗に隷属したるを以て、其の辛苦に心を費せること余が目撃せる所なり」(福地源一郎「小栗上野介」「續大日本歴史集成」上巻二)

  ◇

 一體小栗上野介とは如何なる人物であつたろうか、史家と自稱する人さえこの人物を知らぬ人が往々ある。まさしく薩長本位の歴史の罪と云はなければならない。近年史家の正斷により彼の國家功績を叫ばれつゝあるのは又當然と云ふべきである。「幕末數年間幕府として其威力を支持し得たるは全く小栗上野介の力なり」(福地源一郎「幕末政治家」)

 其の四 「横須賀造船所經營の事」より

 「横須賀造船所の成立は、他の一方に就いて述れば、前の如く事容易に見ゆれど、其の内部の曲折に至りては、實に今日筆舌の得て狀すべからざるものあり。
 今その一二を擧ぐれば、海軍部下の者は、政府の旨趣の何たるを解せず、其の之を佛國に委するを嘵々とし、他向の論者は無用上急の務めなりと嗷々し、大計に暗き迂儒武人などの類は、極口罵詈して咄々恠事とする輩もありて、百方之を毀ち壞らんと欲する者のみなりしが、其の事の決定は、既に數月前にあるを以て、總て事後の論なれば一切取り合わず、之等の跡始末今皆大抵遣忘しが、たヾその中、此の製鐵所を取り立つるに就て、上野介が妙案を施して、軍艦方習慣の懶惰質を打破せし一擧は、實に當時の愉快なりき」

 其の五 「維新前後の政爭と小栗上野介の死」より

 上野介は、老中を前にして、
 「大名某の守が財政困難なりと訴ふるが故に、幕府の勘定奉行として拙者は、極力工夫して之を調達し貸與したのである。然るに之等大名は、其の有用切なりと稱する金子を分かつて、我等に贈るに至つては其の理由を解するに困しむのである。斯かる餘裕あるならば、幕府より借りるを要せず幕府も貸すに及ばず。斯かる悪例は、爾今斷然廢止しなければならない。
 拙者は先ず悉く之を其の儘大名に返附すべし。若し、老中方の中にて斯かるものを受け取られたる方もあらば、至急返附せらるゝが宜しかるべし」と主張した。

 其の六 「ふらんすお政」より

 小栗のはうは、去る萬延元年新見豊後守と共に、アメリカへ派遣された一人であつたら、新智識の點では遙かに栗本以上だつた。そして彼は、外國奉行中のさうさうといふよりも、すでに滅亡に瀕してゐるといつていゝ、徳川幕府の運命を背負つて立つ氣概に富んだ政治家であつた。
 「さて栗本さん、あなた御相談と云ふのは他でもないが、横須賀の製鐵所をあなたにに引受けてやつて頂きたいのです」
 といつて、それから彼(小栗)は非常なる熱意をこめて、製鐵所(實は造船所)の計畫について語り出した。
 小栗の話によると、其製鐵所は地中海のツーロン製鐵所の規模にならつたもので、ツーロンに比べると三分の二の規模に縮め、製鐵所一箇所、ドツク大小二箇所、造船場大小参加所、武器庫等で、四年計畫で着手し、工費は一ケ年六十萬ドル宛て支出し、都合四年で二百四十萬ドルで落成するといふのだ。
 それで一切フランスの力をかりてやることになり、すでにフランス本國から招聘した技師ウエルニーを工場長に据ゑ、幕府の高級官吏を數名製鐵所係に任命するはずだが、小栗の考へでは主として栗本にその任に當つてもらひ度いといふのである。
 「そんな巨大な經費が幕府にありますか」
 栗本は眼を圓くして小栗にいつた。
 「いや、經費などはないが、どうせ幕府は遣り繰り世帶だから――それに日本の國としては、將來ぜひとも無くてはならぬものだから、下らぬ冗費を節約して、有用な物を造つて置く方がいゝでせう」
 「賣りすゑの札をはる時が來ても、せめて土蔵附賣家と書きたいですからなあ、ハゝゝゝゝ」
と小栗は哄笑した。
 鋤雲は、その時始めてドツクといふ名前を覺えたくらゐで、西洋の造船所がどんなものだか一向譯は分らなかつたが、小栗がかういふので、ともかくも承知しなければならなかつた。それから兩人で居留地のフランス領事館へ行つた。

【附録】 四七-五四頁

 一、普門院と上野介

 普門院は今より五百三十七年前承應三年月江正文禪師に依つて創設せられたもので、正統な意味に於て關東の古名刹であることは論を俟たない。
 日本洞上聯燈録と云ふ最も權威ある文献に依ると歴然たる所がある。即ちその一節に
 「暮年武州足立郡に至り其の境致の勝絶を愛し普門院を築て逸老す。近里に氷川神社あり常に老翁の身を現し來て法を聴く。一夜入室就て戒法を請ふ、師乃ち全剛寶戒を授く。神、歡喜頂禮して曰く、我れ誓つて正法を護せんと言ひ暈つて見えず、寛正四年正月二十二日偈を説いて端然として坐脱す」(原文漢文第六巻)とある。
 この一事から後世色々と傳説を生んだのである。徳川時代に到り小栗家の菩提所となるに及んで普門院は御赤印地となつたのである。――威風さぞかしであつたろうと思はれる。
 安政二年二度目の火災で七堂伽藍を燒失した。再建の任に當つたのが豪僧大猷禪師であつた。上野介は始祖忠政公より十二代で父は忠高と云ひ、新潟奉行を勤めた。新潟は天領地、即ち幕府直轄地であるから、父も相當の人物であつたに違ひない。この人の血を受けた上野介は、幼少より豪氣で幕末の内外多端の時、幕府を雙肩に荷ふに好適な人傑。大猷禪師と上野介!期せずしてかんたん肝膽相照し、彼の豪膽なる外交的手腕と云ひ、軍事經濟に着目する炯眼と云ひ、大猷禪師に負ふ所蓋し甚大と云ふべしである。慶應四年四月六日罪なくして權田に斬られ上野介の首は、武笠銀介某(馬丁と云ふ)小栗家の菩提樹普門院に持参、祖先の墓に秘かに埋葬したのである。翌月禪師も亦何者にか暗殺せられたのである。噫!兩雄英魂空しく消ゆ、國家の恨事と云ふべし。(八、四、六、埼玉縣大宮町在大成山十二世普門唯一誌す)

 二、横須賀製鐵所創設當時の内外情勢

 小栗上野介は、當時財務當局長官であり乍ら、幕末の財政が極度に逼迫してゐる際に於て、幾多の異論を排して、横須賀製鐵所の創設を主唱したものである。この企てが果して時宜に適したものであつたか否か――特に財務當局者として――については今は尚議論の岐るゝところであるやうに思はれる。だが、之については、當時我國の内外情勢並に海軍關係事項が如何なる狀態にあつたかといふことが、上野介のこの着想を評價する上に於て、緊要な事項であらうと思はれるから以下簡單ながら、嘉永六年「黑船來」の頃からの内外情勢の一端を述べて見ようと思ふ。

 (一)内外事件並に國内の情況(幕府のことを主とし、諸藩海軍のことは之を略す)







 (二)造船事情並に能力

 「嘉永六年幕府は大船製造禁止の令を解き、浦賀に一の工場を開きて造艦の業を興し、諸藩に實例を示し、其の後長崎に於て海軍傳習の擧あるに際し、こゝに製鐵所を設けた。然るに、元來長崎の地は首府と遠く隔りて、不便少からざるを以て、幕府は海軍操練所なるものを江戸に設けた之によりて艦船の多くは首府に集まることゝなりたる結果、其の附近に修繕工場の必要を感じ、先づ浦賀及び曾て水戸藩の經營した石川島の工場を以て之に充てた。然れども、甲は江戸湾外にあるを以て防備上缼點あり、乙は規模小にして且つ海底淺く、到底軍港となすに適せず、是に於て横須賀に一大海軍工廠を建設するに至れり」(日本近世造船史)
 當時長崎製鐵所(飽の浦)は蘭人技師職工を傭ひ、敷地九千餘坪、約五十馬力の舶用機關製造と船舶小修理を程度とせるものであり、浦賀とても、歐式に模し三檣帆船を起工し、その他艦船修理程度の能力であつて、簡易なる乾船渠を築造し、辛ふじて軍艦咸臨を入渠修理し、艦長勝海舟指揮の下に太平洋を航し、米國行を遂ぐることを得た。
 安政三四年頃は「幕府に於ても諸藩に於ても、均しく造船智識を有するものは殆んど無かつた唯黒船を一覽して、多少その構造に注目したものか、若しくは、蘭學に通暁して船そのものゝ如何を問はず、單に造船に關する洋書を講義し得るもの等は、即ち大造船家と目せられた。」(日本近世造船史)

 (三)海軍力整備の方法

 海軍力を整備する當時の確實迅速なる方法としては、軍艦購入と共に造船所を建設することが絶對に必要であつたといふことは申すまでもない。そして操艦操砲の術を習練するよりも、造船造兵の技術を修得する方法の方が、餘程困難であつた。蒸汽艦船を以てする艦隊の戰爭は、日清戰爭を以て嘴失とするのであるが、その時日本海軍々人は、操艦と云ひ戰術と云ひ見事にやつてのけた。然るに造船造兵の技術に至つては、日露戰爭の時でさへも、主力艦は遺憾乍ら外國製のみであつた。
 嘉永六年、米の黒船が浦賀に現はれてから、我國は全く長夜の眠を覺まされ、國防施設として着手されたのは主に軍艦の購入、操艦、教育等であつて、軍艦兵器の製造技術の取り入れは、あまり考慮されなかつたやうである。

 (四)結 言

 今から七十餘年前の内外政局多端の際、國防の安全感、外國からの壓迫感及び此等と財政との關係等々による複雑極まる當時の雰囲氣中に突入して、當時の智能に立ち返り、心鏡に照して今日此等の關連を想起することは、事實不可能である。從つて、現代の智識を以て、しかも机上で當時の記錄を基として、事の是非を判斷することは容易な業でない。
 要するに、小栗上野介が横須賀製鐵所創建に決した時代は、今日の常識を以てすれば、國家の政治は全部國防で、國防意外の政治はなかつたといつてよい、之を現代語を以てすれば、國防の安全感は零に近かつた時代である。從つて、國防的見地からは、歳出歳入の均衡問題もなかつた時代であつたように追想されるかゝる點から見れば、「土蔵附賣家」の詮議立てなどは、そう問題とする程のことではなかろう。それよりも、一大計畫の下に、横須賀製鐵所を創設して當時最も缺陥と認められた技術の取り入れと、技術員の養成に着眼したことは、今日の我國情からして意義深い企であつたといはざるを得ない。

引用・参照・底本

『幕末の英傑小栗上野介を偲ぶ:横須賀海軍工廠創設の由来』石原戒造 編 (マネジメント社, 1934)
(国立国会図書館デジタルコレクション)