郷土読本 群馬県教育会編

 187-191頁
 三八 小栗上野介忠順

 小栗上野介忠順通稱は又一、任官して豊後守と稱し、後上野介と改めた。幕末に於ける幕府の高官であり郷土を飾るに足るべき一偉才である。
 忠順は、天賦の卓識を以てよく大義を解し、又よく財務に通じ、西洋の學問技術にも造詣が深かつた。ために、井伊大老に認められ、安政七年正月、日米條約交換のため使節を派遣するに際し、外國奉行新見豊前守正興は正使、村垣淡路守範正は副使、忠順は監として渡米した。これが三十三歳の時であつた。 (画像:小栗上野介肖像)
 萬延元年歸朝し、其の十一月外國奉行に擧げられ、幕府の命を受けて勝安房守(海舟)等と共に歩・騎 ・砲の三兵制を編し、始めて洋式兵制の基礎を作つた。文久二年勘定奉行の要職に任ぜられ、陸海軍奉行を兼務するに至つたので、外交・財政・兵制等について、鋭意晝策盡瘁する所多かつた。即ち米國に於て金銀量目の比較に注意した其結果は、歸朝後忽ち小判の價格を上せて三倊餘に引き上げたことや、又内海砲臺の巡視をなし、横須賀造船所を創設し、盛んに彈丸の製造、兵器の鑄造をなし、多量の鐵材を要する上から、北甘樂郡なる小坂鐵山を開掘したことなど、皆忠順の卓見に外ならぬのである。其の他幕府の財政整理の必要上、種々の大改革を斷行した。
 忠順は、性剛直にして職務に勉勵し、能く衆の堪へぬところに耐へ、其の施設は頗る積極的であつたので、保守的の人々から甚だしく嫉視せられ、終に所謂衆怨の府となつたのである。しかしながら、忠順は、世の毀誉褒貶には耳をも假さず、先ず薩・長軍を討滅し、幕府の手を以て郡・縣の制を布かうとし、慶喜が大阪から歸つた時、頻に開戰論を主張し直諫して退かず、慶喜が立つて内に入らうとしたので、裾に縋つて放さず、なほ強辯したため、慶喜怒つて直に解職を命じた。幕政二百六十餘年の久しい間將軍自ら命じて職を免じたのは、上野介一人だけであるといふことである。
 かくて、忠順は形勢日に非なるを以て、到底事の成就せぬを察し、明治元年三月一日、其の采邑なる群馬郡權田村(今の倉田村の大字)に退隠し、東善寺に寓居して、字觀音山の上に邸宅の建築を始めた。時に暴民(薩軍の廻し者であるとの説もある。)襲ひ來たり、忠順これが鎭撫に努めたが、四方を圊んで發砲したので、止むなく銃をを放つて之を防いだため、薩長方は、忠順反逆を謀ると揚言せしめ、高崎・吉井・安中三藩に命じて追捕せしむることとなつた。そこで、忠順は養子又一を高崎藩に遣して辯疎せしめたが、此の時、東山道總督の監軍原保太郎等到り、急に忠順を其の住所に襲ひ、主従六人を捕へ、三倉・水沼の村界なる烏川の磧に於て斬つた。此の際監軍は、忠順に尊しては禮を厚うして其の縛を解き、朝命によつて斬首すべき旨を告げ、遺言の有無を尋ねたところ、莞爾として云ふには、「此の期に及び何をか申さん。ただ先に放ちやりし婦女子等は幸に寛典を仰ぐ。」と、顔色常の如く従容として死に就いた。時に明治元年閏四月六日。年四十有二。養子又一もまた翌七日高崎藩で斬られた。享年二十一。忠順の屍は、權田村民之を東善寺に埋葬し、又一の屍は其の舊領地群馬郡下齊田村(今の瀧川村の大字)に葬つた。
 大正四年、横須賀造船所開設五十年祝賀會を機とし、有志相謀つて、上野介の銅像を横須賀公園に建設したが、畏くも皇后陛下には、上野介が國家に貢献したことを思召され、其の建設費として御内帑金二百圓を御下賜遊ばされた。

引用・参照

『郷土読本』群馬県教育会編 (煥乎堂, 1941)
(国立国会図書館デジタルコレクション)