小栗と共に斬首された家来は

 『維新前後の政争と小栗上野の死』の中の「古文書の寫し」と
 東山道先鋒総督府の捨札等


 左記は、上州權田村の長老某氏の保有する古文書の寫しである。

       覺  書

 慶應三年辰年朔日、小栗上野介殿權田村ヘ到着ス、寛永年中ヨリ知行所タリ、小栗又一殿任官、小栗上野介殿御勘定奉行ト成御高貮千七百石餘ナリ

 上野五ケ村、下野貮ケ村、上總五ケ村知行所タリ、知行所權田村ヘ到著、主従皆到著、概略當時世間一般意外ノ上人氣ニテ、博徒賊徒等徒黨シ、是ニ村々百姓相加ハリ、質屋穀屋物持強商人等ヘ押入リ、金銭穀物ヲ押借リ、質物ハ置主方ヘ返シ、寶物貴重品等ハ焼拂打搊ジテ、追々近寄四方ヨリ集リ、慶應四辰年三月四日朝、賊徒博徒ヲ頭取ニ、隣村々ノ百姓加勢シテ、權田村八方ヲ取圊、八方ヨリ攻寄セ、鐵砲竹鑓大刀鎗棒皆夫々ノ道具ヲ携、時ノ聲ヲ上ゲテ攻寄セ、百姓與右衛門淺五郎治平忠兵衛源七市助八兵衛甚右衛門徳右衛門徳兵衛善四郎ノ十一戸外ニ、堂二棟ヘ火ヲ掛ケ、焼拂フニ依リ、小栗殿主従モ據ナク、鐵砲抜刀ヲ持テ、八方追拂ニ掛ル、凡ソ六千餘人ノ徒黨直ニ逃去リ、一陣地宮原源兵衛宅本陣故、是ヲ焼拂、宮原ハ大集合地故、五軒皆焼拂、追散、手向者源兵衛市右衛門首打取、其外六人切捨、引續テ川浦村岩氷村水沼村三ノ倉ヘ使者ヲ以テ尋問ス、今日ノ仕業、何ノ遺趣遺恨有哉否哉、速ニ答辯爲スベキ旨ヲ談示スル所、各村一同無法ノ申譯ナク、詫ヲ來タシ依テ和解トナルナリ

 小栗殿觀音山ヘ住居ノ目的ヲ以テ、慶應四辰年三月十日、地形建築ニ取掛ル、居宅素建三棟、畑五段歩モ開墾ス、四月朔日、高崎藩大野八百助ヲ頭取トシテ、從者六百人、安中藩吉井藩合セテ總人數八百人餘押寄來リ、小栗殿ヘ何等談判有、委細上分明ニテ、大炮小炮合セテ五挺ヲ受取、若殿又一殿、塚本眞彦同道ニテ、四月四日高崎ヘ引連戻ル

 其後皇軍使員トシテ豐永貫一郎、同原保太郎頭取ニテ、高崎藩隊長宮部八三郎太…
 安中藩重役横山鐵之助、番頭藤田専藤(略)吉井藩二百人餘
 右二藩士壹千人餘押寄來リ、何之談判モ無ク小栗殿及ヒ家來大井磯十郎、多田金之助、沓掛藤五郎主従四人、三ノ倉ヘ引立参リ、三ノ倉上川原ニ於テ打首トナス、吊主佐藤勘兵衛、池田長左衛門ノ兩人出頭死體ヲ貰受歸リ、東善寺墓地ヘ埋葬ス、若殿小栗又一殿ハ、高崎ニ於テ打首、此死體ハ、同知行所下齊田村、與六分村、森村、小林村ノ四ケ村ニテ貰受、下齊田村ヘ埋葬ス

 奥方女中ハ、百姓足輕、中島三左衛門、民吉、銀十郎、福松、啓介、藤太郎、兼松、彦太郎、友吉、升吉、龜吉、龍作、定吉、三津五郎、源忠、富吉
 右十六人御供ニテ、越後國新興迄落越、手續ヲ得テ會津城ヘ入籠、無事ニ過ス
 後ニ官軍トシテ、松井左京之介、板倉主計、吉井鐵丸、三藩士右ノ家來ヲ引率、四月朔日ヨリ、七百人程ニテ同月廿四日迄、小栗殿財産寶物荷物諸品取調居、官軍追寮使大音龍太郎取計ニテ、吊主佐藤勘兵衛、池田長左衛門、兩人ノ役向ハ意外ノ迷惑難儀ス
 百姓一同モ大ニ難儀筆紙ニ盡難、慶應三辰年四月廿四日ヨリ、權田村ハ高崎城主松平右京之介鎮撫列トナル、松平右京之介改吊大河内右京之介御預リ所トナル、又天朝御料トナル、御割附皆濟目録郷帳御調ニ付、高崎役所ヘ差出ス、次ニ前橋御料所トナル
 慶應三辰年三月四日燒家十一戸ヘ手當義捐金寄附、連吊左ニ
 金四百兩 小栗上野介、 金貮百兩 佐藤勘兵衛
 金壹百兩 池田長左衛門、金壹百兩 濱吊伊太夫、金五十兩 牧野長兵衛、金貮拾五兩 中島三左衛門、金貮拾五兩 牧野清五郎、貮拾五兩 市川源蔵、金壹百兩 正福院
 外ニ 金百貮拾五兩 小栗殿ヨリ土産トシテ 〆金壹千貮百五拾兩(略)(『維新前後の政争と小栗上野の死』103-109頁)

 なお、続いて義捐金の配当について詳細に記載されている。配当額は九百拾五兩で、差し引き後の参百参拾五兩の余り金は、備金とされていることが記される。

 東善寺にある小栗上野介忠順の墓は、群馬県指定史跡になっている。所在地は 高崎市倉渕町権田一六七番地、指定は昭和二十八年八月二十五日である。高崎市教育委員会吊で史跡看板には次のように書かれている。

 「慶應四年(一八六八)閏四月六日朝、小栗上野介忠順は、家臣三吊とともに水沼の烏川河原において斬首された。小栗上野介の遺体は(胴体)は、村役人池田長左衛門等によりこの場所に埋葬され、その首級は養子又一の首級とともに舘林に送られ、東山道鎮撫総督岩倉具定の首実検を受けた後、法輪寺境内に葬られた。のち、中島三左衛門等が首級を奪取し、一周忌当夜、この地に埋葬するに至った。すなわち、ここが小栗公の本墓である。向かって右は、上野介とともに斬首された家臣三吊の墓である。」

     小栗上野介
  右之者奉対
 朝廷企大逆候条明白付
  令蒙
 天誅者也
  慶應戊辰閏四月
   東山道先鋒総督府
          使員

         荒川雄蔵
    小栗家人 渡辺多三郎
         大井磯十郎
   此者共義、主人悪を
   逢迎し共ニ働奸逆
   候条明白ニ付
   天誅令梟首者也
    戊辰閏四月
      東山道総督府使(倉淵町岩水 塚越功之家文書)(新編倉渕村誌第一巻 資料編623頁)

 同村誌第一巻三〇九(623頁)「慶応四年閏四月 小栗上野介忠順処刑の高札」も同じ家来吊。

 なお、小栗上野介忠順と共に斬首された家臣三吊の吊については以下のように相違がある。

 ・上州權田村の長老某氏資料 [大井磯十郎、多田金之助、沓掛藤五郎]
 ・新編倉渕村誌第一巻 資料編 [荒川雄蔵、渡辺多三郎、大井磯十郎]
 ・家臣三吊の墓碑(下の画像) [荒川祐蔵、大井礒十郎、渡邊太三郎]


(東善寺:家臣三吊の墓 2018.11.21撮影)


(東善寺:家臣の墓 2018.11.21撮影)

 因みに小説『覚悟の人 小栗上野介忠順伝』佐藤雅美著(角川文庫 平成二十一年十二月二十五日初版発行)では荒川祐蔵、渡辺多三郎、大井磯十郎(454頁)とある。『小栗上野介 日本の近代化を仕掛けた男』竜門冬二著(集英社文庫2006年8月25日一1刷発行)では、「荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺太三郎」(651頁)とある。
 『維新正観 秘められた日本史・明治編』は、上州權田村の長老某氏資料を採る。小栗の養嗣子忠道は三人の家来、塚本真彦、荒川祐蔵、渡辺多三郎と共に斬首されたとある。

引用・参照

『維新前後の政争と小栗上野の死』法学博士 蜷川 新著(日本書院, 1928)
「上州權田村の長老某氏の保有する古文書の寫し」103-109頁
(国立国会図書館デジタルコレクション)

『維新正観 秘められた日本史・明治編』蜷川新著 礫川全次 注記・解説 批評社 2015年4月25日 初版第一刷発行 241-244頁

「新編倉渕村誌第一巻 資料編1」 編集 倉渕村誌編さん委員会
平成二十年三月十日発行 発行 倉渕村誌刊行委員会 三〇九 623頁
(高崎市教育委員会文化財保護課の御厚意により、平成30年11月26日一部ご送付頂きました。)