『幕末政治家』小栗上野介

 263-266頁
 小栗上野介

 小栗(初め又一と稱し後に叙爵して豊後守その後に上野介と改む)が名を世に知られたるは、萬延元年幕府の使節となりて、新見村垣と倶に初めて米國に赴きたる時に始まれり、使節が歸朝の時に當り鎖攘の議論漸く朝野に熾なりければ、皆口を緘して黙したるに、小栗一人は、憚る所なく米國文明の事物を説き、政治武備商業製造等に於ては、外國を模範として我國の改善を謀らざる可からずと論じて幕閣を聳動せしめたり。其後は御勘定奉行外國奉行となりて、財政に外交に與かりたるが,時の幕閣に容れられずして黜けられ、幾も無くして又再勤しては、孜々其職掌を執り幕府の經綸を以て己が任とし、其精勵は實に常人の企及する所に非ざりけり、其人となり精悍敏捷にして多智多辯、加ふるに俗吏を罵嘲して閣老参政に及べるが故に、満の人に忌まれ、常に誹毀の衝に立てり、小栗が修身十分の地位に登るを得ざりしは蓋し此故なり。
 小栗が財政外交の要地に立ちし頃は、幕府已に衰亡に瀕して、大勢方に傾ける際なれば十百の小栗ありと雖も復奈何とも爲す可からざる時勢なりけり然れども小栗は敢て不可的の詞を吐たる事なく、「病の癒ゆ可からざるを知りて藥せざるは孝子の所為に非ず、國亡び身斃るゝ迄は公事に鞅掌するこそ眞の武士なれ」と云ひて屈せず撓まず、身を艱難の間に置き、幕府の維持を以て進みて己れが負担となせり。少なくとも幕末数年間の命脈を繋ぎ得たるは、小栗が與りて力ある所なり(余は親く小栗に隷属したるを以て、其辛苦に心力を費せると、余が目撃せる所なり)。
 幕府が末路多事の日に當りて如何にして其費用の財源を得たりしかは、啻に今日より顧て不可思議の想を成す而巳にあらず、當時に於ても亦幕吏自らが怪訝したる所なりき、而して其經營を勉め敢て乏を告ぐること無からしめたるは、實に小栗一人の力なりけり
 將軍家兩度の上洛、これに續きて、東には、筑波の騒亂あり、西には長州征伐あり其餘文武の政務に付き、幕府が臨時政費の支出を要したるは莫大なりけるに、小栗は或は財源を諸税に求め、或は嚴に冗費を省きて之に宛て、未だ曾て財政困難の故を以て、必要なる施行を躊躇せしむる事なかりけり、然れども冗費を省き冗員を汰するの故を以て、小栗は俗士輩の怨府とはなれりけり。
 幕末に際して財源愈々窮し,復これを覓むるに餘地なかりしかば、小栗は僚屬の議を容れて幕閣の決議に随ひ、紙幣を製造せしめたりけるが、時機これを許さずと抗議して、發行を承諾せざりけり、されば幕府が滅亡に至るまで不換紙幣を發行せず、其禍を後に残さヾりしは、寔に小栗の力なり
 幕府士人の銃隊は堕弱にして實用に堪へざるを看破し、小栗は旗本等に課するに、其領地の高に應じて賦兵を以てし、併せて其費用を出さしめ、是を以て數大隊の歩兵を組織し、夙に徴兵制度の基礎を建てたり。
 小栗は又佛國より教師を聘して、右の賦兵を訓練せしめ、併せて陸軍學校を設けて將校を養成せしめたり、是れ所謂幕府の傳習兵にして、幕府の末路、稍々健闘の譽を博したるは、即ち此兵隊なりけり。
 佛國公使の紹介を以て、佛國より工師技師を聘し、英佛より許多の器械を買入れ、多額の資金を投じて、今の横須賀造船所を設けたるは、實に小栗の英斷に出でたり、是れ小栗が非常の勳勞なりと云わざる可からず、當時小栗が栗本安藝守に對ひて假令徳川氏が其幕府に熨斗を附けて他人に贈る迄も、土蔵附の賣家たるは又快からずやと云ひたるが如き、以て小栗の心事の一班を知るに足れり(此事は栗本匏庵翁の自著に見えたり)
 幕末の三傑が政治上に於ける、凡そ斯の如し、而して此三士ともに閣老にも擧られず、参政にだも登る事を得ずして、皆十分に其才を展はさず、其能を顯さずして、或は憤死し、或は無辜の殺戮に斃れ、其身と其名とを併せて幕府に殉したり、噫天道是耶非耶

引用・参照

『幕末政治家』福地源一郎 著 (民友社, 1912)
『幕末政治家』福地桜痴 著 (民友社, 1900)
(国立国会図書館デジタルコレクション)