『伊藤痴遊全集. 続 第1巻』

 561-562頁
 幕府の倒れる迄

 併し乍ら幕府に、人物が、全く無かつたか、といへば、然うばかりはいへぬ。少し癖があつて、狭量の嫌はあるが、小栗上野介、といふ異型の政治家もあり、それに遲れて、出て來たものに、勝安房、大久保一翁、といふやうな、博識、達見の人物も居たが、何分にも、封建時代の事であるから、階級意識が強く、その出身の餘り高くない、といふやうな事を、口實にして、それらの人物を、重用せず、從って、その進言も、尊重されなかつたやうである。老中としても、安藤尊馬守、板倉周防守、小笠原壹岐守等の、稊や時流を抜いた人が、在つたけれど、安藤は,些か遣過の気味で、空しく退き、板倉と、小笠原は、相當の才識を有ち乍ら、現はれて來た時が、既に、七ツ下りで、日の暮れるのに、間がなかつたので、どうする事も、出來なかつた。
 若し、徳川慶喜が、十四代の將軍に、なつて居たら、或は、もう少し、幕府の屋臺骨も、建直し得たかも知れぬ。それにしても、慶應三年に、薩長二藩と爭ひ、拙い相撲をとつて、大阪へ引揚げた、那の遣口から見れば、假令、十四代の當主になつても、大した事は、無かつたかも知れぬ。大阪城に、三萬の大兵を擁し乍ら、京都を引揚げた事は、全く失敗であつて、こんな拙い相撲は、多くなからう。
 あの時に、慶喜が、二條の城に、頑張り通して、三萬の大兵をチラチラ見せて居たら、如何に薩長の猛者と雖も、どうする事も、出來なかつたらう、と思ふ。
 著者は、會津中將の、立場に就て、頗る同情して居る、一人である。薩長の側から、言はせれば、朝敵、逆賊であるが、著者は、それを割引なしに、受入れる事が出來ない。
 會津中將が、日本の国體を無視して、朝廷の御沙汰に、心から叛いた、といふ事實は、認め得ないのである。
 然らば、錦旗を掲げた官軍に、尊抗して、戰端を開いたのは、どういふ譯であるか、といふ事にになるが、その錦旗にも、會津中將は、疑惑を、有つて居たらうし、官軍といふ稱へが、果して、正當になりや否や、それにも、疑ひを有つて居たに違ひいない。
 昔からの諺に、勝てば官軍、負くれば賊、といふ事がある。若し、會津が、薩長の武力に、打勝つた時は、あの錦旗が、蜷川博士のいふ通り、僞物にもなるであらうし、薩長が、逆賊呼はりを、されたかも知れぬ。
 又、一つには、武士の意地があつて、當時の行掛りからいへば、會津藩としては、あれ迄、突張つて行く外はなかつたらう。
 著者は、薩長の人達が、無理押に、東北征討をやらずに、平和の交渉を開いたら、或は、あゝした戰闘は、開かれずに濟んだらう、と思つて居る。
 現に、長岡藩が、例の河井繼之助を、代表者として、官軍に、平和の解決を、求めた時、あの方面の武將、岩村精一郎が、河井の意見を、一も二もなく、一蹴し去り、強て、戰争にして了つた、といふ事實は、抹消し得ぬ、證據が在る。
 東北の、各方面に、すべて此傾向があつた。當時、薩長としては、どうしても、斯ういふ風に出なければ、京都で打つた、芝居の幕が引けぬ、といふ事情は、あつたのだ。
 それに就て、思ひ合されるのは、庄内の酒井が、一時は、兵を出して、官軍と爭つたけれど、老臣のうちに、よく物解りのする人が在つて、朝廷へ、歸順の誠意を、明かに示した爲に、鶴岡城は、其儘、酒井へ預けられて、無事の紊まりを、見る事が出來た、一事である。是れは、どういふ譯であつたか、といふ事を、考察して見る、必要がある。
 此方面に、参謀として、行つて居たのが、黒田清隆であつた。庄内の兵は、勇敢にして、よく戰ひ、薩長の兵は、可成り、苦戰に陥つて、幾度か、撃退せられ、更に進む事が、出來なかつた。たゞ僅かに、海路から進んだ、一隊の兵が、鶴岡に、迫り得た位の事であつた。
 然るに、突如として、酒井から、歸順の旨を、通じて來た。丁度、此時に、西郷吉之助が、鶴岡へ、忍んで來た爲めに、黒田は、酒井の申込に就てね西郷の、意見を求めた。
 西郷は、よく人情を解して、温い情味を、有つて居た人であるから、必ずしも、武力に依つてのみ、庄内藩を、征朊しなければならぬ といふ考えは 有つて居なかつた。

引用・参照

『伊藤痴遊全集. 続 第1巻』(平凡社, 1931)
(国立国会図書館デジタルコレクション)