『新聞集成明治編年史. 第一卷』 維新大變革期(自文久二年至明治五年)

 小栗上野介謹慎して軍門に下り

 而も有無を云はさず斬首

 [海陸新聞] 閏四月廿日 〇此ごろ御國峠に浪士多人數屯するよしにて、前橋侯高崎侯安中侯など、上州の諸侯を先鋒として官軍勢同國永田宿まで押寄、夫より山道に入り三國峠へ攻登りしに此峠は甲州上州武州三國にして、難所きはめて多かるに、此所に楯こもりしは其勢千人ばかりにして、何者とも定かならねど、多くは小栗上野介が餘勢にて、小栗は去る三月中土着なし、同國權田村へ來りしに、其のころ此近郷一揆はおこりしに時なれば、百姓忽地小栗をとり卷、打殺さんと爲したるを種種云なだめ、之より小栗は富たれば此處來て徳をほどこし、金銀を以て土人をなづけ、然して後その息又一は、西洋傳習の調練者なるゆゑ、農兵の兵隊を取りたてること数百人、勢い國振ひしかば近隣の諸侯これを恐れ、官軍の大總督へ此事を訴えしかば、官軍忽まち馳向ひ、前橋侯高崎侯安中侯など先手として權田村へ押よするに、小栗父子は謹慎して敢て戰鋒の兵を出さず、官軍方の軍門へ家來三人を引きしたがへ、召に應じて往たるに、上野介は三倉宿の河原にて三人の家來とともに有無を云さず斬首せられ、又一はまた高崎の城下において同斷の刑に逢しを小栗が残黨怒りて此度兵を集め、三國峠へ籠りしに相違なきものと見えて、寄手は主君の仇なるよし呼懸々々發砲して、廿二日の手始めより晝夜朝暮の差別なく、一息するとは打はじめ、一息するとは打合ゆゑ、安中前橋高崎勢怪我人出來たるのみならず、第一先鋒の人々は幾夜も寢ぬに疲勞たりとて廿五日に高崎城より後詰の勢を繰出したければね其後の戰爭いかに成しや。
 右は高崎侯の藩士後詰の勢の中、山加某よりの來状よりて是を記す。(『新聞集成明治編年史. 第一卷』128頁)

引用・参照

『新聞集成明治編年史. 第一卷』 維新大變革期(自文久二年至明治五年) 新聞集成明治編年史編纂会 編 林泉社, 1940 128頁
(国立国会図書館デジタルコレクション)