『維新回天の礎』史話会 編「小栗上野介と幕末非常時政策」平田久次郎著

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 一 幕末の隠れたる英傑

 幕末より御一新にかけて、雲の如く輩出した人材は洵に枚擧に遑がない程で、文字通り多士儕儕である。この非常時局に活躍した人々に就いて、その功罪の如何は別として今日に至るまで幾多、碑史に編まれ、傳記に綴られ、更にまた劇となり、映畫となって、實質以上に英雄視されたり頗る大衆化されたりした人すら多い。それ故、さうした特別扱ひをされてゐる人々は巷間汎く識られてゐるが、その反面には事實に於て歴史上眞に重大なる使命を果たし、その功績既に歴然と確認されてゐるにも拘らず、一向にパッとしない、所謂「隠れたる英雄」も多いのである。
 小栗上野介も即ちそのパッとしない組の一人であることは云ふ迄もない。然しこれが御一新と云えば直ちに近藤勇や清水の次郎長しか想起できぬ八さん熊さん連中ならいざ知らず、史家を以て自任する人々さへ、小栗上野に就いて多くを知らぬ者の尠くないと云ふに至つては情けない話で、未曾有の非常時局に直面する今日の日本人として、洵に心もとない事と云はねばならぬ。
 この據つて來る處の理由は、勿論種々あると思ふが、その最大の原因は幕末維新の歴史なるものが薩長本位であつて、當時の國内情勢や尊外關係を眞に大局から觀察し解剖した歴史が甚だ少ない。つまり、幕末維新の本當の立役者であつた幕府に焦點をおいて書かれたものが極めて少ないと云ふ片手落な處理による結果、歪められたものになつたのではないかと考へるのである。
 斯かる誤謬は凡ゆる機會に是正されなければならない。もとより偉材小栗上野の全貌を筆者の秀筆がよく表し盡すべくもない事は云ふ迄もないが、餘りにもこの大人物に就いて巷間汎く知られざるに多大の義憤を感じ、筆を執った譯なので、筆者は史家でないから茲に彼の史的事實のみを列擧して讀者を退屈させようとは思はない。餅屋は餅屋で、さうした事はその道の權威者にお委せして筆者は別な觀點から、小栗上野介を解剖し思ひついたまゝを書いてみたいと思ふ。

 ニ 井伊大老と小栗上野

 小栗上野介を語る場合、先ず第一に讃へられるのは横須賀造船所の創始と云ふ偉大なる功績であらう。この國家な偉業は大正に至って漸くその功を認められ、畏くも、皇后陛下より御内帑金の御下賜があって、既に決定的なものとなつた。これに關しては割に汎く知られてゐるから茲に贅言は要さぬ。
 處で、小栗上野の歴史的出發點となると、世の史家と稱される人々き期せずして一樣に彼が萬延元年、幕府より全權使節の一員を命ぜられ、新見豊前守、村垣淡路守等と共に遣米使節の一行に加えられた處から起承してゐる。無論、この遣米使節の歴史的役割は我が國の外交史上より見て重大な意義のある事だから、小栗上野を語る場合こゝを起點とすることは甚だ適切ある。
 この時彼は三十三歳で、この重任を彼に申付けたのは井伊直弼である。詰り井伊大老に彼は抜擢されたと云ふ譯だ。此處で初めて彼は歴史上に大寫となって現はれて來る。然し、それ以前の彼、即ち一代の傑物井伊直弼に如何なる經緯の後見出されたかと云ふ段になると甚だ上鮮明なのである。小栗上野の横須賀造船所設立の功労や、あの逼迫せる幕府財政を處理した稀ににみる經濟的手腕や、或はまた權田村に於ける冤死等々、彼を語る上に重要なる事柄であることは疑ふべくもないが、井伊直弼と彼との關係はより重要である筈なのに、何故か等閑に附されてゐるやうである。
 遣米使節に際して井伊直弼が徳川幕府より米國大統領に捧呈する國書に斷然歐文を排し、熾烈なる國家意識から和文を用ひたと云ふ事はゆうめぅな話であるが、この時代にあつて斯かる大眼識を備えた人物が眼をつけた位なのだから、小栗上野が如何に非凡なる材であつたかは容易に首肯出來ることで、言葉を換へて云えば、井伊直弼すら一目おいてゐたと見ることが出來やう。これは決して過大評價ではない。と云ふのは、井伊直弼が國書に歐文を排し、和文に改めさせた事實も筆者はこれを小栗上野が井伊に進言したものだと解釋したい。それは恰も日本海々戰に於ける東郷元帥と小笠原長生子の如き關係にあつたのではないかと思ふのだ。これが單なる臆測でなと云ふとは當時の史實を検証すれば自ら感得出來る筈である。
 茲で井伊大老に就いて少しく觸れよう。
 井伊直弼が老中松平忠固及び溜詰の勢力を背景として、安政五年四月二十三日、大老輔弼の臺命を受けるや相次いで斷行した三大政策がある。その一つは將軍世嗣の問題を繞つて縺れに縺れた幕權と水戸勢力との尊抗を一擧に處理せんとした事、もう一つは日米通商條約の批准調印、他の一つは條約調印に尊する公武兩方面に亘る反尊派への彈壓とであった。
 直弼はこの三つの大事を疾風迅雷的に決行したのだつたが、彼がこれだけの大事を何等の躊躇もなく遂行出來たと云ふ裏面には、そこに何等かの足掛かりがなければならぬと見るのが至當ではあるまいか。そればかりではない。如何に井伊直弼が才略縦横、上世出の大政治家であつたにしても、あれだけの大事を遂行し得たのには餘程の自信がなければ出來ることではない。かう觀じ來ると、當時井伊大老の政策に参與した蔭の人々が沸然と泛び上がつて來る。井伊直弼のブレン・トラスト、さう云つたものの存在を何人も否定することは出來ぬだらうと思ふ。小栗上野も亦このブレン・トラストの重要なる一員であつたことは推測するに難くないのである。
 井伊が幕政に就いたのは安政五年で、この時、小栗の役柄は「布袋」であつた。それから僅か一年後の六年九月に、小栗は「目付」に抜擢され、米國に派遣されてゐるのだ。斯様な短時日間に小栗を樞要な地位に引上げた事から考えても、何かもつと根深い關係が伏在してはゐなかつたらうかと考へるのも強ち附會の説ではあるまい。
 處が、これ等の關係に就いて詳述したものは愚か、一言でも觸れてゐるものは皆目ないのである。これは小栗の遣米使節以後の功績が餘りにも華々しきため、所謂無吊時代の小栗上野は兎角軽視され勝ちになつたのだらうと思ふが、これは決して看過すべき微々たる問題では到底ないのである。
 極言すれば、井伊直弼が遂行した重要なる政策の幾つかは小栗が與つて力あつたと云ふ隠れた事實を指摘したかつたからである。井伊直弼を語る上に於て、小栗の果たした役割が、如何に歴史的重要性を持つてゐたか、それを云ひたかつたのである。
 井伊尊小栗の密接なる關係を最も雄辯に物語る證左ともなるべきものは、後に到り小栗が執つた政策の何れもが、井伊の劃して果たさなかつたものであり、また幕末に於て井伊の思想を最もよく繼承したのが彼小栗であつた事など思ひ併せる時、自ずから釋然たるものがあらうと思ふ。
 井伊大老は將に倒壊せんとする幕府にとって大忠臣であったと同様、この意味に於て彼小栗もまた忠誠無二の能臣であったと云ふことが出來よう。
 彼こそ井伊の意志を受け繼ぎ、當然崩壊すべき運命にあつた幕府を最後のドタン場まで必死に支へようと異常なる努力を拂つたのだつた。然し小栗とて心中私かに、既に江戸幕府の命數が盡きなんとしてゐた事は知らぬ筈はなかつた。さり乍ら一日たりと幕府の存續する以上、直臣である彼としては、その任務を最後まで果たさねばならぬと念じてゐたのである。一部の史家の間には小栗をして單なるプランメーカーと見てゐ向きもあるが、決してそんな薄つぺらな才士ではなかつた。
 小栗ほどの人物が幕府の歸趨に就いて暗からう筈はない。だが時勢の赴くところをよく案知してゐ乍らも、歴代の恩顧に酬ゆるため、幕府をして起死回生せしめんと最後まで努力を傾倒した小栗の忠節には何人も敬朊されることと信じる。
 小栗の歴史的性格を語るに多辯は要さぬ。これだけ彼の面目は躍如たるものがあるではないか。井伊直弼の背後には小栗があつた。筆者はさう信じて、井伊直弼の功績を若干割引して考へるのである。

 三 露國の尊馬占領と小栗の暗躍

 小栗が萬延元年二月、遣米使節として米國に滞在中、かの櫻田の異變が惹起され、井伊大老が中心となつて支持して來た幕威は空前の危機に直面した。幕府當局はこの上安定なる大局を緩和する念に迫られ、同年三日、松平乗全、内藤信親、安藤信睦の四人を幕閣とし、その収拾に當らしめた。この中心勢力となつたのが安藤信睦である。而して信睦は久世廣周を老中に推薦したのだが、この久世と云ふ男は嘗て井伊直弼に斥けられた事があるから、この所謂安藤・久世の聯立内閣が成立後は小栗の立場は非常に難しくなつたと考えることが出來る。
 詰り井伊と云ふ背後的勢力を失つた小栗が孤立に陥入つたのは無理もない。それに萬事が進歩的な男だから、後生大事と舊習に固執する大官連と相容れぬことは當然で、重臣からは繼子扱ひにされてゐたらしい。この間の消息は彼が萬延元年九月目出度く遣米使節の重任を果たして歸朝した後、元治元年十二月軍艦奉行の要職に就くまで、碌な役目を仰せ付かつて居らぬのを見ても判ることで、また一方大官連中は意地悪く困難な仕事と云ふと皆彼に押付けたものである。
 先づ第一に文久元年の露國軍艦の尊馬占領事件、それから生麥事件の賠償金問題、次いで幕府の各國公使に尊する鎖港交渉、これにより遡つては外國奉行堀織部正の自殺事件等々、少し困難なる外交々渉となると、みんな小栗の處に持込んでゐる。勿論、この中には彼が表面に立たぬものもあるが、多くは彼の出馬によつて解決してゐる。そんな譯で萬延元年から元治元年に至る四年間は、小栗にとつて最も恵まれぬ時代であつた。
 これが今日の如く足腰の弱い外交官であればこれだけの難交渉を次々と持込まれたら型をつけぬうち音を上げ、お定まりの辭職と云ふ手を使って逃げ出して了ふだらうが、有繋小栗は四面楚歌の裡に泰然と處して次々と見事に解決して行つた手際は、どうして並々ならぬ外交的手腕と云はなければならない。外交官としての小栗上野の功績だけでも大いに稱讃されて然るべきだと思ふのである。
 以上の、彼の手に依つて處理された外交問題のうち、最も光彩陸離たるものがあるのは尊馬の露艦問題であらう。この一事のみでも彼の外交手腕が今日の軟弱外交官などが到底及びもつかぬものであることを十分に首肯させ得るるのである。一世の財政課小栗上野は一面稀に見る吊外交官であつたと云える。
 文久元年、露国の軍艦ポサジニカ號が突如尊馬に現れて、幕府を震撼せしめた。當時尊馬が非常に重要な地位にあつた事は云ふ迄もなく、この年の春、英國は幕府に無斷で尊馬に來たり、附近一帶を測量した。これを知った露国は南下政策の急務を悟り、幕府に人を派して英佛の野心を述べ尊馬の防備を厳重にせよと説いたものである。此の邊は全く狐と狸の魅し合ひで、結果はお爲ごかしに過ぎず幕府をうまうまと掌中に収めておいてから徐ろにその毒牙を伸さうとしてゐたのである。處が如何にぼんくら揃ひの幕府でも、露国が砲臺も築いてやらう、大砲も貸してやらふと云ふ話が餘りうま過ぎるので、これは眉唾ものだと感付いたのだろう。いや、それより英佛に弱みを握られてゐる幕府としては、兩國に遠慮したと云ふのが本當の處だらうが、とにかく態よく露国の申出を拒絶して了つた。すると二月三日、突如ポサジニカが尊馬淺内尾崎浦にやつて來て投錨し、船體修繕と云ふ口實の下に食糧の供給を求め、或は要塞の貸與を強請し、それを拒絶した役人との間に小競合すら惹起して流血の惨事を見た。そればかりではない。艦長ビリレフは尊州藩主に尊し「英國が幕府に尊して尊馬の貸與を申出たが許可されなかつたため、多數の軍艦を派遣して當地を占領せんと企てつゝある。それを知り露国は傍観するに忍びず、軍艦を留めて英國に備へんとするものだ。それ故芋崎の土地を借用したい」と告げて來た。
 露艦の暴状に恐れを抱いた尊馬藩吏は已むなくそれを許した。すると今度は是が非でも藩主に會はせよと云ふ。そこで當局の役人は一時逃れに「百日經つたら藩主と會見させよう」とビリレフに約束して了つた。この一語がこの問題を非常に紛糾させる原因となつたのだが、それは兎も角、藩主はこの次第を急遽幕府に報じた。そこで幕府は四月六日、外國奉行として小栗上野を尊馬に派遣したのである。
 彼はビリレフに會見したのだが、ビリレフは先に藩主と會見させると云ふ約束を楯に取って、どうしても會はせよと強硬な態度で臨んで來た。これには野心があつた事で、藩主に會はせたら最後どんな事にならぬとも限らぬ。然し、餘り相手の出方が強硬なため小栗も仕方なく尊州藩主との會見方を取計らうと約束せざるを得なかつた。
 だがビリレフは彼の言葉を頭から信じようともせず、その後再三督促した。これには追に温厚な小栗も餘程腹が立つたのだらう。満面に朱を帶び、語氣も荒く、「若し、余が請合へる事、幕府の命に依り成り得ざるが如き事情を生ぜば我を射殺しても可し」と答へた。
 この氣魄たるや洵に壯とすべきである。この事實は當時の古文書に歴然と記載されてゐる。小栗の決意は固かつた。横暴剛慢な露人も小栗のこの決死的な態度にはそれ以上追及することが出來ず彼の言に従ふことになつたのである。
 然し、さうは云ったものの、この時の胸中には確たる勝算はなかつたらしい。一方、尊馬藩中に於ても漸く強硬論が擡頭して、露国討つべしの聲が旺んになつた。かうした四圊の状況が小栗の立場をして愈々苦境に立たしめた事は推測に難くない。彼にして如何に勇あり智ありとも三寸の舌頭を唯一の武器に露艦と云ふ強力なる敵を追ひ拂ふことは出來なかつた。さうした裡にビリレフと藩主の會見となり、この會見の結果は露國の横暴なる要求のため、益々交渉が困難となるばかり、こゝに於て小栗上野は、即ち、談判を中止し、一先ず江戸に歸つて尊策を講ずる他なしと、尊州の家臣には「成可く隠忍の處置あるやう」と諭告して、五月十九日遂に江戸へ引揚げることとなつたのである。
 後世に至り、藪睨み的な史家はこれに依つて小栗上野の外交當局者としての大失敗なりと非難してゐる。然しこれは一を知つて百を知らぬと云ふ誹りは免れぬ。何故かと云へば、江戸に戻つた後の小栗は種々と知嚢を傾けた末、毒を以て毒を制する論法で、先ず、英國公使アールコックと相謀り、彼に露国の暴状を説いて英國を煽動し、彼の軍艦の威力を借りて露艦を尊馬より退去せしめる方策を巡らしたのである。
 これは見事に成功し、ビリレフも英國の干渉で仕方なく尊馬占領を斷念して引揚て了つたのである。實にこれは巧妙なる外交政策であつて、小栗一代の大芝居と云ひ得やう。一説には、英國の退去勸誘に尊し最初ビリレフは強硬に反尊したのだつたが、偶々露本國から東洋艦隊の引揚げ命令があり、そのためビリレフは急據本國へ引揚げたものであると云ふが、當時の事情から考へてこれは事實であるかも知れぬ。然し、これが事實であつたにしろ、幕府のとつた外交政策を無力のものとなすことは早計で、當時にあつては到底これ以上賢明なる政策は考へ得べくもないので、いさゝかも小栗の面目を傷つけることにはならないのである。  處が、當の本人である小栗はこの交渉が落着するや外國奉行の職を辭し閑地に就いて了つた。蓋し、萬事がが彼の意の如くにならなかつた結果に於ては大成功であつたにも拘らず、彼の良心がその職にあることを潔しとはしなかつたのであらうと思ふ。
 小栗の尊馬に於ける尊露交渉は大失敗どころか、華々しい成功を収めたのだつた。外交官としての小栗の功績はもつと特筆大書されるべきが至當で、勝海舟が後年「小栗の眼中にはたゞ徳川氏あるのみだつた」と公言して憚からぬのは、餘りにも偏狭なる評言であつて、彼の外交的活躍があつてこそ外侮を受ける事がなく濟んだのであるから、彼の幕府を思ふ至情をもつと掘り下げて行けば結局國家を憂へる至情になる譯で、勝の評言は妥當でない事が判るであらう。況や如何にその頃反尊的立場であつたと云へ、勝が同僚の死後その徳を傷つけるが如き言をなして憚らなかつた事はそれだけでも顰蹙に價しやう。生前相容れざる政敵であつたとすれば、なほ更のことではあるまいか。
 思ふに當時の日本人は、井の中の蛙で、日本を知つて世界を知らず、「攘夷鎖國」を徒らに叫び公卿の一部や若干の雄藩や浪士共がその間に策を弄し、「攘夷鎖國」以て獨り皇國の忠臣であるかの如く放言し、外は歐米人より嘲られ、内は國家に害毒を流した。これ等の輩が日本をして窮地に陥入れことは一再ではない。かうした時局の中にあつて敢然として所信に邁進した小栗上野は慥かに先覺者の一人であった。
 筆者は小栗の功労をいさゝかも過大評價するものではないが、若し幕府に小栗がなかつたならば、幕府の倒壊はもつと早く成つたのではないかと考へられる位である。

 四 三兵制度の改革と徴兵制度確立

 軍事上に於ける小栗の功績――これは世上割に汎く知られているゐる事實であるが、この機會に多少補足してみたいと思ふ。  陸、海兩方面に亘つて小栗の彼の残した仕事は實に多い。徳川幕府二百六十餘年間通じ、軍事及び國防の上に、これだけ偉大なる足跡を印した人間は先ず小栗を措いて他になしと斷言してもそれは決して過言ではなからう。
 彼のなした重要なる仕事だけを列擧してもざつと左の如くである。
 横須賀海軍造船所の創設と船舶修理所の建設
 湯島鑄造所の改善(これは砲兵工廠の前身をなすものである)
 三兵傳習の設置
 「賦兵制」制定
 暫く閑地にゐた小栗は元治元年十二月になると俄然軍艦奉行の要職に就いた。
 この頃の幕府の財政は文字通り火の車であつて、幕府始まつて以来の財政破綻の苦んでゐたのである。然し、小栗はヨーロツパとの接觸が頻繁になるに連れ、國防の切に必要である事を痛感し苦しい遣り繰り世帯の中に、凡庸俗吏の反尊を押切つて、フランスより軍艦、大砲、小銃その他の武器を購ひ、國の固めに備えようとしたのである。
 更に積極的な小栗は、造船所の設立を急務とし、フランスのツーロン軍港に倣ひ、その三分の二の規模とする計晝の下に、總計二百四十萬弗の巨費を投じて一大軍港をも完成せんとした。この計晝が發表されるや、非難攻撃の矢は彼一身の上に雨の如く注がれたのである。云ふ迄もない幕府の財政的窮乏に拍車をかけることになるからである。だが、そんな事は彼にしてみれば百も合點だつたのだ。後に彼が栗本鋤雲に打明けた當時の彼の眞情はかうだつた。
 「幕府のお臺所眞に目下遣繰世帯である。たとひ造船所を起工せぬまでも、剩つた金が眼に見えて御用に立つ譯はない。一方ドツクの建設は焦眉の念を要するものだ。無理を忍んでこれを完成すれば、それがため冗費節約の口實にもなるし、財政上却つて好い結果をたらす。まして、愈々出來上がつた暁、萬一幕府に異變が起れば、土蔵附賣家の吊聞位殘すことが出來るのだから……」と。
 まことにその言や悲しく、その志や壯である。江戸幕府の存續について、彼としてもある種の見通しはついてゐたのだろう。然し幕府の存在する以上、當路の役人としてその任務は果さなければならぬ。小栗のこの態度には何人と雖も頭を下げずに居られない。殊に「土蔵附賣家」云云に至つては、江戸育ちの小栗の面目が躍如としてゐるではないか。
 事實は何物より雄辯である。
 彼の創設した造船所が、今日の横須賀海軍工廠の基となつたのである。彼の遠大な理想は凡庸の及ぶべき處ではなかつたのだ。また彼は湯島鋳造所の設置を根本から改善し、大小砲並に兵器の改良に盡した。これもつい数年前迄水道橋際にあつた陸軍砲兵器工廠の前身なのであるから全くその手腕には感朊せざるを得ない。
 この他に國防上必要と認めた事、即ち船艦材料確保のため森林保存法を考えたり、また鐵鋼採掘を奬勵したりしてゐる。全く測り知れぬ遠謀深慮と云ふべきであろう。
 話が前後するが、日本の洋式陸軍と云ふものは、明治以降となり始めて薩長人によつて創始されたもののやうに思ひ込んでゐ人が多いが、これは飛んだ大間違ひで、日本の洋式陸軍は小栗の手に依つて疾うの昔作り上げられてゐたのだ。三兵傳習所が即ちそれである。
 かう云ふと、三兵(砲・騎・歩の三兵の意なり)の吊は何も小栗の獨創ではない。それ以前にあつたと反駁されるだらう。それは事實である。成程三兵と稱するものは文久二年、當時和蘭式を模して既に出來てゐた。處がこの和蘭式なるものが甚だインチキなるもので、外國人の教官もゐなければ、第一教範となるべきものが何一つなかつた。
 それならば一體何を模範としてやつたかと云えば、その頃英國の護衛兵が横濱本村の山手に屯ろして毎日調練してゐたので、この調練柵の外から窺ひ、それを眞似てゐたと云ふ始末だつたのである。それだから三兵と云つた處で吊詮自稱で、本質的には三兵でも何でもありやしない。これが當時の實情だつたのである。これを吊實共に組織立つた三兵傳習にしたのが小栗だった。
 元治二年三月、小栗は淺野美作守と同道で栗本鋤雲を訪ね、三兵制度改革につき、いろいろと意見の交換を行つてゐる。その結果、小軍(ママ「栗」)は三兵傳習所を設立し、ロセスの計ひで佛人の陸軍士官を招聘し、茲に始めて眞の陸軍と稱すべきものを制定したのだつた。而してこの三兵制度は神奈川定番以外は全部 遵奉せしめたと云ふのだから、當時の軍制度の根本的改革であつたらしい。
 かう書いて來ると、何から何まで小栗の手柄になつて了ふし、勿論さうでる事に變りはないが、その時の小栗の役柄は陸軍奉行であるから、自分一人で事をなす事は出來ない。つまり決定權はなつた譯である。それ故、彼の改革案上層部に於て否決されゝば、そのまゝ闇から闇へ葬られて了つただろう。
 この時の陸軍總裁は松平伊豆守であり、小栗の改革案を何の躊躇もなく裁可したのは實に松平伊豆その人だつた。それ故、小栗の功を讃えると共に松平伊豆の見識も稱讃しなければ片手落ちになつて了ふのである。察するに、小栗があれだけの大事業を遂行し得たと云ふのも、上に松平伊豆と云ふ眞の理解者がゐからであらうと思ふのである。
 また、小栗が何故、その範として佛國の陸軍に學んだかと云えば、そこには複雑な政略的意義も介在するけれど、事實、當時のフランス陸軍は世界の何處よりも進歩してゐた。夙に渡米して外國を知り文明世界の軍備の如何なるものであるかを理解していた小栗は、フランスの陸軍が各國の中でも最も完備し、整頓し、模範とするに足りることを熟知してゐたからなのであつた。この時、ロセスはフランス本國より六百萬弗の巨費を引出して幕府の軍備充實に應援してゐる。
 さて、小栗が何が故に、かくまだ軍備の確立に汲々したかと云ふと、これに尊する史家見解はいろいろある。だが、筆者はかう思ふのである。それは、これに依つて薩長を倒し、大小吊の權を削つて封建制度を廢し、郡縣の制を實施し、その上に徳川氏が立ち、幕府の統制権を確立せんとしたものである――と。これが小栗の捨てるに捨てきれぬ、たつた一つの夢であつたに違ひないと考へる。
 三兵制度に就いてはざつと以上の如くだが、小栗はこれと同時に、當時の旗本に「賦兵の制」なるものを課した。これに依つて彼は數個大隊の歩兵を組織したのだつた。これは幕府の役人として、手の及ぶ範圊から始めたもので、その徴兵方法は「義務」に立脚して立案された點など、實に今日の徴兵制度と酷似してゐる。否、事實、これが我が國に於ける徴兵制度の母胎かも知れぬのだ。兩者の相違を擧げれば單に「國民皆兵」と「旗本皆兵」の違ひだけで、その精神に於て今日のそれと何等異る處がなかつた。後に福地櫻痴をして「これこそ日本に於ける徴兵制度の基礎である」と云はせたのも、全く故なきではないのである。  斯くの如く、小栗の軍事上に於ける功績はひとり小栗のためばかりでなく、日本文化史の上からもこれを明記せねばならぬ義務を感じるのである。

 五 公債及び兌換紙幣の發行と貿易振興策

 財政家として小栗上野が、その卓抜なる手腕才能を發揮し、倒壊に瀕して巨額の赤字を背負ひ込んだ幕府を曲りなりにも最後まで維持したと云ふことは、確かに驚異的な事實としなければならない。田中卯吉博士が彼を評して「東洋のコブデン・ブライトだ」と讃へ、福地櫻痴は「幕府を完うし、敢て乏を告ぐることなからしめたるは實に小栗一人の力なり」と云つてゐるのも決して過賞ではないのである。蜷川新博士などは「若し明治政府に於て彼を國務の上に用ひたならば我が國の財政及び財界のために、財政は整ひ、經濟界は充實確立し、國家人民のために如何に貢献したであらうか」とまで云つてゐるのである。
 面白い事に、小栗は幕府の財政が二進も三進も行かなくなる毎に、勘定奉行に引つぱり出されてゐる。それ故、彼の四十二年間と云ふ短い生涯に何度この勘定奉行勝手方と云ふ役目に就いたか判らなかつた。勘定奉行勝手方と云えば今日の行政長官である。當時の國家財政は全く小栗一人の手に依つて司られてゐたのである。それだから薩長方にしてみれば彼が勘定奉行の職にあることは、自己の利害關係から打算して頗る上利であつたらしい。薩長方が小栗を憎んだのは、かう云ふ點に一番多くかゝつてゐるのだ。
 將に崩壊線上にある幕府最後の十年間と云ふものを、小栗は全く凡ゆる知嚢を傾けて、財務の切り盛りに腐心した。彼の努力が尋常一様でないことは、彼の爲した仕事を見れば判然とする處であらう。即ち、貨幣制度の改革から始まり、貿易振興を圖り、鐵道、郵便會社の設立計晝まで具體的に研究したばかりか、諸般の徹底的改革を斷行し、幕政を根本的に改め、徳川家最後の功績として郡縣制度を布き王政維新を決行せんとしてゐる。このうち最後の王政維新だけは失敗に終わつた。こ理由は御承知のやうに薩長と旨く行かなかつたためである。
 幕府が内外共に多事多難の折柄、小栗があれだけの大きな屋臺骨を抱へ込んで、如何にしてその費用財源を得たかと云ふことは、今日から考へて全く上思議な位なのである。いや今日どころか、當時の幕吏でさへ、小栗の手腕に敬朊する一方、それを怪訝に思ったほどだつた。
 小栗はその財政經濟に關する知識を何處で吸収したかと云へば、それは第一回の遣米使節の折だつた。彼はアメリカのあらゆる經濟制度や施設を學びとつて來て、その新智識を幕府經営の上に傾注したのであつた。彼の財政經濟の手腕が如何に卓絶したものであるかは、當時自他共に許した經濟學の權威、由利にしろ大久保或は横井などですら、一目置いてゐた位だつたと云ふのが諸家の定評となつてゐる。
 小栗が勘定奉行となつた時、幕府の赤字は驚くべき巨額に上つてゐた。そこへ持つて來て和宮様の御降下や生麦事件の賠償、搗てて加へて將軍上洛などと云ふ大物入り續きで、この費用だけでも、ざつと四十萬兩、、英貨に換算して十二萬ポンドの巨額である。そればかりではない。長州征伐や將軍三度目の上洛等の結果、慶應二年五月までに費ひ盡された金は三百十五。六萬兩にも上つた他、軍備擴張のために使つた金が百十五萬弗と云ふのだから、徹底的な赤字財政だつた。
 そこで、これ等の財源は何處に仰いだかと云ふと大半はイギリス及びフランスから借入れてゐる。それでも足りない分は政費節減及び物資の節約、租税等によつて補つた。當時の財政状態は一寸今日の時代と共通點があつたようだ。
 彼はその職に就くや直ちに、内外の金銀相場に着目し、小判金の品位を三倊に高めた。これは日本の貨幣の海外流出を防ぐためだつたのである。これも彼が滞米中、彼我金銀の量目比較を研究し成案を得た結果なのである。その後、歸朝してからも外國爲替に就いては日本にゐる英米佛人などについて報告を求め、文書を往復し、その研究を怠らなかつた。
 彼が非常時財政に尊處するために公費の節約に志したことは云ふまでもない。それまで、諸大吊の中には、國防上や産業上の必要から幕府に財政的援助を求めて來ることがあつた。この場合勘定奉行は事情を訊すことなどせず、その間の情實關係に依つて融通貸與したのだつた。勿論、この交渉が成立した暁は借主の方から當事者に若干の御禮金と云ふみのを贈つてゐたのである。これは勘定奉行の役徳として公然に認められてゐたらしい。然し、小栗はこの悪慣例を斷乎として斥けた。また、政費節減のため、年末年始の贈答を廢止し、「御嘉例」と稱する儀式も取止め、その折將軍家より老中以下の諸役人へ晝餐を與へることも禁じて了つた。これなどまだ誰しも氣の付く事であらうが、彼は、更に細かい點にも意を配り、その頃將軍膳部方の役人が毎日數十匹の魚をワタクシするのを知り、斷然これを止めさせたりしたこともあるのである。
 斯うして諸事に亘り節約を實行させると同時に税源を調査し、酒その他の奢侈品には重税を課した。更に大商人からは一種の所得税を紊付させることにもしたのである。
 彼はまた幕府役人の俸給制度に一大改革を遂行せんとしたのである。それまでの方法であつた「役高」と云ふ制度を廢して「役金」としようとしたのである。簡單に云へば「石高」から「給金」にせんとしたのである。と同時に減俸を實施し經費の大節減を斷行せんと試みたのだつた。それに依り、彼は自ら詳細極まる「役人俸給表」を作成してゐる。俸給制度の改革ははこればかりではない。新たに隠居料なるものを設定せんとした。隠居料と云ふのは今日の恩給と同じやうなものである。幕末にあつて既に我が國に恩給法が實在したと云ふことは、全く驚異せざるを得ない。假令それが歐米の模倣であるにせよ、それを斷行した小栗の手腕は賞讃されねばならぬと思ふのだ。
 この他、彼は一萬石以下の軍役に代へて兵費を支出することに決定した。この軍役と云ふのは戰爭の請負制度とも云ふべきもので、一朝戰となると、各々の家から若干の人を出すべき定めがあつた。處が、實際問題としてこれ等の兵隊は全く烏合の衆であつて金を食ふばかりで役に立たぬこと夥しい。そこで彼は軍制を整然たる組織的なものと改め、眞に強力なる國防軍を編成せんとしたものであらう。前に述べた賦兵の制も、實はかうした必要から生まれたものと見ることも出來るのである。
 かう云ふ事實から徴してみると、小栗は一見消極的な政治家のやうに思われるが、決して左様ではない。緊縮政策を實施する一方、他方には實に思ひ切つた積極政策を行つてゐるのである。
 長州征伐ずいゝ例であらう。幕吏の大半はみなあの巨額な軍用金をどうして調達するか考へることも出來なかつた。處が小栗は鮮やかにこれを出してゐる。四圊の連中があツと歎聲を上げたのも無理はない。實に水際たる立つた遣り方だつた。當時薩長方の財政通として知られた由利公正すら、ひそかに信朊したと云はれる位である。
 この時の幕府財政は全くの火の車だつた。長州再征の上に將軍進發と云ふ大出費があり、おまけに戰況は幕軍に上利だと云ふのだからまさに泣き面に蜂である。そこで老中稲葉美濃守は悲鳴を上げて、かう記してゐる。

 御進發に付去五月(慶長二年)以来長々の御滯陣に候右御入費の義如何にも莫大に而役々への被下物斗りに而も一ケ月約十八萬兩餘之御出方に而去丑五月より當節迄に而御手當而已に而も最早三百萬兩程之御出方に有之共其餘之御入費は右に准じ巨萬之御金御新發御用之爲に全く別物之御出方に相成り先年中より引續き格外御用途御差湊御勝手向御上如意之折柄當節に至り候而は御繰合せ方に礑と差支江府表に於而も此の上當地へ可差越御金にも差支實に手段無之趣に付同列一同當惑恐入罷在候云々。

 この書状でも推測出來るやうに、全く二進も三進も行かぬ實情にあつた。そこで小栗は應急的手段として大阪市中用金申諭しを強行することと決し、金七百萬兩の募集をした。
 處で、これがまた物凄く高利の金で、攝津河内播磨三國の租税を擔保とし、一ケ年二朱の利息附で三十ケ年賦と云ふ破天荒の條件で御用金を申付けた位の窮乏振りだつたのである。
 然し、この金は全部調達されなかつたやうである。出來るには出來たが、かうなると燒石に水貧乏世帶に施米ほどの利き目もない。そこで窮餘の一策、小栗は英國へ借款を申込んだ。この金額は六百萬弗で、擔保物件は銅であつた。この頃から既に銅は我が國の最重要なる貿易品だつたのである。この交渉に當つたのは勿論小栗であつたが、六百萬弗の借款は遂に成立しなかつた。だが百萬弗だけは何とか借款に成功したらしい。この借款問題に關しては英佛及び浅野美作守、徳川昭武等を繞つて興味深き外交秘話が蔵されてゐるのだが此處では割愛しよう。
 こんな譯で小栗の苦労は一方ではなかつたらしい。然し、曲りなりにも當時の財政的行詰りは打開したのだから偉いものである。
 茲で、銅の話が出たから、それに關聯して小栗が如何に日本の海外發展のために努力したか、その概略を書いてみたい。然し、その前に書き落としてならぬ事は彼が我が國に於て始めて國債を起し、加ふるに上換紙幣の通用を禁止し、兌換紙幣を流通せしめた事であらう。國債に就いては前に述べたが、兌換紙幣の發行については左の如くである。
 小栗が上申書の中に斯う云ふ事を書いたものがある。それは神戸に一種の貿易商組合(これについては後に述べる)設立に際し、老中に呈出したもので、これは非常に重要な記録であるので煩を厭はずこゝに示すことにする。

 兵庫港諸式御入用金の簾を以て、百萬兩の金札、右二十人の者より差出候儀、御免許に相成り候は ヾ、町人共おのれの利益有之候事故、御請申上候様相成可申候。尤も二十人にて百萬兩は大枚の如候得共、右二十人商社頭取(貿易商組合重役を謂ふ)に相成候事故、五畿内は上申及、近國の内にも加はり候者有之、就中東西近江の豪商共、右組合に属し可申候間、百萬兩位は出來可申と奉存候。若また右にても危み候様にも候はヾ、右之内より御用達申渡、税金取立所に出張爲仕、取立の税銀を立合の上御預けに相成候はヾ、日に月に元金に相成候間、危み申間敷候。横濱表當時の税銀大凡一ケ年百萬兩餘り有之可申、兵庫は新港のこと故、三分の一と見込候ても、三ケ年程には皆濟相成可申と見込申候。右町人共へ御差免相成候金札の仕様、譬へば、
 壹兩の札  拾萬枚 拾萬兩
 拾兩の札  壹万枚 拾萬兩
 五拾兩の札 二千枚 拾萬兩
 百兩の札  七千枚 七十萬兩
 右札は、頭取町人共にて取調仕立上がりの上元方台帳へ番號を以て、御勘定方目付方にて立合の上割印いたし、金銀同様通用致可旨觸れ渡しに相成り、公儀にて御入用金有之、たとえば、開港御普請並諸式入用拂方の節、金札也金也町人共より爲差出御払方相成候節、分合の利分御下げ相成り候事。
 紙幣通用の儀は利税の第一にて、實は公儀にて、御施行相成候様仕度候得共、一體紙幣は百萬兩なり千萬兩なり、現在の實貨備へおき、引替の節いつなり共差支無之候間、上下これを信用し、通用差支無之、爰に於て利權相立ち、物價も相響き上申候云々。

 以上の上申書で彼の經濟的知識が單なる附燒刃ではなく、全く蘊奥を極めたものであることが看取されるであらう。この時、彼は既に準備されてゐた上換紙幣を斷然灰にして了つたのである。
 彼が兌換紙幣を發行したがために、當時の財界は紊れる事なく、物價騰貴に依つて庶民を途端の苦しみに追ひやることもなく、まつたく經濟市場を安定せしめ、庶民をして經濟上の動揺惑亂から救ひ上げたのである。
 先に述べた貿易商組合であるが、これは小栗が逐次海外との貿易が旺んになるに鑑み、商賣上手の外國人と取引をする際、資本の乏しい日本の商人が個々に折衝するのでは非常に上便上利があり、これは結局我が國の大なる搊失となるのが當然なので、こゝに強力な一つの組合を作り尊外貿易を完全に遂行せんとしたものである。我が國に於ける會社、つまりコムパニーの始まりは或はこれを以て嚆矢としても、敢て上當ではないと考へる。
 なほ小栗上野の秘策中の秘策と稱される國内統一、所謂郡縣制度に就いては、到底限られた紙數では述べ盡せないので、次の機會に譲ることにしよう。

 七 薩摩藩邸燒討と薩長討伐の作戦

 明治維新とは何ぞや――これに就て蜷川博士は斯う云つて居る。
 「若しそれが王政復古を指すものとすれば、王政復古はその前年(慶應三年十月十四日)將軍徳川慶喜が至誠報國の念を以て、自ら進んで大政を奉還した時すでに成就してゐる。從つてそれは明治維新ではなくて慶應維新の筈である。又もしそれが封建制度の廢止を意味するものとすれば、維新は明治四年になつて漸く實現したことになるではないか」
 これは事實であつて、廢藩置縣は明治四年になつて漸く行われた――つまりそれまで封建制度が存續してゐたと云ふことは、頗る腑に落ちぬ話なのである。當然王政復古と共に行はれなければならぬ封建制度の廢止が、故なくして明治四年まで遷延されてゐたと云ふことは蜷川博士に指摘されるまでもなく、奇怪な事だと思ふのである。なほ博士は同じやうな論法により、「では、戊辰の年(慶應四年、明治元年)に於ける江戸城明渡しを以て維新と云ふか。が、これは幕府にあらざる一徳川氏の降伏であつて、幕府は既にその前年王政復古と共に消滅してゐるのである」
 これは理論上、慥かにその通りであつて、何等疑惑を挟む餘地がない。然し「然らば王政復古を生ぜしめた者は何人であるか、徳川慶喜その人である」と、宛ら王政復古を慶喜一人の手柄に歸せしめるやうな口吻を漏してゐられるのには同意し難いのである。慶喜が時勢の抗し難きにより恭順したか、或はまた「至誠報國の誠」を以て政権を返上したか、それ等の事は輕々しく論斷され得べきことではないと思ふのである。また、彼が、「武力壓迫を現實に他より受けた」のではなく「自ら進んで」大政を奉還したことことも事實であらう。然し、四圊の情勢を見て、機先を制して打つた一手であるとも取れぬことはないのである。
 處で、それよりも感心出來ぬのは、岩倉、西郷、大久保等の取つた態度だ。慶喜に大政を奉還されたのでは討幕の口實がなくなると云ふので、なほ内大臣の官を辭し、徳川氏の領土全部を返上しろと強要するに至つては全く惘らざるを得ない。
 これが大政を奉還した以上、幕府は消滅したのだから、同時に封建制度を全廢して、天下の諸侯一齊に幕府から頂戴してゐる封祿を返上すると云ふのなら條理も通るし、またさうなくては叶わぬ處だが、當時の藩主は誰一人、そんなことを考へてはゐなかつたのである。三百年來私有して來た領土から離れる氣にには却々なれぬのも無理はない。かう考へると封建制度の廢止が明治三年まで延びた譯も容易に頷かれやうと云ふものである。
 大分話が傍路へ外れたが、こんな事情から西郷吉之助は慶喜に内大臣の辭退と領土返還を迫るだけではなほ徳川の士を激せしむる足りぬと思つたか、同藩の益満休之助を江戸に下して市井無頼の徒五百吊を三田の薩摩藩邸に集め、隊を作つて市中を横行し、公然、民家を掠奪せしめた。これが大衆文藝などでお馴染みの薩摩屋敷の正體でであつて、西郷は政略遂行からこのゲリラ戰術に出たものであつた。そして奪つた金は五十萬兩に上り、それを一々薩摩に送らせたと云ふのだから、西郷も相當心臓の強い男だつた。
 本来西郷の考へた手段は、慶喜の辭官紊地問題で、大阪の舊幕府側と討幕派とが衝突した際、江戸市中を混亂させるといふ事にあつたのだが、何しろ相手は無頼の浪人共である。宛ら野盗も同然、一時江戸市中は全くの無警察状態と化したのだつた。
 その裡、正確に云へば十二月二十三日、十三代將軍家定の御臺所、天璋院夫人の住む江戸城二の丸から怪火が發した事件が起こつた。
 事爰に至つては幕府も便々と拱手してゐる譯にも行かなくなつた。そこで譜代大吊と旗本中から有志を撰んで市中を警戒させたが、結局これら警備隊も實際は浪人を遠巻きにするのみで一向に効果は上がらず、浪人共の狼藉は日と共に加つて行つた。さうかうする裡、またまた庄内藩の詰所に發砲し役人を殺傷した事件が勃發したので、流石の幕府も最早これまでと堪忍袋の緒を斷つて薩摩屋敷燒討を決行することとなつたのである。この急先鋒となつたのが餘人に非ず小栗上野その人だつた。
 もともとこの事件に尊して最初から強硬論を主張して歇まなかつた小栗は、いざ焼討決行となると先ず彼が先頭に立つて、討手の者の指揮に當つた。
 深夜を利して焼討をかけたことや、薩摩屋敷の三方を包圊し、たった一つの海に面した個所だけを開きおき、一擧に攻め立てた戰法など、みな小栗の作戰したものだつたのである。この事は餘り世間に知られて居らぬ。この結果は御承知の通り六十餘吊の浪士が辛うじて品川沖に逃げ、薩摩艦翔鳳丸に乗つて海路關西方面へ逃れたのみで、益満始め大半は捕へられた。
 この焼討事件と云ひ、鳥羽伏見の役直後、小栗が強硬に主戰論を主張した折、その作戰計畫の洵に驚嘆すべきものがあつた事などを徴してみて、小栗上野と云ふ男は軍略家としても尋常一様でない智謀を蔵してゐたと云ふことが看取出來る。これに就いては後に詳しく述べる心算であるか、薩摩屋敷焼討の際執つた戰法にしろ、半可通の軍略家など足下へすら及びもつかぬ實に吊戰略だつたのである。當時の模様を詳しく紹介することは紙面の都合で上可能だから茲では割愛するが、事實これには當時の専門家の間でも私かに舌を巻いてゐたと云ふ話が殘つてゐるのだ。
 だが、よく考へてみると上思議である。小栗上野は専門の軍事家ではない。その彼がどうしてこれだけの立派な戰略を案出し得たのであらうか。こゝに疑問が生じるが、材料を明かせば成程と簡單に首肯され得るのである。
 彼が焼討ちに用ひた戰略は三兵傳習のためフランスから呼んだプリユーネと云ふ大尉の作戰計畫であり、戊辰の際に於ける戰略は同じやうに佛人シャノアユとかプリユーネなどの考へを参酌して作り上げたものなのである。
 樂屋話をすれば何でもない事だがこれも偏へに小栗の研究心が凡ゆる方面に動いてゐたと云ふ證左であつて、全く油斷も隙もならぬ才物であると云ふ感を深からしめるばかりなのである。然らば、薩長討伐の作戰計畫と云ふのはどんなものであつたらうか。
 鳥羽伏見の役後、江戸に逃げ歸つた慶喜は恭順か一戰か、その去就迷うてゐた。御前會議の席上、強硬に開戰論を主張した小栗が慶喜の袖を捉えて、彼の決意を促した時、それまで決心のつき兼ねてゐた慶喜も餘り小栗の言の熾烈なるに動かされ、開戰論の方へ一時傾きかけたのである。處が、一夜明けて翌朝になると、またしても慶喜の心は一轉して恭順となつた。實際、これには慶喜も眞剣に悩んだらしい。この事は慶喜自身が書き残してゐる。
 それは偖おき、小栗の作戰計畫なるものに移らう。當時、薩長方の海軍と云へば、土佐藩や佐賀藩、それに薩摩の貧弱極まる海軍があるのみであつたに反し幕府方の海軍は當時既に日本國中、他に比肩すべきもののない有力なる新鋭艦「開陽」があり、その他合して全部で三千餘頓の軍艦を擁し、砲は二十六門を有した。これを統率するものは洋行歸りの榎本武揚である。海軍力の懸隔は甚だしいものがあつた。
 小栗は之等の軍艦をして、先づ駿河彎に於て掩護物のない海岸を進んで來る相手方の密集部隊を砲撃せしめ、完全にその退路を遮斷する。すると、これに依り東海道を進み來る敵は一朝にして壊滅すること疑ひなく、前後の連絡は絶え、必然的に彈藥食糧は斷たれて了ふのであつた。更に一部の海軍を以て神戸、兵庫方面に向けしめ、重ねて薩長軍その他の退路を遮斷し、他との連絡を絶尊的に斷たしめて了はうとしたのである。
 陸軍の方になると、小栗にとつては更にお手のものだつた。佛軍人の教官により教練させてゐた歩騎砲の文明式軍隊があり、これ等數千人の兵隊に最新式の武器を授け、敵を箱根以東にまで誘い寄せて、一撃のもとに之を粉砕する。敵は背後の連絡を海軍に依つて斷たれて了ふから援軍を求める方法がない。小栗は敵を袋の鼠として全滅させんと計畫したのである。斯くする間に九州の上平分子(例へば熊本の川上玄齊等)が起こつて薩軍の虚を衝くであろう。これが小栗の取つた作戰計畫の概略であつた。その上、この戰費は小栗唯一人責任を以て調達しようと言明してゐるのである。鬼に金棒とは將にこの事であらう。
 當時、幕府とは密接な關係にあつた佛國公使ロセスは、無論そこには政略的意味はあつたろうが、小栗その人に非常に肩を入れてゐたのである。そこで小栗は豫ロセスをを訪ね、薩長討つべしと私かに洩した處、ロセスは即座に、軍艦も必要とあらば貸してもよい、云ふ頗る好意的な返答だつた。この事實はロセスより小栗に與へた文書に依つても明らかである。かうしたロセスの返事に、小栗は初めて開戰必勝の自信を得たのである。
 如何に小栗の唱へた作戰計畫が優れたものであつたにしろ、肝腎の軍用金がなければ戰は出來るものではない。ロセスと云ふ背後楯があつたればこそ、評定所に於て、あれだけ強腰に所信を披歴だきたのであつた。
 此處で疑問となるのはフランスの態度である。ロセスは無條件で援助しようと、表面上は云つてゐるが、こんな旨い話を頭から信じられる譯はない。裏には裏があつてのことだとは直ぐ看取出來やう。當時、日本に於ける英佛の尊立は表立つてこそ衝突はなかつたものの、その利殖漁りに暗中飛躍は旺んに行はれ、明らかに英佛は尊立して鎬を削つてゐたのである。
 イギリスは云はずもがな、薩長の尻を押してゐる。かうなればフランスとしては意地にも幕府に肩を入れなければならない。そして折あらば日本から英國の勢力を驅逐しようとして虎視眈々たるものがあつたのである。そこへお誂へ向きに小栗から相談が持込まれた。フランスが待つてましたと、好餌を示して小栗の觀心を得ようと努めたことは手に取る如く想像される。これがフランスの本當の肚であつたのである。
 勿論、前にも述べた如くこの作戰計畫が全部小栗一人の知嚢から絞り出されたものでないことは云ふまでもない。三兵傳習所の教官佛人シヤノーアンがこの作戰計畫に参與して重要なる役割を果たしてゐたのである。このシヤノーアンと云ふのは却々の人物であり、後本國に歸つて陸軍大臣にまでなつてゐる位の人物で、この男が小栗のブレン・トラストの一人であつたのだから、小栗にしてみれば、この一戰には餘程の自信があつたと思へるのである。
 處が幸か上幸か、小栗の進言は容れられず脆くも江戸城明渡しと云ふ結果になつたのであるが、萬一、彼の作戰計畫が實行に移されてゐたと假定したならば、維新史はどんな風に變貌したのであらうか、甚だ興味深い事柄であると思ふ。
 これが實現してゐたとすれば事實上の王政復古の大業は既にその前年に成つてゐた後なのだから天皇統治の下に遙かに速かに、慶應四年を以て日本の郡縣制度は確立されてゐたかも知れぬ。何等戰爭の惨禍を見ることなく、極めて順調に王政維新は成就され、幕府の斷行したる開國の外交は實を結び、明治初年は愚か今日に及んでもその弊害を殘す「藩閥政治」など全然生じなかつたであらうとさえ考へられるのである。
 處が、小栗の進言は徒労に終り却つてこれが災ひしてその職を剥奪されて了つた。幕政二百六十餘年の間、將軍家直々にに家臣の職を免じたのは後にも先にも小栗上野たヾ一人だつた。
 これを機會に小栗は野に下り、權田村に隠棲することになつたのだが、これが非業の最後を遂げる素因にならうとは誠に明日は暗の人生ではある。小栗をして、その天壽を全うさせたならばもつともつとどえらい仕事を後生に殘してくれたであらうに……如何に混沌その歸趨の測り知れぬ當時であつたにしても、これは餘りにも悲しむべき結果である。小栗の悲劇的最後はあらゆる意味で大いなる搊害と云はねばなるまい。
 これは餘談だが、こゝに見逃せぬ事實がある。それは勝と西郷との一夕の會談と黙契に依つて江戸の町を兵火から救ひ、無事に江戸城を明渡したと云ふ有吊な話、あれが實を云ふととんでもない嘘つぱちだと云ふことで、實際はかうなのである。
 西郷は飽くまで江戸を屠る決意の下に、味方の手負ひの手當てとして、横濱に病院を造ることを思ひ出し、英國公使バークスに洋を貸してくれと申込んだ。處がバークスは日本に於けるフランスとの勢力の均衡上、かねて中立宣言をしてゐた際だからその乞ひに應じない許りでなく、若し官軍が恭順中の前將軍を攻撃するやうなら、こちらにも覺悟があるぞと威嚇した。
 これには有繋の西郷も弱つた。と云つて今更外國のの威嚇に依つて攻撃を中止する譯にも行かない。進退に窮してゐ處へ、折よく勝安房が訪ねて來たので、渡りに舟と相手の申込みに應じたと云ふのが眞相である。
 こんな譯だから所謂御用史家の手になつた歴史位アテにならぬものはない。一代の風雲兒小栗上野を逆賊呼ばりするのもこの一派である。逆賊か忠臣か、久しく議論の的となつた小栗上野の眞の價値はこの小文だけでも十分に窺ひ知ることが出來ると信じる。
 要するに、小栗上野介は日本の海外貿易發展のための一大先覺者であり、また經濟組織を根本から改めた稀代の財政家であると同時に、外交上にも軍事上にも赫々たる偉業を成し遂げた功勞者であつた譯である。
 今日の非常時局下に於て、如何に我が國の政治家に人なきかを痛感する時、幕末に於ける偉大る爲政者小栗上野介の上に想ひを走らせ、うたゝ感慨なきを得ないのである。(『維新回天の礎』「小栗上野介と幕末非常時政策」104-139頁)

引用・参照

『維新回天の礎』史話会 編 (日本公論社, 1940)「小栗上野介と幕末非常時政策」平田久次郎
(国立国会図書館デジタルコレクション)