「特定秘密の保護に関する法律案の概要」への意見 政府が国民から乖離する直接の原因は、国民を所謂、「見ざる・聞かざる・言わざる」の“三猿”状態に陥れことに始まる。遮眼革を装着され政府のほしいままになる国民とは、独裁国家、警察国家に存在することであり、また基本的人権の享有を阻害されての進歩・発展は国としてもありえないのである。 国民の知らざるところ大なる国家の行末は先の大戦でも知るところである。国及び国民の安全を確保するのを欲するのであれば、国民の協力を求めるのであれば、国及び国民を懸崖に立たせたくないのなら、国民の知らざるところなしとするのが、最善の方法なのだ。 よって、「特定秘密の保護に関する法律案」に対しては「反対」するものである。 以下、各々について「反対」の趣旨で述べる。 第1 趣旨 「我が国の安全保障に関する事項のうち特に秘匿することが必要であるもの」とあるが、全く意味不明である。「秘匿」される内容は常に「国及び国民の安全の確保に資する」ものであるなら、其の特定秘密に指定されての安全の確保とは国民にとっても国にも“薄氷を履む思い”のものであるに違いない。 例えば、国民が安全を確保できたとしても、或いは危害を受けた場合でも、其の秘匿の功過を検証できないのでは無意味な秘匿であり、単に為政者の不都合なもの・ことを国民から隠蔽したに過ぎない。つまり、これでは民主主義から遊離した陰湿な闇国家に陥る。 特定秘密の指定及び取扱者の制限などは、正に国民への奉仕者たる本分を失し秘匿への従事者となり、国民は情報を得られず、羅針盤無き生き方を強いられることになる。 また国民の代表者を以ってしても、特定秘密の指定者・取扱者には抗い難く、恰も行政機関の任に当たる者が新たな権威者として立ち現れることになり、憲法に違背するのである。 「国及び国民の安全の確保」に託けて何を秘匿したいのか。その“何を”が詳細不明では鵺(ぬえ)の類で、国民としても心許無い。 「国及び国民の安全の確保に資する」というが、「国及び国民」とは不可分の概念なのか、或は国と国民とは何れかが優位に立つ概念なのか。つまり、国の為には国民が犠牲になる秘匿なのかを問うのである。元来国政の権威が国民に由来するのであれば、其の国民が下位の概念に置かれることはありえない筈であって、国の為にはなったが、国民に資することは無いというのは有り得ないことなのだ。 果たして此の特定秘密指定による秘匿は誰を利するものなのか。此の法を誰が利用するのか。国民としては大いに疑問である。 国及び国民が分かつことのない概念ならば、国民は主権者として“特定秘密”を設けることには賛成できないのである。 第2概要 例えば、既に運用されている自衛隊法による防衛機密、そして国家公務員法、外務公務員法、地方公務員法に、屋上屋を架す特定秘密の保護を付け加える意図は奈辺にあるのか。 隅々までも根を張る行政機関で特定秘密が指定されたのでは、国民は主権者として権利を剥奪されたに等しく、更には国の方向性をも見失うことになる。国民の代表者さえ峻拒されるが如くの法令は排除されなければならない。 「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」の目的に謳う「政府の有するその諸活動を国民に説明する責務が全うされるようにするとともに、国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資することを目的」は如何にして達成するのか。行政機関は秘匿するのでなく、積極的に開示し国民の判断を仰ぐべきなのだ。それでこそ民主主義の体制なのだ。「公文書等の管理に関する法律」との兼ね合いはどんなものなのか。 行政機関ばかりか、民間企業までも含み更には其の家族、親類縁者関係までもと、止めなく国民に投網を打って三猿状態にした上に、更に輪をかけての相互監視の社会を醸成することになり、真に国民生活を破壊し、国家に馴致させ、為政者に阿諛追従する独裁国家の様態を示す不健康な国と成り果てるようだ。 例えば、「エ」で「情報公開・個人情報保護審査会設置法第9条第1項の規定により提示する場合に限り、特定秘密を提供することができるものとする」とあるが、その前段の文言から判断すれば、第9条第1項の規定では、情報公開第五条が適用されることになり、事実上の開示はされない。其の五条には「特定秘密の保護に関する法律案」が立ちはだかるという訳だ。国民は丸で雲を掴まされる羽目になる。我々国民は法治国家の存在者であるのかを疑いたくなる。情報公開法は如何に担保されるのか。 適正評価の実施では、例えば、「国家公務員法」では職員に適用される基準で、平等取扱の原則がある。また、同様に秘密を守る義務もある。此処でも憲法に違背するがごとき立ち入った評価を実施するのだ。この結果は黙して語らずの“秘匿のエリート官僚”を行政内部に持つことになる。それらは全て国民から情報を遮断する者たちなのだ。決して国民に奉仕するためではない。 無論、水も漏らさぬ評価は民間業者にまで及ぶのだ。ある意味では、特定秘密の身内同士の提供、つまり、融通することで特定の官僚と為政者を中心に経済界・学界等までも含めた一大コンツェルンを形成し、アイゼンハワーの離任(1961年11月17日)演説での軍産複合体の影響力の如き存在となり、経綸を誤り、我々国民の福利を侵害することになり、憲法に背くことになる。 特定秘密の漏えい等に対する罰則に至っては、国民は全く以て「ヤマアラシのディレンマ」状態となり、「物言えば唇寒し秋の風」となる。 又は(2)の行為の未遂、共謀、教唆又は煽動を処罰するのでは、知る権利が無き所では、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は」保障されないことになる。 「本法を拡張解釈して、国民の基本的人権を不当に侵害することがあってはならない旨規定」とあるが、此の法案そのものが既に基本的人権を不当に侵害しているという認識はないのだろうか。「始めは処女の如く後は脱兎の如し」とならないのか。 しかし、何をもって秘匿の「情報」とするか。羈束行為とはならず、行政機関の長の裁量行為となるのではないか。 しかし、困ったものだ。国民は何が収集され、整理され、及び活用するために特定秘密として「秘匿」されたのか皆目見当がつかないのだから、いつなんどき特定秘密漏えい等に対する罰則の疑いを掛けられるのかも分からないのだ。裁判時には、弁護士は十分に資料へのアクセス等の活動が保障されるのだろうか。 実に困ったものだ。日本国内に別な国家が誕生するような思いがする。 2013年9月17日(02:13 tokuteihimitu@cas.go.jp宛メール) |