尾張旭市総務部行政課


尾張旭市国民保護計画(案)について

 

xxx-xxxx XXXXXXXXXXXXXXXXXXXX

足立 巖
電話/FAX: xxxx-xx-xxxx
Email:
xxxx-xxx@xxxxx-xxx.xx.xx

2006929

 

《以下意見の内容》

 

1.はじめに

 

直近のイスラム教シーア派民兵組織ヒズボラとイスラエルの戦争、イラク戦争、アフガニスタン侵攻を見れば判るように、空爆で吹き飛び散乱する肉片、無残に焼け爛れた屍骸、瓦礫の山と化す家屋、逃げ惑う住民、泣き叫ぶ子ども達、逃げ果せても家族を失い生活の場を奪われ、前途にあるのは嘆きだけである。

戦争を起こした当事者は、多くの国民を犠牲にし、国土を破壊し回復不可能な状態に汚染しただけで、終局的な解決も見出すことなく、ただ互いの怨嗟と憎しみを増幅し、報復の連鎖に陥っているのである。

戦争への準備はお為ごかしを装って来るものである。国民保護計画とはなんなのか。尾張旭市国民保護計画(案)から想像をめぐらして、考察してみる。本来なら計画の細部に亘って精査を試みるべきであるが、木を見て森を見ず、に陥るのを避けた。

 

2.尾張旭市国民保護計画(案)について

 

2.1 第1編 総論について

 

  第1章 市の責務、計画の位置づけ等

 

先ず基本的に確認しておかねばならないことは、国民保護ということであるが、実態は国民非保護であり犠牲を強いるものである。国民の生命・財産、生活を根底から覆すことが、どうして国民保護であるのか。市の責務は本来、地方自治法(以下「自治法」という)第一条の二にあるように、すべての施策が「住民の福祉の増進を図ることを基本」とすることである。その中に、武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態に対応する責務は無いのである。あるとすれば、そのよう事態の発生を未然に防ぐ為に市としてとるべき施策は何かを模索することである。

 平成11年の自治法改正で、国と地方公共団体の役割を規定した。ここで自治法内に役割の分担が置かれたことを重視すべきである。国の分担する「国際社会における国家としての存立にかかわる事務」も、地方公共団体としての福祉の責務を全うするが為であると謳われている。

 政府によって、国民を窮地に追い込むような政策手段がとられるよう場合には、自治法の趣旨を体するもう一方の地方公共団体()が、是正することは分権を担う者の義務である。

他国と戦争を引き起こすのは国民ではない。戦争を惹起するのは常に政府である。「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすること」は、市の責務であり、憲法の要請するところでもある。

国民保護計画そのものは現実のものであるが、武力攻撃事態等」は仮定の命題である。つまり仮定の事態に現実の計画を当て嵌めようとしても、所詮は虚構になってしまう。市はこの虚構と取り組み、自ら国民の保護のための措置を的確かつ迅速に実施するというのである。考えてみれば判ることだが、迅速にといっても、仮想敵国からのミサイル攻撃の場合は短時間(約10分程度)で到達するから、理論的には約八万市民を保護することは不可能に近い画餅に帰す取り組みである。もしこの計画を更に現実味を帯びたものにしたいのなら、住民の犠牲者数・損失財産額・壊滅社会設備損害額等の予測数値を攻撃事態に応じた内容で、住民に示すべきである。保護計画とは全員が助かる法制ではないことを住民に周知徹底させるべきである。

国民保護計画は、紛れも無く自然災害とは異質の政治災害若しくは政策災害に対するものである。それは他国から惹起されることよりも我が国の在り方から引き起こされるものであることを肝に銘じて、市の本来の責務を問うべきである。

「愛知県国民保護計画(案)」でもそうであるが、摩訶不思議な名称のついた計画である。県の計画ならば、「県民」ないし「住民」であるのがよい。同様に当市も[市国民保護計画]となっている。ここでも同じ疑問を呈しておく。市民ないし住民ではないかと。実態は住民保護であるのに国民保護が国の所管であるとし、ここでも自治法の趣旨を忘却してはいないか。

市国民保護計画の位置づけが金太郎飴の如き処方箋で、住民を保護できるかどうかは別にしても、一糸乱れぬ体制が出来上がっている。が、肝心要の国民を保護する立場の者が完全無傷であるという想定に立つのであるから、万全ではない。つまり、「本部 (司令室)」が第一の攻撃対象となり壊滅した場合の国民保護とか、県行政の対策本部があるいは市の対策本部が攻撃に遭い機能しないとか、組織末端が麻痺した状況が考えられていないのである。緻密な計画ほど大混乱には脆く役に立たないものである。畢竟するに住民は置き去りの中であり、自己救済を図らねばならないのである。自己救済といっても、運を天に任せることになる。

事態対処法第一条では、武力攻撃事態等への対処のための態勢を整備することにより、「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に資することを目的」とするとあるが、このような事態を想定しなければならないことが、国民の安寧を脅かしているのではないか。平和・独立・安全のためなら他の方法があり、何よりも憲法がその道筋を示しているのである。

 元来、武力攻撃側の本質からみれば、既存システムの破壊であり、その制度を支え抵抗する者への武力制覇を意味するのである。その観点からすれば、戦争勃発という未知数への対処計画など立案しようもないのである。先の大戦で、竹やり訓練が蟷螂の斧の如きで、何の役にも立たずに、国民は空襲の下を恐れ戦いて逃げ惑った後、死ぬのが実態であった。

国民保護法は災害基本対策法に触れているが、始めから他国侵略・国家存亡等を目的とした交戦と、偶然から生じる自然災害とでは質が違うのである。自然災害と相違し、この狭い日本で海に囲まれた国民には、逃げる場所も避難する場所も用意されていない。

 

 第2章 国民保護措置等の実施に関する基本的な方針

 

生死の逃避行を続ける最中、基本的人権の尊重は既に無視されているのである。憲法が保障する基本的人権は、戦争を放棄し恒久の平和を念願する中でしか保持し得ないのである。

政府は「武力攻撃事態における憲法で保障している国民の自由と権利について」で、「憲法第12条その他の規定からも、憲法で保障している基本的人権も、公共の福祉のために必要な場合には、合理的な限度において制約が加えられることがあり得るものと解される。また、その場合における公共の福祉の内容、制約の可能な範囲等については、立法の目的等に応じて具体的に判断すべきものである。したがって、武力攻撃事態への対処のために国民の自由と権利に制限が加えられるとしても、国及び国民の安全を保つという高度の公共の福祉のため、合理的な範囲と判断される限りにおいては、その制限は憲法第13条等に反するものではない。」としている。

そもそも武力攻撃事態等が発生すること自体、公共の福祉の概念に当て嵌まるものではないのである。政府の謂う公共の福祉は、国の政策的、恣意的判断を国民に強いることを意味しているのであって、憲法九条にある、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄するに、真っ向から立ち向かうものである。国民を犠牲にさせずには置かない事態を引き起こすのは政府の行為からである。憲法違反から生じる法制を以って国民の自由と権利に制限を加えるとはどういうことなのか。

我が国に対する外部からの武力攻撃は、国民の保護に関する基本指針要旨 第2章 武力攻撃事態の想定に関する事項から判断しても、これは戦争そのものである。国及び国民の安全を保つという高度の公共の福祉のためとは、つまり、政府の行為によって再び起される戦争の惨禍から国及び国民の安全を保つということである。戦争そのものが、国民の福祉に反しているのであるから、そのような公共の福祉は有り得ないのである。戦争という非合理な状態からどのように合理的な範囲が導き出されるというのか。

憲法は第十二条で、国民自身にも憲法の保障する自由及び権利を保持するのに、不断の努力を義務付けている。そしてその享有する基本的人権は、常に公共の福祉ためにこそ利用する権利を負うのである。果たして国民保護法制は福祉目的に適うことなのか。むしろこのような権利を侵害する要因を取り除く努力が先決であり必須である。真の責務はこのような政治・政策災害とも謂うべき事態を引き起こさないことである。それが政治の要諦である。

憲法の何処を見たらこのような武力攻撃事態等が想定されるのであろうか。つまり国民の保護といいながら、憲法を逸脱しているのであるから、基本的人権が軽視されるのは明白である。有事法制は国会承認を原則としているが、実質的には国家緊急権の発動である。

国民の権利利益の迅速な救済を市はできる限り迅速に処理するよう努めると、鸚鵡返しに国民保護法第六条を繰り返すが、国民保護法も含めて総てが平和時の思考産物であり、武力攻撃を受けた我が国が迅速に平時に戻れる保証は無い。また独立国家として存立しているかも不明である。戦争は既存システムを、平常時の生活形態を激変させるのである。甚大な戦禍においてはこの努力規定もその効果の程に多大なる疑念がある。

避難住民への損害補償・損失補てんはどうなるのだろうか。むしろ救済の必要対象は避難を強制させられる側ではないのか。武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律第八条が規定する「国民は、国及び国民の安全を確保することの重要性にかんがみ、指定行政機関、地方公共団体又は指定公共機関が対処措置を実施する際は、必要な協力をするよう努めるものとする」の協力には、誘導避難される国民は含まれないのだろうか。また国家賠償法であったなら、外国人の適用には第六条の相互保証の制約があるのか。

斯かる事態を生じさせた政府の作為・不作為の観点からも検証・追及を国民の側から為す必要がある。

不可解なことは、国、地方公共団体、指定公共機関等関係機関は無傷で相互の連係協力体制が確保されるとの判断である。そして短時間に複雑な組織体系が整然と措置を為し得て、国民はどこか安全な避難先に保護されるという想定である。極めて楽観的なお伽話のような想定である。如何なる武力攻撃事態を想定しているのか。小競り合い程度のことを武力攻撃事態と言っているのではない。意味するところは戦争なのである。

2006年7月5日の仮想敵国北東部の舞水端里(ムスダンリ)からのテポドン2発射絡みでは、アメリカ政府、国防省、韓国の各々の発射したミサイル数の発表が区々である。錯綜・混乱しているのである。平時の7発のミサイル発射でさえこの状態である。発射数の予測も目標への弾道も把握できないのである。

市国民保護計画とはミサイル攻撃に如何に対処するかなのである。日本国の各自治体が国民保護法に基づき酷似した保護計画を立案しているのであるから、東京や原子力発電所の立地県よりも緩やかな計画でもよいということは許されないのである。

事態緊迫した最中、国民の協力を国民の自発的な意思を尊重し、強制にならないように要請するというが、要請自身が既に圧力であり強制となっている。住民に選択肢は無いのである。それこそ一刻を争っている訳であるから、極限状態下では国民の意思の尊重など無理な相談である。

では日頃からこの協力体制を敷いたらどうかであるが、結果としては緊張感の無い実質協力内容に欠ける間の抜けたものか、或いは住民の生活に負担を強いるものとなる。更に頻繁にそのような訓練を為すのであれば、それこそ仮想敵国の体制と同様に陥ってしまうことになり、疑心暗鬼に奮い立つ軍事国家となり、戦争が更に現実味を帯びることになる。

武力攻撃事態等において、ボランティアが登場している余裕は無いのである。この事態等は自然災害ではないのである。戦時を切り抜けるためのボランティアの技能等は有りえないし、効果的な活用等に配慮するなどは平和時のことである。日本全体がミサイル攻撃の対象になっているのを忘れてはならない。

電力会社・交通運輸等(平成18年3月31日内閣府告示第53号)をはじめ攻撃現場となる県単位電気、ガス、輸送、通信、医療等の武力攻撃事態等の対応は指定公共機関及び指定地方公共機関の自主性の尊重その他の特別な配慮して、自主的に判断するとしているが、不明瞭な文言である。

ミサイル攻撃に対しては丸裸同然の原子力発電所はどうか。攻撃する側の立場に立てば、最少の攻撃で最大の効果を得るには原発が格好の軍事目標となる。尾張旭市に原発はないからといって、安穏とはしていられないのである。

関西電力の原発、美浜、大飯、高浜それに敦賀2号炉である。中部電力の浜岡はどうか。もしもの場合を考慮したら、自主性の尊重などと悠長なことを言っていられる場合ではない。当市なども避難エリアにすっぽり包まれている。逃げ場は無いのである。原発はミサイル攻撃に耐えられる設計など端からしてはいない。耐震設計を捉えただけでも不十分なのである。

高齢者、障害者等への配慮及び国際人道法の的確な実施とあるが、配慮という文言は其の通りかも知れないが、国際人道法の的確な実施とは何を指しているのだろうか。

平和でなければ生きられないのは高齢者、障害者等ばかりでなく、総ての生きとし生きる物が当て嵌まるのである。

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(以下の内容は、2004年2月26日「有事法制下における住民保護について」と題し、谷口市長宛てに出したものである。原文のまま載せる。)

「武力攻撃事態対処法制に関連して今国会に提出を予定している条約があります。それは「1949年8月12日のジュネーヴ諸条約の国際的な武力紛争の犠牲者の保護に関する追加議定書(議定書T)(仮称)」と「1949年8月12日のジュネーヴ諸条約の非国際的な武力紛争の犠牲者の保護に関する追加議定書(議定書U)(仮称)」です。日本は当然のことながら現在、第一追加議定書、第二追加議定書の両議定書に加入しておりません。米国も両議定書に加入しておりません(2003年12月末現在)。1949年のジュネーブ四条約と1977年の追加議定書を中心とした様々の条約等の総称が、それぞれの立場によって「国際人道法」、「戦争法」、「武力紛争法」と呼ばれています。日本赤十字社は国際人道法と称しています。

これから日本も締約国になるであろう第一追加議定書(国際的武力紛争の犠牲者の保護に関する追加議定書(第一議定書))の前文には、「締約国は、人民の間に平和がゆきわたることを熱烈に希望することを宣明し、国際連合憲章に基づき、各国が、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の主権、領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎む義務を負っていることを想起し、・・・」とあります。日本国憲法の9条の定めに酷似しております。この議定書の第48条には、基本原則として紛争当事国の軍事行動は、軍事目標のみを対象とする、とあります。51条で文民たる住民全体及び個々の文民は、攻撃の対象としてはならない、とあります(略)。58条は攻撃の影響に対する予防措置を定めております。

前置きが長くなりましたが、本題は第59条(無防備地域)のことです。この条の1項には「紛争当事国が無防備地域を攻撃することは、手段のいかんを問わず、禁止する。」とあります。そして続く2項には「紛争当事国の適当な当局は、軍隊が接触している地帯の附近又はその中にある居住地で敵対する紛争当事国による占領のために開放されているものを、無防備地域と宣言することができる。無防備地域は、次のすべての条件を満たさなければならない。

(a)すべての戦闘員ならびに移動兵器及び移動軍用設備が撤去されていること。

(b)固定した軍用の施設または営造物が敵対的目的に使用されていないこと。

(c)当局または住民により敵対行為が行われていないこと。

(d)軍事行動を支援する活動が行われていないこと。

これらの条件を当尾張旭市は満たし(満たしている)、紛争当事国の適当な当局となり、無防備地域と宣言し、出来る限り明確に無防備地域の境界を定めかつ記述し、敵対する紛争当事国に通告するのです(条例化後に、国際連合事務局・国際連合加盟国・ジュネーブ条約追加議定書締約国に英訳等の翻訳内容を送付するなどして周知してもらい効力を発生させる)。

この適当な当局には自治体がなっても不都合は生じないと考えます。むしろ文民たる住民及びその民有物に対する尊重及び保護のために、積極的に条例化を図り、軍事目標との識別可能なようにすることは偏に地方自治体の役割であると看做されます。是非国会並びに政府の動きを注視していただきながら、また他の自治体とも連携をとり、この有事体制の中で、人々の不安を解消する対応を見つけるようご努力を願う次第です。この「無防備地域宣言」に関しても選択肢の一つとして、当局の詳細なる検討と可能性への道筋を付けていただくよう願います。」

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国際人道法とは上述の下線で示すことである。真に住民保護を思うなら、住民の福祉の増進を図ることを基本」とするなら、各自治体こそ声を上げて戦争へと続く道から政府を遠ざけなければならない。

武力攻撃排除は自衛隊が実施する武力の行使、日米安保条約に基づく米国との軍事行動であるが、事態対処法の規定は煎じ詰めれば、先制攻撃に繋がるのである。全面戦争への突入も強ち否定できないのである。仮想敵国にも我々と同様に生活を営む国民がいることを忘れはならない。激甚な被害、犠牲は相互の住民に及ぶのである。

 

ここで広島原爆の証言者 沼田鈴子さんの言葉を紹介する。
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 それは真実を求める知恵を一人ずつが持って欲しいということです。最高の幸せは平和なんです。でも平和は待っていて来るものではありません。命にかかわるすべてのことに目を向けていかなければなりません。すべて他人事ではない。地球上のすべてが仲間なんですから。『週刊金曜日』2000.1.14(29829)

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国民保護措置等に従事する者等の安全の確保、これも平和時の思考である。既に安全が保証されなくなった状態が、国民保護計画の発動なのである。それとも措置等に従事する者だけが、特別の情報を得て安全な場所に避難できるとでもいうのだろうか。

米国のイラク侵攻作戦からも判断できるように、またイスラム教シーア派民兵組織ヒズボラとイスラエルの戦争もそうであるが、最初に航空機による空爆やミサイル攻撃有りきなのである。着上陸侵攻など反撃を封じてからの手段である。安全確保ができるうちは避難等する必要も無いのである。

多発する自然災害の対応に追われる地方自治体に、「新たな脅威や多様な事態」という災厄を作り上げ、さらなる負担を押し付ける国民の保護のための措置とは何なのか。地方自治体に戦時体制や戦禍の処理を押し付けることは、憲法九十二条の定めにある地方自治の本旨に背くものであって、地方自治権の侵害に相当するものである。

地方自治体として市は、仕方の無いこととして、国民保護措置等業務の片棒を担ぐのでなく、政府に対して自治体の使命を伝え、国民保護法そのものが憲法に違背するのであるから、法定受諾事務について政府に是正を問うべきである。

 

 第3章 関係機関事務又は業務の概要

 

台風情報はかなりの精度をもって国民に対する情報提供がなされている。台風の情報並みに、精確に敵ミサイル情報が出せるのか。それもたった一発ではないのである。ミサイルの波状攻撃をされたら一溜まりも無いのである。情報伝達手段が破壊されることも考慮に入れるべきである。

歪曲された事実の伝達は、情報伝達手段が破壊されることよりも状況を悪化させることを、肝に銘じたい。

 

 第4章 市の地理的、社会的特徴

 

市の地理的、社会的特徴によって計画にどのような影響を与えるのかは不明であるが、置かれた地理的条件から判断して、原発攻撃時に発生する破局的災害の罹災の中に位置していることは明白である。予想される震災での原発事故時も同様である。

国民の保護を課題とするならば、原子力発電所の全廃を国策の最優先実施項目として挙げ、国民の協力を求めるべきである。

わが国には現在、北海道から九州まで満遍なく原発が行き渡っている。その数52基、建設中・計画中を含めれば63基で米国に次で世界第二位である。自然災害、特に地震よる原発災害が云われる中、廃止は喫緊の事である。1986年4月26日、チェルノブイリ原発で原子力発電開発史上最悪の事故が発生したことは記憶にまだ新しい。 

日本の悲劇的な終末は武力攻撃事態からでなく、地震の巣の上に在る原発事故による蓋然性は大である。其の時、東北アジア一帯にまで容易に消滅しえない災害の影響が拡大することになる。

 

 第5章 市国民保護計画が対象とする事態

 

市国民保護計画が対象とする事態であるが、わが市には風水、地震災害の指定避難先として小・中学校(計12か所 発災直後48,000人 初期4,750人/(1人2平米) 長期3,230人/(1人3平米) 2,300人(最小)〜7,400人(最大)/か所当たり収容)が宛がわれている。また地震災害の一時避難所として、市内各所の公園51か所(158,400平米、一時収容人員43,600人 200人(最小)〜4,000人(最大)/か所当たり収容)が指定されている()。連絡網は、防災行政無線固定系設備(同報無線)が全操作を管理する親局を市役所に、遠隔制御設備を消防本部に整備し、屋外子局を市内公共施設に全部で66局(か所)設置されており、市内全域をカバーしている。

これらの施設は自然災害向きであって、政治災害である武力攻撃事態等には何の抵抗の術も無い。NBC攻撃のいずれにも無抵抗のため、避難先に集合した場合は却って大量死が想定される。また集中避難は着上陸侵攻で内部侵攻された場合には、防衛側に不利に働く結果になる。肝心要の消防・医療機関は攻撃事態が終了するまでは安易に動けない。

若し私たちの自治体が本格的に武力攻撃事態等に対応する処置をしたいと計画した時、予算措置はどうするのか。事態対処法第十六条等によれば、損失に関する財政上の措置は講じられるようである。丸裸同然の自然災害対応施設を、そのまま武力攻撃事態等に当て嵌めては国民の保護にはならない。だからといって、地下50mの深さに地中貫徹型核兵器(核バンカーバスター)にも耐えるような生き残りを賭けた施設、市民全体を収容できるような地下施設を作ることは不可能に近い。結果としては、犠牲者数を数える結果になり、国民の保護になっていない。国民の保護に関する指針は、竹やり式精神的備えに後の祭りの処理を、述べたに過ぎない。いかに詳細な有事法制が整備されようと生命が危険に曝されたのでは意味が無い。

「国民の保護のための措置の実施に関する基本的な方針」で、ゲリラや特殊部隊による攻撃ついて、「事前にその活動を予測・察知することが困難で、突発的に被害が生じることを想定」としている。そのような様態の攻撃に市は対処するとしているのである。先ず無理である。ここでも国民の保護の措置は有名無実である。つまり、事柄の本分を見抜けないのだから、特に集団引率的避難行動は無謀なのである。ゲリラや特殊部隊相手では自衛隊でも手を焼くことになる。

混乱の極みの中で、市国民保護計画に基づき、整然と避難できるものだろうか。生死を別ける真っ只中で、寸刻を争う中で手引書を紐解くような悠長なことは、現実には無理である。ミサイル攻撃では短時間(約10分程度)で明暗が分けられる。私の住む市の人口79,720人 30,721世帯(平成18年7月末現在)が、どのような事態に、どのように対処しながら、何処に避難するのか(誘導されるのか)。

飛来するミサイルの弾頭には核爆弾か、生物兵器(細菌、ウィルス、毒素や、これを充填した砲弾・爆弾で、人、動物又は植物に害を加えることを目的としている)か、化学兵器(毒ガス、またはこれを充填した砲弾・爆弾をいう)か、それとも高性能火薬の詰め物か、破裂するまでは一切不明である。ミサイルは精度が悪いゆえに都市型攻撃に用いられるのである。何処を狙っているか、何処に着弾するのかなども含め、正確な情報など適時適切に出せるはずが無いのである。ミサイルの波状攻撃にあったら一溜まりも無いのである。東京大空襲の例をとるまでもなく、真夜中の攻撃も想定される。避難民は右往左往し、惨禍に遭うのである。

核爆発に屋内への避難でいいのか。屋内の避難というが、具体的にどのような構造の建物を想定しているのか。愛知県国民保護避難施設指定一覧で尾張旭市は、小中学校の体育館12施設、公園57箇所が指定されているが、これらの施設に避難して武力攻撃事態等から住民は如何に保護されるのか全く以って不可解である。着上陸侵攻、ゲリラや特殊部隊による攻撃、弾道ミサイル攻撃、航空攻撃そのいずれにも無防備である。体育館は風水害とか、公園は震災時の避難場所にしか過ぎない。このような箇所に集団で避難していたら、大虐殺での集団死を待つようなものである。

一国民として、避難するのか、しないのかの選択の自由は確保しておいて貰いたい。避難先での大量殺戮や強制疎開は基本的人権の尊重にそぐわない。保護の対象である国民は戦火によって死のうが負傷しようが、何の損害補償も損失補てんも無いのである。

緊急対処事態の事態例のような内容の想定に、国民や地方自治体等の時間、物、金を費消することは大きな損失であり、国力の消耗である。例えば、「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ平和のうちに生存するための国、地方公共団体並びに指定公共機関及び指定地方公共機関の役割に関する行動計画」なら、国民は明日への希望を持って生きることができ、少子化への歯止めにもなるだろうが、このような事態例の中で子供を生み育てられる環境が揃ったと思う国民がいるだろうか。戦争を常日頃考えながら、いつ何時攻撃されるかも知れないという恐怖に曝されて生きなければならない環境では、人心が不安定になるのは当然のことである。

国民は真剣に政府に問うべきである。なぜ平和を希求できないのか、なぜ仮想敵国を必要とするのか、なぜ仮想敵国視するのか、どうして平和外交に徹しきれないのかなどを、政府に納得のいくまで、主権者として説明責任を求めるべきである。一人の命あるものとして、問いを投げ掛けるべきである。

 

2.2 第2編 平素からの備え

 

 第1章 体制の整備等

 

市の体制の整備等は、基本的には台風の襲来や、火災・地震に備える通常防災体制でよいのではないか。市がそれ以上を求められることは無い。そもそも地方自治体に戦争事態を想定した対応をさせることは違憲である。

テポドン2等の一連のミサイル発射(2006年7月5日)では、5月以来テポドン2(射程3500km〜6000km)の発射準備が予想されていても、長距離(テポドン1:射程1500km以上)・中距離(ノドン:射程1000〜1300kmで日本全土を射程内)・短距離(スカッド:射程1000km以下)ミサイルの同時発射の動きの情報を確実に把握できていたのかどうか、疑わしい。

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2006年7月5日10時10分〜10時28分(額賀長官会見概要抜粋 防衛庁・自衛隊HP)から、少しく分析してみる。

 

本日、午前3時30分頃、4時頃、5時頃、7時10分頃及び7時30分頃、さらに8時20分頃、北朝鮮から日本海に向かって、弾道ミサイル又は何らかの飛翔体各1発が発射されたものと考えられる。落下推定地域については、いずれについても、ロシア沿海州南方の日本海であります。」

「午前4時に「北朝鮮による飛翔体発射事案に関する対策本部」を設置いたしました。さらに今後の自衛隊部隊等の対応について申し上げます。自衛隊の警戒監視体制を引き続き強化された形で継続いたします。」

 

国民保護計画の実行可能性を検証するには願っても無い卓越した状況が発生したのである。つまり、外部からの武力攻撃事態等発生である。午前3時30分頃に一発目が発射された後、30分過ぎてからの対策本部の設置である。本番だったら日本の国土に疾うに着弾(10分以内)している。

 

「北朝鮮の今後の動向につきまして、情報本部や関係部隊は引き続き情報収集体制を強化したまま継続すること、関係部隊は更なる飛翔体発射等の可能性に備え、引き続き警戒体制を強化し、継続していくこと、これらによりまして、国民の皆様方の安全、安心の確保と、この地域の安定のために万全を期して参りたいと思っております。」

 

これでどうして国民の保護そして安全、安心の確保がなされるのか。この日最後のミサイルが17:22分に発射されたのである。

 

米国等との情報も総合的に検討した結果、第1発目、第2発目、第4発目、第5発目及び第6発目については、北朝鮮南東部の沿岸地域から発射されたと考えられます。第3発目につきましては、北朝鮮のテポドン地区から発射されたと考えられます。

 

いざとなると、発射地点も特定できないのである。米国の巡航ミサイルトマホークでピンポイント爆撃等といっても、実際は難しい。イスラム教シーア派民兵組織ヒズボラが移動しながらミサイルをイスラエル領域内に発射していると同様で、中近東最強のイスラエル軍もミサイル攻撃を抑止できなかったのである。

一発目発射時刻3:32 スカッドC、 二発目4:04 ノドン、三発目4:49テポドン2号、四発目7:13ノドン、五発目7:30ノドン、六発目8:17新型スカッド、七発目17:22新型スカッドであった。

 

ご承知のとおり、午前7時25分、政府で安保会議を開きまして、万全の体制を敷き、情報収集並びに今後の対応等について、政府としての考え方をまとめたところでございます。

 

この安全保障会議は安全保障会議設置法に基づくものであって、第一条に「国防に関する重要事項及び重大緊急事態への対処に関する重要事項を審議する機関として、内閣に、安全保障会議(以下「会議」という。)を置く。」とある。第二条四項「武力攻撃事態等(武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態をいう。以下同じ。)への対処に関する基本的な方針」、同五項「内閣総理大臣が必要と認める武力攻撃事態等への対処に関する重要事項」を内閣総理大臣が諮るのである。この安保会議が最初の発射から約4時間後に開かれたのである。

武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律第九条「政府は、武力攻撃事態等に至ったときは、武力攻撃事態等への対処に関する基本的な方針(以下「対処基本方針」という。)を定めるものとする。」に関連するのではないか。

国民保護計画はどう認識されたのか。この事実に基づき検証する必要がある。明確なことは、政府においても間髪容れずの「警報の発令・通知」や「避難措置の指示」など即応態勢はとれていなかったのである。

仮想敵国が日本国土に向かってミサイルを発射したら、という仮定がそもそも国民保護計画の重視すべき点ではなかったのか。その仮定は四六時中の警戒態勢を要し、同様に「警報の発令・通知」や「避難措置の指示」を待つ都道府県・市町村も其の体制が整備されていなければ、国民保護計画はシステムとして機能しないのである。

弾道ミサイル防衛システムやサイバー攻撃に対処し得る高度な指揮通信システムや情報通信ネットワークが完成し、さぁどうぞ、というまで仮想敵国は核ミサイルの発射を待って呉れる訳ではない。

今回仮想敵国としての国が七発すべて日本に向け発射していたらとの仮定を政府が持たないということは、よほど日米の情報収集能力が優れていたか、或いは国民保護計画を策定し対処するほどの脅威が当初から無いのかである。さもなければ国民を最悪の状態に曝したことになる。周章狼狽ぶりからすると、危機管理が未だしなのは確かである。

しかし、過剰反応で日本側からの先制攻撃を仕掛け戦端を開くよりは、数段この「寝惚け眼」のが対応としては勝ると考えるべきである。冷静さを保つことは破局回避に更に有効である。

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「武力攻撃やテロなどから身を守るために」(内閣官房H17年9月9日)の冊子を見ても、自然災害に対する有様である。当市も市国民保護計画を契機に超大型で猛烈な台風の来襲や東海大地震の備えに一層専心したのがよいと考える。

市の消防本部の活躍振りは住民に周知されているところである。しかし武力攻撃事態等という未知の状態下に置かれたとき、平和時の緊急発進や消火救助活動が如何なるものになるかは不明である。消防庁長官の市町村への措置を待つまでもなく、各現場である自治体消防本部が消防の任務(国民保護法、消防組織法)遂行に出動するであろう。

だが同時多発の火災発生や複数要請の救急援護へ対応するのは非常に困難である。当市の現消防本部の保有設備・構成人員・分団消火能力等から判断して、戦争時の対応は消防任務の域を超えていると見なければならない。ここでも平和時の思考が支配的である。

現消防体制も当市の歴史の過程で出来上がってきたものであって、戦争体制用に編成整備されてきたものではない。

密な組織ほど連携の繋がりが欠けた時、瓦解しカオスに陥ってしまうのである。関係機関との連携体制の整備というが、既存のシステムや機器で対応を考えている中は、防災組織の範疇を超える事はできない。肝心なことは国民保護であるから、国民一人一人に情報が途中で変容せずに確実に伝達されることである。

緊急事態発生時の指示等に口頭伝達手段を用いる場合、他の補助手段も同時に併用すると精確な伝達を保持できる。「警報の発令・通知」や「避難措置の指示」を絵と文字の予定稿の印刷物に書き加え関係者に配布すれば、伝言ゲームの弊害と混乱から免れる一方法でもある。伝達の階層も単純にすべきである。

JR京葉線の変電所トラブルのニュース(2006928)が入った、約八万七千人(当市の人口を上回る)に影響が出た。平時でさえ緊急マニュアル通りにはいかないのである。

拠点・本部が破壊されたら、関係機関との連携体制の整備といっても、この逃げ場の無い狭い日本で、二進も三進も行かないのである。仮想敵国は大陸に在り、極端に言えばヨーロッパの西の端までも歩いて行けるのである。日本は四海が海である。逃げ場は無い。南北には長大であるが東西には狭いこの日本、其の上都市に人口が集中しているのである。狙い撃ちに遭あったら、一溜まりもない。連携があろうが無かろうが、基本的には横長の細い箱に大豆を入れて交互に傾けるのを繰り返すようなもので、右往左往するだけである。或いは狭い部屋に多人数が閉じ込められて身動きできない状態の中に、点火されたダイナマイトを何本も放り込まれたようなものである。

ボランティア活動と戦争状態についていえば、イラクの非戦闘地域で活動する自衛隊の基地に日本の報道機関は入っていない。なぜか。種々の理由の中で、やはり安全の保証ができない、ということも挙げられる。武力攻撃されることは戦争状態に突入していることである。相手が降伏するかこちらが敗北を帰すか或いは休戦協定に調印するのか、いずれにしても当事国政府間等で明確にすべき事柄である。その結果、戦争状態の停止が確認され国民に伝達されるのではないか。「武力攻撃事態等においては」とか「武力攻撃事態等の状況を踏まえ、その適否を判断するとともに、ボランティアの技能等の効果的な活用等に配慮するものとすること」との判断は無いのである。

事態対処法第一条・第二条によれば臨戦態勢であり、武力攻撃は我が国に対する外部からの武力攻撃をいい、武力攻撃事態は武力攻撃が発生した事態又は武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態をいい、武力攻撃予測事態は武力攻撃事態には至っていないが、事態が緊迫し、武力攻撃が予測されるに至った事態をいうのである。これら三事態を武力攻撃事態等と称しているのである。武力攻撃事態等においては、ボランティアが登場している余裕は無いのである。この事態等は自然災害ではないのである。

「自衛隊が活動しているところが非戦闘地域」であれば、武力攻撃事態を阻止しに尾張旭市に自衛隊が突入した時が、ボランティアが登場の出番であることになる。ボランティアは先の大戦の挺身隊ではないのである。

高度化多重化された通信は操作ミスを誘引し通信の確保にとって却って撹乱の要因となる。むしろ簡便な文明の利器を捨てる覚悟の体制も敷いておくべきである。むしろ関係機関と連絡が取れている間は世の中いまだ太平なのである。

基本は一自治体が挙って生き残りのための方策を練ることが肝心である。情報収集・提供等の体制整備というが、先ずは情報入手である。その情報交通が遮断された場合どうするのか。万事休すか。戦争とは、真っ暗闇の中に一人取り残されても死の怯えの中で生存の望みを画策することでもある。そして何故こんな目に遭っているのかを凍える頭で考えれば、可能だった頃に少しの心配りを平和の支えに向けていれば、と思うのだ。国民の支えを失った平和が如何に脆いものか、失ってからでは余りにも遅すぎる。

元来、戦争とは不条理で且つ最悪の事態のことなのだ。覚悟の無い国民保護計画は画餅に等しい。覚悟とは犠牲者数に応じての保護対応が如何なるものかである。当市の頭上で核爆弾が炸裂したら保護皆無である。そこから何がどう始まるのか計画を練るべきである。 そしてこの計画が自然災害と甚だしく様相の違うものであることを、住民に知らせるべきである。それも情報の提供のうちである。 

国民保護という美名の下、指示に従い避難をすれば、問題無きが如きに安堵感を住民に与えるのは罪である。そして何処からとも無く助けのボランティア当市に駆け付けてくれるというのも、事態を軽視していて自然災害の場合のケース想定と同様である。

非常事態における情報は何も公式のものばかりとは限らない。むしろ非公式の流言蜚語こそがまこと淑やかに真実味を帯びて住民の耳に入る。平常生活から急転直下異常な事態におかれた国民にとっては、大本営発表よりも頼れる情報と化すのである。

住民が退避した後を狙っての侵入盗や略奪、それに強盗、強姦、殺人等が発生する可能性も大である。因みに平和時の尾張旭市の刑法犯罪件数(平成17年)は1,994件で内訳は次の通りである。殺人、強盗、放火、強姦、略取誘拐、強制わいせつの重要犯罪5件、暴行、傷害、脅迫、恐喝の粗暴犯44件、侵入盗(その他侵入盗:居空き、学校荒し、給油所荒し等) 非侵入盗(その他非侵入盗:玄関荒し、色情盗、部品盗、置引き、万引き、スリ等)1,575件、詐欺等の知能犯30件、占有離脱物横領、住居侵入、器物損壊破損等のその他で340件である。具体的に誰がどう国民の生命・財産を保全するのか。

同時発生的な平常時に勝るであろうと推測される犯罪にどう対処するのか。当市の管轄は守山警察署である。守山警察署は他に名古屋市守山区も管轄としているので多忙を極めている。警察官を割いては呉れるかもしれないが、基本的には解決にならないと見るべきである。隣接の瀬戸市の瀬戸警察署も長久手町を見守る愛知警察署も他市を助勢するためにスクランブルするには、自市の守勢で手一杯と看做すべきである。

生命の危機におかれた住民と避難誘導等に関わる者との些細ないざこざが、とんでもない状況を引き起こす可能性も否定できないのである。例えば、避難先の場所は安全なのか?と住民に自治会等の役員が問われた時、「そう、本部から指示されていますから」などと答えていたのでは、既に問題の種を抱えたことになる。また命令調の言い方などもトラブルの元となる。

暴徒と化した人々が混乱を増幅させるかもしれない。武器を求めて警察署が襲われることも想定しなければならない。武器を得た一団を鎮圧できる機関はない。行政は無力を曝け出すだけである。もとより住民は戦いの訓練を受けていない庇護の対象である。むしろこのような状況が現出したケースでは市全体が乗っ取られたのも同然である。情報の途絶及び操作が容易になされてしまうのである。虚実織り交ざって錯綜した情報は戦況の悪化に伴いエントロピーが増大状態となる。

崩壊したインフラ設備、爆破された家屋・ビル、銃弾で石榴のように割れた少女の頭から流れ出す脳漿、首と胴体が離れ転がっている死体、どれが誰のか不明の散乱する四肢、何かを話そうとする寸前で飛び交う銃弾に中止された少年の死に顔など、平和であれば愛する者に触れたであろう手、平和であれば瞳を輝かし微笑むことのできた少女、サッカーボールに興じ未来を語れたであろう少年、戦争は現在も未来も無残に閉じてしまうのである。何故だ、の問いを発し、戦争を否定し平和を希求する研修及び訓練が職員に今必要なのである。真の国民保護とは戦争をしないことなのである。

市における訓練実施内容も現実的には自然災害への対応の一環であれば、殊更異論を呈することもない。国民保護の名に隠れた戦争体制強化としての訓練であるなら、容認する訳にはいかないのではないか。憲法を尊重し擁護する義務を負う者からの戦争体制の強化・馴化の容認は、国民の自殺に等しいからである。

 

 第2章 避難、救援及び武力攻撃災害への対処に関する平素からの備え

 

この章から武力攻撃災害の危機感がどう住民に伝わるのだろうか。自然災害の対処に託け、認められていない交戦権を武力攻撃事態等などと言い、如何にも他から侵略・先制攻撃を受け国民を保護するのだという名目を以って、戦争への突入をオブラートに包むことに、住民の福祉を第一義にする地方自治体が加担してはならない。

総務省消防庁(平成16年12月)「国民の保護ためのしくみ」を見ても、銃弾が飛び交い、ミサイルが頭上で炸裂し、阿鼻叫喚の巷と化す状況はなく、イラストでにこやかに被災者への救援物資を配布する様子、かすり傷程度の負傷者に応急手当する場面、健康に関する相談などで、戦争の悲惨さ、苛酷さそして非人間性を反映していない冊子である。これでは戦争を忌避することなど、思いもよらない。自然災害の延長でしか捉えられていないのである。何度も言うが、戦災は政治災害なのであって、自然災害ではないのである。

国民は戦争への兆候を敏感に察知し、平素から早い時点でその芽を摘む対応が肝心である。国民の不断の努力とは正にそのことなのである。

この狭い国土で、国民に何処に避難しろというのか。わが市でいうならば、車を駆れば東西南北の方角どちらでも、10分程で他市他町に至る。約八万人の市民の生命を守るために、避難させる場所が何処に在るというのか。例えば遠方の疎開先にどう市民を誘導するのか。現実には無理難題の計画を平常防災体制に押し付けられているのである。

非戦闘員は無抵抗のまま死に至るだけである。住民の福祉を目的とする地方自治体にとって、その任を負い措置する事は不可能である。国民の保護法制は実に無用の長物である。

「備えあれば憂いなし」と言って有事法制が出来上がったのである。用意することは本当に国民保護に繋がるのか。「備えあれば」ということは、備えなければならない事の因って来たるところを分かっていなければ備えにならず、「憂いなし」ということにもならない。備える事が分かっているならば、その憂いの原因が認識されていることであるから、粘り強い外交手段を以って解決する努力をすればよい。

国民保護計画がその答えと云うならば、患いから抜け出す道は無く、安寧から遠く離れた嘆きの道を歩まねばならない。其の到達点は「野には青草なし」である。

「備え」は国民を疲弊させるだけとなり、軍拡競争が惹起されるだけである。「喪なくしていためば、憂い必ずあたる」である。

 

 第3章 物資及び資材の備蓄、整備

 

自然防災のための備蓄はさておいて、武力攻撃の際に手段とされた化学剤・生物剤・核物質に対しては其の用意が皆無である。まったくの無防備、丸裸である。

只今の危機が感ぜられないのである。このパブリック・コメントを書いているこの瞬間にも警報が発令され避難措置の指示が出るかもしれないのである。全国民に政府が特殊な薬品等を備えて憂いなしにするまで、仮想敵国視した国が待ってくれるという能天気な保証は何処から来るのだろうか。妙なことである。

当市もそれらについては国の整備の促進という努力に待つだけである。例えば携帯用放射線検出器を配るとかしないのだろうか。

噴飯ものは、「武力攻撃やテロなどから身を守るために」(内閣官房H17年9月9日)の冊子の「核物質が用いられた場合」A留意点◎核爆発の場合である。●閃光や火球等の説明であるが、失明の心配するような距離にいて閃光や火球が見た場合、次瞬間には数百万度の熱線や爆風で消えているのではないか。水爆の場合だったら、中部地方全体が壊滅するかも知れないのである。とっさに遮蔽物の陰に隠れたり、上着を頭から被ったり、屋内では窓閉め・目張りなどしましょう、ってなんの役に立つのか。目張りの話は確か核の爆発でも、原発事故の場合の例ではないか。だとしたらもう少し付け加えたらどうか。例えば、ビルなどの空調は停止するとかもである。

 

 第4章 国民保護に関する啓発

 

「国民の保護に関する基本方針」(平成17年3月)で第1章5国民の協力(1)の中で「国は、地方公共団体の協力を得つつ、パンフレット等防災に関する啓発の手段等も活用しながら、国民保護措置の重要性について平素から教育や学習の場も含め様々な機会を通じて広く啓発に努めるものとすること」としている。

国民はどのように啓発されたらいいのか判らないが、肝心なことは多くない。どのように言辞を多用しても国民にとっては、要は生命、財産がどう保証されるのかである。これに尽きるのである。その回答が或いはその手段が国民保護計画だとしたら、危ういものである。

武力攻撃事態等の想定は紛れも無い戦争状態のことである。武力攻撃事態等が勃発し、事態が急迫している場合、知事は口頭又は電話で防衛庁長官に対して自衛隊の部隊等の派遣を要請できるのであるが、余裕があるときには文書でする決まりである。

しかし武力攻撃事態等においてはいずれの段階も、武力攻撃は武力攻撃そのものをいい、武力攻撃事態は武力攻撃が発生した事態又は武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態であり、武力攻撃予測事態は武力攻撃事態には至っていないが、事態が緊迫し、武力攻撃が予測されるに至った事態をいうのである。戦争突入、緊迫、切迫いずれも余裕があるとは言い切れる情況では無い。

自衛隊は武力攻撃を排除するために必要な武力の行使、部隊等の展開その他の行動の本業で大童なのである。国民の誘導などに人手を割く余裕は無い筈である。ここでも自然災害を念頭に置いて国民保護計画を策定しているのである。

「国民の保護に関する基本指針」の「はじめに」で、「我が国に対する本格的な侵略事態生起の可能性は低下しているものの、大量破壊兵器や弾道ミサイルの拡散の進展、国際テロ組織等の活動を含む新たな脅威や平和と安全に影響を与える多様な事態への対応が差し迫った課題となっている」との認識を示している。

イラクやアフガンについて日々入るニュースから判るように、テロから身を守る等不可能に近いのである。ましてやゲリラや特殊部隊に国民が遭遇した場合、身をかわす術をもたないのである。一旦屋内に避難している暇が無い。弾道ミサイルの弾頭が強力な通常爆弾なのか、大量破壊兵器としての生物、化学兵器なのか、核爆弾なのか定かでないのに、行政機関の指示に従って適切に校庭や公園に避難するのか。無為無策に等しいと同時に避難の誤誘導になる。

「武力攻撃やテロなどから身を守るために」、「国民の保護のためのしくみ」などは、ミサイル攻撃を国民の頭で受け止めよ、みたいな内容である。

国民にとっての重大事をその実相面を隠蔽し、ミサイル攻撃等及びその被害を矮小化して伝えるものであり、国民の厭戦志向を殺ぐ目的のものとしか言いようが無い。

このような内容の薄い低レベルの有っても無くてもいいような冊子で国民を“啓発”するなどとは、よく言ったものである。原子爆弾を投下された国として真に必要なのは、国を挙げての平和教育なのである。

 

2.3 第3編 武力攻撃事態等への対処

 

 第1章 初動体制連絡体制の迅速な確立及び初動措置並びに国民保護措置の実施体制

 

国民は自衛の発動がなされたのか、はたまた先制的自衛(将来の武力攻撃に対する自衛権行使はゆるされていない)なのか国民には知りえないのである。理論的には「どちらが先に手を出したか」の問題になり易い。特にミサイル発射に関しては重大である。攻防が決め兼ねない状況が出来し易いからである。

事態対処法は、武力攻撃に例をとれば、「我が国に対する外部からの武力攻撃をいう」のであって、仮想敵国を我が国が攻撃したから反撃されたのか、若しくは仮想敵国が先に攻撃してきたか、は問わない中立の表現である。いずれにせよ外部からの武力攻撃であることに、変わりはないのである。武力攻撃事態も武力攻撃予測事態も同様である。

「武力攻撃事態等への対処においては、国、地方公共団体及び指定公共機関が、国民の協力を得つつ、相互に連携協力し、万全の措置が講じられなければならない」のである。

市国民保護対策本部の設置は政府の恣意のままである。地方公共団体及び指定公共機関が一斉に国民保護措置(戦時)体制に突入する体制が整備されたのである。

戦争は欺瞞や偽証や偶発をその契機とし勃発し、途轍もない犠牲を払って終了する。張本人よりも無辜の民にその累を及ぼし甚大な被害を与えるのである。

国民保護法 第九十八条に発見者の通報義務等がある。その瞬間の現場に遭遇することが無いとは言えきれないが、遠目には常人にとり自衛隊の訓練なのか異国の武力攻撃なのか或いは映画のロケなのか、予測は困難である。なぜなら武力攻撃等の定義あっても、その態様が不明のため、「不審者を見かけたら110番」の類と同様である。通報を待つようでは国民の保護などとうてい覚束無い。

イラクでの自爆テロのニュースから判るように、いつ何処で何が起きるのか分らないのがテロの実態なのだ(パブリック・コメントを書いている最中にも、イラクのバグダッドで、自動車使用の爆弾テロで5人死亡、34人が負傷のニュース配信あり 9月28日)。

日本の周辺国は我々と風貌が酷似しておりその点でも見分けは困難である。この観点から国内で米軍と共同軍事行動が執られた場合、特に着上陸侵攻においては、米兵から後方攪乱グループと誤認され勝ちで、国民への誤射攻撃が懸念される。

政府が述べるように着上陸侵攻の場合、侵攻に先立ち航空機や弾道ミサイルによる攻撃が実施される可能性が高いのであるなら、発見者の通報の義務を果たす機会は無い。

では厄介な特殊部隊の侵入はどうか。原発・国の中枢部・産業重要施設等の破壊目的、乃至は首都圏を狙っての生物・科学兵器での攻撃あるいは両方同時に目的を遂行する。これも事が出来するまでは国民に知られることは無く、知った時には既に被害が出て大混乱の最中で、衆知のこととなる。

起きる前には分からない、起きた後には国民に被害が及ぶことになる。戦争事態では、敵味方共にその機密性は高まり、真実の情報が国民に知らされる保証は無い。知らされても内容は政治性、軍事性のフィルターで漉されたものとなる。国民は五里霧中で保護されるに遅れる。情報公開などは平和時のことである。

また放送の自律を保障することにより、その言論その他表現の自由に特に配慮するとの縛りがあっても、放送に携わるものにしてみれば、武力攻撃事態等の情報の入手先は限定される。適宜に的確な情報開示がなされ、そしてその情報を検証することができなければ、大本営発表になりかねない。所謂、挙って垂れ流しである。また放射能汚染等による悲惨な光景が出来したとき、自然災害の様な現場からの放映は報道機関が無傷としても極めて困難であり、国民が事実を知るのは後のことになる。

 

第2章 市対策本部の設置等

 

現地調整所の設置とは一体全体如何なる事態を想定しているのだろうか。小競り合い位のことを考えてのことだろうか。飛来するミサイルの弾頭には核爆弾か、生物兵器なのか、化学兵器なのか、あるいはNBC攻撃なのか不明なのに、必要があると認めれば市長の判断で現地調整所を設置するというのだろうか。

自然災害時の場合ならそのようなことも考えられるが、何が起きたのか、何が起きているのか現況不明では無理ではないか。要員がすべてに対応可能な準備ができているのなら別ではあるが。要は安易に動くなである。

当市の場合は市国民保護対策本部だけで間に合うのではないか。が、この見方も自然災害時の域は出ていない。

 

第3章 自衛隊の部隊等の派遣要請の求め等

 

通信の途絶等により知事に対して自衛隊の部隊等の派遣要請ができない位の状況であるから、情報通信の確保はできなくなったと判断しなければならない。僥倖と言えるかどうかは即断できないが、陸上自衛隊守山駐屯地 第10師団司令部、第35普通科連隊が存在する。

要請に応じて自衛隊が出動可能になる時は事が収束してからではないか。戦闘行為に或いは索敵行動に多忙で、自衛隊の第一の目的を放擲してまでの派遣期待は無理である。

通信(連絡)手段の確保は原始的な手段も配慮しておく必要がある。自然災害時にも有用である。

 

2.4 第4編 復旧等

 

復旧等としてこの第4編があるが、戦争状態が終結し、虚脱の中での復興作業である。しかし考えてみれば、地方自治体は災害発生時点から休む間も無く復旧が続いていると考えるべきである。負傷に拘らず、生死に拘らず、住む家を失うにも拘らず、食糧不足にも拘らず、頭上で核炸裂が起きない限り住民の生活は続くのであるから。

否、復旧への道は憲法が軽視され有事法制が制定された時に既に始まったのだ。国に対し負担金の請求をしても、その負担金の負担は国民が背負うことになるのだ。生命と財産を失い、其の上にである。それが国民保護計画の実態である。

 

2.5 第5編 緊急対処事態への対処

 

大規模なテロ等が、等と書いてあるが主としてテロを予測する。テロを呼び込む直接の要因となったのは、日本の米国主導によるイラク侵略戦争への加担である。そしてイラク戦争はテロの脅威を拡散させたのである。機密報告書(NIE 26日)が、国連報告書(28日)がその事実を追認しているのである。

 

3.むすびに

 

考えれば考えるほどに疑念の生じる国民保護計画である。其の実国民保護の方法論となると、空虚で自然災害対策以上に何も出ないのである。机上の空論なのである。

一体この先何があるのか、有事法制によって。国民は保護される立場にだけ甘んじていては傍役に追いやられてしまう。主役は主権者である国民なのだということを忘れては、崖路をアイマスクして歩くと同じである。

争いをやめさせる為に争いに加担することは火に油を注ぐ喩えである。イラク、アフガニスタン、そして世界各国でのテロの頻発がそれを物語っている。すべてが日本のあり方に直結しているのであって、余所事ではないのである。

憲法は明快に国民の歩む道を指し示しているである。それは永久平和主義という大道である。その道を行くのに「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」のである。

忘れてはならない。