第15巻

傍聴記 2005/03/12

 時として人は言い違い、聞き違い、見違いなどをやらかす。知らない人などに声をかけてばつが悪い思いをすることもある。
 市議会を傍聴していると、議員等の言い違いにであうこともしばしばある。まぁ、大抵は事も無く済む類である。
 しかし、その単純な間違いも連続したりすると、誤りではなく何か特別の意味を持たしたのかと、聴く方にも擬議が生じてくる。しかも、多分言い違い勘違いだろうと推測して正しい言葉の意味内容に変換して聴いている時、その本来は「正しい言葉であろうの発音」がなされ、ホッとしたのも束の間に、その正しいであろう言葉の発音が修正されたの如くになり、「本来は間違いであろうコトバの発音」がその後に大手を振って続けられるとき、聴く方は「あれっ?」となる。そこで次のようなメールを市長に送った。

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谷口 市長 殿

 いつも市民の為にご活躍を頂き感謝いたしております。
 さて、昨日(3月4日)議会を傍聴いたしておりましたら、ある議員への市長答弁の中で、「ダンコン」という言葉が幾たびも使われていました。一度だけだと思いますが、「ダンカイ」と言って、その後、また先の「ダンコン」に戻りました。
 手元の広辞苑(第五版)を見ますと、ダンコンに中る語彙は「男根」、「断魂」、「弾痕」でございます。市長は自ら答弁内容を吟味されているとお聞きしました。私はこの事を直接伺い、なぜか感銘を受けました。当然と言えば当然のことなのですが、やはり、市政への思いを見ることが出来たからです。話を戻します。この「ダンコン」なる発音にはどのような文字(漢字)が、市長の手持ちの答弁書には記入されていたのでしょうか。
 資料(書いたもの)が手元にないため、確認はできませんが、答弁の文脈からある程度は判断できます。ただ議会という公的機関での発言であり、正確を期すために、私は同日テープでの公文書公開請求書を出しました。私たちが公文書(書面)で確認できるのは遥かに先になりますので、このテープを何度か聴いて再確認を致しますが、もし、指摘が私の聞き違いであったなら、失礼の段をお許し願います。もし、隣席の助役や企画部長等に確認され、言い違えであったなら、本会議での訂正が必要かと存じます。
 最後になりますが、開かれた市政は意思形成過程の説明責任をもって、そしてその担保である情報公開の拡充をもって遂行されることが、必須条件となります。
また貴職の対話による行政運営は、市民に明日への希望を持たすものであると共に、開かれた市政への補強となると考えます。
 では今後ともよろしくお願い致します。

             2005年3月5日
               足立 巖
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 ふと、若い頃に読んだフロイトの確か『精神分析入門講座』や『夢判断』で、人間の心理生活を、潜在意識下に抑圧された性欲衝動(リビドー)の働きの所為にしているのを思い出した。興味があることである。
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平成17年第1回(3月)尾張旭市議会定例会第4日(3月4日(金)市長答弁
第7日3月7日(月)の本会議上、「ダンコンの世代」は「団塊の世代」である、訂正がなされた。
本メールに対する回答は3月12日現在無い。届いていることは確認済み。


傍聴記 2005/06/16

 ウグイスは、鳴き声を聞くことはできるが、その姿となると中々目にふれる機会は無い。葉の裏側につく虫を食する所為か、「藪に鶯ホーホケキョ」である。小学生の頃は鶯の鳴き声で目を覚ましたこともしばしばであった。が、これまでその姿を垣間見ることも無かった。
 ビーナスラインをドライブ中、霧が峰富士見台に寄った時のことである。「ここの鶯は姿を見せて鳴きますよ」「あまり上手くはありませんが」との声に振り向くと、店の方がいつの間にか傍に来て、ホーホケキョと、口笛で啼いてみせた。姿を現さないのは当然と思い込んでいたので、動画の撮れるデジカメで、せめて鳴声だけでもと鶯のいる辺りにカメラを向けていた最中なので、 夾雑音に折角のおりを逃したかと内心残念に思った。
 鶯の姿を見ることが出来る、との誘いに乗ってバルコニー近くの席で妻と食事をしながら待った。先程の鶯か、鳴声が聞こえてきた。今度は、デジタルビデオカメラFV50kitを持ってバルコニーに出た。光学22倍ズームで捉えた。
 店の方に訊くと、鶯の止まっていた10m程の木は「コシラビソ」(白檜曽)と呼んでいるとのことであった。その場で再生してみた。可愛い、とても可憐な姿である。その鳴くときの仕草がまた更に好い。
 さぁて、霧ケ峰高原の風に吹かれる鶯の鳴く声を聞き、午睡と決め込むことにするか。これぞ傍らで聴くの真骨頂である。

縮小版 2005年6月7日 14:28 撮影 Canon PowerShot S45

撮影場所 諏訪市霧ケ峰富士見台 ドライブイン富士見台
写真や動画で見ると白檜曽の木に絡み付いている蔦状の枝に止まっている。
動画 撮影 キャノンデジタルビデオカメラFV 50KIT


傍聴記 2005/10/09

 地方裁判所で「模擬裁判」があり傍聴した。裁判員制度に関わるものである。
 「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(裁判員法)の公布の日(平成16年5月28日公布)から5年以内の実施となっているので、万が一にも備えて早めに心の準備をしておく必要がある。
 しかし、人を裁く、それも重大事件を裁くとなると、手馴れた職業(裁判官など)の人は別として、法の技術的な面の不足よりも普段あまり物事を深く考える習慣がないことのほうが、裁判長と同じ側に着席したとき、裁判員としてはたじたじの態になるかも知れない。まさか付和雷同という訳にもいくまい。事は重大なのだから、先ずは自分自身を納得させる判断をもたなければならない。日頃から新聞等の事件記事を参考に、判断力を養って置くことも一案かもしれない。
 地裁で開かれた裁判員制度の模擬裁判では、傍聴をしながら自分なりに判決を出してみた。模範事件例では、図らずも、主文は裁判長と同じ結果になった。是非、裁判長の判決理由を聴きたかったが、主文のみで模擬裁判は終了した。
 印象としては、勿論この例だけでは言えない事だが、もしかして、本職の裁判官よりも、厳しい判断を裁判員は評議で出すのではないだろうか、との印象を持った。民間人のおかれている厳しい生活(経済)環境がそうさせるのだろうか。所与の環境から判断する因数が増えることは、公平誠実さの担保になるのかもしれない。
 種々の裁判員の判断は、裁判に関わる者にこの先どう変化を与えていくのであろうか。この制度を肯定的に捉えて、ゆくゆくは違憲裁判に関し、このような制度ができたらと考える。


名古屋地方裁判所2005年10月5日で裁判所,検察庁,弁護士会による模擬裁判員裁判を傍聴。

裁判員の参加する刑事裁判に関する法律(平成十六年五月二十八日法律第六十三号)
最終改正:平成一七年七月一五日法律第八三号

(裁判官及び裁判員の権限)
第六条  第二条第一項の合議体で事件を取り扱う場合において、刑事訴訟法第三百三十三条の規定による刑の言渡しの判決、同法第三百三十四条の規定による刑の免除の判決若しくは同法第三百三十六条の規定による無罪の判決又は少年法(昭和二十三年法律第百六十八号)第五十五条の規定による家庭裁判所への移送の決定に係る裁判所の判断(次項第一号及び第二号に掲げるものを除く。)のうち次に掲げるもの(以下「裁判員の関与する判断」という。)は、第二条第一項の合議体の構成員である裁判官(以下「構成裁判官」という。)及び裁判員の合議による。
一  事実の認定
二  法令の適用
三  刑の量定
2  前項に規定する場合において、次に掲げる裁判所の判断は、構成裁判官の合議による。
一  法令の解釈に係る判断
二  訴訟手続に関する判断(少年法第五十五条の決定を除く。)

(裁判員の職権行使の独立)
第八条  裁判員は、独立してその職権を行う。
(裁判員の義務)
第九条  裁判員は、法令に従い公平誠実にその職務を行わなければならない。
2  裁判員は、第七十条第一項に規定する評議の秘密その他の職務上知り得た秘密を漏らしてはならない。
3  裁判員は、裁判の公正さに対する信頼を損なうおそれのある行為をしてはならない。
4  裁判員は、その品位を害するような行為をしてはならない。


傍聴記 2005/10/24

 商工会の根拠法は昭和35年の「商工会の組織に関する法律(現在は商工会法)」によります。したがって全国的に存在します。
 例えば、この商工会には市と県から補助金が出ています。私の住む市でも、毎年六千万から七千万の補助金を県と市とで折半して出しています。このようなことが全国的に実施されているのです。実態は事務局員の人件費などです。事業運営の費用を60%以上補助されている法人が自主運営しているといえるでしょうか。必要ならば、今や商工会も真に独立して構成員の会費等で運営して貰いたいと考えます。
 補助金を出す根拠は「商工会及び商工会議所による小規模事業者の支援に関する法律」(経営改善普及事業に係る補助)第四条 に置いています。しかし、これは「補助できる」という規定で、義務ではありません。半世紀近くも補助続ける事業経営改善事業とは一体何なのでしょうか。組織率も50%そこそこの商工会の組織に頼らなければやっていけない事業経営者はいないのではないかと考えます。単に法が存在するから存在するという無用のものです。国や地方自治体の関与を無くし、民間の責任においてやらなければならない最たるものです。
 ぜひ商工会法・商工会及び商工会議所による小規模事業者の支援に関する法律の見直しをして頂き、財政の健全化を図ってもらいたいと願うものです。
 ご検討を願います。


「商工会への補助金の廃止について」として、2005年10月21日 小泉内閣メールマガジン[ご意見募集]に出した。
越水桃源「有異議の記」記録 《商工会 其の一》



傍聴記 2005/10/24

 身近なところで男児(五つ)の虐待死の事件が起きた。
 本件は甚だ痛ましいことであり、一市民としても悲憤に駆られる。
 県の担当機関の対応の拙劣さ及びそれに関する謝罪等は報道によって知られた。
 しかし市民として非常に残念に思うことは、心理的にも距離的にも離れた県が陳謝や説明をしても、ぴんと来ないことである。当市は組織的には県中央児童・障害者相談センターの管轄区に入るが、第一義的には身近な市が率先して対応・行動すべきことではないか、と思うからである。市の顔がこの件に関し前面に出て来ない。顔が見えないのは責任が無いと思うからである。市の関連部署には市民から電話等による叱責を含めた問い合わせが寄せられている。
 執行機関を監視する役目の市議会(議員)についても言える。事は人命に関したことである。先ずは民生文教委員会等(地方自治法100条も視野に入れて)を直ちに開き、執行機関がこれまでにとった対応等が適切であったのかなど、状況説明を求めるべきである。質疑のできない全員協議会などで理事者から説明を受けても意味はない。議員活動のすべてはこの人命のあり方に関する福祉の一点に集約されることを忘れてもらっては困る。
 虐待する者も、もっと別なものに虐待されているのだ、との視点を欠いては限定された事件として、個別の事件として司法の支配内で閉じてしまう。
 児童虐待防止法(児童虐待の防止等に関する法律)は、「国及び地方公共団体は、児童虐待の防止に資するため、児童の人権、児童虐待が児童に及ぼす影響、児童虐待に係る通告義務等について必要な広報その他の啓発活動に努めなければならない。」(第四条4)とある。市役所・県中央児童・障害者相談センターに通告されていても、結果からいえば児童の安全の確認又は安全の確保もされずに放置されたのである。いくら早期発見に努めても受け側の認識に狂いがあっては「蟻の穴から堤も崩れる」の喩えである。これは行政の一日延ばしのやり方と疏なる連携が招いた事件である。そこには弱化する感性がある。
 よく言ったものである、「みんなの仕事は誰の仕事でもない」と。


2005年12月8日〜10日 中日新聞朝刊
臨時民生文教委員会は12月9日に開かれた。定例会の合間に委員会開催の可否を協議した時、ある議員が他市で起きたときには開かないのに、自分の市で起きたから委員会を開くでは危機管理上おかしい、との趣旨を言った。またこの議員、行政を庇うかのように、吊し上げることになっても、と言う(正確には議事録を待つ)。この議員、自分の市の事でも開こうとしないのだから、他市の事では尚更開く筈もない。要点を突いた積もりなのかも知れないが、これではいつまで経っても危機管理はできないという矛盾に気が付かない。 大体吊し上げるほどの力量が無い。あったとしても適当に合わせる能力が発達しすぎて問題平準化型議員になるか、或いはそれにもなれずに市民の御荷物型議員になっている。問題課題掘削型議員は稀である。
市は事件発生後、矢継ぎ早に再発防止策の確認や家庭児童相談室の増員を決めたりしている。対策の検証はなされるべきである。


傍聴記 2006/01/15

 司法の自殺は緩慢に他を殺すことになる。殺されるのは国民である。しかし司法の自殺を招いているのは、原則を追及せずに曖昧なままに放置する性癖の国民にも原因がある。人間関係のぎくしゃくとした状態を避けるために、防衛機制が働くためなのだろうが、徹底した論議がなされないために、争点が、帰着先が見えてこないのである。常に曖昧模糊としているのである。
 人間関係だけならまだ許すこともできるが、それが法の問題になると様相を一変する。例えば、市町村は法の解釈を県に問い、県は総務省に問うのである。そして総務省はこれを実例として、何々と考える、という具合に法文言のブレを広げていくのである。勿論大きなブレはないが、小さな振幅が各自治体に拡大していく過程で、何々と考えるが何々である、というふうに行政解釈が確信の強権解釈になってしまう。このもっとも大きな振幅が政府にあっては憲法九条である。
 先ず基本に戻れば、上級機関にお伺いを立てたのは、法文言を額面どおりに受け取ったからであり、次にはその条文に何か抵触するようなことを通そうとする意志が働いているからである。お伺いは心配の種を解消する責任転嫁の為なのであり、議会では黄門様の印籠となるのである。
 が、地方分権の現在では、お伺い立てる自治体自身が先ずは法自体の目的とする意味内容を理解し、解釈を試みなければならない。でないと身近な政府である自治体が住民への十分な説明責任を果たせない。
 国民はこの行政解釈をめぐっての曖昧さを正すべきである。それでこそ主権者なのである。だが糾す手段の裁判所が真実発見、適正な訴訟手続きの遂行義務を怠ったのでは審理不尽であり、また訴訟指揮に偏りがあったのでは憲法第三十二条に定める、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。」を全うすることができない。政治権力からの独立した公平な機関としての司法が自らの首を絞めているのに等しい。それは国民の首を絞めることにも繋がる。
 法は社会の脈動である。確実に脈拍を打たなくては社会が衰退する。司法機関は医師であることの自覚をも、持つべきである。

2006年1月13日 自衛隊イラク派兵差止訴訟第7回口頭弁論を傍聴する。前半・後半の傍聴(原告)入れ替えのため、前半のみ傍聴。

「原告1名(天木直人さん)を除いた原告全員については結審」し,「原告1名を除いたそれ以外の原告全員の判決言い渡しは4月14日」「残した原告1名の次回期日は4月21日」という情報を得ました (自衛隊イラク派兵差止訴訟の会 メール配信060115から抜粋。本メールでは緊迫した当日の法廷の様子を記している)。