第14巻

傍聴記 2005/01/20

 国民の保護を課題とするならば、原子力発電所の全廃を国策の最優先実施項目として挙げるべきである。わが国には現在、北海道から九州まで満遍なく原発が行き渡っている。その数52基で、建設中・計画中を含めれば63基で米国に次で世界第二位である。自然災害、特に地震よる原発災害が云われる中、廃止は喫緊の事である。1986年4月26日、チェルノブイリ原発で原子力発電開発史上最悪の事故が発生したことは記憶にまだ新しい。
 加えて、多発する自然災害の対応に追われる地方自治体に、「新たな脅威や多様な事態」という災厄を作り上げ、さらなる負担を押し付ける国民の保護のための措置とは何なのか。

 国民保護法は何の為の法制か、それは紛れも無く自然災害とは異質の政治災害若しくは政策災害に対するものである。それは他国から惹起されることよりも我が国の在り方から引き起こされるものである。
 その政治災害の淵源を辿れば、敗戦後に於いて日本占領にあたった米国の政策であり、国民の保護よりも地位の保証を求める政府にあった。その両者の結実が1951年9月8日、サンフランシスコにおける、軍備制限条項を設けてない「日本国との平和条約」であり、「日本国は、武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない」、「無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので、前記の状態にある日本国には危険がある。」というおかしな理屈から、日本国が希望しているとし調印された「日米安全保障条約」である。既に1943年9月にはイタリアが降伏し、1945年5月にはドイツが無条件降伏し、ヨーロッパでの戦争は終り、この時期日本は50カ国に及ぶ国々と戦争状態にあって孤立したのである。そして1945年8月15日日本国は降伏し、無責任な軍国主義の当事者であるために武装が解除されていたのである。
 1946年11月3日にその縛りとして我が国の以後のあり方を指し示した現憲法が公布されたにも拘わらず、再軍備をさせようとの米国の意図が盛り込まれて現在に至っているのである。あたかも小判鮫の様子を呈している我が国のあり様である。いつの日か、「複雑怪奇なる新情勢」が米国に生じないとも限らないのである。
 1960年1月19日の「日米相互協力及び安全保障条約」の第一条、国連憲章との関係で、「締約国は,国際連合憲章に定めるところに従い,それぞれが関係することのある国際紛争を平和手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決し,並びにそれぞれの国際関係において,武力による威嚇又は武力の行使を,いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも,また,国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むことを約束する。締約国は,他の平和愛好国と協同して,国際の平和及び安全を維持する国際連合の任務が一層効果的に遂行されるように国際連合を強化することに努力する。」としている。
 しかしながら、1997年9月23日「日米防衛協力のための指針」では、「日本に対する武力攻撃及び周辺事態に際してより効果的かつ信頼性のある日米協力を行うための、堅固な基礎を構築することである。」として踏み込んだものになっている。そのため、平素からの行う協力として、「各々所要の防衛体勢の維持に努める。日本は「防衛計画の大綱」にのっとり、自衛のために必要な範囲内で防衛を維持する。米国は、そのコミットメントを達成するため、核抑止力を保持するとともに、アジア太平洋地域における前方展開兵力を維持し、かつ来援し得るその他の兵力を保持する。」とある。
 確かに、本指針でも日本の憲法上の制約の範囲内を謳い、専守防衛、非核三原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)の基本的な方針に従って行われるとしているが、共同防衛(安全保障条約の第五条)から、実質的にはこの原則は破られ、自衛力の範囲は逸脱している。イラクへの自衛隊派遣が如実に示す例である。済し崩しに既成事実を作り上げ、その結果、憲法と現実との乖離を憲法を変えることによって帳尻を合わせようとしているのである。
 憲法を忠実になぞるなら、日本としては軍備縮小、核廃絶への努力こそされるべきであって、「備えあれば憂いなし」の下に軍備強化・拡張を計る事でない。個人ならいざ知らず国家間においてこの俚諺を適用すれば、際限の無い軍拡競争が惹起されるだけである。既にその兆候として、ロシアは本年より大陸間弾道弾(ICBM)「トーポリM」の移動式の改造型配備を明らかにした。米国のミサイル防衛網を突破する能力を備え精度も向上させたとある。
 国民として望むのは、安寧の中に明日への希望を託して、日々の生活を過ごす事である。決して疑心暗鬼の世界に彷徨うことではない。先の大戦で政府は他の国民と自国民とに甚大なる戦禍を与えて来た。その多くの犠牲の上に築かれた憲法の前文に、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」の文言は、単に自国民と自国政府の間の約束事ではなく、世界の国々の人々へ向かっての誓いでもあることを、忘れてはならない。しかしながら、この国の政府は「自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて」の文言を歪曲し、戦争の可能な体制と急いでいる。

 日本国民は戦後60年間、憲法の指し示す方向と逆行する日米安全保障条約との拮抗の中に生きて、今その権衡が形式的にも実質的にも崩れ去ろうとしている。政府は「新防衛大綱(〇五年度以降に係る防衛計画の大綱)」で、「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国 2002年7月現在 外交関係を有する国家は197国中151ヵ国:うち南北双方が外交関係を有する国は147ヵ国)は大量破壊兵器や弾道ミサイルの開発、整備、配備、拡散等を行うとともに、大規模な特殊部隊を保持している。北朝鮮のこのような軍事的な動きは、地域の安全保障における重大な不安定要因であるとともに、国際的な拡散防止の努力に対する深刻な課題となっている。」とし、また中国についても「この地域の安全保障に大きな影響力を有する中国は、核・ミサイル戦力や海・空軍力を推進するとともに、海洋における活動範囲の拡大などを図っており、このような動向には今後とも注目していく必要がある」との認識を示す。
 翻って我が国は、「憲法第九条で日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」としながら、防衛関係費では世界のトップクラスの支出である。その上経済大国であることを自他共に認めているところである。ミサイル技術はどうか。2月に打ち上げを予定されているH2Aロケットは平和利用から立派に軍事利用へと転用が可能ではないのか。標準型のH2A202は4.1トンの衛星を軌道に運ぶ能力がある。さらに原発を持つ日本は、既に40トンを越える猛毒のプルトニウムを保有している。その上ミサイル防衛システムである。これで北朝鮮がテポドンを発射したことや北朝鮮の核計画の疑惑を非難できるのだろうか。冷静に考えれば分かることである。北朝鮮は韓国とは戦争状態であり、米国とは休戦中の状態である(1953年韓国を除く米・中・朝休戦協定に調印)。
 日本は特に東アジアで、軍備による緊張感を高める方向でなく、あくまでも平和外交に徹しての道を選ぶべきである。国民の安堵感はそこにしかない。

 国民に示された新防衛大綱の認識の中から、どうすれば武力攻撃事態等が出来するのであろうか。何とも間の抜けた状況判断である。なぜなら、我が国の防衛の大綱を支えている論理的根拠となる相手国の軍事力の整備は、今に始まったことでは無く、ここにきて脅威乃至武力攻撃が突発する訳でもないからである。国際テロ組織等の活動を含む新たな脅威を挙げるが、これなどはまさに政府が呼び込んでいる政治災害そのものである。
 同盟国の米国は、北朝鮮などの弾道ミサイルに対抗するために導入を目指すミサイル防衛(MD)の実験で、迎撃ミサイル発射不能の結果を受けて、「(敵弾道ミサイルの)脅威は強まっておらず、(稼動を急ぐ)圧力はない。」という(ラムズフェルド国防長官2004年12月22日)。つまり、中国・ロシアの米国本土に到達する大陸間弾道弾の存在は脅威となっていないのである。ましてや北朝鮮の攻撃能力など恐れてはいない筈である。
 相手国から見れば、日本の新防衛大綱に示すような考えをもって処すれば、むしろ日本の方が脅威と映り、朝鮮半島や台湾海峡における不安定要因となっているのである。現に各国から懸念を表明されている。
 日本が1945年9月2日に東京湾上の米艦ミズリー上で、正式降伏するまでに受けた戦禍等の記憶は、日本が動向を今後とも注目していく必要があるとした国々からは、消えていないのである。

 拉致問題では声高に経済制裁を唱え、国民を煽りその反響を受けてさらに増幅し、脅えの影を大きくそして濃くし、事態を悪化させ、敵国視させ、憎しみを増幅させている。山積する内政問題にはその能力を十分に発揮せずに、国民の目を増税等から逸らさせる。平成17年1月1日 小泉首相の年頭所感に、「北朝鮮との関係については、拉致の問題、核の問題、ミサイルの問題を包括的に解決するために、国際社会と協調し、「対話と圧力」の方針で粘り強く交渉にあたります。「日米同盟」と「国際協調」を基本に、今年も国益を踏まえた主体的な外交を展開いたします。」とあるが、一見バランスとれた外交のようであるが、日米同盟という鎧を着けていては既に喧嘩腰であり主体的な外交には程遠いのである。江華島事件などの一連の歴史の繰り返しである。
 日本はなぜ隣国との平和的調整が採れないのか国民としては悔やまれるが、これも日米安全保障条約が首枷となり障壁となっているからである。
 米国にとって、太平洋の西の果てに南北に弧を描く列島は、願っても無い防衛ラインとなることは、見慣れた日本地図を手に持ち、右手側を下にしてみれば容易に理解できる。米国にとっては、前線基地であり、例えそこが主戦場となり攻撃され核爆弾がまたもや破裂しようが、使い捨ての駒である。米国本土からは遠く離れているのである。

 脅威や平和と安全に影響を与える多様な事態とは何なのか。これら多様な事態を作り出しているのも新たに描くのも政府自身ではないのか。国民を不安に陥れて、国民保護法を制定し、憲法を越えたところで国民を管理する国家緊急権の設定ではないのか。新防衛大綱にいう新たな脅威は米国のこれまでの対外政策が作っているのである。証の一つとして国際兵器売買全体では41%の輸出を米国が占めているのである。これは事実上の大量破壊兵器の拡散である。その結果が跳ね返っているのである。そして日本はミサイル防衛に伴う決定で、米国との武器共同開発・生産までを共にし、武器輸出3原則を破る。米国は正に国際紛争の当事国または、そのおそれのある国である。新防衛大綱で他国へ懸念したことを自ら実施するのであるから、何とも矛盾したことである。

 さて「国民の保護のための措置の実施に関する基本的な方針」第1章で、国民の協力を得つつとあるが、混乱の極みの中で、国民保護計画又は国民保護業務計画に基づき、整然と避難できるものだろうか。生死の真っ只中で、寸刻を争う中で手引書を紐解くような悠長なことは、現実には無理である。ミサイル攻撃では短時間(約10分程度)で明暗が分けられる。私の住む市の人口79,186人 30,018世帯(平成16年11月末現在)が、どのような事態に、どのように対処しながら、何処に避難するのか(誘導されるのか)。飛来するミサイルの弾頭には核爆弾か、生物兵器(細菌、ウィルス、毒素や、これを充填した砲弾・爆弾で、人、動物又は植物に害を加えることを目的としている)か、化学兵器(毒ガス、またはこれを充填した砲弾・爆弾をいう)か、それとも高性能火薬の詰め物か、破裂するまでは一切不明である。ミサイルは精度が悪いゆえに都市型攻撃に用いられるのである。何処を狙っているか、何処に着弾するのかなども含め、正確な情報など適時適切に出せるはずが無いのである。ミサイルの波状攻撃にあったら一溜まりも無いのである。情報伝達手段が破壊されることも考慮に入れるべきである。最も不可思議なことは、国、地方公共団体、指定公共機関等関係機関は無傷で相互の連係協力体制が確保されるとの判断である。そして短時間に複雑な組織体系が整然と措置を為し得て、国民はどこか安全な避難先に保護されるという想定である。極めて楽観的なお伽話のような想定である。密な組織ほど連携の繋がりが欠けた時、瓦解しカオスに陥ってしまうのである。東京大空襲の例をとるまでもなく、真夜中の攻撃も想定される。避難民は右往左往し、惨禍に遭うのである。
 ボランティア活動と戦争状態についていえば、イラクの非戦闘地域で活動する自衛隊の基地に日本の報道機関は入っていない。なぜか。種々の理由の中で、やはり安全の保証ができない、ということも挙げられる。武力攻撃されることは戦争状態に突入していることである。相手が降伏するかこちらが敗北を帰すか或いは休戦協定に調印するのか、いずれにしても当事国政府間等で明確にすべき事柄である。その結果戦争状態の停止が確認され国民に伝達されるのではないか。「武力攻撃事態等においては」とか「武力攻撃事態等の状況を踏まえ、その適否を判断するとともに、ボランティアの技能等の効果的な活用等に配慮するものとすること。」とのことは無いのである。事態対処法第一条・第二条によれば臨戦態勢であり、武力攻撃は我が国に対する外部からの武力攻撃をいい、武力攻撃事態は武力攻撃が発生した事態又は武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態をいい、武力攻撃予測事態は武力攻撃事態には至っていないが、事態が緊迫し、武力攻撃が予測されるに至った事態をいうのである。これら三事態を武力攻撃事態等と称しているのである。武力攻撃事態等においては、ボランティアが登場している余裕は無いのである。この事態等は自然災害ではないのである。
 「国は、地方公共団体の協力を得つつ、パンフレット等防災に関する啓発の手段等も活用しながら、国民保護措置の重要性について平素から教育や学習の場も含め様々な機会を通じて広く啓発に努めるものとすること」としている。国民はどのように啓発されたらいいのか判らないが、肝心なことは多くない。どのように言辞を多用しても国民にとっては、要は生命、財産がどう保証されるのかである。これに尽きるのである。
 「指定公共機関及び指定地方公共機関がその業務について国民保護措置を実施するに当たっては、その実施方法等については、国及び地方公共団体から提供される情報も踏まえ、武力攻撃事態等の状況に即して自主的に判断するものとすること」いわれても、日本銀行、日本赤十字社、日本放送協会その他の公共的機関及び電気、ガス、輸送、通信その他の公益的事業を営む法人は、自主的に何をするのだろうか。武力攻撃事態等が起きた時、政府は干渉している隙が無いから勝手に判断せよということなのだろうか。日本赤十字社などは言われなくても必要なこと、つまり、人の命の尊厳を守るため、様々な人道的活動を実施するのでないか。また放送の自律を保障することにより、その言論その他表現の自由に特に配慮するものとすることの縛りがあっても、放送に携わるものにしてみれば、武力攻撃事態等の情報の入手先は限定される。適宜に的確な情報開示がなされ、そしてその情報を検証することができなければ、大本営発表になりかねない。所謂、挙って垂れ流しである。また放射能汚染等による悲惨な光景が出来したとき、自然災害の様な現場からの放映は報道機関が無傷としても極めて困難であり、国民が事実を知るのは後のことになる。
 わが市には風水、地震災害の指定避難先として小・中学校(計12か所 発災直後48,000人 初期4,750人/(1人2平米) 長期3,230人/(1人3平米) 2,300人(最小)〜7,400人(最大)/か所当たり収容)が宛がわれている。また地震災害の一時避難所として、市内各所の公園48か所(151,400平米、一時収容人員41,200人 200人(最小)〜4,000人(最大)/か所当たり収容)が指定されている。連絡網は、防災行政無線固定系設備(同報無線)が全操作を管理する親局を市役所に、遠隔制御設備を消防本部に整備し、屋外子局を市内公共施設に全部で66局(か所)設置されており、市内全域をカバーしている。これらの施設は自然災害向きであって、政治災害である武力攻撃事態等には何の抵抗の術も無い。NBC攻撃のいずれにも無抵抗のため、避難先に集合した場合は却って大量死が想定される。また集中避難は着上陸侵攻で内部侵攻された場合には、防衛側に不利に働く結果になる。肝心要の消防・医療機関は攻撃事態が終了するまでは安易に動けない。
 若し私たちの自治体が本格的に武力攻撃事態等に対応する処置をしたいと計画した時、予算措置はどうするのか。事態対処法第十六条等によれば、損失に関する財政上の措置は講じられるようである。丸裸同然の自然災害対応施設をそのまま武力攻撃事態等に当て嵌めては国民の保護にはならない。だからといって、地下50mの深さに地中貫徹型核兵器(核バンカーバスター)にも耐えるような生き残りを賭けた施設、市民全体を収容できるような地下施設を作ることは不可能に近い。結果としては、犠牲者数を数える結果になり、国民の保護になっていない。国民の保護に関する指針は、竹やり式精神的備えに後の祭りの処理を、述べたに過ぎない。いかに詳細な有事法制が整備されようと生命が危険に曝されたのでは意味が無く、むしろ「喪なくしていためば、憂い必ずあたる」ということになる。
 基本的人権の尊重が書かれている。不思議なことである。武力攻撃事態等において武力攻撃から国民の生命、身体及び財産を保護することを、国、地方公共団体等の責務であるとしているが、真の責務はこのような政治・政策災害とも謂うべき事態を引き起こさないことである。それが政治の要諦である。
 憲法の何処を見たらこのような武力攻撃事態等が想定されるのであろうか。つまり国民の保護といいながら、憲法を逸脱しているのであるから、基本的人権が軽視されるのは明白である。
 「武力攻撃災害」つまり、武力攻撃により直接又は間接に生ずる人の死亡又は負傷、火事、爆発、放射性物質の放出その他の人的又は物的災害が発生した時には、既に基本的条件は侵されているのである。例えば、ミサイル攻撃で原子力発電所が究極の破壊を受けた時、想像を絶する被害が待ち受けていることになる。武力攻撃によらずとも、原発事故時の被害のシミュレーション結果がある。浜岡3号炉の(110万kw)あたりは東海大地震の危機が叫ばれており、中央防災会議による想定震源域に位置している。ある設定条件下で3号炉の事故の被害は60数万人が急性障害で死亡、放射線の影響から700万人以上がガンで死亡するとの悲惨なシミュレーションの数字が出ている。最大規模の被害が予想されるのが東京寄りで、水戸市の北東17kmの位置にある東海2号炉である。本州中央部の広範な地域が避難の対象圏内に含まれる。といっても避難することは不可能であり、被害は首都圏に集中する。
 地方自治法第一条の二「地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする。」としている。住民の福祉を第一義的に考えるなら、政府の武力攻撃事態の想定に対して、自治法第一条二 2項にいう、国際社会における国家としての存立にかかわる事務は国の担当であるからと、住民の避難引率に従事するだけでは事足りない。例えば選択肢として、「無防備地域宣言」を実施し、住民の安全を確保することも必要である。国民の保護をいう政府が国民保護法に基づく措置が唯一の手段であると決め付けることはない。全国の自治体が無防備地域宣言を出せば、戦争の仮定は消える。
 中国・ロシア連邦は、ジュネーブ四条約・第一追加議定書・第二追加議定書に批准ないし加入している。北朝鮮は、ジュネーブ四条約・第一追加議定書に加入している(2003年12月末現在)。特に他国からの攻撃を考慮した時、追加議定書の第59条に云う無防備地域であることの宣言を各地方公共団体ができるようにすべきである。ジュネーブ条約追加第一議定書(1977年)第59条は、(無防備地域)「紛争当事国が無防備地域を攻撃することは、手段のいかんを問わず、禁止する。」としている。直接住民の福祉を願う地方自治体として可能ことであり、地方分権下において、普通地方公共団体の自主性及び自立性が要請されるところである。
 ただ心配なのは日本と違って第9条の様な制限の無いアメリカが第一追加議定書・第二追加議定書に批准も加入もしていないことである(但し、ジュネーブ四条約は批准している)。日本は米国と共に追加議定書の締約国となっていない。因みに第一追加議定書(国際的武力紛争の犠牲者の保護に関し1949年8月12日のジュネーブ諸条約に追加される議定書)は、1949年のジュネーブ四条約の内容を補い、また武力紛争の影響から戦闘に参加していない一般の人々を保護することを目的としている。第二追加議定書(非国際的武力紛争の犠牲者の保護に関し1949年8月12日のジュネーブ諸条約に追加される議定書)は、1949年のジュネーブ四条約共通第3条の内容を発展させ、かつ補うもので、一国内で行われる武力紛争(内戦)で適用を受ける。2003年12月現在、第1追加議定書に161カ国・第2追加議定書に156カ国が批准または加入している。
 一国民として、避難するのか、しないのかの選択の自由は確保しておいて貰いたい。避難先での大量殺戮や強制疎開は基本的人権の尊重にそぐわない。特に放射性物質の放出が想定される場合には、避難移動するよりも自宅に籠もり内部から密閉性を維持するために隙間や継ぎ目を塞いだのが生存の確率は高いこともある。

 第2章 武力攻撃事態の想定に関する事項であるが、今我が国の周辺を見渡した場合、国連に非加盟なのは台湾である。台湾は仮想敵国には入っていない。武力攻撃事態等が生じる相手国というと、同じ加盟国同士ということになる。理論的には「どちらが先に手を出したか」の問題になり易い。特にミサイル発射に関しては重大である。攻防が決め兼ねない状況が出来し易いからである。戦争は欺瞞や偽証や偶発をその契機とし勃発し、途轍もない犠牲を払って終了する。張本人よりも無辜の民にその累を及ぼし甚大な被害を与えるのである。国民は自衛の発動がなされたのか、はたまた先制的自衛(将来の武力攻撃に対する自衛権行使はゆるされていない)なのか国民には知りえないのである。国民保護法 第九十八条に発見者の通報義務等がある。その瞬間の現場に遭遇することが無いとは言えきれないが、常人には自衛隊の訓練なのか異国の武力攻撃なのか予測は困難である。何よりも武力攻撃等の定義あっても、その態様が不明のため、「不審者を見かけたら110番」の類と同様である。通報を待つようでは国民の保護など到底覚束無い。日本の周辺国は我々と風貌が酷似しておりその点でも見分けは困難である。この観点から国内で米国と共同行動が執られた場合、特に着上陸侵攻においては、米兵により便衣隊と誤認されての国民への誤射攻撃が懸念される。
 この狭い国土で、国民に何処に避難しろというのか。わが市でいうならば、車を駆れば東西南北の方角どちらでも、10分程で他市他町に至る。約八万人の市民の生命を守るために、避難させる場所が何処に在るというのか。非戦闘員は無抵抗のまま死に至るだけである。住民の福祉を目的とする地方自治体にとって、その任を負い措置する事は不可能である。国民の保護法制は実に画餅に等しい。
 事態対処法 第二条一「武力攻撃 我が国に対する外部からの武力攻撃をいう。」とある。ここで我が国とはどのような意味なのかは政府の恣意的な解釈になるのである。更に謂うと、米国の解釈(指図)によるのである。我が国の外延は米国と共に在るというのが事実である。振り回される自衛、扱き使われる国民、監視される国民、死に追いやられる国民が現実となるだけである。戦端は何時でも何処ででも開かれる準備が整ったのである。我が国の歴史や、直近のイラク戦争から判断し、我が国民は戦争によってまた他国民を殺すということに加担することになる。  さて事態対処法第十八条に、「政府は、国際連合憲章第五十一条及び日米安保条約第五条第二項の規定に従って、武力攻撃の排除に当たって我が国が講じた措置について、直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。」とある。近隣諸国で先に攻撃したと推定される国があったなら、その国も安全保障理事会に報告することになる。互いに自衛権の行使を言い募る。偵察衛星からのデータには期待できない。技術的な信頼性でなく、その秘密性とその得た情報の我田引水の操作に問題があるのである。偵察衛星からの資料を分析する公平な第三者機関の判断が必要とされる。
 憲章五十一条でいう自衛権は、「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」であって自衛権の行使を積極的に奨励している訳でない。したがって武力攻撃を回避するために国連による集団的対応が可能でる場合には、自衛権の行使が抑制されるべきと積極的に考えるべきである。自衛権を有することと行使することとは峻別すべきである。
 「事前にその活動を予測・察知することが困難で、突発的に被害が生じることを想定」とあるが、奇襲、奇策を用い遊撃するのがゲリラや特殊部隊なのである。ここでも国民の保護の措置は有名無実である。つまり、事の本分を見抜けないのだから特に集団引率的避難行動は無謀なのである。まさか態々命を懸けて他国を攻撃に来る特殊部隊やゲリラがコンビニを狙うとは想定できない。第5章 緊急事態への対処(1)にもある攻撃が同時に行われる可能性もある。本隊に先立つ同時多発の攪乱戦法(BC等を用いての)か、重要拠点狙いか、最悪事態を招来する一発狙いの原発破壊かなど、いずれにしてもゲリラや特殊部隊またはテロによる攻撃から国民が逃れることは困難であり、国民の保護からは程遠い。
 大きな自然災害が多発する現今その対応さえ儘ならないのに、「屋上屋を架す」の武力攻撃事態の想定である。弾道ミサイル、其の弾頭は強力な通常爆弾なのか、大量破壊兵器としての生物、化学兵器なのか、核爆弾なのか、定かでない。一か八かの攻撃に他国が通常弾頭のミサイルを日本に打ち込むとは考えにくい。もっともこれもミサイルの数百発を連続して原子力発電所や都市に目掛けて落とせば、日本は終末を迎える。いや東アジア一帯が戻ることない甚大な被害を受ける。別に殊更他国からの脅威に訴えなくても、地震の巣の上にいるので、原発事故からの自滅もある。
 来年度の予算では、ミサイル防衛(MD)関連に1,198億円(内訳:海上配備型迎撃ミサイルSM3整備のためのイージス艦改修に 307億円 地対空誘導ミサイルPAC3高射部隊整備に647億円)、政府自ら作り上げた「新たな脅威」に302億円、核・生物・化学兵器による攻撃に対応する新たな偵察車の開発に13億円を計上する。自衛隊イラク派遣の関連経費は146億円である。ミサイル防衛システムには今後どれ程税金を投入するのか。このミサイル防衛システム、米国が開発したもので軍事機密のため当然米国の防衛システムに組み込まれる筈である。万が一にでも他国からミサイル発射の兆候が確認された段階で、「撃ったら迎え撃つぞ」と相手に警告し、その時点で「撃て」の指示はシビリアンコントロールから離れて部隊指揮官に権限委譲してしまう予定である。その後、部隊指揮官は迎撃の指示を、ミサイル発射を監視している北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)から来るのを待つのか。
 日米防衛協力のための指針 日本に対する武力攻撃に際しての対処行動等 1、2から日米協力の在り方は、整合のとれた共同作戦の実施なのである。日本は米国防衛システムの最前線で防人を果すのである。日本まで10分程度、米国まで30分程度、この時間差と日米何れの地に撃ち込まれようが、日本のイージス艦からSM3を撃たせる。弾の費用は日本の自己負担(一発約20億円 2004年度予算で181億円だから9発購入できる)である。米国を狙ったミサイルでも、日本の弾で撃つ。命中しなかったら、米国行き以外は高射部隊がPAC3(パトリオット)で迎え撃つ。一発約5億円(2004年度予算64億円で12発〜13発)。約マッハ6以上で突っ込んで来るのを狙うのだから外れる可能性が大。数撃つヒマもない。もっとも全部撃っても今は13発である。
 私が住む市は先ずMD防衛の傘からは洟も引っかけてもらえないのである。それよりも精度の悪い弾道ミサイルのことだから、流れ弾に中るのが心配である。PAC3も掻い潜ったら、その時初めて、責任者が生きていれば、パソコンゲームで無かったことを理解することになる。多分米国も「2001年9月11日」が米国の主張通りだとしたら、防衛能力はお粗末であるから、同じ目に遭う確率が高いのである。ただ30分程の時間差だが準備に余裕でき、数も多く持っているから、下手なミサイルも数撃てば中る可能性はわが国より大である。
 核爆発に屋内への避難でいいのか。屋内の避難というが、具体的にどのような構造の建物を想定しているのか。あの空襲の下、身を潜めて焼夷弾の落ちる音を聞き、死の恐怖に脅え、そして死んだ国民の犠牲を忘れたのか。国民に真実の情報を与えず、批判を許さずただ操る無謀な政治によって死に追いやられた人々の死に思いが至らないのか。迅速且完全なる壊滅あるのみとするとし、原子爆弾投下で市街は壊滅したのを忘れたのか。米国の核抑止力下にある政策を採り、同時に核兵器のない世界を目指すという論理矛盾を引き起こし、包括的核実験禁止条約(CTBT 現在の核兵器所有国に核兵器を撤廃させるものではない)の早期批准の働き掛けや核軍縮、核不拡散の取り組みを推進し、核兵器廃絶に全力で取り組んでいくといっても、虚しい言葉を聞く思いである。
 一体何処の国が我が国に武力攻撃をする意思と能力を持つというのか。わざわざ国民の反対するのにも拘わらず、交戦国に憲法を無視し、強弁し、自衛隊を派遣し、新たな脅威を呼び寄せているのは政府なのである。海外に自衛隊を派遣し攻撃を受けたら我が国に対する計画的、組織的な攻撃だというように認定し自衛権を発動するのか。我が国に対する外部からの武力攻撃というが、この国民の保護法制は戦争を意図したものであり、国民の保護の名の下に作られた戦争体制そのものである。つまり、戦争体制を築くために、外部からの武力攻撃の脅威を煽り、利用しているのである。国民の保護にはなっていないのである。国民は、政府が再び戦争への道を歩み始めたことを、危惧するものである。
 被爆国としての平和への願いを過去の事として葬り、再び国民を犠牲にしての無茶な野心を懐き始めたのである。そして「股を割きて腹に啖う」の経済界が後を押す。「一鶏鳴けば万鶏歌う」に同調しては滅びに向かうことになる。

 政府は「武力攻撃事態における憲法で保障している国民の自由と権利について」で、「憲法第12条その他の規定からも、憲法で保障している基本的人権も、公共の福祉のために必要な場合には、合理的な限度において制約が加えられることがあり得るものと解される。また、その場合における公共の福祉の内容、制約の可能な範囲等については、立法の目的等に応じて具体的に判断すべきものである。したがって、武力攻撃事態への対処のために国民の自由と権利に制限が加えられるとしても、国及び国民の安全を保つという高度の公共の福祉のため、合理的な範囲と判断される限りにおいては、その制限は憲法第13条等に反するものではない。」としている。
 そもそも武力攻撃事態等が発生すること自体、公共の福祉の概念に当て嵌まるものではないのである。政府の謂う公共の福祉は、国の政策的、恣意的判断を国民に強いることを意味しているのであって、憲法九条にある、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄するに、真っ向から立ち向かうものである。国民を犠牲にさせずには置かない事態を引き起こすのは政府の行為からである。憲法違反から生じる法制を以って国民の自由と権利に制限を加えるとはどういうことなのか。我が国に対する外部からの武力攻撃は、国民の保護に関する基本指針要旨 第2章 武力攻撃事態の想定に関する事項から判断しても、これは戦争そのものである。国及び国民の安全を保つという高度の公共の福祉のためとは、つまり、政府の行為によって再び起される戦争の惨禍から国及び国民の安全を保つということである。戦争そのものが、国民の福祉に反しているのであるから、そのような公共の福祉は有り得ないのである。戦争という非合理な状態からどのように合理的な範囲が導き出されるというのか。
 憲法十三条にある、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利が侵されるとき、むしろ第十二条にいう、「国民の不断の努力」を発揮し、保持しなければならないのである。第十九条の、「思想及び良心の自由」等は、上述の高度の公共の福祉のような場合には、その制約を受けるものでなく、むしろ主権者として外部表現をすることが憲法の趣旨でもある。決して内的に留まることが期待されているものではない。政府見解にいうように、自衛隊法第百三条にその思想、信仰等のために自衛隊に協力しないということが、想定されることではない。「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」のである。

 国民の保護に関する基本指針のようなことに、国民や地方自治体等の時間、物、金を費消することは大きな損失であり、国力の消耗である。例えば、「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ平和のうちに生存するための国、地方公共団体並びに指定公共機関及び指定地方公共機関の役割に関する基本指針」なら、国民は明日への希望を持って生きることができ、少子化への歯止めにもなるだろう。経済成長の鈍化、税や社会保障における負担増大、地域活力の低下などの政府の暗い予想の啓発パンフレットで、少子化が止まるとは思えないのである。それと同様に、国民の保護に関する基本指針を読んで、これで安心して子供を生み育てられる環境が揃ったと思う国民がいるだろうか。戦争を常日頃考えながら、いつ何時攻撃されるかも知れないという恐怖に曝されて生きなければならない環境では、人心が不安定になるのは当然のことである。
 有事法制が整備されることで、軍事力が直接全面に出ることになり、冒険的小競合いの場を増し、戦争へと突き進むことになる。平和に生きようとする国民の願いは無視され、嘆きへの道を歩むことになる。
 一体この先何があるのか、有事法制によって。


国民の保護に関する基本指針要旨についての意見募集 締切日 17.01.21に応募したものである。
2005年01月20日夕刻 首相官邸HPにメールで送付。
【HP上では送付後の誤記の訂正個所 (国民の保護にはならい⇒国民の保護にはならない、地下50m下に⇒地下50mの深さに)】
参考資料等
【154-衆-武力攻撃事態への対処に関する特別委員会 会議録 平成14年05月08日】
【国会会議録検索システム】
【有事法制関連法】
『昭和史』[新版] 遠山茂樹 今井清一 藤原彰 著 岩波新書 昭和46年10月20日 第18刷
『憲法』新版 補訂版 芦部信喜 岩波書店 2002年3月5日第9刷
『国際条約集』2003年版 2003年3月28日発行
『世界事典』2000年版 自由国民社
講演会『差し迫る原発災害の危機!!-今いったい日本の原発はどうなっているのか-』
京都大学 原子炉実験所 小出裕章 2005年1月8日
『完全シミュレーション原発事故の恐怖』瀬尾健著 風媒社
「中日サンデー版」中日新聞社
【中日新聞 記事】
【HP等での疑問解消】


傍聴記 2005/02/05

平成16年(ワ)第695号・第1458号・第2632号
自衛隊のイラク派兵差止等請求事件
原 告 池 住 義 憲 ほか
被 告 国

  原告準備書面(25)

                          2005年2月4日
名古屋地方裁判所 民事6部合議係 御中
                      原告ら訴訟代理人
                          弁護士 内 河 惠 一
                           同  川 口   創
                                 外82名

 第1 はじめに

 原告らはこれまでにも各準備書面において被告準備書面(1)に反論し、原告らの訴えが民事訴訟として適法である理由を述べてきたが、本準備書面では被告準備書面(1)に対応する形で、これに反論し、本件訴えが適法であり、貴裁判所が実体審理に入るべき性格の事件であることを主張するものである。以下、本件訴訟が貴裁判所を含む司法権に何を求めているのか、被告主張の前提となっている議論の誤りに触れ、被告主張に対する反論を行った後、これまで法廷で原告らが縷々述べてきた原告らの被侵害利益が何であり、それが法的に保護されるべき権利・利益であることを主張するものである。

 第2 本件訴訟が司法に問いかけるもの

 1 現在、被告国は、いわば確信犯として、憲法9条を蹂躙している。国会答弁において、小泉首相みずからが、自衛隊を「戦力」と呼び憲法9条との矛盾抵触を正面から認めている状態にある。これまでの自民党政府がまがりなりにも日本国憲法を「遵守」し、日本国憲法の範囲内において自衛隊を「合憲的」存在と「解釈」しようとしてきた(それが如何に解釈の名を借りた実質改憲だったとしても)姿勢とは、根本的に異なるものである。しかも、イラク特措法で「自衛隊を戦闘地域に派遣しない。」と定めていることに対して、「自衛隊の行くところは非戦闘地域である」と小泉首相が国会で平然と答弁しているその姿勢こそ、現在の政府が国会の民主的統制すら問題にせず、代表民主制そのものが有効に機能していない姿を如実に浮かび上がらせているのである。
 2 日本国憲法がその系譜を引くと言われる、アメリカ独立宣言及びフランス人権宣言は、政府が憲法に違反し、人権宣言を蹂躙した場合には、人民に対して政府に「抵抗する権利」=革命権を認めた。近代立憲主義は、人民が本来有する人権を守るためにこそ、国が存在し、時の政府がその目的である人権を蹂躙し、人権を守るために定めた立憲主義を無視する時には、ときの政府をうち倒す権利を人民に認めたものである。
 3 そもそも、「抵抗権」を実定法体系にとりこめるかどうかについては争いがあるが、抵抗権の本質は、人民各人が信ずる道徳的義務と国法上の義務の衝突である。そして、この抵抗権こそが近代憲法において、憲法保障の最後の手段だとされているのである。現在日本で進んでいる事態は、本来、憲法遵守義務を負い、憲法に従って行政権を行使すべき政府自身が、日本国憲法が許容する政府の権限の範囲を踏みにじっているのであり、もはや憲法を憲法自身の制度によって守ることが可能か、それとも最後の保障である抵抗権が発動される事態かという状況にある。日本国憲法における憲法保障の要ともいうべき違憲審査権を付与されている裁判所はこのような状況を厳しく自覚すべきである。
 4 抵抗権が行使される場合として、これまで論じられてきたのは、政治権力が正当性がない場合と正当な権限を有する政治権力がその権限を濫用している場合が挙げられてきた。まさに現在、日本で進行している事態は、後者の典型である。
 宮沢俊義は、抵抗権が自然法=理性法に基づく権利であり、実定法化されることになじまない権利であるとした上で、その抵抗権行使の場面をできるだけ少なくさせるために近代憲法は、様々な工夫をしてきたと論じている(憲法U)。日本国憲法における抵抗権の実定法化の中心は、憲法典における網羅的な「人権カタログ」の存在とそれを守るための手段としての「違憲立法審査権」にあることは言うまでもない。つまり、憲法があからさまに蹂躙される時に、人民が抵抗権を行使する前に日本国憲法は実定法秩序を維持する最後の手段として、「違憲立法審査権」を行使することを裁判所に命じたのである。日本国憲法が81条において、裁判所に「違憲立法審査権」を付与し、76条で「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」と規定して「法と良心にのみ従った」裁判を行うことを裁判官に命じたのは、この意味において、本来の意味の抵抗権行使の場面をできるだけ極小化させるために、司法による憲法保障に期待したためである。裁判所はこのような時期に、このような問題でこそ、憲法保障の最後の砦としての権限を積極的に行使することを憲法により命じられているのである。

 第3 国の主張に対する反論−本件訴えの適法性

 1 被告国の主張
 (1)本案前の答弁
 被告国は、本案前の答弁において、原告らが求める差止訴訟と違憲確認訴訟につき、訴えが不適法であるとの理由で却下を求めている。
 その理由は、概略、以下のとおりである。
 ア 差止訴訟について
 (@)裁判所法3条の「法律上の争訟」の要件は、次の二つの要件を満たす必要がある。
   @当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であること
   Aそれが法令の適用により終局的に解決することのできるものであること
    本件で原告らが差止めを求めているイラク特措法に基づく自衛隊のイラク派遣は、原告に向けられたものではないし、原告らの具体的な権利義務ないし法律関係に何らの影響を及ぼすものではない。
 (A)原告らが侵害されたと主張する平和的生存権の具体的権利性は、最高裁平成元年6月20日第三小法廷判決(民集43巻6号385頁、判例時報1318号3頁)を始めとする多数の判例によって否定されている。
 (B)差止訴訟の適法性について
 当該訴えが適法となるためには、その対象となる行為が、国民一般に抽象的な影響を及ぼすのみでは足りず、国民個々人の権利ないし法律上の利益に直接の影響を及ぼすものでなければならない。
 平和的生存権は具体的権利として国民個々人に保障されたものではない。
 よって、平和的生存権を根拠とする本件差止めの訴えは、その実質において、原告ら個人の権利ないし法律上の利益に直接の影響を及ぼすことを根拠とするものではない。従って、上記(@)@要件との関係で、被告との間で具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争が起こり得ないのであるから不適法である。
 イ 違憲確認訴訟について
  @法律上の争訟性を欠く
  A確認の利益を欠く
 具体的な権利侵害を被ったのであれば、それを理由として損害賠償請求を求めれば足りるのであり、現に国賠請求をも提起しているから、あらためて損害賠償請求とは別個に違憲確認判決を求める利益はない。
 (2)本案の答弁
 ア 差止訴訟について
 当該行為を差し止め得る私法上の権利(差止請求権)を有していることが不可欠である。ところが、原告らが差止請求権の法的根拠として主張する平和的生存権等は、いずれも国民個々人に保障された具体的な権利といえない。したがって、本件差止請求は、主張自体失当である。
 イ 損害賠償訴訟について
 原告らが被侵害利益として主張する平和的生存権等は、いずれも国民個々人に保障された具体的な法的権利とは認められず、また、いずれも国賠法上保護された利益とも認められない。自衛隊の派遣それ自体は、原告らに向けられたものではないから、原告らの法的利益を侵害するということはあり得ない。本件損害賠償請求は、いずれにしても主張自体失当である。

 2 被告国の主張に対する反論
 (1)以上のとおり、被告国の主張は、原告らが求める訴えの内、差止訴訟と違憲確認訴訟について、本案前の答弁で却下を求め、損害賠償訴訟と差止訴訟について本案の答弁で平和的生存権が具体的権利ではないと主張している。つまり、訴訟の適法性に関する主張は、差止訴訟と違憲確認訴訟についてのみであって、損害賠償訴訟に関しては訴訟を不適法と主張していないことに留意されるべきである。その意味で、少なくとも損害賠償請求訴訟については、裁判所は、本案の判断をすべき義務がある。
 そして、被告国が却下を求める差止訴訟については、被告国の主張はつまるところ、原告らが侵害されたと主張する平和的生存権が具体的権利ではないという主張につきており、違憲確認訴訟については、それに加えて確認の利益がないというだけの主張である。
 しかし、既に準備書面(17)で詳細に論じたとおり、平和的生存権は国際法的にも承認され、わが国でも多くの学説がこれを承認し、長沼訴訟第一審判決を始めいくつかの下級審で認められている権利であり、軽々にその権利性が否定されるべきものではない。むしろ、以下に述べるように平和的生存権は、日本国憲法上明確に権利として認められており、その権利性を否定することはできないものである。
 また、違憲確認訴訟の違憲確認の必要性は、本件では極めて強いものがある。被告国は、先に述べた小泉首相の国会答弁にあるように、違憲であることをいわば確信をしながら自衛隊派遣行為を続けており、また、昨年12月の派遣延長の閣議決定においても、今後違憲の行為を繰り返すことを言明し続けているのである。つまり、単に損害賠償だけでは今後の違憲行為の継続を止めることはできず、その意味で本件では違憲確認の必要性が極めて強いものがあると言わなければならない。以下、被告国が本件訴訟を不適法とする実質的理由について反論し、平和的生存権が権利であることを述べる。
 (2)被告国の主張は、以下のとおり多くの点で意識的か無意識的にか違う次元の問題を混同した議論であり、到底、正しいものとは言えない。
 混同の第一は、被告国が法律上の制約と憲法上の制約についての区別を全くしていない点にある。被告国は、憲法上の司法権が具体的事件・争訟性が必要であるとして「憲法上の司法権」の範囲と裁判所法3条の「争訟」を同視して議論を展開している。被告国の主張は、この点について、何の疑問も留保も無いようである。しかし、裁判所法3条の規定から明らかなように、現行訴訟法上は、裁判所法3条の「法律上の争訟」に該当しない訴訟形態も認めており、通説もこれを格別憲法上違憲と考えていない。そもそも裁判所法3条の「法律上の争訟」と憲法76条の司法権の範囲が同一であるならば、裁判所法3条が定める「法律で特に定める場合」に該当する客観訴訟、民衆訴訟(現行法上これらに該当する訴訟として、地方自治法上の職務執行命令訴訟、公職選挙法上の選挙訴訟・当選訴訟、地方自治法上の住民訴訟)は司法権の範囲を超えることになるはずである。これらの訴訟が憲法上の司法権の範囲を越えず、違憲の問題を生じないとするならば、被告国の「本件訴訟は民衆訴訟であり、現行訴訟法上これらの訴訟を認める法律がないから不適法な訴訟である」という主張は、法律のレベルでは成立しえても憲法のレベルでは成り立たなくなる。つまり、憲法レベルでの司法権の概念に内在する要件である「具体的事件性」とは、現行法上は客観訴訟や民衆訴訟とされる訴訟をも許容するものであり、裁判所法3条の言う「法律上の争訟」に入らなくとも憲法上の司法権の行使としては許されるのである。そして、それはことが違憲立法審査権の行使に関連する場合に重要な意味を有することとなる。このことは、付随的違憲審査制を否定し、抽象的違憲審査制を認めることとは全く別の次元の問題である。抽象的違憲審査制は、法律の効力をその公布とともに直接に違憲審査の対象とする制度であるのに対し、客観訴訟における違憲審査は、公権力の具体的な行為を前提にし、これをめぐる紛争の解決に必要な限りで行われるものであり、直接に法律の合違憲が争われるのではなく、争われるのは具体的な国家行為についての訴訟の中でそれに付随して違憲審査が行われるに過ぎない(以上の区別について、野中俊彦「抽象的違憲審査の観念」小林直樹先生還暦記念現代国家と憲法の理念123頁以下)。
 この区別は、法律上の訴訟要件を満たすことが憲法上の基本権を侵害された場合の救済の条件ではなく、法律上の訴訟要件を満たさなくても、憲法上基本権侵害の救済を求める訴訟の提起が可能だと考える場合には、結論に大きな違いを導くこととなる。つまり、現行の法律上認められた訴訟類型ではなくとも憲法上許される訴訟があり得る(後述の基本権訴訟)ことを認れば、そもそも被告国の言う、本件訴訟が現行法上認められる訴訟ではないという理由は、本件訴訟を憲法上不適法とする何の理由にもならないこととなるからである。
 (3)第二の問題は、原告らが主張する被害・影響は、国民一般に及ぼされる抽象的影響にすぎず、従って本件訴訟は政策形成を目指す訴訟にすぎないと被告国が非難する点である。
 確かに、主権者という抽象的な国民一般への影響では、政治的な争点とはなっても具体的な権利義務の対象とならないことはそのとおりである。しかし、国の行為による被害の範囲が国民全体に及ぶ具体的権利侵害があった場合に、被害の範囲が国民全体に及ぶからといって、直ちに主権者国民に対する抽象的影響でしかないという論理は正当ではない。つまり、「国民の一部」に生命・自由等の被害が生じる場合は、具体的権利侵害が認められ、「全部の国民」に同じ被害が生じるときには、個々の国民には具体的権利侵害が生じないとする論理の誤りは明白である。被害の範囲の広がりの問題と具体的な権利侵害があるかないかという問題とは別の次元の問題なのである。
 (4)第三に被告国は「自衛隊派遣は原告らに向けられた行為ではないから、原告らの権利侵害は考えられない」というが、行為の相手方や行為の直接的対象ではないといって被害が考えられないという、この論理も到底受け入れがたいものである。例えば、平和的生存権の権利性を認め、自衛隊の違憲判決を下した長沼事件第一審判決の場合も、ナイキ基地の建設は、周辺住民に向けられた行為ではなかったが、それをもって周辺住民に権利侵害がないことを意味するのではないと正しく判断している。また、原発や基地の建設の場合、その行為の対象や相手方ではなくとも周辺住民に被害が及ぶことは考えられるし、現に多くの判例は、そのような被害が発生することを認めている。さらには、マンション建設による周辺住民の生活環境等への権利侵害など、行為の相手方と権利侵害を受ける対象とが異なることは、むしろ、日常茶飯事に認められることであって、国の論理が成り立たないことは明らかである。つまり、行為の相手方や向けられた対象かどうかという問題と被害の発生とは別次元の問題だということである。
 被告国が本件訴訟を不適法とする実質的理由として挙げている理由は、いずれも、本来別次元の問題を意識的に混同させた議論であり、論理的に誤っているというしかない。
 以下、日本国憲法が平和的生存権を認めていることを準備書面(17)を補充する観点から論じ、被告国の主張がそもそも成立しえないこと、被告国が引用する判例の理解が誤っていることを論じる。

 第4 平和的生存権の権利性

 1 平和の代表民主制と人権保障との関係
 (1)近代憲法において平和は人権の問題ではなかった。近代憲法は、人権保障部分と代表民主制部分にわけられるが、平和は代表民主制の領域に属する問題であった。しかし、平和は人権保障のための最大不可欠の条件であり、戦争になれば、人権は紙くず同然に踏みにじられる。かけがえのない人間の尊厳性であるとか、侵すことのできない永遠絶対の人権とか憲法がどのように格調高い言葉で謳おうとも無差別爆撃にさらされる民衆にとっては無縁のことである。単に肉体が危うくされ、生活が物質的に苦しめられるだけではない。戦争は、心を傷つける。過度の忠誠と無条件の支持が要求され、人間的な懐疑や良心的な公正心は、怯懦や反逆と同視される。戦争遂行権力の精神に対する支配・強制が様々な形で推進される。さらに、民衆はこのような被害の立場だけでなく、他国の民衆の人権を侵す加害者の立場に身を置くことを余儀なくされる。平和時においては、他人の身体の自由を少し侵害しても非難され、制裁されるのに、戦争ともなれば、相手国の民衆の人権を大量に侵害し、それどころか、彼らの生命そのものを奪う立場に立たせられるのである。それが称賛され、民衆は自らの手で人権を絞め殺し、自分の心で人権の理念を葬りさることになる。
 このような意味で戦争は二重三重の意味で、人権の理念と相容れない。平和が人権存立の最大不可欠の基礎条件であり、平和が失われれば、人権は内部から朽ち果てるのである。
 (2)ところが、近代憲法の下では、平和は代表民主制の問題とされ、人権の問題とされなかったことによって、平和を権利として要求できなかったのである。人権は、平和が確保された場合にのみ保障されるものであるのに、平和の確保は、人民の直接関われる事項ではなく、国政の代表者にのみ任せられた事項だったのである。その意味で、戦争か平和かの問題は、人民の権利の問題ではなく、多数決によって運用される代表民主制の論理の支配する事項とされたのである。しかし、その問題は、代表民主制の論理の支配する事項の中では、最も民衆のコントロールの難しい事項とされてきた。戦争か平和かの問題は外交の問題とされてきた。外交は専門性を必要とされる。専門性は秘密を要する。素人が自由に論議しては外交が成功する筈がないとされ、戦争か平和かの問題は、人民がみだりに口を出す問題ではなく、専門家である政府にまかせるべき問題だとされたのである。
 ここにおいて、極めて深刻な問題が生じる。人民は、人権保障規定において、人権を永遠絶対不可侵のものとして保障されるのであるが、それは、実質的には、平和が確約される限りにおいてという条件付きのものとなり、しかも戦争か平和かの問題は、人民のコントロールの最も及びがたい事項だとなるのである。つまり、人権は絶対的に保障されるといっても、条件付きの絶対権という論理矛盾をおかすこととなっていたのである。
 (3)現代という歴史的現実は、このような矛盾の破綻を不可避にした。現代の戦争は、それが核兵器によるものであれ、通常兵器によるものであれ、その被害はかっての戦争とは格段に異なり、軍隊のみに被害が生じるものではなく、一般民衆に大規模かつ深刻な被害が発生するものである。それ故に、人民の立場から言えば、戦争は、単なる政治目的達成のための合理的手段ではなく、地上最大の悪となり、「平和」はあらゆる人間的価値の基礎条件として、人の党派や政治的な立場に関わらない不変人類的価値になったのである。その意味で平和は、人民自身が直接に管理しうるものとなった。日本国憲法は、第9条によって平和の確保を憲法上の規範とすることによって、平和の確保を国家権力の国民に対する約束、責任とした。すなわち、従来、国民が代表民主制(多数決)のしくみを通してしか関わり得なかった平和を、国民が人権として要求できるものにしたのである。戦争と平和の問題は、代表民主制や、多数決で運営される議会制民主主義の結果によって任されるべき問題ではなくなり、平和は、多数決の論理の及ばない、いかなる状況においても守られるべき優越的な価値となった。日本国憲法は、平和をあらゆる基本的人権の存立しうる基礎条件として、最も重要な基本的人権として位置づけたのである(高柳信一「戦後民主主義と『人権としての平和』」)。
 (4)被告国が援用する平和を理念だとする判例は、いずれも戦争と平和の問題を「19世紀的観念」に引き戻し、平和を前述した代表民主制の問題と位置付け、現代における戦争と平和の意味と日本国憲法が19世紀的な伝統的概念を大きく前進させ、平和を人権の問題として捉えようとしていることの意味を全く理解しようとしないものである。日本国憲法が、前文で、「平和のうちに生存する権利」を掲げ、第2章第9条で非軍事・戦争放棄の立場に立ち、第3章において個人の尊重を基礎に基本的人権の保障を定めたことに鑑みれば、その全体構造から考え、日本国憲法の定める「平和」を単なる「理念・政策」と決めつけることは、到底正しい理解とは言えないのである。被告国が引用する「平和ということが理念ないし目的としての抽象的概念であって、それ自体具体的な意味・内容を有するものではなく、それを実現する手段・方法も多岐、態様にわたるのであるから、その具体的な意味・内容を直接前文そのものから引き出すことは不可能である」という指摘も、このような日本国憲法の全体構造を考えればもはや的を射たものとは言えない。確かに「平和」という言葉は、一般的用法として抽象的・多義的な概念であるとしても、それは自由や平等という言葉についても同様にあてはまることであって、それをもって具体的な権利ではないということにはならない。むしろ、問題は、日本国憲法の解釈を通じて、そこに定める「平和」に具体的意味内容を見出しうるかどうかということである。この点からすれば、日本国憲法の下での「平和」は一切の戦争の放棄と一切の戦力の不保持をその具体的な内容と理解することは、既に述べた立法者意思から考えても、前文や第9条、第13条などの日本国憲法の総合的な条文解釈からみても明らかである。そう考えれば、「平和のうちに生存する権利」の具体的な意味内容を確定することは十分可能である。

 2 前文の裁判規範性と平和的生存権の裁判規範性
 すでに準備書面(17)で詳細に論じたように、平和的生存権は、国際的にも承認されており、日本国憲法上も前文第二段に明確にその根拠を持つものである。
 憲法上、「平和のうちに生存する権利」として、前文中で唯一の権利として確認されていることの意味を軽視することはできない。被告国は敢えて前文の裁判規範性についての議論を避けているが、仮に前文に裁判規範性が認められる場合には、裁判規範たる前文において、「平和のうちに生きる権利」と明記されている平和的生存権の権利性を否認することはできなくなる。権利性を認めた上で、その権利の性格や内容を明確にするという作業が必要となるはずである。原告は、準備書面(17)において、前文に裁判規範性が認められるべき理由を詳述したところであるが、被告国が前文の裁判規範性を否定するのであれば、その理由と根拠を明示すべき責任がある。
 また、仮に前文に直接裁判規範性を認めない立場に立つ場合でも、前文が本文各章の解釈基準となることは認めており、本文に欠訣がある場合には裁判規範性を肯定している。そうであれば、被告国が前文に裁判規範性を認めない立場に立った場合でも、前文の「平和のうちに生存する権利」を解釈基準として本文各条項を読み込んで、原告らの主張する平和的生存権が認められないかどうかが検討されなければならないこととなる。そして、そのような作業を行ってなお、本文から前文に規定されている権利である平和的生存権が読み込めない場合には、改めて前文の直接裁判規範性が問題となる筈であり、その余地を認めているのである。これが、従来の前文の裁判規範性否定説の代表的な立場である(甲C第2号証の2に紹介されている大西芳雄説、佐藤功説)。被告国は、前文の裁判規範性についてまともな議論をせず、被告国が引用する従来の裁判例もこれに正面から答えようとしてこなかったと言わなければならない。憲法違反が問題とされている憲法判決は、「かりに、合憲判決が下されるとしても、司法審査を濾過したというにふさわしい形式と内容がそなわっていることが望まれる」にもかかわらず、わが国における憲法判決は、「審査対象たる法規範それ自体をきわめて抽象的に」または「漠然とした感想的・直覚的合理性なり、社会通念なりにもとづいて、…合憲判決を下す傾向が顕著なのである」という批判(芦部信喜「憲法訴訟の理論」15頁)そのままに、裁判所として求められる憲法解釈をいい加減に扱ってきたと言わなければならない。
 「憲法前文が裁判規範性をもちうるものであるとすれば、そのような前文にわざわざ権利性が明記されている平和的生存権については、格別の理由あるいは反証がないかぎりはその裁判規範性を否定することはできないことになる」筈である(山内前掲書275頁)。被告国は、憲法前文の裁判規範性についてどのように考えるのかを明らかにした上で、憲法前文がわざわざ「平和のうちに生存する権利」と権利性を明記した意味をどのように解するのか明確に答えなければならない。
 3 平和的生存権の権利の特定性、明確性について
 (1)被告国が引用する判例及び被告国の主張をみても、平和的生存権を具体的権利ではないというのは、結局のところ権利の内容が特定されておらず明確ではないという点しか根拠を挙げていない。確かに平和的生存権の権利性を積極的に認めようとする各学説も平和的生存権の根拠を憲法前文に求める説、憲法9条に求める説、憲法前文・9条・第三章によって総合的に保障されていると考える説(総合保障説)に分かれているし、享有主体についても国民個々人と考える説から民族と考える説などの違いがあり、法的内容についても各論者によってその説くところが異なっているように見える。
 しかしながら、一見したところ特定性も明確性もないように見える平和的生存権の肯定論であるが、甲C第2号証の3の小林論文が言うように、その内容を詳細にみれば、「それらが必ずしも相互排除的でなく、むしろ相互補完的な関係に立つものである」(46頁)ことに留意しなければならない。
 (2)平和的生存権の憲法上の根拠について、これを第9条に求める説と憲法前文に求める説、さらには総合的に保障されていると考える説(総合保障説)があたかも対立しているように見えるが、その説くところは、それほど隔たっている訳ではない。憲法前文に根拠を求める説が憲法第9条と平和的生存権を無関係と考えている訳ではなく、平和的生存権の客観的制度的保障が憲法9条であると考えており、憲法9条に直接根拠を求める説も憲法9条を平和的生存権の最低保障を定めたものと考えている点で論者が言うほどの大きな対立がある訳ではない。また享有主体についても民族を享有主体と考える代表的な論者として挙げられる長谷川正安名古屋大学名誉教授自身がこの裁判の原告としてこの法廷で意見陳述したように、対外的な関係において民族を享有主体と考える立場も本件で問題となっている対内的な関係では国民個々人を享有主体と考えており(例えば、影山日出弥「憲法の基礎理論」207頁)、その点では格別の対立はない。そして、平和的生存権の法的内容についても、各論者それぞれその保障内容について説明の仕方等は違っていても、内容には大きな差異はない。
 (3)むしろ、最も大きな差異は、憲法第9条を直接根拠とする説によれば、憲法第9条に違反したことが直ちに平和的生存権の侵害であり、全国民が直ちに救済を求めて裁判提起ができると考える(例えば浦部法穂「全訂憲法教室」402頁)ことになるのに対し、その他の説では、憲法第9条に違反しただけでは足りず、それが何らかの国民の権利を侵害した場合にはじめて出訴できると考える(例えば山内敏弘「平和憲法の理論」291頁)こととなる点にある。これは本件のような訴訟において違いが生ずる。憲法第9条を人権保障規定と考える立場に立てば、憲法第9条に違反したことは直ちに国民の平和的生存権すなわち「憲法9条の下で生きる権利」を侵害したことになり、権利を侵害されたすべての国民が救済を求めて訴訟ができると考えられる。これに対して、後者の立場に立てば、憲法9条違反の国家行為によって、国民のどのような権利侵害が生じたかが問題となる。総合保障説の立場に立てば、やはり主観的権利である平和的生存権の内容は客観的制度である憲法第9条と憲法第3章の個別人権規定によって充填されるととらえられるために、憲法第9条違反の国家行為は、主観的権利である平和的生存権の権利侵害となる(小林説及び杉原説はこの立場と思われる)。しかし、この場合でも国家行為によって国民は憲法第3章の各個別人権規定によって内容を充填された平和的生存権を侵害されたのか、それとは別に憲法9条に内容充填された平和的生存権を侵害されたのかが問題となり、根拠とともに平和的生存権の内容が具体的に問われることとなると考えられる。
 (4)そして、この点の対立も結局のところ、具体的に問題となる場面では結論にそれほどの差異はなく、いずれの論者も、例えば、徴兵制の場合でも、憲法第9条に違反する国家行為による戦争加担行為が問題となった場面でも、説明の仕方の違いはあれ、憲法違反として出訴しうるという結論に違いはない。
 人権としての平和を日本国憲法が保障したことから考えれば、端的に憲法第9条を平和的生存権の根拠と考える立場も十分に成立しうるであろうが、やはり憲法第9条の憲法典の位置や憲法第9条の規定文言を考えれば、憲法第9条は国家に対する命令としての制度的規定と考えるのが自然である。そして、「平和のうちに生存する権利」を憲法の憲法ともいうべき前文に定め、その下で平和の内容を憲法第9条で、非軍事・戦争放棄によって確定し、憲法第3章で定める国民の基本的人権が保障された生活を保障することによって、平和的生存権を保障したという総合的保障説が最も無理のない解釈であると考えられる。ただ、その際、小林説は憲法第13条を媒介させずとも憲法第9条による平和的生存権の内容充填は可能だという立場に立つが、むしろ、憲法第9条の規定する非軍事・戦争放棄の政府の下で生活することが「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」(憲法第13条)に入るものと考えて、その規定を媒介にして、憲法第9条の客観的・制度に関する規定が平和的生存権の内容となると考える方が憲法解釈として自然ではないかと思われる。
 (5)以上のとおり、平和的生存権の内容は、その根拠や享有主体、権利内容に至るまでいずれも、憲法全体をみれば十分に特定性と明確性を有しており、被告国の主張は誤っているのである。
 4 本件で問題としている平和的生存権の内容
 (1)平和的生存権の内容について、山内教授は、次のように広狭二義に分けて説明している。
   @狭義:戦争や軍隊によって自己の生命を奪われない権利、あるいはそれらによって生命の危険にさらされない権利。この権利には、例えば、理由の如何にかかわらず(良心にもとづくと否とにかかわらず)徴兵を拒否しうる権利が含まれる。
   A広義:戦争や軍隊あるいは総じて軍事目的のために個人の権利や自由を剥奪・制限されないことを意味している。例えば、軍事目的のために個人の財産を強制的に収用されない権利、あるいは軍事目的のために表現の自由を侵害されない権利等がこれにあたる(山内「平和憲法の理論」292頁)。
 (2)ところで、憲法第9条は政府に対して、戦争と武力による威嚇、武力の行使を禁じており、その憲法の下でわが国が戦争や武力による威嚇、武力の行使を行うことはないもの(憲法第9条の下で生活できること)として平和的確信を形成してきた具体的・実在的国民個々人にとって、政府が憲法第9条に違反し、戦争に加担することは、自らの人格の中核存在を傷つけられることである。その意味で憲法第13条の保障する「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を侵害するものである。わが国が戦争に加担する行為によって、国民個々人は平和的生存権を侵害されたのである。日本国憲法は前文で「全世界の国民」に「平和のうちに生存する権利」を定めている。もちろん、憲法という国家を前提にした法規範上での定めである以上、直接のこの権利の主体は日本国民及び在日外国人になるが、憲法が「全世界の国民」に「平和のうちに生存する権利」を保障するとした文言は無意味ではない。むしろ、「全世界の国民」が各国の政府によって互いに戦わされることのない権利を日本国民及び日本の領域内の人々に保障した規定と解釈すべきである(甲C第2号証の4,89頁)。
 (3)前文の平和的生存権の意味をこのように解すれば、上記平和的生存権の内容は、次のように修正すべきではないかと考えられる。
   @狭義の平和的生存権は、戦争や軍隊によって自己の生命を奪われない権利と併せて戦争や軍隊によって他者の生命を奪うことに加担させられない権利と定義し、
   A広義の平和的生存権を戦争の脅威と軍隊の強制から免れて平和のうちに生活し、行動することができ、他国の民衆への軍事的手段による加害行為と関わることなく平穏な生活を享受できる権利を意味するものと考えるべきである。平和的生存権の中核、核心に平和的に生存する権利という意味で戦争や軍隊によって自己の生命を奪われ、生命の危険にさらされないで生存する権利があることは言うまでもないであろう。それに加えて日本国憲法が侵略戦争の反省に基づき二度と同様の行為を繰り返さないために、憲法第9条において非軍事・戦争放棄を定め、全世界の国民に「平和のうちに生存する権利」を確認した趣旨を考えれば、我が国が軍事的手段により他国の国民に対する加害を行うことをいささかでも認める筈はない。そして、それが個々の具体的・実在的国民の主観的権利である所以は、人間が関係性の存在であることに求められる。後述するように原告らはそれぞれ具体的な著しい利益侵害を被っている。それは、自らの生命、身体の安全を脅かされることにとどまらず、精神的な著しい苦痛に及ぶものである。そして、原告らにいずれも共通するのは、戦争放棄を約束した我が国が米英国軍と一体となって、他国の人民を殺戮する行為に加担することによって、著しい精神的苦痛を感じているということなのである。
 (4)他人が生命を奪われることを見聞きすることによって自己が感ずる精神的苦痛を「単なる不快感、不安感」と切り捨てる論理は、人間存在に対する極めて皮相な見方である。人間は他者の被害を見聞きするだけで、その精神に極めて深刻な被害を受けうる存在である。ジュディス・L・ハーマンは、「心的外傷と回復」(増補版217頁〜)の中で深刻な心的外傷を負った患者と治療者の例を引きながら、治療者に起こる外傷性逆転移という現象の報告を行っている。治療者は患者の話を聞くことによって、「患者の同一の恐怖、怒り、絶望を体験する」ことや生き残った者の罪悪感に似た「目撃者の罪悪感」を抱くことがあることをナチ・ホロコーストの生存者の治療者の例について報告している。そして、このような外傷性逆転移反応をハーマンは避けられないものと述べている。このような外傷性逆転移反応は、治療者と患者だけに生じるのではない。PTSDの被害者の家族が話を聞くことで被害者以上に深刻な心的被害を生じる例が存在する。自己の身体の保全に迫る危険だけではなく、他人の身体の保全に迫る危険を目撃したり直面(聞くことも含まれる)することによって、人が深刻な精神症状を起こしうることは今日の精神医学では広く承認されているのである。原告らの主張は法理論的にも日本国憲法の規定の上でも、現在の科学に裏付けられた事実の上でも十分に根拠のあるものである。

 第5 平和的生存権侵害の蔓延するわが国の現状

 我が国の国民は現在、多くの平和的生存権侵害の事態にさらされている。上記分類でいえば、広義の平和的生存権を侵害する多くの事象が生じているのである。
 @表現の自由の侵害
 本件自衛隊のイラク派兵と同時並行的に進められた軍事国家化によって、国民は知る権利を根本的に傷つけられ侵害されている。自衛隊の派遣により、現地自衛隊の安全を守るためと称して、政府からマスコミ各社に報道統制の要請がなされた。要請とはいうものの、その中身は、イラクにおける活動の報道は、政府が発表する情報のみに限るというものである。その結果、新聞やテレビを始めとするマスメディアの報じる情報は、限られた政府発表情報のみとなり、イラク戦争の実態やファールージャの一般民衆の大量虐殺などの報道はされず、国民は自らの知る権利を侵害されている。受け手としての権利が侵害されているだけではない。国民はイラク派兵についての意見を自由に述べる権利すら国家によって侵害されているのである。立川における反戦ビラを配布した者の逮捕、これに対する無罪判決直後の東京における同種事件での逮捕や公務員のビラ配りに対する逮捕など、この国に生きる個々の国民の表現の自由は大きく侵害されている。
 A居住移転の自由
 さらに、国内、海外への居住移転の自由や海外旅行の自由など、国民の日常生活が大きく制限されている。
 Bプライバシーの権利
 また、テロ対策と称して主要駅頭や航空機など国内の至る所に警官が立ち、厳戒態勢を強いている。その結果、国民は監視の対象とされ、プライバシーなど大幅に国民の自由の侵害状況が蔓延している。
 これらの権利侵害状態は、本件イラクへの自衛隊派兵と同時並行的に行われている我が国の軍事国家化現象によるものであるが、憲法の制約にもかかわらず、憲法など無視して戦争のできる国へこの国を作り替えようとする動きによって引き起こされたものである。

 第6 原告らが侵害されている権利の内容

 1 このような我が国の国民の人権状況の中で原告らも被告国から多くの利益侵害を受けているが、さしあたり本件の争いの対象である自衛隊のイラク派兵によって侵害されている原告ら個々人の権利を概括的に言えば、「殺し、殺されず、恐怖から脅かされないで平穏な生活を営む権利」(これを訴状では、日本国憲法の下で「戦争や武力行使をしない日本に生存する権利」と呼んでいる)ということになる。これまで法廷に現れた原告の陳述を前提にすれば、原告らには、以下に述べるように上記分類で言えば狭義の平和的生存権侵害が発生しているものである。
 (1)自らの生命や身体の安全が脅かされず生活する権利の侵害
 例えば、日本人外交官やジャーナリストの死、人質事件や香田さんの死は、本件自衛隊の派遣によって、日本国民であるだけで現に生命や身体の安全が脅かされていることを示している。それは、直接生命の侵害やその危険に直面した人々だけでなく、日本国民がいずれも直接身に迫る危険や自由の侵害に晒されている。本件自衛隊のイラク派兵が引き出したのは、日本国内にいる日本人にさえ、米英軍の侵略と大量虐殺に加担した日本に対する報復として、生命、身体に対する危険を飛躍的に大きくさせた。特に、海外において文字通り人道的な援助活動に参加してきた原告五井らは、NPO活動家は、本件自衛隊のイラク派遣によって直接生命の危険が飛躍的に高まったのである。
 (2)戦争に加担させられない権利
 そしてこれまで本法廷で陳述した原告の全てに共通する権利侵害が戦争に加担させられない権利の侵害である。それは、他国の人民を殺戮する戦争に加担させられることによって精神的苦痛を被らない権利の侵害である。原告らは、いずれも憲法9条の下で国家が戦争や武力による威嚇等の行動を採らないことを信じ、平和的確信を形成してきた。そのような平和的確信を形成する動機や経過は原告各人毎に異なるものである。例えば、原告麻田は自らの戦争体験から、原告長谷川も戦前の体験とその後の平和活動への経験から、原告天木は、中東地域における外交官として、武力による平和がもたらす悲惨さを目撃したその経験から、それぞれが自らの平和的確信を形成してきた。そして、日々報じられるイラク戦争の実情、被害者である子供やそこで殺されていく人々の姿から、原告らはいずれも深く自らの人格を傷つけられ、極めて深刻な精神的苦痛を被っているのである。原告ら各人の権利侵害の詳細は追って準備書面で主張するものである。

 2 原告らの利益侵害
 (1)以上のとおり原告らは本件自衛隊のイラク派兵によって具体的な権利侵害を受けている。それを仮に憲法上の権利と呼ばないとしても、法律上保護に値する「利益」にあたることは言うまでもない。原告らが法廷で陳述してきた被害が、法律上保護に値する「利益」に当たらないと考えるのは、原告らの被っている痛み、苦しみを表面的にしか理解できていないためと言わなければならない。既に論じてきたように原告らに法的保護に値する利益の侵害があり、被告国の違憲行為という規範秩序の上では、極めて違法性の強い本件行為によって、それが引き起こされ、損害が発生していれば、損害賠償が認められるべきであることは当然である。さらに、それが人の人格存在にかかわる自らの人格的統一性を破壊しかねない人格的利益の侵害であれば、差止めの理由にもなる。
 (2)被告国が損害賠償訴訟について本案前の抗弁をせず、本案の答弁を行っている以上、裁判所は、原告らに法的保護に値する「利益」の侵害が発生しているのか、被告国がいかなる違法行為を行っているか、それによって原告らに損害が発生しているのか、被告国の違法行為と損害との因果関係が存在するのか、という実体審理に入らなければならない理由はここにある。
 (3) 首相の靖国参拝について違憲判決を出した福岡地裁判決(判例時報1859号134頁)では、原告らが主張した、
   @平和的生存権、
   A政教分離規定の保障する人権、
   B信教の自由、
   C宗教的人格権等のいずれの権利も侵害していない、あるいはこららが憲法上の人権ではないと判断しながら、次のように述べて一定の場合には、原告らに「法的保護に値する利益」があり得ることを認めている。
 「原告らの主張する人格的利益が憲法上の人権といえないものとしても、一般論として、人が他者の宗教的活動によって、例えば精神疾患にも準じるような激しい精神的苦痛を被った場合について、それが単に精神的、内心的なものにとどまるということの一事をもって不法行為による被侵害利益たり得ないと解することが相当でないことはいうまでもない。一方で、違憲又は違法な宗教的活動がされた場合であっても、その活動によって直接的物理的に干渉を受ける者でない者が自己の信条と異なることから不快感を覚え、あるいは自己の過去の経験から過去が想起されるなどして苦痛や不安、危惧感等を抱き、又は当該宗教的活動につき甚だ不適切な行為として憤りを感じたとしても、およそそれらが一般に不法行為の被侵害利益として賠償の対象になると解することはできない(そのように解すれば、不法行為による損害賠償ないし国家賠償制度自体が維持できなくなるものというべきである。)したがって、原告らの主張するような人格的な利益は、それが直ちに法的に保護すべき利益であってその侵害が不法行為に当たるとはいえないものの、そのような利益を主張する者の立場、当該宗教的活動による影響の程度、嫌悪感等の域を超え、個々人の具体的な利益を侵害されたと認められる場合には不法行為も成立し得、それによる損害の発生も観念し得るものと解するのが相当である。」と述べ、行為の直接の対象でもなく、直接の影響も被らない者にも立場等によって、法的保護に値する利益が観念でき、不法行為の成立する余地を肯定しているのである。
 (4)すでに述べたように宗教的活動の場合と異なり、本件のように他者の生命・身体の保全の危機に直面した者が深刻な精神的被害を受けうることは今日では、精神医学的に認められた明らかな事実であって、本件においては、上記判決が可能性を認めた具体的利益侵害や不法行為の成立、損害の発生は、上記事案に比較して、より一層認められるものである。そして、それが人格の本質に関わる人格的利益であり違法性の程度が強度であること、差止の必要性がきわめて強いことに鑑みれば、差止訴訟も適法な訴訟であるというべきである。さらに、前述のとおり本件では違憲確認の必要も強度であることを考えれば、原告らの本件訴訟は、いずれも適法であり、被告の本案前の答弁は正当とはいえない
 (5)そして、被告国の本案の答弁も、単に原告らの主張する平和的生存権を具体的権利ではないというだけなのであるから、実体審理の結果、原告らに上記主張どおりの具体的な権利侵害が発生しているとすれば、直ちに原告らの求める訴えが認容されるべきこととなる。

 第7 被告国の判例理解の誤り

 1 被告国は、百里基地最高裁判決を、平和的生存権の具体的権利性を否定したものとして引用している。しかし、被告国の判決の引用は極めて恣意的であって正確なものではない。該当部分の正確な引用は以下のとおりである。「上告人らが平和主義ないし平和的生存権として主張する平和とは理念ないし目的としての抽象的概念であるから、憲法9条をはなれてこれとは別に、民法90条にいう『公ノ秩序』の内容の一部を形成することはなく、したがって (この下線部分が被告国の「引用」では、「それ自体が独立して、具体的訴訟において」という文言に置き換えられている)私法上の行為の効力の判断基準とはならないものというべきである。」(判例時報1318号9頁)
 つまり、百里基地最高裁判決を正確に引用するならば、同判決は、「平和的生存権が憲法9条をはなれてこれとは別に民法90条の公の秩序の内容を形成することはない」と判示しているのであって、平和的生存権一般の具体的権利性を否定していないのである。百里基地最高裁判決を含む最高裁の平和的生存権に対する姿勢について、「これらの最高裁判決によって平和的生存権の人権性あるいは裁判規範性が全面的に否認されたのかといえば、決してそうではないということである。その意味では将来において平和的生存権の人権性あるいは裁判規範性をなんらかの形で容認する可能性はなおなくなってはいないということである。」(山内敏弘「憲法と平和主義」206頁)という評価がされているのである。私法上の契約の効力を判断基準となるかどうかをめぐって争われた事件に於ける上記最高裁判決の言及だけで、最高裁が平和的生存権の人格権的性格一般を否定したかのように評価する被告引用の解説は、明らかに最高裁の判決の許されざる拡張解釈である。
 正しく上記最高裁判決を読めば、山内教授が評価するように、最高裁は、いまだ「平和的生存権」の具体的権利性一般を否定したものではなく、むしろ、憲法9条によってその内容が充填されるという、原告らの主張を容認する余地が十分あるのである。
 2 確かに被告国が主張するように、平和的生存権やそこでいう平和が抽象的で不明確と判示する下級審判決は存在するが、いずれの判決も、等しく結論のみを述べるだけで、何故、平和的生存権や「平和」が抽象的で不明確であるかについての具体的論証を全く行っていないのである。上述のとおり、原告らも含めて平和的生存権を肯定する立場の者は、いずれも前文の「平和的生存権」は、憲法9条によって内容が充填され、それによって特定性、明確性を有するのだと主張しているのであるから、これを否定するのであれば、憲法9条の解釈論を展開し、日本国憲法全体の構造に鑑みても「平和的生存権」は特定性も明確性ももたないのだという論証をしなければ、なんら反論にも論証にもなっていないといわなければならない。被告国が引用する下級審判決(乙第1号証を含む)はいずれも、このような説得的な憲法論の展開は全くしていないといわなければならない。説得力もなく、内容もない下級審判決を数だけ集めても、被告国の主張が正当であるという何の論拠にもならないことはいうまでもない。
 3 被告国の提出した乙第2号証、第3号証及び第4号証の各判決にいたっては、被告国の主張を支える何の根拠にもならないものである。乙第2号証は、本件と同様イラクへの自衛隊派遣に関する訴訟ではあるが、抗告人は、自らの立場を「日本国民として憲法前文に規定された平和的生存権、日本国民としての名誉及び良心に関する権利を有する」と主張するが、その具体的内容については何ら主張をせず、唯一主張されているのも、「控訴人(抗告人)の生命や財産は、被控訴人国の憲法を無視した違法な行為によって、日一日と確実に日本が戦争に巻き込まれる方向に向かっていることは間違いのない事実であり、控訴人(抗告人)は国民の一人としてまさに今自分の身に降りかからんとする重大な危険を阻止しなければならず」と述べるだけである。この主張自体は誤りではないにしても、ここでも、国民一般と区別された抗告人の具体的な権利侵害の中身は主張もされていないのである。乙第3号証及び乙第4号証は、上記乙第2号証の事件の本案訴訟であると思われるが、ここでも原告が具体的な権利侵害を主張した形跡はない。いずれも原告本人が憲法違反の国の行為を座視できず、やむにやまれぬ思いで提訴した本人訴訟であると思われるが、本来、このような本人訴訟に対しては、裁判所は後見的な姿勢で主張の内容を整理すべき義務があるのに、これをせず、裁判所が原告の単なる技術的な欠点に付け込んで下した判決と評価しなければならないものである。何ら先例的価値を有するものではない。
 4 その他、平和的生存権の具体的権利性を否定するものとして、被告が引用する下級審判決(東京地裁平成9年3月12日判決など)は、いずれも紋切り型の表現で「平和的生存権にいうところの『平和』とは理念ないし目的としての抽象的概念であり、裁判規範としてなんら具体性を持つものではない」として、平和的生存権の具体的権利性を否定している。
 (1)しかし、このような見解は、日本国憲法の解釈としては到底、正しいものとはいえない。確かに「平和」という言葉は、それ自体を取り出せば、様々な意味や達成の手段も様々なものがある抽象的概念である。しかし、ここで問題としていうのは、「平和」という概念一般の問題ではない。日本国憲法が志向する「平和」や「平和的生存権」が憲法上の他の条項と併せて解釈しても具体的な意味内容が確定できないかどうかという問題なのである。日本国憲法は、前文において、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」(前文第1段)と定めて、戦争は政府の行為によって起こることという認識に立ち、「日本国民は、恒久の平和を念願し、…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(前文第2段)と、平和を武力によってではなく、平和を愛する諸国民の「公正と信義に信頼」することによって保持することを決意したのである。その上で、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」(前文第2段)と、全世界の国民が平和的生存権が存在することを確認しているのである。
 (2)この前文の規定に続いて、第2章第9条第1項において、「戦争の放棄」、「武力の行使」、「武力による威嚇」を「永久に」放棄し、第2項において、「陸海空軍その他の戦力」を保持しないとし、国の「交戦権」を認めないものとして、一切の戦争も武力の行使も行わないこと、そのために戦力を持たないことを明確にしているのである。このような日本国憲法の前文及び第9条から、日本国憲法が志向する「平和」が「非武装平和」という具体的な意味内容を付与されていると考えることは極めて自然である。被告国の挙げる下級審判決の中には、「平和」は理念または目的として抽象的であるのみならず、それを実現する手段方法も多様であるので、その意味内容を具体的に確定することはできないというものがあるが、いかに一般論として「平和」を実現する手段方法が、「非武装平和」から「武力による平和」まで多様にあるといっても、日本国憲法は憲法第9条において、一義的に日本国憲法は「非武装平和」を「平和」の実現方法として具体的に定めているのである。この点をこれらの下級審判決はことさら無視しているといわざるを得ないのである。確かに憲法第9条の解釈にも政府見解から憲法学界の通説のようにいくつかの見解が存在するが、それは、平和的生存権のみに特有なことではなく、裁判規範性を有することの明らかな自由権についても、憲法解釈上様々な見解があるからといって、当該自由権が裁判規範性をもたないことにならないのと同様である。
 (3)長沼ナイキ基地訴訟第一審判決が、自衛隊の憲法適合性の判断について、政策を判断するのではなく、憲法規範への適合性を審査しょうとしているのだという、次の判示は、日本国憲法が裁判所に要求している役割をまことに的確に表しているものと言わなければならない。「自衛隊の憲法適合性、つまり国家安全保障について軍事力を保持するか否かの問題については、憲法は前文および第9条において、明確な法規範を定立しているのであって、その意義および解釈は、まさに法規範の解釈として客観的に確定されるべきものであって、ときの政治体制、国際情勢の変化、推移とともに二義にも三義にも解釈されるべき性質のものではない。そして、当裁判所も、わが国が国際情勢など諸般の事情を総合的に判断して、政策として自衛隊を保持することが適当か否か、またこれを保持するとした場合どの程度の規模、装備、能力を備えるか、などを審査判断しようとするものではなく、まさに、主権者である国民がわが国がとることのできる安全保障政策のなかから、その一つを選択して軍隊等の戦力を保持するか否かについて定立した右憲法規範への適合性だけを審査しようとするものである。そうであるとすれば、裁判手続きのなかで、一定範囲で自衛隊の規模、装備、能力等をその実体を明らかにすることができる程度で主張、立証が尽くされれば、国際情勢、その他諸々の状況を審理検討するまでもなく、自衛隊の右憲法条規への適合性を容易に検討できるのであって、その間、裁判手続きに随伴するなんらの桎梏も存在することなく、結局、被告主張のように、司法審査の対象から除外しなければならない理由は見出すことができない。」(判例時報第712号70頁)

 第8 裁判所は積極的に憲法判断をすべきである

 1 法律の留保と訴訟法の留保
 (1)以上のとおり、現行法を前提にしても本件訴訟は、適法であることは明らかである。しかし、本件が原告らの平和的生存権を侵害していること、それが政府の違憲行為によってなされていることを考えれば、仮に本件訴訟が被告国の言うように、民衆訴訟、客観訴訟と評価されるべきものであっても、裁判所は原告らの権利を救済しなければならない。
 (2)我が国の明治憲法は、外見的人権規定を有すると言われていた。これは、憲法で保障された人権がいずれも「法律の留保」がなされ、人権を保障するといっても、結局、法律の認める範囲内でしか権利が認められなかったため、憲法上の人権保障は単なる外見にすぎないという意味から名付けられたのである。これに対して日本国憲法は、法律の留保を廃し、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言以来の近代立憲主義の系譜を引く人権規定をもつものと、高く評価されている。しかし、日本国憲法制定以来、本来、憲法保障を担うべき裁判所の司法審査は、人権が侵害された場面でも、既存の訴訟法の訴訟要件や訴訟類型に当てはまるものだけが救済の対象とされ、これにあてはまらないものは全く救済されない事態が続いてきた。つまり、司法審査制によって克服された「法律の留保」は、実体的基本権が実定実体法規との関係で、「法律の留保」に服さず、裁判規範性を有するに至ったことを意味するだけに過ぎず、司法審査を受ける前提として不可欠な訴訟要件、訴訟類型レベルでは相変わらず実定訴訟法の規定するがままの状態が続いてきたのであり、まさに「既存の訴訟法に全面降伏」(奥平康弘「憲法訴訟と行政訴訟」公法研究41号97頁)し、いわば「訴訟法の留保」は手つかずのまま残されてきたのである(棟居「人権論の新構成」288頁)。つまり、現行訴訟法の認める範囲でしか憲法典に定められた人権は保障されていない現状にあるということである。
 (3)しかし、本来、裁判所は憲法上の司法権の行使を委され、人権保障の要としての違憲立法審査権を付与された国家機関として、立法、行政等の国家行為によって国民の基本的人権が侵害され、現行訴訟法が憲法上の人権の侵害を救済できない場合には、司法権を積極的に行使すべきなのである。下位規範である民事訴訟法、行政訴訟法などの訴訟法に妨げられ基本的人権が救済されない事態を本来の日本国憲法は予定しているものではない。このような「訴訟法の留保」は、実定訴訟法の規定する訴訟に付随して司法審査がなされることが付随審査制だという理解にもとづいてきたと考えられるが、理論的には、日本国憲法の付随審査制が要件とする「事件・争訟性」は、実定訴訟法の定める訴訟要件・訴訟類型と当然に一致するものではない。日本国憲法の司法権の範囲を画する「事件・争訟性」の要件と、既存の実定訴訟法とは無関係であり、これを無媒介に一致するものと考える立場は、結局のところ、実定訴訟法の定める範囲でしか、日本国憲法の司法権の行使は認められないという「訴訟法の留保」を前提にしているためである。
 2 手続的基本権としての憲法32条
 (1)憲法が人権保障のために、基本的人権侵害に対しては、たとえそれが立法による侵害であっても、司法的救済が与えられるべきであるという考えから日本国憲法の下での司法審査制がもうけられたことに鑑みれば、憲法上の基本的人権は、単に司法審査の物差しとしての裁判規範性を有するだけではなく、自らの基本的人権を侵害され、あるいは侵害されようとしている者が積極的に憲法訴訟を提起し、実効性ある判決を求めることも憲法が保障していると考えるべきである。その意味で、憲法32条の「裁判を受ける権利」は、日本国憲法の基本的人権全体に訴権性を付与することによって実体的請求権たらしめる手続的基本権であると理解されるべきである。このように考えれば、実定訴訟法の規定する訴訟要件・訴訟類型も「裁判を受ける権利」に照らした司法審査に服すべきこととなる。そして、そのように解するのが、憲法の規範構造全体にかなうこととなる。このような日本国憲法の本来の立場からすれば、裁判所は、「実定訴訟法に抵触する訴えでも、違憲無効と判断される実定訴訟法の規定にとらわれることなく出訴を認めることが出来、また実定訴訟法に規定のない訴えでも許容しうる」のである(棟居292頁)。基本的人権を侵害する行為があり、それを救済するために必要があれば、新たな訴訟類型や救済方法を裁判所が創設すべきなのである(基本権訴訟)。
 3 議員定数不均衡訴訟最高裁判決  (1)このような考えは単なる学説上の見解にとどまらない。議員定数不均衡訴訟最高裁判決において、人権が侵害される場合に新たな訴訟類型を創出することや新たな救済方法を案出することも裁判所の任務として最高裁自身が認めていることである。
 議員定数不均衡訴訟最高裁判決(最大判昭和51年4月14日民集30巻3号223頁)は次のように言う。
「右の訴訟(公選法204条の選挙無効の訴)は、現行法上選挙人が選挙の適否を争うことのできる唯一の訴訟であり、これを措いては他に訴訟法上公選法の違憲を主張してその是正を求める機会はないのである。およそ国民の基本的権利を侵害する国権行為に対しては、できるだけその是正、救済の途が開かれるべきであるという憲法上の要請に照らして考えるときは、前記公選法の規定が、その定める訴訟において、同法の議員定数配分規定が選挙権の平等に違反することを選挙無効の原因として主張することを殊更に排除する趣旨であるとすることは、決して当を得た解釈ということはできない」として、選挙権の平等に対する侵害を選挙無効の訴えで争えることを確認し、さらに救済方法として、事情判決の法理という独特の方法を生み出した。
 この多数意見に対する天野反対意見をみれば、多数意見の意味がより明らかとなる。天野反対意見は次のように言う、「もともと、同条(公選法204条の選挙無効の訴)による訴訟は、具体的権利義務に関するいわゆる法律上の争訟ではなく、…法律により特に裁判所の権限に属せしめられた民衆訴訟…の性質を有するもので」「本件の訴えは、公選法の前記規定の許容する範囲外のものというべきであり、かつ、そのような訴えのために道を開いた実定法規が制定されていない以上は、結局、不適法の訴えとして却下されるほかないことになるのである。」
 つまり、天野反対意見が、選挙無効の訴訟という民衆訴訟であるという理由で裁判所法3条1項の「その他法律において特に定める」以外の事項については不適法と考えるのに対し、多数意見は、選挙権の平等を基本権としてとらえ、選挙無効の訴えが「現行法上選挙人が選挙の適否を争うことのできる唯一の訴訟」であることを理由に民衆訴訟の転用を認めたのである。
 この最高裁判決の精神は高く評価されなければならない。本件訴訟において、裁判所に求められていることは、上記最高裁判決が言う、「およそ国民の基本的権利を侵害する国権行為に対しては、できるだけその是正、救済の途が開かれるべきである」という立場に立つことである。

 第9 最後に

 被告国は、これまでの判決例に依拠して事実認否を避け、実質的答弁を行おうとしていない。しかし、本件訴訟で問題となっている違憲性は、これまでの同種の訴訟とはもはや全く質の違う事態にまで至っているのである。
 日本政府が支援した米国のイラク開戦の正当性は国際的にも一切信用されていない。アブグレイブでのイラク人への虐待やファルージャなどでの大量殺戮行為など米軍の占領政策の国際人道法違反も多数指摘されている。2003年5月のブッシュ大統領の勝利宣言以後も、イラク各地に武装勢力による執拗な攻撃は広がり、占領の正常化を目指して実施された選挙が行われた現在でもなお終わることなく続いている。
 自衛隊が駐留するイラクはまさにこのような状態にある。自衛隊の宿営地にもロケット弾が打ち込まれている。イラクに駐留する自衛隊が攻撃を受けて死傷者を出し、あるいは応戦した自衛隊がイラク人を殺傷する可能性はきわめて大きい。イラク人の対日感情は急速に悪化しており、日本人であることで攻撃をうける状況にさえある。イスラム過激派は、日本は米軍の侵略に加担する国であるとして、名指しで攻撃対象としており、イラクにいる日本人ばかりでなく、日本という国と国民自体が攻撃される危険が現実のものとなっている。
 日本を取り巻く環境は、このような政府の行動に伴って急激に悪化している。これまではあくまで可能性の問題として議論されてきた、一朝有事の際に攻撃対象となるという将来の危険性や予測の問題ではなく、もはや現実の危険となっているのである。従来の判決が対象としていた事態、自衛隊が違憲かどうかを争った訴訟や戦費の負担が違憲かどうかを争った訴訟、PKOの違憲性を争った訴訟でさえ、現在の事態と比較すると質的に違うと言えるほどの事態である。日本国憲法の規範性は政府の憲法の蹂躙によっていまや風前の灯火である。この事態に至り、現に日本が自衛隊という名の軍隊を送っている地で、日本がその一員である多国籍軍が今日もイラク人を殺戮し、地を流している状態でも、憲法判断を避けることは、憲法保障機関としての裁判所の自殺行為である。
 被告国が正面から事実を争うことも、国の行為を合憲であると主張することもなく、ただ、形式的に訴訟の適法性にのみ本件訴訟の争点を限局しようという被告国の訴訟態度がどのような意図からでてきたものであるのかを、裁判所は見抜かなければならない。被告国の下位規範を持ち出して憲法判断を避けようとする姑息な訴訟戦術に左右されることなく、現在も被告国が続けている憲法のあからさまな蹂躙と、憲法が「権利」として明記する「平和的生存権」を侵害し続けている被告国の行為を、日本国憲法の立場からどのように評価すべきかを問うのが、本件訴訟であることを自覚し、担当裁判官として自らの「良心」に従った判断を行うことを期待するものである。
                              以上

2005年2月4日 自衛隊イラク派兵差止訴訟第4回口頭弁論



法廷の風景 -イラストレータ 山田 光-

第25準備書面 これまで法廷で原告らが述べてきた被侵害利益が法的に保護されるべき権利・利益であることを正面から主張する書面
段落の一部を「越水桃源」が変更した。文言の変更は一切無い。