第10巻

傍聴記 2002/12/08

 天神川に棲みつく小動物を前に紹介したことがある。
 つい最近、朝の散歩の途上で、妻が何か特別に動くものを見つけた。それはいつもの野鴨のようにも見えたが、目を凝らすと、それはネズミであった。今やドブ川と化している天神川に棲みついているのだから、溝鼠に違いない。水に浸かり、泳ぎ、そして水を飲んでいる。体長は25cm位で、加えて尻尾が15cm位だろうか。とにかく土手の上からの観察である。何と!強そうで立派な白い髯が生えている。こちらが見ていても悠然としたものである。でっぷりと肥えてその風体は、学識・経験ともに豊かで人格高邁に見える。もしこれで市政に明るいと思われたら、う〜ん、市の何とか委員に選ばれるかもしれないな。感心した!・・・ちょっと待てよ、もし本当に何とか審議会委員とか、あるいは教育委員にでもなったら、かなりの問題意識を持って現状を分析し、解決策までも滔々と明晰なる頭脳で論じるかもね。でも、一席打たせたら、鼠算とか鼠講の話題になるのかなぁ。否、来春の統一地方選挙で市会議員に立候補!公約は「ストップ・ザ・ネズミ捕り」。あのォ、写真撮ってよろしいでしょうか。それから、あのォ、アザラシのタマちゃんの向こうを張って、天神川ですから、「テンちゃん」と呼んでもいいでしょうかね。きっと近くの人々が押し寄せて来ると思うし、近くに小学校もありますから、「テンちゃ〜ん、テンちゃ〜ん」って一躍人気者になって、テレビにも出るかもしれませんので、ハイ。
 溝鼠って、どぶ川が好きなのでしょうか。訊いてみたいものです。それとドブネズミなんて他の種から呼ばれているなんて思ってもみないでしょうね。ドブ人間なんて言われないように、川をきれいにしましょう。  





12月7日朝 撮影

[溝鼠]ネズミの一種。世界的に分布し、人家の周辺にすみ、よく水を飲むため下水の近くにいる。体長約20センチメートルの大形種で尾は体より短く、耳が小さい。『広辞苑』第三版

天神川を挟んだ一帯の西部浄化センター(平成12年6月14日運用開始)への接続、つまり水洗化普及率は2002年10月末で52.21%である。水洗化が普及した場合、生活雑排水が天神川に流入することはなくなり、雨水・用水(傍聴記 第1巻 '99/06/06を参照)だけと、理屈ではなります。そうすると、ある時期には水無し川になる可能性もあります。

12月16日市役所の知人と溝鼠の話をしたら、「ヌートリア」かも知れない、とのこと。初めて聞いた名でした。「稲美野ヌートリア通信」をご覧下さい。なお、稲美野ヌートリア通信はリンクフリーです。

ヌートリアであっても、筆者にとっては出会いの記録過程でもあり、またその趣旨は字句の訂正等をしたとしても変更はありませんで、傍聴記の文章はそのままにしておきます。

参考資料: 「河川環境データベース(河川水辺の国勢調査)国土交通省」

追記:その後のヌートリアの様子は、 天神川のぬーとりあでご覧になれます。



12月15日朝 撮影
「陽だまりの中で草を食べてました」

傍聴記 2003/03/17

 どうしてこのような古いことをいつまで憶えているのだろう。その上、昨日のことの様に在り在りとしているのだ。その想い起こされたことは、小学校の卒業式での事である。特にその卒業式そのものに何かとんでもない事件が起きた訳でもない。それは十年一日として繰り返し実施される卒業式の模様であった。後輩が先輩を送り、先輩になり後輩に送られただけであった。そして先生方は、トコロテンを詰めて、キュッと一突きし、一丁仕上がりの様な安易な式を繰り返しただけだった。多分それだけの景色であったら、その後中学生と続くいくつかの卒業式のように、その記憶も薄れたものであったろう。
 だが、確実に我が幼心に刻まれた事があって、この卒業式は鮮明なのである。読んで笑って下さるな!その卒業式の執り行なわれた場所が、「完成したばかりの木造の新校舎」だったのだ。が、半日だけで、たったの数時間でその校舎とはオサラバだったのだ!コレッキリでお別れの教室なのだ・・・。子供心には「追い出された」感があった。疎外感を抱き、大袈裟に云えば、呆然自失として、空しさの漂う雰囲気の中にあったに違いない。もしかして、その後の人生も同じかと、一瞬、脳裏を過ぎったに違いない。世間は不条理なものよと、洞察したかも知れない。
 さて、川辺の散歩道沿いの小学校に、新校舎が増築され完成しました。見させていただきました。恐る恐る、我が摘みたてのイチゴみたいな思い出を関係者に披露しました。何と!配慮されていました。半日だけでなく、たった数時間だけでなく、「一週間も!」過ごさせて貰えるのだという。
 卒業生の皆さん、できれば、見知らぬオジサンさんよりも数段のもてなしを受けたということで、他の素晴らしい事を、将来楽しく思い起こしてください。


事業費360,933,300円で、工期は平成14年8月9日〜平成15年2月14日、環境面に配慮した太陽光発電システムを採用し、ユニバーサルトイレレ等、普通教室 6 調理室・被服室 1 多目的スペース 6を備える。
渋川小学校の閉鎖人口による推計値(平成14年5月1日現在)によると、265人(H14年度)、269(H15)、283(H16)、303(H17)、333(H18)、359(H19)、387(H20)である。増築前の教室数は普通教室 12 特別教室 6の18教室である。
多目的スペースは、モデルケースとして市民に開放される予定である。
傍聴記-9巻- 2002/11/26の電磁波の件は測定された。平成15年3月12日 尾張旭市教育委員会教育行政課の職員1名が立会いの上、中部電力(株)旭名東電力センターが「77KV猪高旭線NO9〜NO10間渋川小学校磁界測定記録(敷地内)」・「渋川小学校磁界測定記録(建物内)」を測定した。敷地内は測定ポイントが6ヶ所で0.8〜3.6mG、建物内の測定ポイントは20ヶ所で1.1〜4.4mGの間である。2階北窓側の測定ポイント4ヶ所は西から、4.4・4.2・4.2・3.9である。4mG以上の電磁波によって小児白血病発症が二倍なるという報告がWHOからされている。


傍聴記 2003/04/14

 神が実在するのなら、「イラク戦争(≪アメリカの難癖を付けての侵略戦争≫、と呼ぶべきである)」は、避けることができたであろう。人はそれぞれの神を持ち、心を満たす。しかし、21世紀に入って、人を超えた神は無存在なのだと、人は瞭然として悟らなければならない。神は永遠に沈黙しその姿を見せないのではなく存在しないのだ。
 その代わりに、殺戮と破壊を繰り返す者が自己を祈りの対象として、神になったのだ。平時に祈りを捧げられた神は地に弊履の如く投げ捨てられ、無力を曝け出した。抗し難い力を持つ者は、他の生命は自己の欲望を妨げる障害と見做して、殺し捲くる。そして先制攻撃を仕掛けた者が他国を侵略した者が、相手国の者を戦争ルール違反として裁くというのだ。知性も論理もあったものではない。希望を奪い、願いを無視し、血を流させ悲しみの涙を流させて、無慈悲の限りを尽くす。誰がこの者を止めるのだ。誰がこの者を裁くのだ。圧倒的な軍事力を持つこの無法の国米国は、この世に恐怖を撒き散らしているのだ。落ち着いた歴史を持たないこの国は他の悲惨を自己の糧として成り立っているのだ。欺瞞を常套手段として人殺しを繰り返し、その血ゆえにさらに計略を繰り返す、吸血の罠に陥っているのだ。
 人よ、神を信じて奇跡を信じて祈るのはもう止めたほうがよい。願う甲斐の無い叶うことの無い神を敵味方がそれぞれ信じても、そこにあるのは冷酷無比の結果としての屍が転がっている様だけなのだ。人よ、神はいないのだ。神が欲しいのなら、自分が正義を行う神になるがよい。幻想は捨てて、人よ、目覚めた神に自分がなるのだ。そしてこの現実を、修羅場を変える神になるのだ。もう沈黙の神とは正義を為さない神とはオサラバするがいいのだ。これまでの神は言い訳に使った、自己満足の偏屈に満ちた神だったのだ。この戦争が少しでも意味を成すならば、古来信じた神が無能であったことを証明したことだ。もう人の上に神はいないのだ。いまこそ人自身が神たることを高らかに宣言するのだ。その神は争うことと人殺しを忌み嫌い、万物に慈悲を抱く真にいのちを育むものたるのだ。人よ、目覚めよ!もう都合のよいこれまでの神とは別離するのだ。全能の神は存在しないのだ。一つの命を涙して庇い助けるのが神なのだ。血に舌なめずりする神は要らぬ。
 すべての規範が破棄されたのが今次のアメリカによる侵略戦争である。なぜこのような暴挙に出たのか。高まる際限の無い欲望がその基因であろうが、絶対に許されるべきものではない。世界は沈黙すべきでない。この破壊者、殺戮者、残虐の限りを尽くす者を糾弾すべきである。この奢れる者は絶大な力を持っていても、命を憐れむことは露ほどにも持ち合わせていないのだ。この者に追従する者よ、明日はお前が生贄となるかもしれないのだ。世界は暗黒に戻されたのだ。恣意と恐怖に満ちた世界が現出したのだ。命はその者の前で萎縮し、放縦なる者の手の内に翻弄される。このような暴君から人々を解放してきたのが私達の遅々ながらも成果であり、人間の知性と論理の希求するところではなかったのか。しかしながら、米国によって引き起こされたこの戦争は何なのだ。野蛮きわまり無い愚劣な行為であって、到底許せるものでない。
 人は想像力を失くすと共に全ての生命への畏怖も失った。そこには涙する者や死する者への憐憫の情は皆無である。ただの無機質な物としての扱いがあるだけである。さながらコンピュータゲームの展開のように全てを処理するだけになった。総て生あるものが持つ世界への理解や驚き、同情そして共生を願う心根は消え失せて、ただの色褪せた映像のごとく観る。それはその者の対象がそうなのではなく、観る主体がそのようなのだ。常に駆け続けなければ戦わなければという脅迫観念に覆われている米国の心理は、メイフラワー号以来かもしれぬ。自分が食うために他から奪う、そこには強い者がより弱い者から強奪することがあるだけで、共生し、互助するという考えは抜け落ちた。共存共栄などは夢物語とする単純思考であり、まさに自己の欲望を満たすためには昨日の友も食い殺す、飢えた世界に閉じ込められているのである。自己を唯一制御するであろう神も殺し、餌食にしてしまったのだ。そして自分が神に成りすました。
 飢餓からの脱出・地球環境の保全整備等、この星の一切のものは今や破壊ではなく、人類が作った取り返しのつかない物質で汚染させることでもなく、蘇りを図ることなのだ。私たちは戦争を強く否定しなければならない。国際社会はこの戦争を自国とは無関係と捉えてはいけない。このような暴挙を許すことは何時の日か自国に及ぶことを承知しなければならない。世界は米国の気紛れの偽善の政策に翻弄される訳には行かない。よしんば他国の人権等に干渉するにも、話し合いの時を重ねる必要があることを忘れてはならない。即、武力攻撃に訴えることは避けなければならない。武力によってではその国の民を救うことにもならない。悲惨の状態を拡散するだけに過ぎない。現状、米国による戦争惹起という悪しき範を結果的に受け入れされてしまった国際社会はこの残虐な行為を批判し二度と起こさない処置をとるべきである。世界の運命を武力攻撃に訴えるような国に委ねることはできない。
 世界の新秩序形成は先ず戦争兵器の国際管理である。今こそ強い意志をもって、核廃絶・軍縮への道へと進むべきである。平和への希求を単なる理想と嘲笑するのではなく、後の無い状況におかれた生命の叫びとして受け止め、破壊・虐殺のために費やす時間や知識・技術を喜びに満ちた世界に変化させるために向けるのだ。≪武器よさらば≫


2003年3月20日午前(米時間で19日夜)米軍イラク攻撃開始
イラク攻撃支持を表明した日本で、2005年には日本国際博覧会(愛・地球博)が行われる。
尾張旭市議会は各会派代表(6名)の署名で、「イラク攻撃の早期軍事行動終結と人道支援を求める決議」を議長宛に提出した。しかし、この決議の最終宛先は何処なのでしょうか。まさか、ファイルに直行とか・・・。