第9巻

傍聴記 2002/06/20

 新「地方自治法」は、自治体(地方公共団体)が、正に憲法そのものと直接向き合うことを要請している。これまで法解釈は上層機関にお伺いを立てることによる「お上頼みの解釈」であったのが、国と県と市町村がいわばイコールパートナーとなったため、尋ねることはできても最終的な判断は当の自治体が解釈をしなければならない「自主解釈」なのだ。
 この法第一条の二の後段に、「地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする。」とおかれた。自治権の確立である。法の解釈もその自治体にあってはどのようにするか。つまり、「上のせ」・「横だし」条例の制定に関係することである。国の行政庁からの強い関与に不服あるとき、自治体の長は第三者機関である「国地方係争処理委員会」に審査の申し出ができ、その結果しだいでは国関与の違法性を高裁以上に訴えることもできる。
 これらのことは、執行機関(行政)は元より議決機関(議会)そして肝心の主体でありその自治の客体でもある住民も併せ、憲法・法・条例等についての理解をさらに深める必要があろう。それは住民自治・団体自治を通して偏に憲法が求めて止まない個人の生命や自由そして幸福への保障を実現するものとなるのであるから。
 特に一方の住民代表機関である議会には、法務・法制を扱う要員を配置する必要があろう。議員は執行機関と切磋琢磨しながら条例制定等に憲法の願いを込める努力をすべきである。
 地方分権というよりも地方主権が到来したのだ。育むのは三位一体としての住民であり、議員であり、行政担当なのだ。さらに言う、自治とは共に課題に取り組むことなのだと。 

地方分権推進法(平成七年五月十九日法律第九十六号)
(地方分権の推進に関する基本理念)
第二条  地方分権の推進は、国と地方公共団体とが共通の目的である国民福祉の増進に向かって相互に協力する関係にあることを踏まえつつ、各般の行政を展開する上で国及び地方公共団体が分担すべき役割を明確にし、地方公共団体の自主性及び自立性を高め、個性豊かで活力に満ちた地域社会の実現を図ることを基本として行われるものとする。


傍聴記 2002/10/01

 この傍聴記も議会を主として見聞きして、三年と五ヶ月が経過しようとしている。傍聴は傍聴する者にとっても、単に拱手傍観を意味するものでなく極めて知的活動を要求されるものである。傍聴は、議会・行政への自分(市民)勝手な思い込みが修正されたり、議員のあるべき基準みたいなものが見えたり、市民と行政との関わり方が理解できたりと、何かと得るところが多く、正に三位一体の正念場と言えるのである。
 さてこのところ、一つ心に引っ掛かっていたものがあり、それを少しまとめてみたいと思う。それは議員が持ってほしい能力のことである。この能力は結論から言ってしまえば、誰にでも必要な能力なのであるが、時として市民と行政の板ばさみと思われる議員諸氏には特に意識してほしいと願うからである。
 それは「調整する能力」である。調整する能力とは、決してまぁまぁと言って当事者をなだめてその場を取り繕うようなことではない。課題の解決には三つの方法が考えられる。一方的に決め付けてしまう方法、つまり他方に対して一方の要求を全面的に受け入れさせることである。で、呑まされた側の他方には不満が残り将来に禍根を残すことになる。第二の方法は、当事者双方に妥協を求めるやり方である。各々が初期の要求を少しばかり断念し、譲歩するのである。この方法はかなり日常的に用いられるし、何かあたかも機微を得た大人の裁量のように思われがちである。第一の方法は一方だけがその要求を満たし、第二の方法は双方ともその要求を満たさないのである。これらの解決方法は真に両者の欲するところを得させないのである。当事者双方がどのような犠牲も払わないで済むような第三の方法を見つけ出さなくてはならないのである。新しい価値の発見である。
 調整する能力は、正確に問題(事実・要求するところ)を把握すること、その要求する当事者を第一・第二の方法で見たように限定された仕方の二者択一的な状況に陥れないことで、掴んだ状況を分析し統合し、新しい価値を見つけ出すことである。Aの要求、Bの要求をそれぞれ満たす別な解決策を生み出す過程が調整する能力である。
 市民代表の議員としては、市民の言うことは御もっともとばかりに、サービス精神を発揮して、言うがままにその要求を他方に押し付けるのでは、解決方法としては第一の方法になるし、調整するところは無いのである。現代の複雑にシステム化された制度では、このような方法自身が最早跳ね除けられてしまうことになる。例え解決したように見えても、もぐら叩きのような現象になってしまい、解決には程遠いのである。また、その「御もっとも」をそこは少し我慢してと説得しても、例えばこれが騒音とかの場合、中々当事者双方ともども承服できるものではないのである。
 調整能力を高めるには異なる経験や異なる知識を積極的に取り入れて、それらが生み出す相互作用の中から第三の統合された価値を発見するように努めるのである。常に第三の方法が発見できるとは限らないが、調整する能力は未来に向かっての価値創造であることに留意してほしい。
 錯綜する現代システムの諸問題に向かうには市民も議会も行政も調整する能力を茶飯のこととして、一堂に会したいものである。


傍聴記 2002/11/11

(2002年11月11日 メールでe−taiwa宛)

 谷口 市長  殿 

 毎々市民のためにご尽力をいだたきまして感謝いたしております。
 さて、このたびは、現在増築工事中の渋川小学校の環境についてご質問をさせていただきます。  毎朝の散歩時に気になっておりましたことを述べますので、ご回答をいただきますようお願いいたします。
        《質問》
 現在増築の校舎のすぐ北側上空には高圧線が張られております。 東側から西側間の一番たるみのあるところで、約21メートルの高さ。 7万7千ボルトで、送電電流は約200〜400A、三相三線式2セット。
 WHO(世界保健機構)では、4mG以上の電磁波によって小児白血病発症が二倍なるという報告がされています。子供が主たる一日の生活をする環境としては、何らかの影響が無いのかと、危惧の念を抱きます。既に貴職で、ご賢明なる判断の下に事前調査の上、電磁波に対する何らかの予防措置等の対処が増築校舎になされているかどうか、ご多忙中とは存じますが、ご教示を願います。


傍聴記 2002/11/22

(2002年11月22日 メールでの回答)

 大変遅くなりまして申し訳ありません。別添のとおり送付させていただきますのでよろしくお願いします。
 (別添)
 このたびは「谷口市長へ便り対話」へご質問をいただき、誠にありがとうございました。  早速拝読させていただきました。
<電磁波について>  電磁波については、私どももマスコミやインターネット等による情報しかなく、対策が必要か否か苦慮しております。
 電磁波問題は、地方レベルの問題でなく国レベルでの問題と考えております。しかし日本では国の調査は始まったばかりとのことであり、また、世界保健機構(WHO)でも電磁波の人体への影響を懸念し、世界各国と欧州連合(EU)、国際労働機構(ILO)など関連機関が参加した大規模な調査を始めているそうですが、今のところ評価が定まっていないのが現状と言われております。
 そのような状況下での渋川小学校の増築工事であり、電磁波に対する予防方法・予防措置等における国からの指示・指導もありませんし、市独自での対策方法も現段階では皆無であり、ご質問にありました電磁波に対する対処は致しておりませんが、現地における電磁波の測定を中部電力へ依頼しております。
 今後も貴重なご意見・ご提案をお寄せいただきますとともに、市政運営に対しまして、ご理解とご協力を賜りますようよろしくお願いいたします。
                尾張旭市長 谷 口 幸 治
                (担当課 教育行政課)

(注 市担当に電話で問合せたところ、中部電力へ依頼はメール質問後である。また測定時期は校舎の完了間近になる予定)

現場写真
IARC(国際がん研究機関)「IARC FINDS LIMITED EVIDENCE THAT RESIDENTIAL MAGNETIC FIELDS INCREASE RISK OF CHILDHOOD LEUKAEMIA」
WHO「What are Electromagnetic Fields?」
見えない恐怖〜脳と体をむしばむ電磁波が危ない!!


傍聴記 2002/11/26

 極端なことをいえば、地球上に人間が存在しなくとも、他の生あるものの総ては、やはり淡々と在るがままの生命を確実に全うするのではないだろうか。
 人間、この他の生物に害をなす自己中心的な種はむしろ絶滅種と成り果てたのが好ましいのでないか。身近にいる動物を見ていると、つくづくそう思う。かれらの知的なそして訴えるような眼から、人間の愚かさがいやというほど思い知らされる。我々自身の自業自得は当然としても、かれらを道連れにすることは許されることではない。
 この地球はかれらが生きるためのものでもあるのだ。人間のお零れをもらって生きているのではない。
 利便性と飽食を追い求めている結果の排泄物(廃棄物)の未処理の山には目をそらし、蚕食続ける。迫り来る滅びの影に頓着することも無い。
 そして肉眼で見ることのできるゴミの始末も儘ならないのに、いたるところに目に見えないゴミも出している。そのゴミは確実に命あるものを蝕む。
 もし人間の所業を早回しの映写機で見られたら、その結末はやはり滅びなのであろうか。ひたすらに一方向に突っ走る姿勢からは、もはや危険を予知する能力も失せ、この星で共生する他のものものに視線を投げることもない。
 − 空飛ぶ鳥を見なさい・・・,野に咲くユリを思いなさい・・・−(マタイ伝 6 からの私訳です)
- Look at the birds of the air・・・,Consider the lilies of the field・・・- Matthew 6

 かれ等とこのティエラで共に生きようと真に望むなら、滅びに到る道は遠のくかも知れない。