第7巻

傍聴記 2001/06/26

 天神川一帯に亀が棲息している。連れている犬が草むらにいる亀をよく見つける。亀は童謡に歌われるのに比して、中々素早い動作で逃げ足も速い。6月中旬頃の朝、横幅15、6センチ、丈20センチ位の亀が後ろ足で穴を掘っているのを見た。直径20センチほど、深さは4,5cm位掘っていた。産卵か。テレビなどで海がめの産卵場面を見るが、目の当たりにその行為の一端を見るのは始めてである。川から土手を這い、U字溝そばの沈丁花で緑地化した柔らかい地面の辺りに来て、事をなしている。それは散歩の往きの光景である。帰りには既に当の亀の姿は無く、新しい土で覆われた後があるだけだった。掘って確認する勇気はない。何か神聖なものを冒す気がするためだ。ただ目印に小石を二つ傍に置いた。
 もし産卵だとすると、二ヶ月後くらいに、小亀がゾロゾロ這い出して天神川へ向かうのか。いま川には、愛知用水からの水が田を経由して流れ込んでいる。 


別の日に天神川の土手で撮った亀

傍聴記 2001/08/08

 男77.64歳、女84.62歳。日本人の平均寿命である。世界の最長寿国になった。別な見方をすれば、高齢者が高齢者を介護する状況が到来したと云える。 さて今、市が開く「訪問介護員(ホームヘルパー)養成講座(2級課程)」を受講している。40名の受講者の中、男性は4名である。話を聴いていて、幾つかの思いが浮かんだ。
 一つには、介護員の講座を自治体の職員は須く受けるべきであり、今後は採用時の条件にすべきではないかということである。もちろん職員ばかりでなく、首長・議員も立候補時には所要のこととするのである。全体への奉仕者として市民(住民)に向かうことを公務員の存在意義とするならば、高齢化社会を苦でなく人間の理想とする社会にするために、人間(ばかりでないが)の一生はまさに障害との共存であることを認識し、どう互いに補完しあい生きていくかを学ぶべきである。そうすれば何を為すべきかが判る筈であるから。それには「生・老・病・死」を含む本講座が最適ではなかろうか。
 共に学ぶ方で、介護を要する身内を持つ女性が言った。「介護される側のこころが解かるようになり、自分自身が変わった」と。人は変わることもできるのである。強者の奢りから、または健康であることからくる思いやりの欠ける言葉や態度は、それ自身が障害なのである。学ぶことによって、相手を思うことによって、その障害が消える。人は自分のトゲを抜くこともできるということである。介護は他人のことでなく、今現在の自分自身のことでもある。多くの市民に受講してもらいたいと思う。
 三つ目には、訪問介護員を受け入れる側についてである。身内だけで、あるいは高齢者が高齢者を介護する場合、種々の面でどうしても無理がいく。最悪の場合は共倒れになってしまう。他者(ホームヘルパー等)を受け入れるこころの用意も必要ではないだろうか。
 ここまで書いて来て、何か置き忘れたような気がした。そう、一割の男性、いいえ、一割しかいない男性・・・。応募しても抽選に漏れたのか、そもそも男性の応募者が圧倒的に少ないのか不明であるが、でも、あなた(男性に向かってです)、少しは振り向いてよ。それと企業も積極的に取り組むべきではないだろうか。受講料の補助とか休暇を出すとかね。  


「高齢化社会」 総人口に占める65歳以上の割合が7%を超えた場合。
「高齢社会」  総人口に占める65歳以上の割合が14%を超えた場合。
「超高齢化社会」総人口に占める65歳以上の割合が25%を超えた場合。
尾張旭市は平成13年8月1日現在13.33%の高齢化率である。
国立社会保障・人口問題研究所によれば日本は2001年には65歳以上17.8%である。


傍聴記 2001/09/28

 「やられたら、やりかえせ」の論理は破綻している。もしAとBの間に「諍い」があった場合を見る。AとBに力の差が無いと仮定すると、「やられたら、やりかえせ」は一回では完結しないのだから共倒れの極限値に到り、論理の貫徹は無理になる。圧倒的にAに力がある場合、Bは「やりかえせ」の論理に入れず、これも駄目である。無論、Bの力が勝っている場合でも同様である。
 報復の論理は「鶏と卵の前後関係」的であって、双方に言い分がある。この縺れを解決するには、やはり第三者を交えた別の手段によるべきであろう。個人の場合でも同様であろう。卑近な例で、自分の家族が何者かに襲われたとき、復讐(報復)は可能であろうか。仮定として、できたとしても悲惨な結末を迎えることになるだろう。
 さて、9月11日の「米中枢同時テロ」に関連して、愛知県内の複数の議会で「テロ根絶」の決議を採択している。尾張旭市議会も9月本会議最終日の25日に同様の決議をし、一分間の黙とうを捧げた。しかし、この決議は如何ほどの効果があるのだろうか。大多数の市民も読むことはないと思うし、大体誰に対して「早急に事件の解明と再発防止策の確立・・・」を切望しているのであろうか。誰かが読んで、たとえば私が「あっ、分かりました。即対処して再発のないように致します」、なんては言えませんし、約束できません。するとこの議決文は行く先不明の紙飛行機になって、その辺の路傍に落ちるのに等しいのだろうか。いや、飛行することはない。折り紙、つまり、綴じられる運命である。
 むしろ地方自治体のあり方として、住民の安寧を守る上からも平和裏の解決を図ることを主眼として、国政に強く働きかけをするべきであろう。
 この国民の付和雷同・思考停止の雪崩現象の行く末は恐ろしい。それに「済崩しの法制化」が追い討ちをかける。   


一宮市、尾西市、知多市、祖父江町等が「テロ決議」。
近隣の長久手町議会は、軍事力によらず国連を中心で行われるよう求める趣旨の「国際テロ事件根絶の決議」の緊急動議を反対多数で否決した(中日新聞 9月28日朝刊)。


傍聴記 2001/12/03

 「いままで憲法について勉強したこともないし、友達とそんな話もしない」と学生。「生徒はルールを守らないし、大人は自信をなくしている。それは憲法の前文が絵に描いた餅だからだ。もう少し世界にアピールできるようなものに変えなければ」と高校の教師。この二人は質疑応答で、憲法改正に賛成と答える。つまり、前者は関心が無い上に理解もしていないのに賛成と答え、後者はこの憲法が多くの人々の尊い犠牲の上に得られたことに考えを及ぼすことも無く賛成と答える。特に後者は憲法をどのように生徒に教えているのかと問われ、「私は世界史の教師で憲法は教えていない」と答える。つまり、憲法を単に生徒を縛る規則、そして成人には檄を飛ばすくらいのものとしか考えていないのではないか。多様性を排除し、ひとつの思想で律したのが楽でよいとでも考えているのだろうか。この教師にとっては教育基本法の前文、つまり憲法との関連を述べたところも画餅と看做すのだろう。教育の荒廃はまさしくこのような教師から排出されるのではと危惧する。
 世界に誇れる平和憲法を厳守し、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意こそ、現実に対処する最も力強い根本理念となりうるものではないか。それを放棄し破壊の道に進むのは逆に現実逃避であって、傍観者としてのものである。例えば、戦争が生じても自分だけは安心と考える恐ろしく想像力の欠如した自己本位の持ち主なのに違いない。
 賛成の行く末は平和憲法の基軸が戦争へ駆り立てる方向に転換することを意味しているとは考えないのだろうか。矛盾だらけの理屈もとおらないことを述べて参戦したこの国・日本。憲法を遵守することも無く、足蹴にして遠くインド洋に向かった。その進路を能天気な国民の上に向けて来ることは時間の問題である。有事法制化が進んでくる。
 憲法の縛りは国民にではなく、その前文に「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と、明らかに政府に足枷をつけているのである。憲法は先ず、政府を裁くのである。国民の側からそのその手立てを変える(緩める)提案をするとは、忘れっぽいそして考えることを放棄した国民性と云え、シシュフォスになったのか。


11月26日衆議院憲法調査会名古屋公聴会を傍聴した。意見陳述者の意見開陳とそれに対する質疑からなる。質疑者:中山太郎・鳩山邦夫・島聡・斉藤鉄夫・都築譲・春名眞章・金子哲夫・宇田川芳雄
質疑終了後に傍聴席からの発言許可があり、先の教師に対する批判が他の教師からあった。主張を叫ぶ学生もあったが退場させられた。
11月25日海上自衛隊の艦船三隻インド洋に向けて出発する。「テロ対策特別措置法」に基づき、1954年の自衛隊発足以来、初めて実施される戦時下の活動であり、日本の安全保障政策の転機となる。(11月25日の中日新聞朝刊から要旨)