第4巻

傍聴記 2000/01/15

 ある状況下で、長期間に渡って一人の人間が同じ役割を果たしているとき、私は機会費用(損失)という言葉を思い浮かべる。その人物が例え優れた学識経験者だとしても、自分自身(個性=性格等の同一性保持)から逃れることは難しく偏りがある。その偏りが種々集まって多様性のある社会を形成し、複雑さをその内に組み込み生き残り(創造)を、展開していることは紛れも無い事実である。さて先程の言葉に戻ろう。あることに関し、ある選択肢が採用されたとき、他の選択肢は当然採用されないことが起きる。その採用されなかったことによって、失われる潜在的利益(経済的利益・創造的意見や思考等)のうち大なるものと解釈できる。では機会損失にどう対処するか。それには同じ偏りを長期間採用しないことだ。それは衰退から逃れる方法でもあるし、明日への創造でもある。 

尾張旭市文化財保護審議会委員で9期18年に渡ろうとする委員委嘱について。
尾張旭市文化財保護条例 第4章 文化財保護審議会 第17条2 審議会の委員は、文化財に深い関心を有する学識経験者のうちから委員会(教育委員会のこと)が委嘱する。
いつもながらこの「学識経験者」という基準何故か空しくそして行政の裁量を如実に表し、形骸化を感じさせます。具体的には誰がどのように判断するのでしょうか。いい加減なものです。当市はそんなに人才が払底しているか。
注)平成12年1月6日「尾張旭市教育委員会(12月)定例会」傍聴


傍聴記 2000/02/12

 "A popular government without popular information, or the means of acquiring it, is but a prologue to a farce or a tragedy, or perhaps both. Knowledge will forever govern ignorance, and a people who mean to be their own governors must arm themselves with the power which knowledge gives."

私訳を試みる。

 ″知識(情報)が皆に広く知られることが無い、或るいは知識を得る手段が無いという国民のための政治は、悲喜劇への始まりであります。知識を持つものは持たないものをどこまでも支配しようとしますから、国民自身が統治者であろうとするならば、知識から得られる力で防備しなければなりません。

 さて時は流れて21世紀に入ろうとしている。今私たちにとって情報の持つ意味合いは、何がしかの変容を遂げたであろうか。情報を持つ者と持たざる者との関係は解消されたであろうか。二番目の疑問は恐らく永続的な綱引きの関係を保つ以外になさそうである。
 最初の疑問に戻る。情報はただ持っているだけでは無意味である。が、故意に隠し持っているなら意味をなす。通常は何かについて判断をしたり行動を起こしたりするのに必要な前提知識を情報と私たちは呼んでいる。ではその何か(目的)については、各個人各団体等千差万別である。つまり情報それ自身は目的たりえない。
 私たちが何んらかの問題に対応する場合、調査・資料収集・分析・総合と経て解決策を見い出す方法を採る。特に資料収集は豊富な解決代替案を得るのに枢要なものである。大量に纏められ・整理され・いつでも必要な時に取り出せる資料としての、文字通りのデータベースの公開(公的機関の)は、問題解決・課題発見の前進的論証には不可欠の条件ともいえる。情報公開は私たちが同一化された判断資料を持つことで当為となる認識の共有化も計れ、取り組みへの参画も容易になり、同じ目的達成への歩みが可能になると考える。逆に意図的に隠された資料が在る場合や作為的資料で在る場合には、私たちの生存環境を不可逆的な誤った方向に誘導することにもなる。これは運命共同体に在る総てのものにとって不幸な事である。情報は万人に用いられてこそ生きる。
 今私たちの置かれた状況(環境等)に視点を向けたとき、知恵を絞らなければならない焦眉の解決を要するものが多大である。「情報公開」は優れて人類に与えられた知の宝庫・問題解決等の鍵と見る。パンドラの箱のように最後に残った希望なのである。


注)- James Madison, from a letter to W.T. Barry, August 4, 1822 -


傍聴記 2000/03/14

 「昭和五十五年の尾張旭市に望む」ということであるが、本題からは種々の意味が推し測れる。しかし、いずれにしても市の基盤を形成しているのは市民ひとりひとりである。
 そこで、快適で安全な生活環境のもとで、健康で文化的な生活を営むことを欲し、様々の要求を出す市民について述べてみたい。
 近隣社会が成立するためには、成員である私達市民が社会におけるルールを厳守することが肝要である。
 そのルールの基本は法である。が、その最も身近なのは、倫理であり習慣である。
 私達は到底ひとりでは生きられない。何らかの形で集団に組込まれ生活している。そして、その集団組織を維持するために、ルールをつくる。
 ルールといっても難しいものではない。「人に迷惑をかけない」それにその集団の維持及び発展に多少の時間と心遣いを配る。ここに「個人の生活」に「公の生活」が少し占める。これが市民としての有り様ではなかろうか。
 自己に公の場を持たないと、要求するところも独善に陥ることになる。市民としての責務を忘れての権利主張はない。
 今ひとりひとりの市民がおかれている生活の場で、市(集団)に対してどのような心配りができるのかを問うべきである。その心配りは、最終的には、私達市民への心配りとなって戻ってくることであるから。
 受身型市民から一歩出て、日常住む場で問題を把握し、考え、対処する。このような市民の活動の中で、行政機関を良きパートナーとして位置づけしたい。コミュニケーションの原点である「理解し理解される」こともこの中で培っていきたい。
 市の未来は、日常茶飯のうちに「ゴミ」ひとつ拾う行動によってつくられる。


注)市制施行10周年 広報『尾張あさひ』(昭和55(1980)年1月1日 NO.426)に掲載された市民の方の文章から。サブタイトルは、「ルールある近隣社会」。傍聴記掲載に際しては本人の承諾を得てます。
「人口総数 52,134 人(男 26,209人 女 25,925人)先月比83人増、世帯数 15,294世帯 先月比17世帯増 昭和55(1980)年12月1日現在」
この号にはなんと、「尾張旭の野鳥」として、《オオタカ》が紹介さています。オオタカ見たいでしょう。
 


傍聴記 2000/05/02

 毎朝の犬の散歩のときです。やはり、犬を連れた中年の男性が私と妻と私たちの犬の傍に寄ってきて、挨拶抜きで、突如として「持ち帰ってください」と、言うではありませんか。その時私たちの犬は、丁度脱糞の真っ最中だったのです。それを見て注意をしたのだ。
 私も以前犬を飼うに際しては考慮してみた。つまり、県の「愛犬手帳」に記載されているように、ビニール袋・ちり紙等を持参し、排泄物をとり、持ち帰ることをです。無論のことですが、"そのまま放置≠ヘ受け入れる余地はありません。しかし、この愛犬手帳のように実施するには何故か抵抗があります。どちらかと云えば、持ち帰った後の始末のことです。
 私「それは、生ゴミですか」、行政「いいえ、違います」。私「ではどのような処理を期待していますか」、行政「水洗トイレで流してください」。お聞きしたい、愛犬家の皆さん、生ゴミとして出してはおりませんね。もし、生ゴミとして出していたら、1.0dのゴミが毎日出るのです。では、それを水洗に単独で流したとしたら、56,000gの水を毎日使用することになるのです。
 私の処理方法は、土中に埋めるか、土を被せた上、足でもって固めます。この方法が何処ででも通用するとは思いませんが、微生物にその無臭化、分解を頼み土壌化しております。肥沃な土地になると思いますが、冒頭の人のように異論ある人もいるでしょうね。
 動物と人との公園でも作り、そこに花畑等を得て、"犬糞≠ナ見事な花や作物を育てましょうか。愛犬家の皆さん、"フン≠ネんて云わないで下さいよ。


尾張旭市の登録犬数(各年度末)は、1994年(3,283頭) 1995年(3,377頭) 1996年(3,474頭) 1997年(3,929頭) 1998年(4,168頭)である。増加傾向にある。〔数字:約0.25kg/頭x4,000=1,000kg 約1.4x10Lx4,000=56,000g 1頭あたり0.25kgの糞/日と仮定 水洗タンク9〜10Lで使用時は1.4〜1.7倍流す〕 


傍聴記 2000/05/14

 ここ一年間、議会等を傍聴してきて、常に脳裏から離れないことがある。それは、誰がこの国(地方自治体・我が市)を動かしているのだろうかと。よく観察すると、誰も決定的なことには関わっていない様にも見える。強い意志の力が働いている訳でもなさそうだ。では、究極的にこの国に作用を及ばしているものはなんなのだろうか。漠然としているが、正解に近いのではないだろうかの一つとして、自己保身から責任を取ろうとしない、無責任という、関与しない、空々しさではないだろうか。このふあふあした曖昧模糊がこの国を動かしているのではなかろうか。それが市民・議会・行政と全般にわたっているのだ。風に吹かれ浮く糸の切れた風船のように。あなたはこのような状況に身を任せられますか。 

議会・教育委員会・常任委員会・情報公開条例懇話会(これは傍聴ではありません)の傍聴。常任委員会は「(傍聴の取扱い)第17条 委員会は、議員のほか委員長の許可を得た者が傍聴することができる。」とあります。市民が主役なら傍聴できるのは当然と思うがね。