浄蓮寺は扇谷上杉の宰相の一人として比企地方に赴き、松山城を築城したと伝える松山城主上田氏の菩提寺である。
 上田氏がこの地方の歴史に登場するのは、文明六年(1474)で、「太田道灌状」に「上田上野介在郷の地小河に一宿塚まつり候ところ、飯塚より景春(長尾)まかりし・・・・」とあることによって知られる。
 戦国の乱世の中で、上田氏の守城松山城は、扇谷上杉対山内上杉の関東管領をめぐる覇権争いや、後北条と上杉氏による武蔵支配をめぐる争乱で常に最前線の拠点をなし、数々の合戦の中で激しい争奪が繰り広げられている。松山城落城後の城主上田氏の落ち延びる先は、常に東秩父村にある安戸城であったという。
 小川町から東秩父村にかけての「大河原谷」や、小川町から竹沢村木呂子方面にかけての「西の入り筋」は上田氏の領地であり、腰越城、青山城を配し、万全の備えを成していた。安戸城の南眼下にあるこの浄蓮寺は、日蓮宗に帰依する上田氏の菩提寺として手厚い庇護のもとにあった。

上田一族
浄蓮寺大檀那上田一族
上田氏三代の墓

寺の一角に、県史跡に指定された上田氏三代の墓所がある。
 県内でも珍しい宝塔形をした墓石は、松山城主上田氏最後の城主となった上田憲定によって、、造立されたものと考えられる。

 中央の石塔には「南無妙法蓮華経 慈父宗調霊位」 天正15壬午(ミズノエウマ) 十月三日 「皆巳成仏道」の銘文が刻まれ、上田能登守戸朝直(案独斉宗調)の墓石であることを示している。

 右手の石塔には「天正十一癸午(ミズノトウマ)蓮調霊位 三月五日」とあり、二代松山城主上田能登守長則のものである。

 左手の石塔は「元亀二年辛未
カノトヒツジ)蓮好霊 八月朔日(ツイタチ)とある。この蓮好を法名とする人物は慶長八年の「過去帳」に「感応院殿蓮好」とあるのみで俗名を明らかにしてない。ただ院殿号を有することによって類推するに、上田朝直没年より11年前に死去した松山城主がそれに匹敵する人物と思われる。恐らく、朝直の父、三代城主定憲の祖父であった可能性が高いと推定される。。