和歌姫と夜泣き地蔵

和歌姫 むかし,久米の連(むらじ)の子で,和歌姫(わかひめ)とよばれたたいへん美しい姫君がいました。
ところが天正11年(1583),石上朝臣乙鷹(いそのかみのあそんおとたか)と道ならぬ恋に落ち,この常陸の国若に追放されてしまいました。
 しかし,その一年四ヶ月後,罪を許されて翌年には京の都へと戻られたと言うことです。ところが罪を許されて都へ戻ったというのはうそで,実はこの地で死んだと見せかけて偽物の墓を作り,空の棺を埋葬して京へ逃れたのだと伝えられています。
 それから長いときが流れました。大正時代の中頃,若芝原西の十王尊とよばれたお堂の裏から空の石棺が発掘されました。十王尊の付近は昔,若の中心地で「若の宿」とも呼ばれていたところです。その石棺はもしかすると和歌姫が埋めたものかも知れないと噂されました。

 

 和歌神社にはこのほかにも不思議な伝説が残されています。
 その昔,和歌神社の周りには人家もなく,木々が生い茂り,昼なお暗い場所でした。「化け物が出る。」という村人の噂に,きみわるがってだれもこの神社の森に近づこうとするものはおりません。
 ある日のことです。名主の家で数人の男たちが酒盛りをしていました。酒の勢いも手伝い,いつしか肝試しの話になりました。
 「和歌神社の鈴なわを持ってきたものには,米一俵くれよう」という話になりました。しかし,気味の悪い和歌神社などへ行くものなど誰もありません。ところが何日か経って,どこからかこの話を聞きつけた「おこう」という若いお嫁さんが,名主の家を訪ねてきました。おこうの家では夫が長い病に伏せっていたため,たいへん貧しい暮らしでした。そこで米一俵もらえるという話を聞きつけてきたのです。
 「鈴なわもってくりゃ,本当に米一俵もらえるんだろな」というおこうの問いかけに,名主も「ああ,まちげえねえ。」と胸をはると,その日の真夜中,おこうは乳飲み子を背中にしょって、名主から借りた短刀を胸に,和歌神社へと出かけていきました。地蔵
 お社の前に着くと,おこうは短刀を手に鈴なわを切り取り胸に抱えると,「米一俵,米一俵」と口ずさみながら,神社の小さな鳥居をくぐり抜けようとしました。
 その時です。おこうは突然背中を何ものかにつかまれてしまい,身動きができなくなってしまいました。夢中でふところの短刀を取り出すと,背中に向かって「えいっ」と斬りつけました。「ざくっ」という確かな手応えを感じ,おこうは一目散に名主の家に逃げ帰りました。
 そして出てきた名主に向かい「米一俵くれ」と叫んだのです。ところが名主の家にいた村人たちはその姿に仰天し,「おこう」と叫ぶなりみな後ずさりしてしまいました。なんと背中におぶさっていた子どもの首が無かったのです。
 翌朝,村人とおこうが神社へ行ってみると,鳥居の下には血だまりの中,しめ縄といっしょにいたいけな赤子の生首が転がっているではありませんか。やがておこうは気が狂い,川に身を投げて死んでしまったと言うことです。
 それ以来,村のあちこちでは夜な夜な子どもの泣き声がするようになりました。その悲しげな泣き声は村人を苦しめました。そこで人々はあわれな子どもとおこうのために,社のそばにお地蔵を祀り,供養をすることにしました。これが今も若に残る「夜泣き地蔵」です。
 夜泣き地蔵には赤いたすきがかかっていますが,これを借りて子どもにかけてやると,不思議と夜泣きが直ると言われています。昭和の中頃までは,このたすきを借りに来るものも大勢いたそうですが,今となってはその姿を見かけることは少なくなってしまったと言うことです。