平塚の天狗騒動平塚新田

                         

天狗騒動てんまつ絵図より

天狗騒動絵図 天狗党の争乱が起こったのは,今から約150年前の元治元年(1864)年のことです。

 天狗勢は石下町や千代川村の豪商や名主の元に現れ,お金や食糧,馬などを無理矢理差し出させましたので,強盗まがいの乱暴や狼藉を人々はたいへん怖れました。しかし,まもなく江戸幕府から追討軍が送られ,各地で戦いが始まりました。初めのうちこそ優勢だった天狗勢も,やがて散り散りになって敗走しました。

 結城藩の名門,水野一馬も敗走する天狗勢のひとりでした。一馬は石下から東仁連川沿いに崎房,舟戸,平塚新田へと逃げのびてきました。崎房,舟戸ではいずれも農民に見つかり,激しい戦いを繰り広げ,ようやく平塚へたどり着いた頃には泥と血にまみれた全身傷だらけの身でした。

 秋の夕暮れは早く,すでに夕日が西の山並みに傾いていました。疲労と空腹で目をぎらつかせた一行は,仁連川の土手づたいに西へ西へと敗走しました。そのうちあまりののどの渇きに,一人の落ち武者が土手下の百姓家をめざして隊列を外れました。片手には抜き身の真剣をだらりとぶらさげています。

 その百姓家は村役人の武平の家でした。崎房や舟戸村から追われる天狗の噂は平塚にも伝わっていました。どの家も戸をしっかりと閉じて息をひそめていました。年老いた両親とまだ幼い子どもたちはせまい部屋に集まり,戸板のすきまから土手を逃げのびる武者たちを見つめていました。しかし,突然我が家に向かって侍が近づいてきたのです。それに気づいた武平は,妻の制止をふりきってすぐに表に飛び出しました。手にはひとふりの木刀を握りしめて。
 
 やがて家の門に立ちはだかる武平に,傷だらけの落ち武者は気づきました。武平は木刀をふりかざして静かに告げました。

 「何者だ。ここからは一歩も通さぬ。」
 突然のことで侍は,その場に立ちすくみました。そしてしばらく両者のにらみ合いが続きました。やがて落ち武者は「ちょっ」と舌打ちすると,くるりときびすを返してもと来た道に向かいました。それを確認すると武平は木刀をゆっくり下げ,大きく息を吐き出しました。まもなく家を飛び出してきた妻が武平にすがりついて泣き出しました。

 なぜこの時天狗の侍は,いさぎよく引き返したのでしょう。
 実の所武平は,神道無念流の使い手だったのです。農民ではありましたが武芸の鍛錬を許され,弟とともに笠間藩の道場で修行したり,境河岸や下館藩で開かれた奉納試合にも出るほどの剣士でした。そんなわけで木刀ではありましたが武平の腕前を浪人は見抜き,無用の戦いを避けたのです。

  その後仁連川沿いに敗走した天狗の残党は,隣村の築越で食糧や馬の供出を拒んだ農民を槍で突き殺したり,家に火をつけて焼き払うなど,再び乱暴狼藉の限りをつくしました。しかし,彼らの命運もここまでで,最後に仲間三,四人となった水野一馬は,故郷結城を目前に新和田村(現在の三和町)で捕らえられ,水海道に送られて後処刑されたということです。