親鸞と弘徳寺(新地)

親鸞自画像 親鸞は鎌倉時代に活躍した浄土真宗の開祖です。建仁3年(1203)法然の門下に入り修行を始めた親鸞でしたが,承元元年後鳥羽上皇の不興をかったために,師法然は土佐に,親鸞は越後に流されてしまいました。

 越後での5年に及ぶ苦境を終え,親鸞は東国関東に下り布教を始めました。その時親鸞は42歳,その後約20年間に渡って活動します。

 親鸞には数多くの弟子がいます。その中でも信楽(しんぎょう)はもともと相馬三郎義清という武士でした。下総の国の太守という役職についていましたが,たまたま下妻に親鸞が立ち寄った際に論談し,そこでその教えに深く帰依し,門弟となりました。

 その後信楽は新地にあった自邸を改造し,ここに弘徳寺を建てたのです。さてこれからお話しする「大蛇退治」の伝説は,親鸞とその弟子信楽に関わる言い伝えです。

弘徳寺山門 弘徳寺の宝物のひとつに「大蛇の頭骨」があります。これは親鸞が下野の国(現在の栃木県)花見ケ丘蓮花寺の「大蛇済度」を行った折りの,その大蛇の骨だと言われています。

 むかし下野の国花見ヶ丘には大蛇が住んでいました。もともとは人間の女でしたが,夫に対するあまりにはげしい嫉妬心からいつしか大蛇に姿を変えてしまいました。そして村人に様々な危害を加えるようになってしまったのです。
 村人たちは困り果て,大蛇の怒りを鎮めようとして,若い娘をいけにえに捧げることに決めました。それを聞いた娘たちは皆逃げまどいましたが,結局の所くじ引きでいけにえを決めることになりました。
 やがて運命のくじは引かれ,神主の娘がいけにえになることになりました。ふびんな娘はその日から涙に暮れる毎日を送りました。神主と村人はそのあまりに悲しい姿を哀れみ,あれこれ相談した上,常陸の国(現在の茨城県)に住む親鸞に助けを求めたのです。

 快く済度を引き受けた親鸞は,さっそく花見ヶ丘におもむき大蛇の住む場所へ出かけました。大きな牙をむき出しにして威嚇する大蛇に向かって親鸞は,静かに三部経というお経を唱え始めました。それまで赤い舌をチョロチョロさせて舌なめずりしていた大蛇は,やがてじっとそのお経に耳を傾け始め,そして静かに息を引き取り極楽へと旅立ちました。

 翌日からはもちろん大蛇の姿は消えました。若い娘も親鸞のありがたい徳に感心し,浄土新真宗に帰依したと言われています。この時親鸞とともに花見ヶ丘に出かけた信楽は,大蛇の頭骨を弘徳寺へと持ち帰りました。それが現在も寺に伝えられているということです。

弘徳寺のモクゲンジ 弘徳寺にはこの他にも親鸞に関わる言い伝えがたくさん残されています。

 境内にはひときわ大きな「木げん子」(モクゲンジ)が植えられています。これは関東での約20年に渡る布教活動を終えて,親鸞が京の都に帰る時のことです。親鸞は弟子信楽との別れを惜しみ,記念にと身につけていた数珠の玉をひとつ境内に植えました。

 すると不思議なことには,またたくまにその玉から芽が出て,やがて大きなモクゲンジに育ちました。7月には白い花を咲かせ,秋にはたくさんの実をつける立派な木は,現在植えられているものが三代目だと言うことです。

 

 

 この他,弘徳寺には「名号貝」という不思議な貝や,「声を発した阿弥陀如来」の伝説などたくさんの言い伝えが残されています。