芦ケ谷任侠伝(芦ケ谷舟戸)

博徒 飯岡五郎 平塚の天狗事件が起こった同じ元治元年(1864年),その惨劇は起こりました。
 
 その年も諏訪神社では,恒例の旅芸人による芝居興行が開かれていました。芦ケ谷一帯を取り仕切る,博徒角之助は弟の源二郎と連れだって,これから石下の兵助親分のところへ飯沼を船で下るところでした。色白で大柄な角之助は地回りのやくざでしたが,村人にはやさしい侠客でした。
河内屋,下茶屋,下駄屋,そばやが軒をならべる舟戸河岸の目抜き通りを過ぎれば船着き場です。そこにはすでに辺見の貞蔵配下の5人の親分衆が集まっていました。
  やがて船大工の頭領・萬右衛門が用意した高瀬舟に乗り込んだ一行は,夕闇せまる石下の宿にたどり着きました。兵助とその手下榮太郎は,兵助の女・お初が切り盛りする肴屋へ一行を案内し,飲めや歌えの歓待をしました。しかし,そこには恐ろしいたくらみがあったのです。
  
  実はそれをさかのぼるところ半年前,総和の辺見一家と石下の兵助は縄張り争いからあわや出入り寸前という状態でした。その時は役人等の仲介もあっていったんは手打ちとなりましたが,それで事が収まるはずがありません。辺見一家は虎視眈々と兵助の縄張りをねらっていたのです。
 
 そこで今回は貞蔵配下のいずれも腕と度胸に自身のある親分衆が,偵察も兼ねて兵助の縄張りを訪ねてきたのでした。初めのうちこそ警戒して緊張していた一行も,飲めや歌えの歓待にいつしか酔いつぶれてしまい,一人二人と二階の寝床の蚊帳へと消えていきました。しかし,この時にすでに兵助の恐るべきたくらみは始まっていたのです。
 深夜二時を回ると,角之助,源二郎たちは全員が二階で高いびきをかいて眠り込んでいました。その時階下では兵助と榮太郎,そしてその手下数十人が,出入り支度で二階の様子をうかがっていました。そして兵助の「今だ,やっちまえ」という小さいかけ声とともに,抜き身の刀を手にした手下たちが雪崩のように乗り込んだのです。手始めに天井からつり下げられていた青蚊帳のひもが「ばさっ」と切り落とされました。
 驚いたのは中で寝ていた角之助たちです。すっかり酔いつぶれていたため,初めのうちは何が起こったのか全く分かりませんでした。かやにくるまれたままもがく七人を,兵助の手下たちがやたらめったら鋭い刃で突き立てました。
 そのとたんかやの中から一斉に「ぎゃー」という絶叫があがり,血しぶきが飛び散りました。
 蚊帳の中の七人はあわてて枕元の脇差しやドスを手探りで探しましたが,まったく見あたりません。それもそのはずです。親分衆が寝入るのを見計らって,兵助はお初に親分衆の刀をすっかり抜き取らせていたのです。
 眠りこけていた親分衆は蚊帳にくるまれたまま,こうして片っ端からめったぎりにされました。角之助も自由のきかぬ蚊帳の中で必死に立ち向かおうとしましたが,所詮は多勢に無勢,ましてや素手で立ち向かえるはずがありません。立ち上がろうとしたところを正面から袈裟がけに斬られ,それと同時に別の敵が背中をドブッと突き刺さしました。やがて角之助は「源二郎ー」という断末魔の叫びをあげ,血吐を吐きながら前のめりに倒れ込みました。

 こうしてむごたらしい殺戮の時間は過ぎていきました。白々と辺りが明るくなる頃には,飛び散った血しぶきと,無惨な屍の山がならんでいました。角之助たちはいずれもなますのようにめった切りにされて,無念の表情を浮かべて息絶えていました。さらに兵助は角之助たち親分衆のむくろをまるでゴミでも扱うように外に引きずり出すと,そのまま近くの馬の死骸が埋められている通称「馬捨場」に穴を掘って放り込んでしまったのです。役人にも手心を加えて「泥棒」を始末したと報告して,むりやり認めさせました。
 しかし,やがて角之助たちがだまし討ちにあったことは,芦ケ谷村へも辺見の貞蔵のもとにも伝えられました。すぐに仕返しの追っ手が差し向けられましたが,それを事前に察知していた兵助と栄太郎たちはどこへとも身を隠し,その行方はようとして知れませんでした。


 馬捨場に埋められていた角之助たちの死骸はまもなく掘り返され,改めてそれぞれが故郷に運ばれ,手厚く葬り直されました。角之助のお墓は今も,舟戸の「蓮宝寺
の境内にひっそり祀られています。
 そして角之助たちが無念の最後をとげた川端には,やがて「慰霊碑」が建てられ,遠い昔の悲しい出来事を伝えています。