御手洗(みたらせ)のおばば

 芦ケ谷とは舟戸,仲坪,神山,山の神のよっつの集落を合わせた地域を示しています。さてこの芦ケ谷一帯の鎮守様である香取神社には今もけやきの大木がうっそうと茂り,昼なおくらい神秘的な雰囲気を漂わせています。この香取神社のすぐ西はもともと飯沼からのびた小さな入江でした。その入江に面した一本の大けやきのたもとに「御手洗(みたらせ)」と呼ばれる小さな池に,清らかな泉がこんこんと湧いていました。ところがこの小さな池の大けやきには恐ろしい「御手洗のおばば」が住んでいると言われていました。

 さて,それは今から数百年も昔のことです。
その年の夏祭りも無事に終え,ほろ酔いかげんの村人「吾助」が香取神社からのびる細い下り坂をふらふらと下っておりました。ちょうど泉のほとりにある大けやきのかたわらを通り過ぎようとした時のことです。吾助は何やら不思議な物音に気がつきました。

 「しゃかゃか,ごしゃごしゃ」

 しーんと静まりかえった御手洗の泉のほとりから,何やら米をとぐような,あるいは包丁を研ぐような薄気味悪い音が聞こえてくるではありませんか。
 さっきまでのほろ酔い加減などいっぺん吹き飛んでしまった吾助は,とたんにぶるぶる震えだしました。そして吾助は物音のする方角に目をこらしました。すると泉のほとりでちいさな老婆が,こんな夜更けにかかわらず一心不乱に何事か手を動かしています。

 「こりゃあ御手洗のおばばだぞ。」
 そう気づいた吾助は青ざめて「ぎゃー」と大声を出すや,一目散に夜道を逃げ帰りました。

 このおばばの姿を見かけた村人はたくさんいました。
 夏の厳しい日差しが照りつける日中でも,御手洗の池のあたりにはいつもひんやりとした,心地よい風が吹き抜けておりました。大けやきのたもとからは冷たい泉がわき出しています。その清らかな水を両手ですくい,いつも村人はのどのかわきをいやしていました。
 そんな時大けやきのすぐそばには,渋茶色の一重の着物に振り乱した髪のおばばが,じっとたたずんでこちらを見ていたということです。とりたてて悪さをするわけでもなく,ぼんやりこちらを見ているおばば。気がつくとその姿はいつもふっと霧のようにかき消えていたと言うことです。ですから村人は,いつの頃からかお婆は,この泉の番をしているのに違いないと思うようになったと言うことです。

 やがて長い年月が過ぎ,泉のたもとに立っていた大けやきは切り取られてしまいました。すると間もなくあれほど村人ののどをうるおしてくれていた,清らかな泉も枯れてしまいました。それと同時に泉の番人であった「御手洗のおばば」の姿もそれきり見たものはいません。

今では御手洗の池のあとはその片鱗もほとんどなく,こうした古い言い伝えだけが残るばかりになってしまいました。遠い昔の出来事です。