結城朝光と八町観音(八町)

八町観音の観音堂 八町にある新長谷寺は,「八町観音」の名前で親しまれている古刹です。
 実はここには不思議な言い伝えが残されています。

 下野の国(現在の栃木県)の雄と呼ばれた結城朝光が鎌倉から結城に所領を許された時,朝光は一体の観音像を持ち帰りました。それは名仏師運慶の手によって彫られたものでした。
 朝光は結城の館内に観音堂を設け,手厚く信仰していましたが,ある晩彼の枕元に観音菩薩が現れました。そして朝光と菩薩との宿縁を伝え,子孫の繁栄のためいずれかの聖地に奉るよう命じました。
 こうして現在の八千代町八町の高台に,勇壮な寺院と観音堂が設けられたのです。八町とは当時寺領が八町歩もあったことからつけられた名前です。
 今でも八町観音の墓地には,朝光の分骨されたお墓があります。ひときわ目立つ古い墓石は,朝光の遺徳を讃える立派なものです。

 

結城朝光お手植えの大銀杏 さて,八町観音にはひときわ目立つ銀杏の大木があります。樹齢800年と言われ,朝光公お手植えと伝えられるこの大銀杏には不思議な言い伝えが残っています。

 むかし八町の村におゆきというひとりの若い母親がいました。おゆきには生まれたばかりかわいい赤子がいました。ところが赤子が生まれても,おゆきの乳房からはお乳がほとんど出てきません。日に日に弱ってくる赤子の様子にたまりかねたおゆきは,八町の観音様にお願いしました。
 ある晩おゆきの夢に現れた観音様は「銀杏の木の木根をけずり,それを米に混ぜて食べなさい。そうすればお乳が出るようになるであろう。」と告げました。
 急いで銀杏の木根をけずり食べたところ,不思議なことにそれまでほとんど
乳のでなかった乳房は温かく張り,あとからあとから母乳が出てきました。
 こうして赤子はすくすくと育ち,じょうぶな子どもに育つことができました。それからはこの有り難い木根をいただいて帰る参拝者が絶えなくなったと言うことです。
 今でも大銀杏の下に立つと,乳房のようにふさふさと下がった木根を見ることができます。

弁天堂 不思議な言い伝えをもう一つ。境内の鐘つき堂のかたわらには,小さな弁天様のお社が祀られています。この社の裏にはもともと蓮の花が咲きほこる大きな弁天池がありました。もとの参道脇にもうけられていた池の中ほどには,弁天様を祀るほこらがありました。そしてこのほこらには一匹の白蛇が住んでいました。

 もともと八町歩もの所領を与えられていた八町観音も,時代の流れの中で戦乱に巻き込まれ本堂が焼け落ち寺も荒れ果てていきました。 
 ある時住職が,水の枯れた弁天池の手入れをしていたところ,急に一匹の白蛇が姿を現しました。白蛇はじっと住職を見つめ,まもなくするすると動き始めました。後をついていった住職は,やがて白蛇が大銀杏のうろに消えていくのを確認しました。

 それからのことです。白蛇はこの大銀杏に住みつくようになりました。そしてその姿を見かける参拝者もちらほら見かけるようになりました。
 昭和20年頃,近くの村にひとりのお婆さんが東京から疎開してきました。お婆さんは霊感が強く,東京でも占いの仕事をしていましたが,ある時住職はお婆さんが銀杏の白蛇と言葉を交わしているのを見かけました。また別の時には,遠足で訪れた小学生たちに石を投げつけられそうになった白蛇に向かって「白蛇様,子どもたちを許してやって下さいね。早くうろにお戻り下さい。」と呼びかける姿も目撃されました。
 今でも天気の良い穏やかな日中には,大銀杏からひょっこり顔をのぞかせると言うことです。