| stigma-1 Written by W.I.イェーツ |
「昨日を捨てて生きることはたやすい」
それは孤独な者のみに許された自由という名の虚無である。
「よぉ。ジギィじゃないか。久しぶりだな」
ふらりと立ち寄ったバーのマスターにそう声をかけられ、曖昧な返事で答えた。
どうやら僕はこの町ではジギィと名乗っていたらしい。
前の町ではトーイ、その前の町ではウッド、キリー・・・・・・
しかし、どの名前も僕の心に巧く届かない。
多分、全部偽名だったのだろう。
僕には過去がない。
―――まぁ率直に言うと、記憶が、ない。
何処かに落としてきたのか、あるいは自ら捨ててきたのか。
ある日目覚めたら、ボロ雑巾ばりの風体でゴミ処理場に積まれた、過去の遺物に埋もれていた。
そんな状況下にあったくらいだから、ロクな人生ではなかったのかもしれない。
それでも、生きていれば色々な所で過去の自分とすれ違う。
例えばさっきのマスターのように・・・・だからといって大抵は僕の造形と偽者の名前しか知らないのだけれど。
実感のない過去を拾いつつ、旅を始めて1年近くが過ぎた。
僕はこれから何処へ行くのだろう。
僕は、何処から来たのだろう。
生きていれば往々にして過去以外の物とも出くわす。
狭い路地で女に出会った。
その女は娼婦だった。
クスリのせいで言葉使いが悪いと客に殴られた事。
ウィスキーよりブランデーが好きだという事。
売人に囲われて体を売っている事。
「ねぇ。天国と地獄の両方を見たことがある?」
「私には一日三回の往復切符が必要なの」
彼女は笑って言った。
女を金で手にするのは趣味ではなかったが、ブランデーのお礼だと彼女は言う。
「本当はあなた、ちょっと好みなの」
名前を聞かれたから、生憎持ち合わせていないと答えた。
彼女は当然の様に「そう」とだけ呟いた。
「この町には本当のことなんてグラス一杯分も存在しないからね。だから私のことも好きに呼んで」
僕が彼女を『ブランデー』と呼ぶと腕の中で花のように笑った。
彼女の死体が路地裏に転がったのは次の日の朝だった。
なぜだか僕は一人静かに泣いていた。
そして例のバーでグラスをあけていると、斜め後ろのテーブルで交わされる男たちの会話が耳に入ってきた。
「今まで通りおとなしく身体を売ってりゃあクスリをくれてやったものを、もう客を取らないなんざ言い出しやがった。なぁに。娼婦の死体のひとつやふたつ日常茶飯事さ。明日の朝には誰も覚えちゃいないよ」
『ブランデー好きの馬鹿な女の事なんざよ』
この一言で僕の心の中で何かがはじけた。
その瞬間
『パァァァァン』
1つの銃声・・・・・・僕は懐から銃を抜き、撃っていた。
そして、酒と煙草と血と硝煙の匂いは僕の心の中にうまく届いた。
割れる様な悲鳴の中、雑踏に紛れ、バーを出て行った。
「ジギィ・・・・!!」
マスターが後ろのほうから何か叫んだが、それは僕の名前ではなかったから振り返らなかった。
彼女は片道切符を選んだ。
でもそれは天国でも地獄でもない、虚無の世界だ。
切符さえ持たない僕は何処へ行くのだろう。
血と硝煙と女の肌をよく知る僕は何処から来たのだろう。
―――グラス一杯分の真実さえ僕はまだ見いだせずにいる。