枯木灘田並物語


  • 紀勢西線各駅停車
       私が始めて一人で田並に帰ったのは、中学生になってからだったと思う。買ってもらった切符は吹田発田並行の普通乗車券だった。六時聞か、それ以上の長旅だったはずだ。あるいは、小学校六年生だったかも知れない。天王寺の駅で遠い山に雪が積もっていた景色を見たという記憶があるのはどうしてだろう。この最初の一人旅の記憶は完全に欠落していて、何ひとつ思い出すことがない。田並駅では祖父か祖母か、誰かが私を出迎えてくれたに相違ないのだが。
       それから私はもう数えきれないほど同じ線路の上を走ったことになる。一番古い記憶では、行きか帰りかわからないが、父と一緒に夜行列車に乗っている。私は、多分ピーナツの食べすぎか夜の車内の煙草の煙にむせたのか、げろを吐いている。かみ砕かれたピーナツと胃液が混ざり合った後年何度も味合うことになる不愉快な体験の最初のものを吟味したわけだ。夜行列車の車内の薄暗い灯りが煙草の煙りのむこうでぼんやりと光っている。一体あの時、私は何歳だったのだろう。今ならまだ父に聞いてみることもできるが、はたして父はあの夜のことを覚えているだろうか。
       記憶にはないが、父から聞かされた話でなら、もうすこし小さな自分を探し出すことができる。昔から父のアルバムにある一枚のキャビネ写真。私は列車のデッキに立っている。野球帽をはすかいに被り、右手を上着のポケットに入れ、てれくさそうな嬉しそうなあるいは得意満面といった表情で、少しカメラの上に視線を向けている。三歳か四歳だろう。確かめてみることは容易だが今はその必要もない。その写真の少しお茶目な子供が私であればそれでよい。見たところ幸せな幼児であったにちがいないことが判ればそれで良いのである。私はそのまましばらくは幸福な子供であり続けるだろう。


  • 田並川河口。
       その子供は何歳だろう。小学校低学年であることに間違いはない。二年生か、三年生か、その子は、村の子供達と一緒に水浴びをしている。夏の日盛りをすぎると、真っ黒に日焼けした小さな男の子たちが河口に集まってくる。昭和三十年頃の田並川はまだ清流と言えたろう。海から子供たちの遊び場まで五十メートル余り、潮が引いた川幅は岸辺から対岸の船だまりの突堤まで十メートル足らず、深さは漁船の航路になっている突堤の間際でも−・五メートルばかり。子供達は岸から水にはいり突堤の壁に手を触れてまた岸に戻る。さて、その子供は、先程から石ころだらけの岸に立ったままだ。石ころは大小さまざまでとても歩きにくい。へっぴり腰で、膝あたりまでしか、水のなかに進まない。彼もその村で生まれたのだが、今は都会で暮らしているので、水泳は苦手なのだ。
       港の突堤から2、3メートルの高みに県道が走っていた。自動車の往来はめったになく、時折リヤカーだの大八車だのが、それもしごくのんびりと通り過ぎるばかりだった。今しも、その県道を四、五人の女の子たちが賑やかに話ながら歩いていく。なかで一番としかさの子が急に足をとめる。その子は目ざとく泳げない男の子を見つけたのだ。右手を上げ人差指をピンとさして、大声を上げる。
     「いやろ!あの子うや、ええおよがんのやら!」
     《そんなことはない、僕は泳げる!》 
     僕はみんなの視線が僕に集まる前にそのまま水のなかに身体を流し込む。そのため目標を失った彼女の指は空しい一点をさし、泳げない男の子がいるという前代未聞のスキャンダルはとりあえず回避されたが、僕は必死だった。始めて足の立たないところを泳がねばならないし、しかもそれを当たり前のように見せなければ、僕のせつかくの見栄も無駄になるだろう。受けたかも知れない辱めのために僕の頭のなかは燃えるように熟かった。こうして僕は泳げるようになったのだったが、しこたま水を飲んでしまった。僕がもうすこし間抜けであったなら、みんなの注目の的になり、泳げない子とあだ名され、いつまでも心に重い荷物を背負うことになったのだろうか。
       どうにかこうにか岸にもどりついた少年が一息ついて、県道を見上げたとき、良く陽にやけたさかしらなオカッパ頭の少女の姿は真昼の幻のように忽然と消えてなかった。少年はなぜかしら残念に思ったが、泳げるようになったことを確かめるかのように、幾度となく、緩やかに流れる時間の中を、突堤と岸の間を往復して過ごした。

  • 田並港の波止場。
       コンクリートの塀をめぐらせた生家の門から、溝を渡る小橋を踏んで、そのまま表の道に出る。道幅は狭くまるで路地のようだが、とても明るい道だ。すぐ左手の塀の角は十字路になっていて、左に折れれば伯母のいる要太店(よたみせ)、真っ直ぐ進めば母の実家の甚太郎(ジンタロ)、右に曲がれば駅に行けるのだった。どの道も少年にはなじみの道だが、いま彼は家を出ると右手の方向に歩きだす。夏の昼下がりのこととて、あたりには人影もない。大きすぎるほどの麦わら帽を被った子供は、右手に短い竹の釣りざおをもち、左手には紐をとうしたカンカンをぶら下げている。100メートルも歩かないいうちに彼は県道を越え港に出る。田並川と県道の間に、ケンケン船をとめる小さな船たまりがつくられ、祖父の伝馬船もたいていここに繋いであった。男の子は船揚げ場の急な坂道を下り、港の半分をかこつているコンクリートの堤防に移るために下水の上にかけられた狭い板橋を渡る。その板はちいさな子どもの体重を受けてもかなりたわんで、二メートルばかりの道中が、スリル満点であった。この港の堤防のことを村の人達は「波止」と呼んでいた。
       最初に釣の手ほどきをしてくれたのは、父か祖父か、鉛をひとつ付けただけの釣糸の先の小さな針に、ミミズか小魚の切り身かあるいは赤虫か、そんなものをさして町の子供は小魚を釣る。村の子供達なら見向きもしない遊びだ。潮が引いたときには波止の高さは2メートル、満ち潮のときには水面からの高さは1メートルを切っている。真夏の昼下がりには大抵潮が引いていて、波止の上からでは高すぎるので、僕は港の内側の方の段に下り、そっと歩きながら魚を探し、狙いを付けた小魚の鼻先に釣糸をたらす。子供の餌の付けかたが適当であるときにはすぐに釣れるが、付けかたが悪いと、とりわけ餌が大きすぎるようなときには、まず釣れることはない。僕がそのようなことに気づくのはまだずつと先のこと。それでも子供は魚が僕の餌を突つく手ごたえを竿を握った手のひらに感じて興奮する。僕の魚釣は、このようにして真夏の昼下がりの絶対の孤独のなかで始まったのだった。そして田並で始まったものはそればかりではなかった。

  • アイスキャンデー。
       母が病気で入院していたこともあって、夏休みになると弟は吹田に残ったが、私は田並の祖父母のもとに預けられるのが常だった。父に連れられて田並に帰った記憶は先に話したようにほとんどなにも残っていない。そもそもが田並とは私にとってまず祖父母とこの私だけの土地なのだった。母もまたこの村の生まれで、父の実家から子供の足でも7分とかからないところで育っていたのだが、小さいころの私は母と一緒に田並に来たことが一度もなかったので、私の記憶に田並と結びついた母の思い出はなにひとつない。それは父にしても同じことで、今改めて思い返してみても、不思議な思いが募るばかりなのだ。どうして父と母は、ここが彼らが共に生まれ育ち出会った村であるのに、かれらの子供である私がこれほどの時間をこの村で過ごしたというのに、私の思い出のなかに浮かんでこないのだろうか。このことはいずれじっくりと考えてみなければならない。
       やはり夏の昼下がりの事だ。私は祖父のなにかの用事のついでに連れられてこの村で一番の資産家、浜中の旦那さんにお目通りすることになった。港の先の県道を少し右に入つたように思う。門をくぐり、四角い敷石をつたって、玄関に入る。僕は祖父のかたわらで、“はまなかのだんなさん”が薄暗い玄関の上がり口のところに座っているのをみている。その時の祖父は常の祖父ではなかった。
     「はい、旦那さんもおげんきで・・・」
     祖父は僕が子供心にも唖然とするほど畏まった口調で話し始めた。後年思った事だが、浜中の旦那さんは祖父にとって尊敬すべき生身の人間の最上位の人物だったのだろう。しばらく話が続く間に、ニコニコ顔のおばさんが現われて、僕にアイスキャンデーを差し出したのだった。僕は思わず両手を後ろに引いた。
       重い腸チフスにかかったことがあったので、夏でもアイスキャンデーはご法度になっていたから、僕はこの食べ物を口にしたことがなかったのである。おばさんは僕が遠慮していると思ったらしく、田舎の人特有の強引さでアイスキャンデーを僕の手に握らせる。僕はおそるおそる祖父の顔色をうかがっつたにちがいない。浜中の家の人のすることとて、祖父は断ることもできず、表情を崩すばかり。こうして男の子は氷菓子を生まれて始めて口にしたのだった。
       浜中家の暗い玄関から表に続く敷石を並べた庭は、黒い影と切れ切れの白い光に満ちていた。今思い返しても、おそらく甘いミルク味であったろうアイスキャンデーの味は戻らないが、モノトーンの色調が昔の雨だらけの映画の一駒のように記憶のスクリーンに浮かんでいる。
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