陶磁器(日本・中国)に魅せられて

染め付けに始まり、染め付けに終わる


はじめに

 昔から「染め付けに始まり、染め付けに終わる」(注:この場合の「染め付け」とは色絵は通常含まず、青い「呉須」だけで彩色された磁器のことを指す)とは良く言われること。若輩の私が言うのもなんであるが、全くその通りであると痛感する今日この頃ではある。
  
 でも、「染め付けに始り」と「染め付けに終わる」の間に、人間どんなとんでもない事態を経験しないといけないのか?については、触れられていない。それがこの格言?を一層趣深いものにしている。人がこの格言に深くうなずく時、心に去来する想いは様々である。
  
 そのような話題について、書きたいようでもあり、また書きたくないようでもある、というのが正直な所である。なんかのきっかけで、明らかに自分より「悪いものが憑いている」愛好家に出会うことがある。そんな時に、彼らの語り口(自嘲気味の語り口ではあるが眼は怪しく輝いている)を見ていると、どんな発言であれ第三者の眼には奇異であり、軽蔑を誘うものであることがあまりに明らかであるからだ。

 多くの愛好家には「お師匠さん」がいるものである。特に、病気に罹りたての頃に、どこからともなく現われるのが彼ら「お師匠さん」である。彼らは「友人」の顔をしていたり、「先輩」であったり、とまあ様々である。ごく稀に「良いお師匠さん」に巡り合える幸運な人もいるが、不幸なことではあるが多くの場合、彼らの「お師匠さん」もまた悟りの境地には遥かに遠い「まだなんか憑いてる人」なのである。
  
 私の場合、幸か不幸かそんな「お師匠さん」はいなかった。
  
 しかして、蕎麦猪口の数や文様を比べたり競ったりする羽目には陥らなかったにせよ、日々の雑談を契機に強化される系統的な学習を伴わないため、移り気なコレクターとしてダッチロールを繰り返すことになる。
 
 
まだ子供だった私に、Oさんは不吉な予言をする
 
 私が子供だった頃、すなわち、柿右衛門を歌舞伎役者かなにかと思っていた頃の話である。友人にOさんという変わり者がいた。 彼とは大学で、ある勉強会で知り合ったのだが、彼は新入生としては明らかに歳をとり過ぎていた。聞けば脱サラして医学部に入り直したという。もとは文学部で歴史かなにかを勉強していたそうだ。彼は、その文学部を卒業後、博報堂か電通(どっちか忘れた)に入り、数年間かわい子ちゃんのCMとか作って暮らしていたというではないか。その頃はバブルの始まり、広告業界は正に時代の寵児であった。西武はきらめいていたし、皆、Brutus何ぞを読んでその気になっていた。私は彼が広告業界をやめた理由がさっぱりわからなかった(今もわからないが)。

 そんな彼を交え皆でラファエル前派(テイトギャラリーでのあの回顧展より以前だったと思う)かサンボリズムの話をしていた。その時、彼が笑いながら、前後の脈絡を全く無視して、ふと言った言葉が
 
 「おまえは古伊万里でも集めていそうだな、、」
 
であった。彼には不思議なカリスマがあり、その言葉は聞き流せなかった。私は「いや、集めていないよ」とかなんとか言っていたと思う。事実、狭い学生アパートには蕎麦猪口一つころがってなかった。彼とはそれ以来、骨董の話をすることはなかったと思う。他に話すことはいっぱい有った。私は若かったし、彼も気だけは若かったから。大学はおかしな連中で満ちていて、ガラパゴスと揶揄されるほどに60年代的だった。

 もしかしたら、彼は私の「お師匠さん」だったのかも知れない。彼は、ロラン・バルトの表現を借りると「道は教えてくれるが、一緒に行ってやるなどとは言い出さぬ、親切な土地の人」であった。私も知らぬ間に、その頃の彼の歳を追い抜いてしまったが、残念ながらその時の彼にまだまだ追いついていないことを知っている。
 

京都の骨董市、この15年

 京都にはご存知のように北野天満宮(天神さん)と東寺(弘法さん)の2つの骨董市がある。天神さんが毎月25日、弘法さんが第一日曜日と21日である。

 大学の同級生だったSさんに手を引かれ初めて行ったのが天神さんだった。たまたまその日が12月25日で年内の授業も終わり、皆でどこかへ行こうというとき、コテコテの京都っこのSさんが、終い天神にしようと言い出したのだ。北野天満宮は、年末年始に必要となるものを買い込む京都の人々でごった返していた。私たちは、神社の周囲を半分囲い込むようにテントを連ねている路上の骨董屋を冷やかしたりしていた。

 夢のようなすばらしい品々が並んでいるように私には見えた。

 あれも欲しい。これも手元に置いておきたい。

 美術館のケースや高級骨董品店のショーウインドウに展示されていて、決して手に入らない品ではなく、所有することが出来る品々が目の前にある。これらは私が買わなければ、他人の手に渡って二度と自分の目の前にはあらわれない。私は言いようのない焦燥感と強烈な恋慕にも似た熱情にとらわれてしまった。典型的な「欲望の構図」である。
 
 






 さて、今は2000年である。あの日からずいぶんと日が経った。私の髪にも少し白いものが混じり、目つきも穏やかになってしまった。私は天神さんを冷やかしに行く。私の目には、そこでは売っている物は99%ゴミである。残りの1%は私の理解を越えた形容しがたい物である。興奮をおぼえることもなければ、店主と熱心に交渉をしようという気にもならない。そもそも交渉しようにも、そこには欲しい物がないのである。

 私が変わってしまったのだろうか?それとも、市にでる商品の質が大幅に低下してしまったのだろうか?

 確かに、最近使い勝手の良く(つまり日常生活でも使えて)かつ品の良い江戸時代の古伊万里はあまり見かけないし、業者も昔ながらの怪しげな親爺ばかりではなく、茶髪の若者や外国人も混ざっている。そして明治の印判でさえも、ろくなものがない。明らかに商品の質は悲しいくらいに落ちている。でも、それはいつの時代でもそうだったのだろう。あれから10年以上が経っているのである。

 それではやはり私が変わったのだろうか?

 あの日から、私は、様々な土地の様々な骨董店や骨董市に出かけた。ニューヨークの蚤の市にも行ったし、ロンドンのカムデムをはじめとするほとんどのマーケットや骨董街には足を運んだ。テロのために過剰警備になったヒュースローでは、がらくたで一杯になったトランクを開けさせられ、一点一点係官に説明(「これは山猫の頭蓋骨です」等)しなければいけないこともあった。ラッパ式のイギリス製補聴器を買ったのは、ミネソタの田舎町のアンティーク店であった。パリのクリニャンクールを早朝から足が動かなくなるまで(または有り金がなくなるまで)彷徨い歩いた日が一体幾日あったか憶えていない。

 ジュネーブでは毎週の金曜日は、プランパレの蚤の市に出かけた。私のジュネーブでの生活雑貨(椅子、机、コーヒーミル、皿、鍋、古書、手回し計算機、ブラスのスタンプ、方位磁針、古いカランダッシュの鉛筆削り、古いステープラーなどなど)は、大体そこで揃えた。また、ジュネーブには私を半分狂気に追いやった金物骨董(古い理化学機器)専門店(←これこれ)が旧市街にあった。初めて仕事でジュネーブを訪れた時、その店のショーウインドウにへばりついた私は(その日は定休日だった)、再びジュネーブに舞い戻ることを心に誓っていたのである。その店にはずいぶんと私のなけなしのスイス・フランが流れていった。

 ベルリンでも、ロシア語しか話せないおばちゃんが番をしているボロ・ホテルに泊まりながら、骨董屋をさがして彷徨い歩き、ポータブルタイプの六分儀やらねじ巻き式の脈拍計やら××(書けない)やらを買いもとめた。ベルリンの壁が壊れてから、旧東側からいろいろ流れてきていたのだ。私は狂喜した。ドレスデンにも行ったし、ライプツィヒでも骨董屋、古書店を捜して歩いた。皆さんも経験があるだろうが、次第に、そういった店が数軒ある場所は、香りでわかるようになってくる。教会があり、大学があれば、なにやら道路の幅が少し狭いあたりを「香り」をたよりに分け入って行けば良いだけなのだ。ビロード革命前のプラハ、迷路のような中世都市は、一時の旅行者には夢の国のように映った。イタリア北部の町々は魅力的だ、、、(もう、うんざりしているだろうから以下略)

 確かに、若干私の方も変わってしまったようだ。過ぎ去ってしまった熱い胸の高まりを、あの時の情熱を、幻で良いから蘇らないかと願うのだが。いや、全てがそもそも幻に過ぎなかったのではないだろうか、、、
 

京都新門前町そして寺町

 なにやら少し興奮してしまったようだ。話を京都に戻そう。

 あなたはなぜ古道具屋を渡り歩くのだろう?掘り出し物をさがしているのだろうか?そのような人にとって、京都は最悪の街の一つである。

 言ってしまおう、京都に掘り出し物は無いと(これってガンダムの科白らしい。見たことないが)。

 ちょっと雑誌などで勉強して京都に掘り出し物を求めて来るような、さっきまでロレックスに夢中だったようなそんなお子さまが生まれるずっーと前から、古道具屋の親爺は古道具を右から左に流して金を稼いで女房子供を養ってきたのである。仮にどんなに値切っても、彼らが損を(こっちが得を)することは決してない。ということは三平方の定理くらい自明な確固たる真理なのである。この定理がわからない人は新門前町の手前にある祇園でお金を落としていただいた方が、京都経済の活性化に役立つし、しこりも残さないと思われる。

 その一方で、そこそこの眼を持ち、自分の好みが分かっていて(これが難しい)、なおかつ適当な額のお金を持っている人にとっては、京都の骨董街、特に新門前町は、無駄な時間を費やさないでよい理想的な街である。と、ここまで読んで、「なんだ、そんなのつまんないじゃん」とか思ったあなた。古道具には手を出さない方が身のためである。

 最近甦ってきた寺町については、また後日。
 

静岡、小梳神社、骨董市

 自戒の意味も込めてなにやらきつい言い方になってしまったので、ちょっと息抜き。

 仕事の関係で静岡にいたとき、第2日曜日は毎月のこのこ小梳神社の蚤の市に出かけた。そこには約30軒ほどの古道具屋が東海や中部地方から集まっていた。

 ある日の昼下がり、私がある業者から小振りの向こう付けのセットを買っているとき、その親爺に「お客さん、どちらから?」と聞かれた。「え?京都からですよ」と私。すると彼は、
 

「ああ、京都なら知っている人がいますよ」


と言う。京都は100万都市である。そんな親爺の京都の知り合いなど私にはなんの関わりもないのであって、話をされても迷惑なだけである。思わず引いている私に構うことなく親爺が続ける。
 

「その人はタケノコ堀りの絵柄が好きで、、、」


ん?? なんか聞いたことが。
 

「この間まで、そこの××に勤めていたんだけど、先日京都に戻っちゃったんですよ」


 同じ職場にいた私の大学の先輩の某××さんでした。彼はタケノコ堀りの絵柄の古伊万里のコレクターで、自宅に入りきらないコレクションはオフィスにまであふれていた(良いのか?)。古物商の許可書も取っている彼は、時々骨董市に店を出しているそうな、、、
 

学会会場の下では、なぜか大骨董市が!

 ある時、名古屋での学会の小さなセッションで、自分の専門分野とちょっと違う内容のプレゼンテーションをしなければならないことがあった。仕方ないので、適当にスライドと原稿を用意して、その朝一番のプレゼンを済ませた。

 自分の発表が終わると、他人の発表は(私の専門と違うので)つまらないため、適当に口実を見つけて逃げ出すことにした。諸先輩に、
 

「今日は夕方に京都で所用がありますので、失礼したいのですが、、、先輩の発表を聞けずにすみません」


と挨拶してそそくさと会場を後に。

 その会議場の建物から出ようとすると、ふと、立て看板が横目に入る。見ると「名古屋大骨董市」と読める。ふらふらと会場に入る私。だだっぴろい会場の中で、眼を皿のようにして(学会の時とは全く目つきが違う)、一軒一軒の商品を見て回る。すると、あちらに顔見知りの寺町のライト商会(がらくたを売っている)のおっちゃんがいるではないか。わざわざ京都から店を出しに来ているのか、ご苦労なことである。むこうも私の顔を認め、言った言葉が、
 

「こんにちはあー、今日は朝からですか!?」


 違う!!! 私は学会で名古屋に来たのである!!

 その日の夕方、両手にがらくたで一杯になったビニール袋を抱えて(先輩と鉢合わせないように)左右をうかがいながら、こそこそと会議場を後にする私がいた。
 

カトマンズのチベット村で馬上杯を手に入れる

ハノイで中国の染め付けを買う。陶器の阿片吸入器も入手

番外:ナイロビの市場で骨董屋の親爺と交渉する

盆栽だけはやらない
  

 続く
   
ひさしぶりに、ちょっと書き足しましたが、自己嫌悪に陥りました。2000年11月
  


  
メインへ