『失われた時を求めて』 投稿者:ふゆひこ 投稿日:2005/08/02(Tue) 23:12 No.3831

プルーストの『失われた時を求めて』(集英社 鈴木道彦訳)を読み出しました。まだ第一部“コンブレー”の途中です。先は長いです。僕は『失われた時を求めて』において、リストの名前が登場するのはサン=トゥーヴェルト侯爵夫人の夜会で弾かれる、リストの“小鳥に語るアシジの聖フランシス”の場面のみかと思っていたのですが、最終巻の第13巻に載っている詳細索引で調べると、他にも何箇所かでリストの名前が登場して、とても興味深いです。前後を読んでいないので、これらの記述の意味合いが正確に理解できていないのですが、面白いので先にまとめて紹介します。

まずはサン=トゥーヴェルト侯爵夫人の夜会の場面から。第2巻『スワン家の方へ』P261

“スワンは、この二人がフルートのアリアにつづいてピアノの間奏曲(リストの『小鳥に語る聖フランチェスコ』)に耳を傾け、巧みなピアニストの目のくらむような演奏を追っているのを、うんざりした皮肉な目つきで眺めた。”

この場面はヴィスコンティの映画『イノセント』で弾かれる“エステ荘の噴水”の場面と似た印象を受けます。次は同じ場面の続き、スワンのセリフ。P281

“「ほほう、美しい大公夫人がお見えだ!ごらんなさい。リストの『アッシジの聖フランチェスコ』を聴くために、わざわざゲルマントからおいでになったんですよ。(略)」”



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ふゆひこ > 次は第3巻『花咲く乙女たちのかげに I』より。これは大変興味深いです。P165

“そして彼がしばしば興味を惹かれるのは、同じ階層の人たちから見放された貴婦人のだれかれであり、そのわけは彼女がリストの愛人であったり、バルザックのある小説が彼女のお祖母さんにささげられていたりするためなのである”

通読していないので“彼女”が指しているのが、同一人物なのか、それぞれ不特定の数名を指しているのか(←こっちっぽいですが)ちゃんと理解できてません。ちゃんと読んだらまた書きます。この“貴婦人”“彼女”がマリー・ダグーのわけはないのですが、マリー・ダグーであっても、ある程度しっくりしてしまうほど羅列されたスワンが興味を持つ“女性”というのがリストの周辺の社会に生きる当時の“女性”とイメージが重なりますね。 (8/2-23:13) No.3832
ふゆひこ > 次は第4巻『花咲く乙女たちのかげに II』より。ヴィルパリジ夫人の話した内容。彼女の父親の館について。P39

“けれどもまたこの館は文字通りの美術館であり、ショパンとリストがそこで演奏をし、ラマルチーヌが詩を朗読し、一時代の最も著名な芸術家がこぞって家族のアルバムに寸言やメロディやクロッキーを書いた場所でもあったから”

この館は実在するのでしょうか。こういう点も調べてみます。この一文からは、ブロックヴィル侯爵夫人とリストのエピソードを想起させます。ちなみに『失われた時を求めて』にはフランシス・プランテの名前も登場します。 (8/2-23:14) No.3833
ふゆひこ > 最後は、第5巻『ゲルマントの方 I』より。P338。これが一番面白いです。アリックス婦人とヴィルパリジ夫人の会話。

“ヴィルパリジ夫人は、ごく当り前な口調で答えた、「この肖像画は、美しいものでしょう?それに、保存が完全ですわ」と彼女はつけ加えた。
「ねえ、あなた」と、マリー=アントワネットふうの髪形の婦人が言う、「ほら、わたしがリストを連れてきたときに、こちらの方がコピーだってリストが言ってたでしょう」
「わたし、音楽のことなら、リストの意見に従います。でも、絵については違いますよ!だいいち、あのかたはもうぼけてらしたし、本当にそうおっしゃったかどうかも、わたし、覚えておりませんの。それに、あのかたを連れてらしたのは、あなたじゃありませんわ。わたしは、ザイン=ヴィトゲンシュタイン大公夫人のお宅で、あのかたといっしょに、二十度も晩餐をいただいておりましたのよ」”

ぼけ老人にされてしまった(笑)。カロリーヌ・ヴィトゲンシュタインの名前まで登場するとは驚きでした。こうなるとヴィルパリジ夫人というのが気になりますね。


ネット上で調べただけの知識ですが、ヴィルパリジ夫人というのは、作曲家ジャック・アレヴィの娘、ジュヌヴィエーヴ・ストロース(結婚前の名前はアレヴィ、後にアレヴィの弟子のビゼーと結婚。ビゼーと死別後、エミール・ストロースと結婚)がモデルとなっているようです。

東京学芸大学のサイトで公開されている、安田崇真子さんの書かれた“プルーストとユダヤ人意識”という論文を参考にしました。↓
http://www.u-gakugei.ac.jp/~seminair/memoire/01/01proust.htm#chap4

これはジュヌヴィエーヴ・ストロースの写真↓
http://www.marcelproust.it/gallery/straus.htm

で、ジュヌヴィエーヴ・ストロースをモデルとしたヴィルパリジ夫人に、プルーストは上記の発言をさせているわけです。カロリーヌとリストと20度も晩餐を共にしたと。この根拠のようなものがないかウォーカーで調べてみましたが、ジュヌヴィエーヴ・ストロース(あるいはアレヴィ、ビゼー)の名前は出てきませんでした。いちおうWYのP538に、1861年にリストがパリに行ったときに、アレヴィを訪問していることが書かれています。その時に11歳のジュヌヴィエーヴがその場に居てもおかしくはないですね。 (8/2-23:15) No.3834

ふゆひこ > 現在、第3巻『花咲く乙女たちのかげに』の最初の方です。まず訂正。上でジュヌヴィエーヴ・ストロースがヴィルパリジ夫人のモデルと書きましたが、どうもはっきり分かりません。プルーストは複数の実在の人物の特徴をミックスさせて、フィクションのキャラクターを作り上げているようです。

それでは読了した第2巻『スワン家の方へ』、第2部「スワンの恋」から。まずはヴェルデュラン家のサロンの模様。第2巻 P14

“もしピアニストが『ワルキューレ』の騎行のところか『トリスタン』の序曲を弾こうとすると、ヴェルデュラン夫人はこれに抗議するのだった。この音楽が気に入らないからではなく、反対にあまり印象が強烈すぎるからだ。”

鈴木道彦氏の注釈では、ここは“ワーグナーの作品”となっています。ですが、ここではピアノで演奏されてるんですよね。もしかしたらワルキューレはタウジヒの編曲版かもしれないし、トリスタンの序曲はビューローの編曲版かもしれない。すくなくとも“オペラを、サロンや家庭に”という、リストのオペラ・トランスクリプションの目的の一つの実現がここに感じられます。 (9/5-02:50) No.3905
ふゆひこ >
次は筑摩書房から出ている『評伝プルースト 下』ジャン=イヴ・タディエ著 吉川一義 訳のP133に記載されていること。1907年7月1日にプルーストはリッツホテルで晩餐会とコンサートを開く。フォーレにピアノ演奏を頼んでいたのですが、体調不良で代役はリスレールになったとのこと。演奏曲目をプルースト自身が考え、リスレールに弾いてもらいたがったらしいのですが、“暗譜していない”との理由で弾かれなかった。そのリクエスト曲目には、シューマンやショパンに加えシューベルト〜リストの“ウィーンの夜会”、それと“イゾルデの死”が入っていたとのこと。おそらく“イゾルデの死”はリスト編曲版でしょうね。 (9/5-02:51) No.3906
ふゆひこ > また本編 第2巻『スワン家の方へ』にもどって、一番最初の書き込みで紹介したサン=トゥーヴェルト侯爵夫人の夜会の場面。ここは変な抜粋で紹介してしまいましたがちゃんと読むと非常に面白いです。まずこの場面で、リストの“小鳥に語るアッシジの聖フランシス”が演奏されているのは、P261の“スワンは、この二人が〜”からP265の“ピアニストがリストの曲を終えて、ショパンのプレリュードを弾きはじめると、”までです。この間は、ずっと“小鳥に語る〜”が演奏されていることになります。この間の人物描写が面白いんですよ。まず、最初に紹介した文でスワンにあきれられて見られる二人の夫人のうち、一人はカンブルメール夫人。彼女の聴き方の描写 P261

“カンブルメール夫人の方は、しっかりした音楽教育を受けた婦人として、その頭をメトロノームの振子に変えて拍子をとっており、一方の肩からもう一方の肩へとゆれ動くその振幅と速度はますます大きくなって、(略)そのたびに頭にさした黒葡萄の実が曲がるのを直さねばならないのだったが、しかしそのあいだも頭の動きはますますスピードを増すのであった。”

このカンブルメール夫人に対して、身分、社交界での地位がはるかに上であり、人物としても数枚上手のレ・ローム大公夫人が到着し、その聴き方の比較。P265

“レ・ローム大公夫人は、いま演奏されている曲、たぶんこれまで自分の聴いた音楽の枠に収まらないこの曲のために、こういう身振りが必要とされているのではないか、それをしないのは音楽に対する無理解の証拠になり、この邸の女主人に礼を失することになりはしないか、と考えた。そこで一種の「妥協」から、矛盾した自分の気持ちを示すために、(略)ときには肩飾りをかき上げ、ブロンドの髪にさした小さな玉のかんざし(略)に手をやって、これをしっかりさし直すだけで満足し、ときには自分の扇でちょっとのあいだ拍子をとってみるのだが、しかし自分の独立性を失わないために、調子をはずしてそれをやるのであった。”

ここのレ・ローム大公夫人の微妙な心理描写でも、プルーストの文章の見事さが分かります。 (9/5-02:52) No.3907
ふゆひこ > リスティアンとして注目するのは、レ・ローム大公夫人が“小鳥に語る〜”を新しい音楽ととらえているところですね。“小鳥に語る〜”の後に、ピアニストはショパンのプレリュードを演奏するのですが、ショパンが演奏されるとレ・ローム大公夫人は、心の底から音楽を楽しみます。面白いのは、同じようにリストよりもショパンに共感しているカンブルメール夫人の方。カンブルメール夫人はショパンを素晴らしい音楽だと思いながらも、後列の方にいるワーグナーを礼賛する彼女の若い嫁の顔色を気にする。P266〜267

“けれども今日では、このようなショパンの音楽の美しさは流行おくれになり、新鮮さを失ったように見えた。数年前から音楽通の尊敬を失ってしまったショパンの音楽は、すっかり名誉も魅力も喪失し、音楽の分からない人たちでさえ、敢えて口にしようともせぬつまらない楽しみしかそこに感じていなかったのである。カンブルメール夫人はそっと自分のうしろに目をやった。彼女の若い嫁がショパンを軽蔑し、ショパンが演奏されると不愉快な思いをすることは分かっていた(後略)”

ショパンの音楽が、一時期このような風潮にあったというのはなんとなく知っていましたが、ここまで明確に書かれているとショックがあります。行き過ぎたワグネリズムの結果でしょうか。リストにとってみれば、ワーグナーの勝利はリストにとっても望んだことだったでしょうけど、代わりに自分の存在が影を薄め、しかもショパンまでもがパリからこのような仕打ちを受けることになると、知ったならば複雑な心境となるでしょうね。 (9/5-02:53) No.3908
ふゆひこ > 最初の書き込みで、またしても適当に紹介してしまったP281〜282のスワンのセリフ。これはセリフ全体が“小鳥に語る〜”にひっかけられた非常に面白いものでした。

“「ほほう、美しい大公夫人がお見えだ!ごらんなさい。リストの『アッシジの聖フランチェスコ』を聴くために、わざわざゲルマントからおいでになったんですよ。可愛いシジュウカラみたいに、野の小鳥のためのスモモとサンザシの小さな実をちょっとついばみに行って、それを御髪にさす時間しかなかったんですね。(後略)”

スワンはレ・ローム大公夫人が身に着けているアクセサリーを見て、とっさにリストの曲と関連付けて、機知のある挨拶をする。この機知は小説内では“ゲルマント一族の才気”と呼ばれ、ゲルマント家の人々と、気心の知れたスワンぐらいにしか分からない言い回しとされます。この後、レ・ローム大公夫人は、スワンの表現を面白がりますが、いっしょに聞いていたサン=トゥーベルト侯爵夫人はこの“才気”にピンと来なくて、P282

“どうして奥さまはわたしの夜会のプログラムをご存じだったんでしょう。”

と驚いてしまいます。 (9/5-02:54) No.3909
ふゆひこ > ここの“小鳥に語る〜”の場面は、ジャン・ジャック=ナティエ著 『音楽家プルースト』音楽之友社 斉木眞一 訳 のP124で考察がされています。先に演奏されるグルックのオルフェオの曲と比較し、

“グルックとリストの曲は、マトレとメックスによると、それぞれ音楽と言語を象徴しているということだが、後者は、音楽に翻訳されているのであるから、昇華された言語ということになる。”

ナティエの論説を部分的に読んでもぴんとこないな。 (9/5-02:54) No.3910
ふゆひこ > さて、このレ・ローム大公夫人は、その後ゲルマント公爵夫人になるのですが、このゲルマント公爵夫人のモデルとされた人物が興味深いです。次は筑摩書房から出ている『評伝プルースト 上』ジャン=イヴ・タディエ 吉川一義 訳のP330。

“どうやらプルーストは、ゲルマント公爵夫人のなかに、いろんな女性の特徴を混入したようだ。鳥のような鼻はシュヴィニエ伯爵夫人から、気品と威厳と眼差しはグレフュール伯爵夫人から、そして「メイヤックとアレヴィ」の機知は、アレヴィを受けついだストロース夫人から、それぞれ想をえたのである。”

次に『評伝プルースト 上』P331。ゲルマント公爵夫人(=レ・ローム大公夫人)の“気品と威厳と眼差し”のモデルとなったエリザベート・グレフュール伯爵夫人について。

“伯爵夫人のほうは、あらゆる芸術に才能を発揮した。デッサンのレッスンを受けるかと思えば、パリのお歴々の写真を撮ったポール・ナダールに写真を習ったり、ピアノを弾いたり、室内楽のコンサートや、のちにはオペラの上演を主催したりした。リストをはじめ、フォーレや、ギュスターヴ・モローらと親しくつき合い、モローの画は何点も所蔵していた。”

リストの名前が出てきました。

これはエリザベート・グレフュール伯爵夫人の写真。↓

http://www.marcelproust.it/gallery/greffulhe_immagini.htm

このサイトはプルーストの専門サイトですね。トップはこっち↓

http://www.marcelproust.it/index.htm
(9/5-02:55) No.3911
ふゆひこ > リスト関連書籍で、エリザベート・グレフュール伯爵夫人について言及がないか調べたところ、リスト自身がオルガ宛書簡の中で、すこし記述されていました。1878年11月17日 の書簡。リストの所在はエステ荘です。

“貴族の友人のジョセフ[カラマン−シメイの皇太子]から、彼の娘がグレフュール伯爵と結婚することについて、知らせはありましたか?”

次は1884年2月5日 の書簡。リストの所在はブダペストです。

“フィガロ誌にシメイ家のご子息(あの美しいグレフュール伯爵夫人の兄弟)がベハーギュ家のご令嬢と婚約したことを知りました。彼女の母親は最近、ケレグ伯爵と結婚しています。

この文章のあとにリストは人生観のようなものを語っているのですが、すいませんうまく訳せません。 (9/5-02:56) No.3912
ふゆひこ > まだ第3巻『花咲く乙女たちのかげに』の終わりの方を読んでます。今のペースだと1ヵ月に2巻のペース、全13巻なので半年ぐらいかかりそうです。さて、NO3832の書き込みで紹介した一文、その中の“彼女”はやはり不特定の別々の人を指しています。

P184から、語り手にオデットがピアノを弾く場面から紹介します。弾かれる曲はヴァントゥイユという架空の作曲家のソナタ。これはスワンとオデットとの想い出の曲です。

“ソナタを最初から終わりまでずっと聴いたあとでさえ、ちょうどある歴史的建造物が、距離が離れすぎていたり靄がかかったりしていて、ほんのわずかな部分しか見えないように、ソナタはほとんどまるで目に見えてこなかったのである。”

いずれ素晴らしい芸術として認識することになるけれども、初めて聴いた時に理解ができなかった音楽に対する見事な表現です。僕にとってはそれはリストの“ソナタロ短調”、シェーンベルクの“浄められた夜”がそんな感じでした。 (9/14-22:51) No.3917
ふゆひこ > プルースト関連書籍をパラパラと読んでいると、プルーストと実際に関係が深い音楽家として、次の2名の名前がクローズアップされます。作曲家のレイナルド・アーン、そしてピアニストのエデュアール・リスレールです。リスレールの名前は、NO3906の書き込みでも名前がでました。

関係の深さを象徴することとして、次の作品を紹介します。プルーストの処女出版であった『楽しみと日々』この中には、“画家の肖像”と題し、クイップ、ポッター、ワトー、ファン・ダイクの4人の画家に捧げる詩が収録されています。この詩にレイナルド・アーンが作曲。朗唱のような作品でしょうか。その初演を行ったのがリスレールとのこと。(手元に図書館から借りてきたプルースト詩集『画家と音楽家の肖像』窪田般彌 訳 コーベブックス刊があるのですが、これには“画家の肖像に加え”、ショパン、グルック、シューマン、モーツァルトを詠った詩も収録されています。)

↓リスレールは録音も残っています。リストも“ハンガリー狂詩曲 第11番”が1曲入ってます。

http://www.cduniverse.com/search/xx/music/pid/5563695/a/%C9douard+Risler.htm (9/17-04:46) No.3922
ふゆひこ > 以前ここの掲示板で会話をしていて、アルフレッド・コルトーが熱心なワグネリアンであった、またドビュッシーも同様である、という事実を知って、僕にとっては非常に意外でした(PAST LOGの『guess who! 2』『Liszt Probleme』のスレッドにあります )。二人ともフランス音楽の代表でありワーグナーはその対極、という先入観を持っていたためです。リスレールのことを調べていたら、様々な事実が僕の中でしっくりはまりました。ネット上の知識ですが、リスレールはコルトーの先輩にあたり関係が深いです(フォーレの“ドリー”という組曲を連弾で初演したり、エネスコからも二人連名で曲を献呈されています)。そしてWIKIPEDIAのコルトーの項によれば、コルトーのバイロイト行きはリスレールに従って、とのこと。ドビュッシー、リスレール、コルトー、プルースト。彼らが青年期ぐらいのころ、どのようなパリの空気を呼吸したのかというと、それがNO3908で紹介したワーグナー熱が猛威を振るうパリの空気だったわけです。

ドビュッシーはその後アンチ・ワーグナーのような様相を帯びてきますね。コルトーはどうなんでしょうか?一般のコルトーに対するイメージからはワーグナーはあまり感じないのではないでしょうか。推測ですが、あまりにも入れ込みすぎた結果、反動で嫌悪感が生じてきたのではないでしょうか。 (9/17-04:47) No.3923
ふゆひこ > トーマス・マン著 『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』佐藤晃一 訳 新潮文庫 P42より

“嘔吐を催す力は、欲望が活發であればあるほど大きい、すなわち、そもそも世界とその催し物とに執着する度が熱烈であればあるほど大きい”

アンブローズ・ビアス著 『悪魔の辞典』 西川正身 編訳 岩浪文庫 P229より

“偏愛(predilection n.) 幻滅への準備段階” (9/17-04:48) No.3924
ふゆひこ > ようやく『失われた時を求めて』本文に戻ります(笑)。プルーストというのはとにかく“知覚”に忠実です。“感覚”“フィーリング”のことではなく、視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚といった五感です。脳に対する刺激、その結果としての総体である“記憶”、これに忠実であろうとする。芸術に対する感性も、その芸術を知覚したことによる自分の反応・変化に忠実です。偏愛と執着、その反動として嘔吐と幻滅を描写する箇所が第三巻『花咲く乙女たちのかげに I』には2箇所出てきます。

まずP41〜42 その舞台観賞を熱望し、ようやく実現した女優ラ・ベルマ(=サラ・ベルナールがモデルとのこと)に対して

“私は目、耳、精神をラ・ベルマの方に集中して、彼女を賞讃する理由のどんなひとかけらも見落とすまいとしたが無駄だった。ただ一つの理由もそこに見つけることができなかったからである。”

次はP412 これも憧憬の対象であったバルベックの聖母像について

“自ら千回もくり返して彫り上げたこの像が今や単にその固有の石の外観に還元されたのを見て、すっかり拍子抜けしてしまった。” (9/17-04:49) No.3925
ふゆひこ > “語り手の私”が、ラ・ベルマの演技に戸惑った大きな理由としては、ラ・ベルマが他の女優達のように台詞回しに特有の抑揚がなかったから、というのがあります。他の女優の方が“語り手の私”にとって、女優然とした女優であったため、それらの歴史に名を留めぬ役者をラ・ベルマに違いないと思い込んでしまう有様。

P42
“私は、ラ・ベルマの声に耳を傾けたが、まるで自分自身が『フェードル』を読んでいるかのようだった。”

P43
“彼女はここの長台詞全体を一本調子な言い方で均らしてしまったが、(略)それに彼女は非常な早口でこの台詞を述べたので、彼女がわざと最初の方の詩句を単調に演じたことに私の精神が気づいたのは、やっと最後の詩句に到達したときであった。”


このラ・ベルマ(=サラ・ベルナール)の描写は、一般に言われているサラ・ベルナールの特徴と一致しますね。台詞を唄うのではなく、普通に読み上げるような感じ。

↓美の巨人たちのサイト

http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/040306.htm

(9/18-01:16) No.3927
ふゆひこ > この一連の記述からだとサラ・ベルナールが、旧来の仰々しい演技に対して、抑制の効いた現代的な演技をしたという印象を持ちます。これは本当なのでしょうか。サラ・ベルナールのフィルムを断片的に観たことがあるのですが、何か時代がかった演技だな、と思ったことがあります(もちろん歴史的大女優のサラ・ベルナールをこのフィルムだけで評価などはできないですが)。この辺のことについて、ダヌンツィオに関する本を立ち読みしたときに、解説でエレオノーラ・ドゥーゼとサラ・ベルナールの比較がされていたと思うので、今度図書館で借りてみます。確か、現代の観客がベルナールのフィルムに幾ばくかの失望をしてしまうのに、ドゥーゼのフィルムに対しては息をのんだ、とか。

ドゥーゼとベルナールの演技については、チャップリンも証言を残しています。『チャップリン自伝』中野好夫 訳 新潮社 P216〜217

“サラ・ベルナールがオーフュウム・ヴォードヴィル劇場に出演したことがある。もちろんたいへんな齢だったし、引退も近いころだったが、彼女の芸はついに本当にはわからなかった。ところが、まもなくエレオノーラ・ドゥーゼもロサンゼルスにきたが、これも老齢といい、引退間近ということもあったにもかかわらず、天才の芸は少しも曇っていなかった。(略)彼女のセリフには、俳優によくあるわざとらしさなどみじんも感じられなかった。まるでそれは悲劇的情熱の余燼からのぼってでもくるかのようだった。もちろんわたしには、一語も理解できなかったが、いまだかつて知らぬほどの大女優を目の前に見ているのだという感じ、それだけははっきりわかった。”

(9/18-01:19) No.3928
ふゆひこ > 図書館から田之倉稔 著『ダヌンツィオの楽園』(白水社 2003年)を借りてきました。同書P218より、ウィリアム・ウィーヴァーというドゥーゼの評伝を書いた人の文章とのこと。

“ある午後のことだった。彼は退屈しのぎにMOMA(ニューヨーク近代美術館)のフィルム・ライブラリーに入って、無声映画を観た。ある往年の女優が芝居をしていた。コスチューム・プレイだった。その古風な演技に観客は笑いだした。しかしサラ・ベルナールが出てきても、笑いはつづいた。老女優がクッションにどさりと倒れる姿に、恥ずかしい話だが(と言っているが)、彼も笑った。たしか彼女はエリザベス女王を演じていた。次に「灰」という映画が映写され、ドゥーゼがでてきた。こんどは笑いはぴたりととまって、沈黙が客席を支配した。”

プルーストの記述を読めば、ベルナールが同時代の他の女優からは一歩先を行っていたことが窺い知れるのですが、ドゥーゼはさらにその先を行っていたということでしょうか。自身が演技のプロフェッショナルであり、二人の演技を直に観ることが出来たチャップリンの記述が一番信頼性が高いですね。 (9/19-20:04) No.3933
ふゆひこ > さてリストの方に話をつなげます。ドゥーゼは、詩人ダヌンツィオの元恋人で、別れた後もダヌンツィオは崇敬の念を持っていたとのこと。このスレッドの一番最初の書き込みに出てくるヴィスコンティの映画『イノセント』の原作は、ダヌンツィオの『罪なき者』です。今回、借りてきた『ダヌンツィオの楽園』で、非常に面白いことを知りました。それを紹介する前に、まずウォーカーのFYP503あたりに書かれていること。

1886年。リストの死の年です。最初、リストはバイロイトは行かないことに決めていたそうです。ところがそこへコージマがワイマールへ現れる。目的は長女のダニエラ・フォン・ビューローの結婚式にリストを招待するため。ちゃんと読んでいませんが、コージマはわざとダニエラの結婚式をバイロイトのワーグナー・フェスティヴァルにあわせたようですね。こうなってはリストは快諾せざるを得ず、7月1日には結婚式出席のためにバイロイトに到着。7月4日に式は執り行われたようです。ダニエラの結婚相手は、ヘンリー・トーデという美術史学者。リストは二人の結婚を案ずるような発言をしています(うまく訳せません)。で、ダニエラとトーデは、1914年に離婚してしまうそうです。

ダニエラとトーデに関することは、ウォーカーではここまで。で、どうもいろいろと調べるとトーデはその後(ダニエラと離婚後でしょうか?この辺の時系列がよく分かりません)、イタリアに居住するようです。その邸宅の名前が“ヴィラ・カルニャッコ”。

そして1921年にこのヴィラ・カルニャッコを購入し移り住む人物が、詩人ダヌンツィオです。 (9/19-20:05) No.3934
ふゆひこ >

『ダヌンツィオの楽園』 P206より。

“これが「ヴィラ・カルニャッコ」だった。農家ふうのたたずまいをした大きな家だったが、もともとは十八世紀に建てられたもので、ガルドーネ在の裕福な一家の持ち物だった。それが、イタリア美術を研究するドレスデン出身のある大学教授ヘンリー(ドイツ人だから「ハインリッヒ」というのかもしれない)・トーデに売却された。トーデはドイツからたくさんの書籍や家具・調度品を運んできた。
また夫人は、コジマ・リストの娘だったので、フランツ・リストが弾いていたというピアノ一台が含まれていた。第一次大戦の勃発で、ドイツはイタリアの敵国になったので、トーデ一家は帰国、と同時に「ヴィラ・カルニャッコ」も、敵国財産としてイタリア政府に没収されてしまった。大戦が終わってからしばらくして、トーデ一家は没収された家具・調度品の返還を求めて、ダヌンツィオ側と争った。これは国際的なスキャンダルになった。詩人は「泥棒」よばわりされた。”

↓これはヴィラ・カルニャッコについてのページ。
http://www.istituti.vivoscuola.it/marconi/dannunzio/LINK029.HTM

イタリア語でさっぱりよくわかりませんが、リストが弾いたらしいスタインウェイが所蔵されている(されていた?)ようなことが書かれています。

↓ダヌンツィオが所有してからは、以前の所有者のドイツ臭は一掃され、ダヌンツィオ色に染め上げられたそうです。名称も“ヴィットリアーレ”と改称。これが現在のヴィットリアーレ。

http://www.vittoriale.it/

(9/19-20:08) No.3936
ふゆひこ > リストが語ったトーデとダニエラの結婚について、ゲレリッヒのピアノ・マスタークラスの方にも似たような発言が載っていました。なぜこの本とリンクするのかというと、つまりリストはワイマールでマスタークラスを開催していましたが、コージマの来訪を受け、6月26日で打ち切りバイロイトへ向かうためです。これはリストが語った言葉なのでしょうか?そんな感じで書かれています。Diary notes of August Gollerich 『The Piano Master Classes of Franz Liszt,1884-1886』edited by Wilhelm Jeger ,translated by Richard Louis Zimdars (Indiana University Press ,1996) P162

“ダニエラは嫁にやり難い。あの娘は父親と母親の両方の性質を多大に受け継いでいて、その混ざった性格はいつでも穏やかというわけではない”
(“Daniela{von Bulow} was difficult to marry off. She had much from both her father and her mother, and this mixture is not always very comfortable.”)

ウォーカー FY P504の方は、ラ・マーラの書籍(Durch musik und Leben im Dienste des Ideals)が出典とのこと。うまく訳せないんですが、こちらも。

“トーデがダニエラにとって良い夫であるといいんだが。ダニエラはすべての人と上手くいくようなタイプではないよ。あの娘は父親から複雑で不安定な性格を受け継ぎすぎたんだ。”
(“I hope that[Thode] is the right man for Daniera,who was not born for everyone, having too much of the uncomfortable mixture of her father”)

ダニエラに対して、あまり実感がわかない方には、あの“クリスマス・ツリー”を献呈された孫と紹介すればよいでしょうか。 (10/4-01:40) No.3946
ふゆひこ > リストにつながったところで、ふたたびプルーストの方へ。

現在、第4巻『花咲く乙女たちのかげに 2』の真ん中あたりです。さていままでの記述で、この時代のフランス文化等に詳しい方は“一人重要な名前が出ていないではないか”と思われてきたことだと思います。僕もようやくその名前を知りました。『花咲く乙女たちのかげに』でバルベックに滞在している語り手は、ヴィルパリジ夫人より一人の貴族を紹介される。名前はシャルリュス男爵。このシャルリュスのモデルとなったのがロベール・ド・モンテスキューという人物。このロベール・ド・モンテスキューの名前は、このスレッドでいままで登場してきた人物達をすべて繋げてしまうほど、強い求心力を持っています。ダヌンツィオがパリで活躍できた理由にはこのモンテスキューの後押しがあったためであり、エリザベート・グレフュールは従妹、サラ・ベルナールとは恋愛関係にあったようです。フィリップ・ジュリアン著『1900年のプリンス』志村信英 訳 国書刊行会 P98によれば、サラ・ベルナールとロベール・ド・モンテスキューは二人の容貌がそっくりであったため同様な?コスチュームを着てナダールに写真を撮ってもらったそうです。このロベール・ド・モンテスキュー、ユイスマンスの『さかしま』のモデルであり(←読んだことないです。)、フィリップ・ジュリアンによればなんとワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』のモデルとのこと。しかも筋金入りのジャポニザンです。

このスレッドの補足としてPAST LOGにある、『西園寺公望 ユディット・ゴーティエ』『ドリアン・グレイの肖像? ≪ジャポニスム≫』『リストとナダール』『リストと万国博覧会』『ベルリオーズとリスト』といった19世紀末フランスのことを話題にしたスレッドを読んでいただけると、いろいろとつながると思います。 (10/4-01:41) No.3947
ふゆひこ > ロベール・ド・モンテスキューがどれほどの引力を持っているか、プルーストの次の文章を要約・引用して紹介します。筑摩書房 プルースト全集 第15巻 後藤辰男 訳 P80〜に収められている モンテスキウ礼賛『ヴェルサーユ文学祭』の文章です。

P559の注釈に詳細が載っているのですが、これはロベール・ド・モンテスキュー主催で、ヴェルサイユ劇場で主催されたものです。1894年5月30日。プルーストはその模様を、貴婦人の服装の様子なども緻密に描写したのに、ゴーロワ誌にはかなりカットされた形で掲載され失望したとのこと。

プルーストの表現で

“観客席は満員である。何とすばらしい客たちだろう! まさに、パリの名士名流夫人一堂に会す!”

とあり、続いてその名士名流夫人の名前が列挙されます。その中には、エリザベート・グレフュール伯爵夫人、ポトツカ伯爵夫人(この人もリストと関連ありそう)、ジュディット・ゴーティエの名前も見えます。さてそのヴェルサイユ劇場の一夜では、様々な芸術小品が披露されていきます。P83より。

“鈴の音が控え目に響き沈黙が求められる。レオン・ドラフォス氏がピアノにつき、ひと皆認めるところの才能を発揮して、バッハのガヴォット、ショパンの幻想曲、ルビンシュタインの船歌を弾く。”

詩の朗読などもつづき、P84

“新たな魅惑。銀色の長い絹のドレスにヴェニス産の糸レースをあしらった装いのサラ・ベルナール夫人”

ベルナールは他の二人の婦人といっしょにアンドレ・シェニエの詩の朗唱をします。他にもいくつかのモンテスキューの詩でしょうか、朗唱した後、最後にドラフォスが最後に登場したようです。そしてP87

“ドラフォス氏はリストの狂詩曲を弾く”

これで、このヴェルサーユ文学祭は終わったとのことです。リストの狂詩曲というのはおそらくはハンガリー狂詩曲の何番かでしょうね。上記の原文はネット上でも公開されています。↓

http://www.yorktaylors.free-online.co.uk/fete.htm
(10/4-01:41) No.3948
ふゆひこ > レオン・ドラフォスは、プルーストによってロベール・ド・モンテスキューに紹介されたそうです。

↓ネット上の知識ですが、リスト以降のピアニストの系譜。ミッチさんに教わったとおりリスレールはシュターヴェンハーゲン、ダルベール、ディエメールに師事しており、ドラフォスも同じようです。

http://www.oldandsold.com/articles31n/music-history-48.shtml (10/4-01:42) No.3949
ふゆひこ > 次は上述のフィリップ・ジュリアン著『1900年のプリンス』P288より。1894年のヴェルサーユ文学祭の成功の後、モンテスキューはパリのヌイーという地区の邸宅に住み“ミューズの館”と称したとのこと。P291

“そして次に帝政風サロンに来ると、若き日のリスト―ドラフォスそっくりだ―をアングルが描いた素描の傍にあるピアノに肱を突いて『帝国趣味』を暗誦する。”

レオン・ドラフォスの写真を見ると、確かにリストの雰囲気はないこともないです。それよりも“アングルの描いた若き日のリスト”とは、僕のサイトのトップページに掲げている絵ですね。一時期ロベール・ド・モンテスキューが所有していたということでしょうか???。マリー・ダグーがラ・メゾン・ローゼで所有していた後、どのような人の手に渡ったのでしょうか?

↓ドラフォスの肖像。このサイトで、ロベール・ド・モンテスキューも見れます。
http://www.jssgallery.org/Paintings/Portrait_of_Leon_Delafosse.htm
(10/4-01:43) No.3950
ふゆひこ > 失われた時を紡ぎ上げる作業を続けていると、なんだか“景観荘”の歴史を紐解くジャック・トランスの気分になってきました。“世紀末”という時代に触れはじめてから、常に妖しい燐光を感じていたのですが、ロベール・ド・モンテスキューの名前が登場してから、その“シャイニング”は一気に強まり、すべての名前がまるで“景観荘”に現れる亡霊のように感じられます。ましてや本屋さんで立ち読みした澁澤龍彦の文章で、レオン・ドラフォスとロベール・ド・モンテスキューが同性愛の関係にあった、などと知ればなおさらです。

さてロベール・ド・モンテスキューが“筋金入りのジャポニザン”であることは紹介しました。『1900年のプリンス』の口絵でも“日本調に装った”モンテスキューの写真が見られます。この頃のパリは完全にジャポニスム全盛。『失われた時を求めて』にも頻繁に“日本”が出てきます。ロベール・ド・モンテスキューという人物を通してジャポニスムを見たとき、僕は今までに感じていなかったことをはっきりと捉えました。僕は“ジャポニスム”の感性というのは“西洋が日本の繊細な美を認めたこと”というあたりさわりのない側面でのみ捉えていました。ですがロベール・ド・モンテスキューを見ていて、そうではないと考えるようになりました。正しくは“ジャポニスム”=“デカダンス”。“ジャポニスムとはデカダンス、頽廃、そのものなのだ”と考えるようになりました。

デカダンスの主要性格は“耽美”だと思います。道徳、思想、宗教、内実などに左右されず“美”そのものを最重要視する。“美”を際立たせる姿勢。それでは“耽美”と“デカダンス”の違いは?というと僕は“デカダンス”の方法論は“倒錯”だと考えたわけです。“倒錯”という方法を使って“美”を際立たせる。例えば調和した音楽というのは、耳に自然に聞こえ美しいのですが、心地よく抜けていってしまう。ところがそこへ不協和音が入り込む。あるいはただの演奏上の“ミス”であってもいいです。それは異端の存在として、“ズレ”として、調和の中から際立ってしまう。もしその存在する異端が“美”ならば…。つまり“ミスマッチ”“倒錯”こそが美を強調する有効な手段ではないでしょうか?デカダンスの描いた映像の代表格であるヴィスコンティ『地獄に堕ちた勇者ども』。マルティンの演じるマレーネ・ディートリッヒ。この美しさというのは両性具有のセックス・アピールであって、男性的な肉体は、女性的な扮装の下で強調され、女性的な扮装は男性的な肉体の上で強調される。二つの要素は調和せずに互いを強調する。 (10/8-01:30) No.3965
ふゆひこ > モネの“ラ・ジャポネーズ”。ジャポニスムを代表する絵画です。ブロンドの若い女性が和服姿で扇を手にはにかむ姿。美しく愛らしいかもしれませんが、見方によっては服装倒錯でしょう。明らかに和服とブロンドの女性は、少なくとも当時のフランスにおいては強力な不協和感を作り上げたはずです。ブロンドの女性は和服の美しさを際立たせ、和服はブロンドの女性の美しさを際立たせる。前に紹介した花鳥図屏風の前に立つジェニー・ジェロームもそうです。

僕はリストには“黒いロマン主義”“耽美”の性格は感じても“デカダンス”までは感じません。僕は以前、リストがジャポニスムに繋がらないことについて、フランスを離れワイマールに居住したためという、地理的な制約に理由を求めました。ですがそれよりも、リストには“デカダンス”の性質は感じられない、ゆえにデカダンスそのものであるジャポニスムにも通じない、と考える方が僕にはしっくりします。 (10/8-01:31) No.3966
ふゆひこ > ふたたびプルーストの方へ。↓これはネット上で公開されているプルーストのジュヌヴィエーヴ・ストロース宛書簡。LISZTで検索しましょう。

http://www.yorktaylors.free-online.co.uk/strauss.htm

1917年12月16日付けの書簡で、プルーストはゴーティエ・ヴィニョルのところ(←場所?人の名前?)で驚嘆すべきピアニストによる、驚嘆すべきリストのソナタを絶対聴きに行く、と言っています。これはソナタの受容史に加えたいですね。 (10/8-02:27) No.3967
ふゆひこ > いまだに第4巻の終わりの方です。半年では読めそうもないです。3月ぐらいになりそう…。さてPAST LOGにある『ドリアン・グレイの肖像?≪ジャポニスム≫』のスレッドで、その時に知った“シノワズリ”というものと“ジャポニスム”の違いについて、僕は“境界線は曖昧っぽい”と書きました。ですが、今となっては僕はその境界線を明確に引くことができます。上述のとおり、ジャポニスムは“デカダンス”“倒錯”であり、シノワズリにその要素はない。シノワズリは西洋人が中国の美術品・文化を客観的に観賞したのに対し、ジャポニスムにおいては西洋人は主体的にその中へ“ジャポン”と入り込んでしまう。その証明として僕は確たる事実を掴んでいないのですが、少なくとも僕の乏しい知識において、シノワズリに関しては当時の西洋において中国のドレスを身にまとった人物の絵画なり写真なりは見たことがないのですが、ジャポニズムに関してはモネの絵画、ロベール・ド・モンテスキュー、そしてオデット・ド・クレシーのモデルとなるリアーヌ・ド・プージー、とすでに3例を挙げることができます。

“頽廃”“倒錯”“ジャポニスム”これらをさらに強く結びつける人物が、1972年火星から蜘蛛達を引き連れて地球に落ちてきています。ジギー・スターダスト。“like some cat from Japan”。デヴィッド・ボウイの“ジギー・スターダスト・ツアー”の衣装デザインは山本寛斎によるものでした。 (10/14-00:53) No.3977
ふゆひこ > まずNO3950の書き込みのアングルの描いたリストのスケッチについて補足です。ウォーカーVY P267の注釈にありました。この絵画はマリー・ダグーからコージマに引き継がれ、現在はヴァンフリート荘にあるそうです。『1900年のプリンス』に書かれていたことで、ロベール・ド・モンテスキューはコージマとも親しかったとありました。そのつながりでロベール・ド・モンテスキューは一時期、リストの絵を借りていたのでしょうか??。 (10/20-01:39) No.3987
ふゆひこ > 図書館より『ジャポニスム イン ファッション』深井晃子 著 平凡社 という書籍を借りてきました。この書籍で、いろいろな事実を知ることができます。深井晃子さんの考察で、コルセットからの解放がゆるやかな装束を求めさせ、そこに日本のキモノがあったという説明は非常に納得できました。

まず和服はすでに17世紀〜18世紀でも出島と交易のあったオランダにすでに流入しています。最初は一部の王侯貴族でしょうか、豪奢な部屋着として重宝されたそうです。リラックスするための部屋着として、すでにオリエンタルな装いが定着している。そして19世紀にコルセットからの解放とともに、一気に和服がブームとなる。

深井さんはデカダンスとの考察は特に行っていないようですが、部屋の中であるからこそ“倒錯”“頽廃”がゆるされるということも重要な条件ではないでしょうか。

『ジャポニスム イン ファッション』深井晃子著のP190より

“絵の中で女形の路之助は後ろ向きに立ち、からだをひねって顔をこちらに向けている、いわゆる<見返り美人>といわれる図である。このときだった。そこに私は『ラ・ジャポネーズ』のカミーユのポーズを二重写しにしていたのである。(略)十九世紀後半から二十世紀初めにかけてファッショナブルな女性たちがとっているポーズに、一連の共通性があるのではないか、そしてそのキーワードが浮世絵が好んで取り上げた<見返り美人>だったのではないかと気付いたのは、うかつにもそのときが初めてだった。”

僕は深井さんの文章を読むまで、気付きませんでした(笑)。なるほどまさにそのとおりですね。しかも深井さんがP192で紹介している写真は、なんとNO3911で紹介したエリザベート・グレフュールの肖像写真です。 (10/20-01:39) No.3988
ふゆひこ > リストとデカダンスについて、ジャンケレヴィッチが考察していました。『リスト ヴィルトゥオーゾの冒険』伊藤制子 訳 ジャンケレヴィッチは、“デカダンス”と“頽廃”を別の用語として使用しています。僕はほぼ同義で使っていました。P154より。

“過度の豊饒さ、装飾過剰とそのエスカレートは、ヴィルトゥオジテをデカダンスへと執拗に誘惑する。リスト作とされている『ハンガリーにおけるボヘミアンとその音楽について』という著作は、こう語る。「音の花束がいくつも落下している。まるで豊かな角笛の過剰な音響(つまり過剰さ)のごとくに………」。堂々たる浪費への道においては、どこでどうやって止まったらよいのだろう?ここでの唯一の尺度は、「過剰さ」だ。(略)ヴィルトゥオジテは、才能、力、素質を過度に消費してしまう。”

過度の装飾、過度の技巧。ジャンケレヴィッチは極度に発展し爛熟しきったヴィルトゥオジティに、同じく文化の爛熟した状態であるデカダンスの性質を見出しています。これはリストに見られるデカダンスというよりも、ヴィルトゥオジティ全般に見られるデカダンスのことですね。僕が注目しているリスト自身にデカダンスの性質があるかどうか、という点については、上記引用文の“堂々たる浪費への道〜”のところをリストの生涯に重ね合わせて考えることができると思います。リストは“どこでどうやって止まった”のか?“才能、力、素質を過度に消費してしまう”ヴィルトゥオジテから……。それはヴィルトゥオーゾとしてのキャリアの頂点に近いタイミングである“1848年”にフランスからドイツへ移住することで、空疎なヴィルトゥオーゾ人生に終止符を打ち、“執拗に誘惑”されたデカダンスへの道を閉ざしたのではないでしょうか? (10/20-01:40) No.3989

ふゆひこ>どこまでスレッドに記事が書き込めるか試してみようと思いましたが、読みづらいのでやはり長く感じてきたらスレッドを分けることにします。いいかげん皆さん『失われた時〜』のスレッドがいつまで続くのか…と思われているでしょうけど、僕が読了するまでです(笑)。

第4巻『花咲く乙女たちのかげに 2』P391

“忘れていた特徴が目の前にあらわれたその瞬間に、すぐそれを認めて、脇道にそれていた線を修正しなければならない。こんなふうに、不断の豊かな驚きが、私にとって海辺の美少女たちとの日々の待合せを心のなごむ良薬たらしめていたのであるが、その驚きは新たな発見からなるとともに、無意識的記憶(レミニツセンス)からもなっていた。”

無意識的記憶(レミ二ツセンス)。ここは原文はルビになっています。REMINISCENCE。このサイトのタイトルにも使わせてもらったリストの音楽の一群に使われた言葉ですね。“ドン・ジョヴァンニの回想”“悪魔ロベールの回想”“ノルマの回想”・・・・といった。僕は鈴木道彦さんが“無意識的記憶”という訳語をあてるまで、ただ単に“回想”という意味ぐらいの言葉と思っていました。

心理学用語では、ネット上でいろいろ調べたかぎりですが、例えばある物事を記憶してその直後に思い出すよりも、一定の時間を置いたほうがより明確に思い出すことができる、というような現象をさして使われるそうです。

僕の使っている三省堂『クラウン仏和辞典』より
(1)かすかな記憶(2)(過去の作家の)無意識的な影響(3)[心理]過去の経験の非意図的な想起

(1)かすかな記憶、という意味では、ヘゲドゥシュのヘクサメロンのCD(HCD31299)の解説で、カタリン・フィトラー(Katalin Fittler)が記述しています。P4

“This applies particularly to the "reminiscence",which as their title suggests, are "blurred recollections". Let me add, however, that the "blurring" never applies to the melody”

(10/22-22:02) No.3994
ふゆひこ > これらの様々な定義を分析する気はないのですが、“Reminiscence”の言語イメージとして、回想や記憶よりも、もっと無意識下、自分の中の深いところに降りた記憶。自己と同化した記憶、といってよいのではないでしょうか?自己と同化しているため、それはすでに客体から離れてしまっている。リストの“レミニセンス”に関して言えば、客体としての対象曲から離れ、よりリスト独自のオリジナル色が強まるということになります。プルーストの『失われた時を求めて』を読んでいると、注釈で指摘がたくさんあるのですが、プルーストは人物を間違えたり、描写の記述間違いが結構でてきます。事実や客体の正確な認識よりも、不正確な記憶、印象に対し忠実であろうとする。プルーストの創作姿勢とリストの一群のパラフレーズに与えられた“レミニセンス”は通じるものがあります。 (10/22-22:03) No.3995
ふゆひこ > といっても次のような指摘もあります。なんとなく分かるようで分からない。

ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』河出書房新社 財津理 訳 P237

“体験された知覚の外に出るためには、たんに、古い諸知覚を呼び起こすような記憶にたよっても明らかに不十分であり、現在を保存するファクターとしてのレミニッセンスを付加するような非意志的な記憶にたよってもまた不十分である。記憶というものは、芸術にはほとんど介入してこない(プルーストにおいてさえ、そしてプルーストにおいてはとくにそうである)”
(10/22-22:04) No.3996
ふゆひこ > さて、第4巻『花咲く乙女たちのかげに 2』は読了し、第5巻『ゲルマントの方 1』を読み出しました。語り手の“私”が“ゲルマント”という名前、実体に憧れを抱き続けながら、なかなか近づくことができないように、その大抵が第1〜2巻あたりで読むのをやめてしまう『失われた時を求めて』の読者にとっても、“ゲルマント”の名前は憧れの対象であるわけです。“いったいいつになったら『ゲルマントの方』に到達できるのだろうか?”。プルーストがどこまで読者を意識したのか分かりませんが、語り手の“私”がゲルマントになかなか近づくことのできない困難さと、その達成感は、膨大な字数という“歩数”と、曲がりくねった文体という“紆余曲折した道程”を読者に体験させることで、読者にもゲルマントになかなか近づけさせず、困難さを感じさせ、近づいたあかつきには達成感を感じさせることになります。 (10/22-22:09) No.3998

さて読了した『ゲルマントの方 I』から。語り手の私の一家は、ゲルマント公爵の邸宅内に居を移したことで、ゲルマントの方へと近づくことになります。最初の方、語り手はオペラ座において再びラ・ベルマの演技を観賞し、ラ・ベルマの芸術を認めることになります。音楽を引き合いに出した興味深い表現。P77〜P78。

“ところが役と別なところに見つけようと思ったその才能は、役と一体になっていた。たとえば偉大な音楽家の場合に(ヴァントゥイユがピアノを弾くときは、そうした場合だったと思われるが)、その演奏が実に偉大なピアニストのものなので、いったいこの芸術家がピアニストであるかどうかということさえ、もうまったく分からなくなってしまうことがある。なぜならそうした演奏は(中略)、まったく透明なもの、弾いている曲に満たされたものになっているので、ピアニスト自身の姿は見えなくなり、彼は一つの傑作に対して開かれた単なる窓になってしまうからだ。”

数ページにわたる語り手の論旨は感覚的には分かっても論理的には掴みづらいです。ラ・ベルマの演技が、原作、役と渾然一体となっており、独自の芸術の再生産であると同時に、原作の真価へと鑑賞者を導く、という言ってみればプレイヤーに対する最大級の賛辞となっていると解釈しました。

その後、ロベール・ド・サン=ルーの愛人、ラシェルと食事を共にする語り手は、新進女優のラシェルの次の評価を聞かされています。P283〜P284。

“あの人のやることは、もうわたしたちの胸に響きはしないわ。わたしたちの求めていることに、もうぴったりしなくなったのよ。でもね、あの人がデビューした当時に位置づけてあげなくては。わたしたち、ずいぶんたくさんのものをあの人から受けているんだもの。”

このラシェルの発言は、前段で紹介したチャップリン、ウィーバーの発言の行間に感じられるニュアンスと同じですね。

ふゆひこ ++.. 2005/12/10(土) 13:22 [36]

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さて、その後語り手はヴィルパリジ夫人のサロンへと赴き、そこでゲルマント侯爵夫人と言葉を交わすことになります。このヴィルパリジ夫人。いままでにもどのような人物なのかが語られてきたのですが、この段階でかなり詳細に彼女がどういった人物なのかが語られます。ヴィルパリジ夫人は知性が高く、教養もあり、しかしそれが徒となって一流貴族から没落することになる。このヴィルパリジ夫人の人物像に、リスティアンならば、条件反射的にマリー・ダグーのことを重ねてしまいます。

P312 
“明らかに彼女の社交界での失脚の原因になったものは、この知性であった。社交婦人の知性というよりは、はるかに、ほとんど二流作家のものとも言える知性であった。”

P314
“文学かぶれという。ヴィルパリジ夫人は、たぶん少女時代に、その一人だったのだろう。そして自分の知識に陶然として、彼女ほど頭がよくもなければ物知りでもなかった社交人たちに対して、つい辛辣な言葉を吐き、傷つけられた者はその言葉をけっして忘れないのであろう。”

P315
“そのふだんの知合いというのはいずれも、最も純粋なフォーブール・サン=ジェルマンの貴族であったが、このころの彼女は、その連中が自分を見放すことなど絶対にあるまいと高をくくっていたので、その人たちをまだあまり大切に思っていなかった。彼女は、自分が引き抜いたボヘミアンやプチ・ブルジョワに、彼らにはありがたいとも思えないような招待状をしつこく出さなければならなかったが、そのしつこさのために、スノブたちの目から見ると、彼女の価値は少しずつ下落したのである。”

P316
“なんと多くの女性の生涯がこんなふうに、矛盾したいくつかの時期に分かれることだろう!最晩年には、その前の時期にいとも陽気に棄てさったものを、必死になってもう一度つかまえようとする始末だ!”

P319
“彼らは、ただエレガントな上流社交界のみでしか知られていないルロワ夫人の特別な地位などにまったく不案内で、今日ヴィルパリジ夫人の『回想録』を読む人がそう思いこんでいるように、彼女のひらくパーティこそパリの最も輝かしいものなのだと、かたく信じて疑わないのであった。”

P328
“ルロワ夫人の判断によると、ヴィルパリジ夫人のサロンは、三流のサロンだった。そしてヴィルパリジ夫人は、ルロワ夫人のこうした判断を気に病んでいたのである。けれども今日ではだれ一人として、もはやルロワ夫人のが何者であるかも知りはしない。彼女の下した判断も消滅してしまった。そしてヴィルパリジ夫人のサロン、よくスウェーデン王妃が訪れ、かつてはオーマル公爵、ブロイ公爵、ティエール、モンタランベール、デュパンルー猊下が出入りしたこのサロンこそ、後世の人たちから、十九世紀の最も輝かしいサロンの一つと見なされるだろう。”
ふゆひこ ++.. 2005/12/10(土) 13:23 [37] [引用]

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以上の描写で、ヴィルパリジ夫人をマリー・ダグーに置き換えて読んでも、違和感がありません。ヴィルパリジ夫人は芸術に熱をあげるばかりに地位を落としました。同様なことはマリー・ダグーにも当てはまります。ただし彼女達は芸術、文芸の力で歴史に名を残し、後世の人から永遠に注目されることになる。当時、マリー・ダグー以上に地位の高い貴族もいたでしょうし、マリーのサロン以上に敷居の高いサロンもあったでしょう。けど誰もルロワ夫人のことなど忘れてしまうのです。いくつか比較のために、最近出版された『マリー・ダグー 19世紀フランス伯爵夫人の孤独と熱情』坂本千代著 春風社
より

P27
“これが王政復古期のフランス王家の「内輪の集まり」であった。マリー・ダグー伯爵夫人はこのように当時の貴族階級の中でも最上層にいたわけであるが、若い彼女にとって、何世紀も前から続く堅苦しく生気のない宮廷生活はおもしろいものではなかったようである。”

P41 これはマリー・ダグーの回想録からの引用文。
“自分では単に礼儀正しくありたいだけなのに、社交界の人びとが身分の違う芸術家に手紙を書くときの決まり文句を使った場合、傲慢に見えるのではないかと、私はその手紙を書きながら恐れていた。しかしそれと同時に、これらの決まり文句を無視すれば、あんなに若く、わたしたちとは全く異なる世界の男性とのこんな新しい関係において、慎みの範囲をこえる興味を見せることになりはしないかということも恐れていたのである。”
ふゆひこ ++.. 2005/12/10(土) 13:24 [38] [引用]

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現在、『ゲルマントの方 II』の真ん中あたりで、今はゲルマント侯爵夫人を中心として貴族感覚といったものが詳細に記述されていっています。特にプルーストが熱を入れているのが本来ならば最も“失われてしまう”性格の強い“エスプリ、機知、才気”というものを記録することです。これはプルーストの野心でしょうね。“会話、感情、思想”よりも記述することが難しいものでしょう。“エスプリ”というのは、一瞬のひらめき、タイミングを命とする知性であって、言った本人すら忘れてしまうのが常ですから。


『ゲルマントの方 II』のP250〜P251で、エリザベート・グレフュールがモデルとなったゲルマント侯爵夫人と、ヴィルパリジ夫人、マリー・ダグーとの違いを明確にする一文があります。

“そしてこの原則があるのでクールヴォワジエ家の人びとは、オリヤーヌがヴィルパリジ侯爵夫人から受けた教育の効果で、だれか社交界に属さない人と結婚するのではないか、たとえばどこかの芸術家、前科のある人、浮浪者、自由思想家とても結婚して、クールヴォワジエ家の人たちが「不良」と呼ぶ連中のカテゴリーに入っていくのではないか、期待していたのである。”

クールヴォワジエ家の人びとのこの期待を裏切り、オリヤーヌはレ・ローム大公夫人となり、ゲルマント侯爵夫人となってしまう。普段は芸術家等と熱心に付き合っているくせに、自分が結婚する段になると貴族に戻ってしまう。クールヴォワジエ家の人びとの期待にこたえてしまったのが、ヴィルパリジ夫人であり、マリー・ダグーなんでしょう。
ふゆひこ ++.. 2005/12/10(土) 13:25 [39] [引用]

プルーストは微細なもので巨大なものを想像させ、またその逆も行います。『失われた時を求めて』においては、時間、空間、物質、感覚、すべてが縮小と拡大を繰り返し、ベクトルも逆行と順行を繰り返しているように感じられます。最も分かりやすい例が、最初は変な題名だと思った“土地の名と名前”の関係について。

『ゲルマントの方 II』P412
“すなわちずっと前に持ち主が死んでしまって、貝には長いことだれも住む者がいないので、しかじかの城館の名前がそう遠い昔でもないある時期までさる一族の名前だったということなど、私には思いもよらなかった。そんなわけで、モンセルフイユ氏の質問に答えたゲルマント氏が、「いいえ、私のいとこは熱狂的な王党派の女でしてね、彼女はフクロウ党の戦争のときにある役割を演じたフェテルヌ侯爵の娘だったんですよ」と言ったとき、私にとってバルベック滞在以来、城館の名前と思われていたこのフェテルヌが、まさかそんなことがあろうとは夢にも思わなかったもの、すなわちある一族の名前になるのを見て、私はまるでお伽噺のなかで、小さな塔や石段が生命のある人間になり変わるのを見るような驚きを覚えた。”

土地や城館などの名前が、過去のある個人の名前につながり、その個人は一族につながる。その事実を結びつける線は、時間の中に埋没してしまい普段は忘れ去られているのに何かのきっかけに突然、表に引きずり出され記憶がつながることになる。
ふゆひこ ++.. 2006/02/26(日) 04:08 [80] [引用]

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僕の言うところの“縮小と拡大、逆行と順行”についての、もっとしっかりとした説明。

『エクラ/ブーレーズ 響き合う言葉と音楽』より「文学の参照 ブーレーズ、プルーストと時間」ジル・ドゥルーズ 笠羽映子 訳 青土社
P300
“ブーレーズがプルーストからつかみとった第一の事柄は、騒音や楽音が、最初それらが結びつけられていた登場人物や場所や名前から離れ、縮小したり拡大したり、付加したり削除したり、速さや遅さを変えながら、絶えず時間の中で変形する自律的な「モティーフ」を形成するよう導くプルーストの手法である。当初、幾分標識のように、或る風景や或る人物に結びつけられていたモティーフそれ自体が、今や、変化に富んだ唯一の風景、変わりゆく唯一の人物となるのだ。”
ふゆひこ ++.. 2006/02/26(日) 04:08 [81] [引用]

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このように“縮小と拡大、逆行と順行”の文章世界の構築を方法論において可能たらしめているのが“象徴”の多用と考えます。“象徴”の中で興味深い一節。ゲルマント公爵邸での晩餐会におけるオリヤーヌの話。

『ゲルマントの方 II』P368
“いろいろな昆虫がいて、結婚をすすめる役を果たしているんです。ちょうど王家のご結婚で、フィアンセ同士は一度も顔を合わせたことがなくても、代理がことをはこんでくれるみたいに。”

ここで挿話されている昆虫、蜂、受粉、といった話は、セクシャルなイメージと重ねられています。この象徴は、そもそもバルベックにおけるアルベルチーヌ達=“花咲く乙女達”でもあり、スワンとオデットの逢引の暗号であった“カトレア”にもつながります。そしてこのイメージはそのまま『ソドムとゴモラ I』のシャルリュスとジュピヤンに受け継がれます。
ふゆひこ ++.. 2006/02/26(日) 04:09 [82] [引用]

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過去の記事で(No.3988)で、東洋の装いが欧州では部屋着として定着していた、ことを紹介しました。それを想像させるシャルリュス男爵の描写。

P434
“シナふうの部屋着を身にまとった男爵が、首のあたりをむき出しにしたままソファに横になっている姿が目に入った。”

僕は西洋人にとってのジャポニスムとシノワズリの違いについて“デカダンス”という性質を挙げましたが、よくよく考えれば、プルーストを含め美術に造詣の深い彼らが客観的な様式に無頓着であるわけないですね。様式の違いについても明確な認識をしていたんでしょう。
ふゆひこ ++.. 2006/02/26(日) 04:10 [83] [引用]

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『ソドムとゴモラ I』で、ゲルマント大公夫人の夜会において、ゲルマント公爵から非常に見下されるバイエルンの長髪の音楽家という人物がでてきます。名前が“エルヴェック”いちおう、リストと親しいウィーンの大指揮者ヘルヴェックのことかと思いましたが、時代が合わない上に、スペルが“Herweck”と“Herbeck”で異なります。
ふゆひこ ++.. 2006/02/26(日) 04:10 [84] [引用]

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さて語り手の私は、その後バルベックに再度滞在します。そこで『スワン家の方へ』においてサン=トゥーベルト侯爵夫人の夜会で登場したカンブルメール老夫人、カンブルメール夫人と親しくなります。(この『失われた時を求めて』のスレッドでも最初の頃に紹介しました)

『ソドムとゴモラ I』P385
“「たしか奥さまは、たいへんな音楽家でいらっしゃいましたね」と私は老夫人に言った、「是非ともきかせていただきたいものですけれど」カンブルメール=ルグランダン夫人は、会話に加わるのを避けて、じっと海の方を眺めていた。義理の母が愛しているようなものは音楽のうちに入らないと考えていたので、人びとが老夫人に認めている才能を(彼女によれば自称の才能にすぎないが、本当は実に見事なものだったのである)、単なるつまらない技巧だと見なしていたのだ。たしかに、ショパンの今なお生きている唯一の弟子である彼女が、<師>の演奏法や「感情」は自分を通して嫁のカンブルメール夫人にしか伝わらなかった、と公言しているのはもっともなことだったが、”

なんとカンブルメール老夫人。あのサン=トゥーベルト侯爵夫人の夜会で、メトロノームのように首を動かしていた夫人はショパンの弟子という設定でした。しかし語り手の私のカンブルメール老夫人に対する失礼な描写は、その後も継続します。

P392
“そしてようやく侯爵夫人は、刺繍したそのハンカチで、泡をふいたようなよだれをぬぐったのである。ショパンの思い出は、このよだれの泡で、彼女の口ひげをぬらしたのだった。”
ふゆひこ ++.. 2006/02/26(日) 04:11 [85] [引用]

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このスレッドでカンブルメール夫人を紹介していた時、話題はフランスにおけるショパンの名声の失墜に話が繋がっていきました。ショパンの名声は『ソドムとゴモラ I』のこの場面で回復します。

P390
“だから私は、ショパンが流行おくれであるどころか、ドビュッシーの愛好する作曲家であるということを、彼女に教える楽しみを味わった。(略)「まあ、おもしろいこと」と、若夫人は微笑を浮かべながら私に言ったが、まるでそんなことは『ペレアス』の作者の投げかけた逆説にすぎない、とても言いたげな様子だった。けれども今後彼女がショパンをきくときに、敬意どころか楽しみまで覚えるだろうことは、今やまったく確実だった。”

語り手の私の説明では、フランスにおいてショパンの権威を復活させたのはドビュッシーによる、とのこと。
ふゆひこ ++.. 2006/02/26(日) 04:11 [86] [引用]

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さてリストとますます関連が薄くなっていきスレッドを続けるのがつらくなってきていますが、読了まであと5巻ありますので・・・。スレッドの最初の方でヴェルデュラン夫人のサロンでワーグナーのピアノ編曲作品が演奏されることを紹介しました(No.3905)。この時は語り手の私が誕生する前(?)の話でスワンが活躍していた頃です。

第2巻『スワン家の方へ』P13。
“「こんなにワーグナーを弾けるなんて、そうざらにできることじゃないわ!」と言っていた若いピアニストが、プランテもルビンシュテインも束にして「やっつけてしまう」ということであり”

それから時間は経過し、語り手の私が、今や病によって引退したも同然のスワンに変わり社交界の花形となる。語り手の私はラ・ラスプリエール荘に居を構えたヴェルデュラン夫人のサロンに出入りするようになる。

第8巻『ソドムとゴモラ II』 P87。
“かわいそうなドシャンブル!ヴェルデュラン夫人は、≪あの人に較べれば、プランテも、パデレフスキも、リスレールでさえも、まるでかたなしよ≫って言ってたけれど”

ドシャンプルというピアニストの訃報を話題にするヴェルデュラン夫人のサロンの常連達の会話です。先述のセリフと、ここで挙げられる名前に時代の流れを感じます。先のセリフは19世紀。ルビンシュタインが生きている頃です。そして次のセリフは明らかに20世紀です。パデレフスキ、リスレールと言った20世紀をメインに活躍するピアニストの名前が登場する。面白いのが長生きしすぎたプランテが両方に名前を連ねている(笑)。
ふゆひこ ++.. 2006/03/04(土) 13:53 [93] [引用]

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芸術家、著名人の名前の引用によって時間の経過を表現した面白い例を紹介します。アンリ・ヴェルヌイユ監督『地下室のメロディ』という映画。物語の冒頭、刑務所から出所したシャルル(ジャン・ギャバン)は自宅に歩いて帰ろうとする。道が分からなくなり、自分の家のあった通りの名前を人に尋ねる。「ヴィクトル・ユーゴー通りはどこだね?」。ところが返事は「さぁ?」。なんとか自力で自宅近くまで辿り着くシャルル。通りの看板を見て、道を尋ねても答えが得られない理由を知る。その看板には“アンリ・ベルクソン通り”と書かれているのだ。
ふゆひこ ++.. 2006/03/04(土) 13:55 [94] [引用]

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『失われた時を求めて』を読んでいると、人間の一生とはただ“過去”を認識するためのものでしかないのでは、と考えるようになりました。そもそもが母国語を身につけることすら過去の遺産の学習です。よく過去を振り返ることを格好の悪いことだとし、現在を生きる、あるいは未来に向かって生きることを良しとする世間一般の風潮がありますね。ですが人間にとって“認識した”時点ですでにそれは“過去”であるわけです。現在を生きる人間というのは、ピッケルでトンネルを掘るように“現在”という時間から記録されるべき“過去”を切り剥がし積み上げているのに過ぎないのではないかと。“未来”に向かって生きるなどというのは、積み上げられる“過去”を自分に都合の良いように予測したり、あるいは次の次に切り剥がす過去のために、次に切り剥がす過去を選ぶだけではないかと。
ふゆひこ ++.. 2006/03/04(土) 13:56 [95] [引用]

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『失われた時を求めて』は時間がテーマであることは、20世紀文学の傑作であるトーマス・マン『魔の山』と同じです。時間と空間、旅行、それに移動手段についての面白い文章をいくつか。これらの文章を読むと19世紀から20世紀にかけての移動手段の変化、時間と空間との関わりについて理解できます。

まずは馬車から鉄道への移動手段の変化について。

『鉄道旅行の歴史』法政大学出版局 ヴォルフガング・シヴェルブシュ著 加藤二郎 訳 P54
“一八四〇年のフランスの書物に、こう書かれている。「鉄道が場所として知っているのは、出発地、停車地、そして終着地のみである。しかもこれらの場所は通常互いに遥かに遠く離れている。鉄道が完全に無視して通り過ぎ、ただ無益な一瞥しか与えないその間の空間と、鉄道はなんの関係もない」伝来の旅の空間が、つまり目的地間の空間が、抹殺されることにより、この二つの場所が直接接近することになり、互いに衝突し合うほどに近づき、両方の場所は、その旧来の特色を失う。この特色は、その間に空間があったので、まさしく特色だったのだ。空間的な隔たりにより、互いに孤立していたので、両地点はその特色を保ち、おのれに安んじて、自覚した個性を発揮できたのである。”

P69〜70
“ゲーテがエッカーマンに言っているように、この日記は、瞬間がそれを与えたままにただ記述したに過ぎないものである。それゆえ文学作品ではなく、十八世紀後期の郵便馬車旅行の記録であり、旅中の印象をただ写したものである。フランクフルトからハイデルベルクに向かうゲーテの旅は、陸続と続く印象群からなり、それは通過した空間がいかに強く体験されたかを示している。書かれているのは村や町だけではない。風景の構成だけではない。舗道の素材のような細かな点まで、知覚が行き届いている。旅の体験のこのような強さは、十八世紀にその頂点を迎えて、旅行小説というジャンルで不滅の記念碑を打ち建てたものであるが、これに終止符を打つのが鉄道だ。”

出発地と目的地の間の移動時間内も空間として認識された18世紀ゲーテの時代に対し、鉄道が登場する19世紀は移動時間内の空間が消滅してしまう。シヴェルブシュの論理は、それによって離れた距離にあった空間と空間の特殊性が消滅する、とすすめます。情報通信がさらに発達した現在では地域性どころか国の特色すらも消滅しましたね。
ふゆひこ ++.. 2006/03/05(日) 11:10 [96] [引用]

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シヴェルブシュが何故アンデルセンの文章を引用していないのか不思議です。アンデルセンは『一詩人のバザール』で“鉄道”という章を設けています(この前々の章がリストについて。もはやこんな形でしかリストにつながらない(笑))。

『一詩人のバザール』(アンデルセン小説・紀行文学全集6  東京書籍 鈴木徹郎 訳 昭和61年出版)P32
“鉄道では旅の詩情が少しも味わえないとか、美しい所や興趣深い所があっても素通りしてしまうとか、かなり大勢の人がそんなことを言うのを聞いたことがある。後者に関しては、どの駅で降りようと勝手なのだから、これと思う駅で下車して、次の列車が着くまでのあいだ、その辺りを見て回ればいいし、詩情が少しも味わえないというのは、まったくその逆だと思う。詩情がないのは狭苦しい駅馬車にすし詰めにされて乗っているときのことで、いちばんいい景色でもほこりや熱気に悩まされるし(後略)”

P32
“ああ、鉄道などというものを生みだしたとは、なんたる人知の偉業であることか。これに乗っていると、まるで古代の魔術師のように偉大な力が備わったような気がする。客車の前にこの魔法の馬をつなぐと、物理的な空間は消滅してしまい、嵐に吹き流される雲のように、渡り鳥が空を飛ぶように、私たちは宙を飛んでいく。われらが魔法の馬は荒々しく鼻を鳴らし、その鼻孔からは黒煙を立ち昇らせる。ファウストをマントにくるんで空を飛ぶメフィストフェレスも、これほど敏速にはなりえないだろう。”
ふゆひこ ++.. 2006/03/05(日) 11:11 [97] [引用]

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19世紀の人びとにとって鉄道はまず“速度”による“時間と空間の消滅”が衝撃であり、記述はそこに集中します。汽車での旅行に慣れてきた20世紀の人びとは汽車(といった高速移動手段)が人間に与える印象を、実体験として冷静に観察できるようになる。それでは遠く離れた別の空間へと、間の時間を奪われて放り出される人間にはどのような変化があるのか。

『魔の山』岩波文庫 上巻 関 泰祐、望月市恵 訳 P15
“旅に出て二日もたつと、私たち人間は、とりわけ生活がまだ根をしっかりとおろしていない若いころには、私たちが日ごろ自分の仕事、利害、心配、見こみなどと呼んでいたすべてのもの、つまり、私たちの日常生活から、遠のいてしまうものである。私たちと故郷との間に旋転し疾走しながらひろがってゆく空間は、一般に時間のみが持っていると信じられている力をあらわしてくる。つまり、空間も時間と同じように刻々と内的変化を生み、その変化は時間が生む変化にたいへん似ていて、しかも、ある意味ではそれにもまさる変化である。空間も同じように忘れさせる力を持っている。”

これは主人公のハンス・カストルプが、親戚のヨーアヒムを見舞いにサナトリウムに向かう汽車の場面での文章。ほんとに物語の冒頭のあたりです。“疾走しながらひろがってゆく空間”というのが汽車という高速移動手段ならではの表現です。トーマス・マンの文章を砕いて言えば“旅の恥は掻き捨て”のような感じでしょう。人間は放縦になる。
ふゆひこ ++.. 2006/03/05(日) 11:12 [98] [引用]

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ようやくプルーストに到着。今度は汽車から自動車への転換です。アルベルチーヌと自動車でのちょっとした遠出にいく語り手の私。

『ソドムとゴモラII』P283
“かつては汽車で出発するとき、行く先はほとんど観念的な目標だったが、着いたところはだれも住む者のないだだっぴろい住居で、ただ、町の名前だけが掲げられている場所、つまり駅だったから、目標はそこでもやはり観念的なものにすぎず、ただ駅だけが具体的にいよいよ理想の目標に近づけることを約束するもののように思われた。汽車はこんなふうに私たちを、お伽の国に連れてゆくように一つの町へ運んでいく。私たちはまず、劇場のの観客がさまざまな幻想をくり広げるように、地名の要約する全体のなかで町を思い描く。ところが自動車はそうではない。自動車は私たちを通りの楽屋裏にまで侵入させ、立ちどまってそこに住んでいる人に道をたずねるのである。”

以上のそれぞれの文章は対立しません。視点とテーマが違うだけです。汽車の旅行が、移動に消費される時間と空間を奪うために“旅情がない”とする19世紀の考え方は、現代人には受け入れられないですね。今では電車(汽車)は旅情のある移動手段の最たるものではないでしょうか(アンデルセンは現代人の考えに近いです)。以上の文章に、僕がさらにもう一つ視点を追加をすると“外”がいったいどこから始まるのか、ということです。語り手の私とアルベルチーヌは、運転手付きの自動車で出かけています。御者付きの馬車、運転手付きの車、汽車、これらは自分よりも“外”の世界にあるものと考えます。現代人にとっての車は、それが自家用車である場合“内”の延長であると考えられます。空間の境界線の破壊は、時間の破壊によって開始され、自他、内外という意識の境界線の破壊によって完成されるのだと考えます。
ふゆひこ ++.. 2006/03/05(日) 11:12 [99] [引用]

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シャルリュス男爵のモデルとして、ロベール・ド・モンテスキューを紹介しました。以前紹介したリンク先でロベール・ド・モンテスキューの細面のダンディな容貌を見た人もいると思います。それではシャルリュス男爵はすらりとした美男子なのかというと、そんなことはない。鈴木道彦訳の集英社版で収録されているキース・ヴァン・ドンゲンの挿画でも、でっぷり太った中年男です。過去の巻に遡りますが、シャルリュス男爵の容貌の描写。

第4巻『花咲く乙女たちのかげに U』 P113
“振り返って見ると、四十がらみの一人の男の姿が目にはいったが、たいそう背が高く、かなりでっぷりとして、真っ黒な髭をたくわえた人物で、細身のステッキで神経質にズボンを叩きながら”

このような容貌のシャルリュス男爵は『ソドムとゴモラII』において、さらにデカダンスの妖しさを発散させます。

第8巻『ソドムとゴモラII』P462
“サン=ピエール=デ=ジフの名前が私に予告するのはそのようなものではなくて、一人の奇妙な、才気のある、白粉をぬりたくった五十男、シャトーブリヤンやバルザックのことを話しあえる五十男があらわれる、というただそのことだけだった。”

シャルリュス男爵は化粧を日常的にしているんです。これは19世紀〜20世紀初頭、シャルリュス男爵の、あるいはプルーストの時代において珍しくないことなのでしょうか?
ふゆひこ ++.. 2006/03/11(土) 23:31 [108] [引用]

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男性の老人が化粧をする、というイメージですぐに連想するのはトーマス・マン『ヴェニスに死す』ですね。

トーマス・マン『ヴェニスに死す』岩浪文庫 実吉捷郎 訳 P28
“しかしアッシェンバッハは、その男にいくらか余計注意してみるやいなや、この青年がにせものなのを、一種の驚愕とともに認めた。かれは老人である。それはうたがうわけにいかなかった。小じわが目と口のまわりをかこんでいる。?の淡紅は化粧だし、色のリボンでまいてあるむぎわら帽の下の、くりいろの髪の毛はかつらだし、くびはやつれてすじばっているし(後略)”

この若作りをした老人をアッシェンバッハは醜怪なものとして眺めますが、物語の最後、タッジオという美の化身の虜となった彼は同じように自分の顔に化粧を施す。

P111
“もっと下のほうの、はだが淡褐色で革のようだったあたりに、ほんのりぬられて、あわい臙脂がめざめるのを、今の今まで血のけのなかったくちびるが、いちごいろにもりあがるのを、頬と口のふかいしわが、目の小じわが、クリイムと青春のけはいとに会って消えてゆくのを見た。”
ふゆひこ ++.. 2006/03/11(土) 23:32 [109] [引用]

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船上での化粧をした老人、そして自分自身の化粧、これはルキノ・ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』でも取り入れられた場面でした。ですがヴィスコンティの映像にあって、トーマス・マンの原作にはない描写があります。それはアッシェンバッハの化粧が汗ではがれ落ちる描写。タッジオを見つめ、静かに息を引き取っていくアッシェンバッハの額からまるで血が流れるように髪を染めた黒い液がダラダラとたれていく。これは非常に醜い描写で、とても残酷です。ところがこの“化粧が汚く溶け出す”描写は、トーマス・マンの原作にはありません。ヴィスコンティが『失われた時を求めて』に入れ込んでいたことはスレッドの最初の方で紹介しました。もしかしたらヴィスコンティは映画『ベニスに死す』のラストで、溶け出す化粧にまみれ死に至るアッシェンバッハのイメージに、シャルリュス男爵のイメージを重ねていたのかもしれない。

第8巻『ソドムとゴモラII』P383
“汽車から下りるやいなやモレルが、「いや、私は用があるので」と答えて別れを告げたので、すっかり落胆したシャルリュス氏は、不幸にめげないようにとつとめたにもかかわらず、呆然と列車の前にたたずみながら涙をこぼし、それが彼のマスカラを溶かすのを私は見たのであった。”

ふゆひこ ++.. 2006/03/11(土) 23:33 [110] [引用]

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『メークアップの歴史 西洋化粧文化の流れ』リチャード・コーソン著(石山彰監修 ポーラ文化研究所訳 ポーラ文化研究所発行 1982年)という書籍を借りてきました。この書籍は非常に面白いので、いろいろと紹介、考察したいのですが、話がずれていってしまうため、シャルリュス男爵、アッシェンバッハの化粧、“男性の化粧”にポイントを絞って、いくつか引用するのみに留めます。

P285
“化粧料を表立って使用する傾向は衰えてきたにもかかわらず、まだ諦め切れずに依然として使っている男たちも小数ながらいた。ジャック・ブーランジェの報告によれば、一八二一年、ロンドンのホテル住まいをしているある洒落者が(略)、最後にホテルを出て行くとき、首には幅広いネクタイを巻き、その間からは、辛うじて化粧した赤い頬とぴかぴか光ってきれいに整えられた髪が見え(略)”

P403
“一九一二年の夏に印刷され、『バーバーズ・ジャーナル』に転載された新聞記事は、当時の紳士に関するいくつかの興味ある側面を伝えてくれる。(略)「お客の顔色が悪く、頬は白くて、健康的なピンク色の艶がない場合―理容師は、彼の頬に紅や液体の化粧品を擦りつけ、頬に色をつけるのである。」「唇が十分に赤くない、または唇の粘膜が柔らかくない場合―理容師は口紅を塗りつけたり、さまざまな柔軟剤と治療剤をつけたりする。」(後略)”

このP403の引用などは、アッシェンバッハの場面そのままですね。詳細な考察は避けて、次のT、Uのみを自分の解釈として挙げます。

T:“装飾”というものが、基本的に“金”と“時間”がかかるということは過去も現代も同じであり、よって装飾に力を入れる人々というのは、“金”と“時間”がある必要があります。歴史的にみても上流階級の人間が、装飾(化粧)を行う傾向がある。

U:装飾というのは、(1)宗教的性格の増強(あるいは力の誇示) (2)性的魅力の増強 (3)若返り の3つの性質に分類されるように思いました。現代においても上記3つの性質の装飾は性別を問わず行われるのですが、おもしろいことに人間においては“顔に色彩を塗る”=化粧は女性のみに使われるようになっていき、女性的魅力の増強の役割を持つようになった、という点でしょうか。どうも時間の経過によって、(2)の性差を明確に出すためには、同じ装飾を男女がしては効果が薄れるため、装飾が選ばれるようになっていった、と考えます。

以上のT,Uからシャルリュス男爵とアッシェンバッハの化粧の意味合いが見えてくる。シャルリュスには失われていくダンディズムの名残、アッシェンバッハには若返りの目的が主要要素としてあるにしても、どうしても女性的魅力の増強の意味合いを帯びてしまう。二人とも同性愛の意味合いがあることも重要です。
ふゆひこ ++.. 2006/03/21(火) 12:24 [115] [引用]

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NO.83への補足。プルーストがジャポニスムとシノワズリを使い分けていることについて。

『囚われの女 I』P99
“アルベルチーヌが私のそばへもどって来る。着ていたものをぬいで、きれいなクレープ・デシンのガウンか日本の部屋着のなかから何かを選んで着ており(略)”

P117
“ときおりあまり暑すぎると、彼女はもうほとんど眠りながらキモノを脱ぎ、肘掛椅子に投げることがあった。”

原文を見ていませんが“キモノ”と訳されているからには、原文でも“kimono”なのでしょう。シナふうの部屋着、日本の部屋着とプルーストが使い分けていることが分かります。

ふゆひこ ++.. 2006/04/15(土) 10:10 [129] [引用]

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『囚われの女 I』から、次はリスティアンに、というよりリスト自身に読んでもらいたいぐらいの文章です。

『囚われの女 I』P132〜133
“日によっては、時刻を告げる鐘の音が、その音の聞こえる範囲内に湿気や光を力強く新鮮に張りめぐらすので、あたかも雨や太陽の魅力を、目の見えない人のために、あるいは音楽的に、翻訳したように思われた。だからこのようなとき、私はベッドのなかで目を閉じながら、自分に言い聞かせたのである、すべては置きかえ可能なのだ、たとえただ音だけの世界になっても、目に見える世界と同じく多様なものでありうるだろう、と。”

ピアノであらゆる楽器を模倣し、様々なジャンルの音楽を編曲し、水、光、雪、と自然を描写し、はては文学や絵画、彫刻のイデアをそのまま音楽で表現しようとしたリストがまるで“すべては置きかえ可能なのだ”と断言しているかのようです。次もリスティアンには興味深い。ヴェルデュラン夫人のサロンで、モレルによってヴァントゥイユの七重奏曲が演奏される場面。

『囚われの女 U』P69
“その幸福のなかでは堰を切ったように鳴り響く鐘の音が空気を震わせ(それはコンブレーの教会前の広場を熱で燃えあがらせるあの鐘の音にそっくりで、その鐘をヴァントゥイユはしじゅう耳にしていたに相違なく、おそらくこのときも記憶のなかで、パレットの上のすぐにとれる絵具のように、コンブレーの鐘の音を見出したのであろう)、それが重厚な歓喜を実現しているように思われた。”

“夕べの調べ”や“ジュネーヴの鐘”“アンジェラス”など、風景の中に溶け込んだ鐘の音を描写したリストを思わせます。

ふゆひこ ++.. 2006/04/15(土) 10:11 [130] [引用]

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『スワン家の方へ I』P121
“コンブレーの町にあるすべての仕事、すべての時間、すべてのものの見方に形を与え、これを完成し、聖なるものたらしめているのは、サン=ティレールの鐘塔だった。”

『スワン家の方へ I』P315
“ところがある道の曲がり角で、マルタンヴィルの二つの鐘塔を認めたとたん、私はほかのどんな喜びとも似ても似つかぬあの特別な喜びを感じた。二本の鐘塔には沈む陽が当っており、馬車の動きとうねうねした道のためにその鐘塔は位置を変えるように思われたが、ついでヴィユヴィックの鐘塔があらわれ、それは前の二つの鐘塔と丘一つ谷一つを隔てて、もっと高い遠くの丘の上に立っているのに、まるですぐ近くにあるように見えるのだった。”

『失われた時を求めて』において“鐘”の挿話は、マドレーヌの挿話と同じように有名です。特に意識していませんでしたが、『囚われの女 U』のヴァントゥイユのソナタで想起されるイメージで、一連の“鐘”のイメージがつながってきました。
ふゆひこ ++.. 2006/04/28(金) 01:55 [132] [引用]

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“鐘”について詳細な考察を行っている、アラン・コルバンは当然、プルーストの“鐘”に注目します。

『音の風景』アラン・コルバン著 小倉孝誠 訳 藤原書店 1997年 PI
“人びとの想像力のなかに、いたるところに存在する村の教会のイメージが刻印され、それが静かで母性的なフランスという穏やかなヴィジョンを構造づけることになった。『失われた時を求めて』の冒頭部で、プルーストは村の教会がもつ象徴的な意義について詳しく述べている”

P364
“これら一連の感情は、数年後、村の鐘楼を描いたもっとも美しいページを生み出すことになるだろう。すなわち、マルセル・プルースト作『失われた時を求めて』の第一巻において、コンブレーの描写の冒頭に読まれるページである。”

ふゆひこ ++.. 2006/04/28(金) 01:56 [133] [引用]

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アラン・コルバンの『音の風景』は非常に面白いです。鐘が、村、都市、人々に与えてきた歴史、文化的意義を考察しており、いくらでもリストにつなげることのできる記述を見出すのですが、ざっくり捉えるだけに留めます。鐘には時刻を知らせる、危険を知らせるという実用的な目的と、宗教性を高めるという目的があります。それらは実用面と精神面での人びとの―その鐘の影響力(音の届く範囲)のもとにいる人々の―支配統制でもあります。“宗教性を高める”には、現在でも使われている教会の祝福の鐘、またその対極に位置する弔いの鐘も含まれる、と僕は理解します。アラン・コルバンによれば、鐘は常に受け入れられたわけではなく、眠りを妨害する“騒音”として非難もされ、また日本でもありましたが、戦時には武器を鋳造するために鐘が没収されたりもしています。

『音の風景』P356
“鐘のモチーフはまた、個人の運命の諸段階を要約し、作品に通過儀礼の物語をちりばめる機会を詩人にあたえる。地中の母胎における鐘の懐胎、結婚の象徴である合金の融合、生の悲劇の恐ろしさをしめす早鐘、そして他者の死と大地への回帰を告げる弔鐘が、シラーの詩を際立たせる。それは十八世紀末に、「人生の諸段階」というテーマが新たな影響力をもったことに対応している。”

P356
“これに対して、フランスの作家たちは鐘の音がもつ喚起力を好んで強調する。鐘の音は人々の心をときめかせ、涙を溢れさせる。生まれ故郷の鐘の響きの思い出は、存在の意識や、自己記憶の最初の表れと渾然一体になる。鐘の音は大地による定着と新たな征服を示唆するのであり、花の香りのように、瞬間的な追憶をもたらす。”

※原文は“溢”の字が、異体字っぽいです。
ふゆひこ ++.. 2006/04/28(金) 01:56 [134] [引用]

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“鐘”のモチーフを取り入れた芸術は非常に多いですね。いくらでも探せそうです。例えばヒッチコックの『めまい』のラストシーン。鐘楼から転落死するジュディを、呆然と見つめるスコティ。修道女は“God mercy…”とつぶやき鐘を鳴らす。

ふゆひこ ++.. 2006/04/28(金) 01:57 [135] [引用]

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コルバンの言うように詩の世界では、数多く“鐘”を題材にした詩を見つけることができますね。いくらでも出てきます。僕が鐘の鳴り響く文学作品で思い出すのはプルーストよりも、アロイジウス・ベルトランです。『夜のガスパール』の幻想的な世界が厳粛な神聖さで包まれているのは、数多く使われる“鐘”のイメージが効果を出しているからとも言えます。引用したコルバンの文章にもありますが、プルースト、ベルトランの鐘のイメージには“ノスタルジー”の要素が強く含まれています。

『夜のガスパール』アロイジウス・ベルトラン著 及川茂訳 岩波文庫 1991年
P13
“鐘楼や教会の列柱、尖塔を、
 裏庭に並ぶ古い家々を、見に行ったことを。
   サント=ブーヴ 『慰め』”

これはベルトランが冒頭で引用しているサント=ブーヴの詩。もちろんリストの“コンソレーションズ”の題はこのサント=ブーヴの詩からきています。

P13
“かつてはその鐘楼も
 幾十と数えたものだった。”

P71 〜二人のユダヤ人〜
“ゴチック式の聖ユスターシュ寺院の塔上で、罅の入った鐘が鳴り渡った。―≪ダン・ドン、ダン・ドン、さあ、眠れ、ダン・ドン!≫”

ふゆひこ ++.. 2006/04/28(金) 01:58 [136] [引用]

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続いてはボードレール。

『悪の華』ボードレール 鈴木信太郎訳 岩波文庫 1961年
P251 〜風景〜
“鐘樓の塔と隣あひ、夢想しながら、
 風が運んで來る崇嚴な鐘の讚歌を俺は聽きたい。”


エドガー・アラン・ポーの“鐘のさまざま”という詩は、アメリカ人にとっては非常に有名だそうです。“人生の諸段階”に合わせる形で、様々な鐘の響きを擬態語で詠っています。

『ポー詩集』加島祥造訳 岩波文庫 1997年
P139 〜鐘のさまざま〜
“魔法の呪文の調子ににせて、
   鐘が鳴る
    鐘が、鐘が、鐘が鳴る、
 嘆きと悲しみの鐘が鳴る
 幽鬼の王様が
   鐘をつく、鐘をつく、鐘をつく!
 魔法の呪文の調子に合わせて”
ふゆひこ ++.. 2006/04/28(金) 01:59 [137] [引用]

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リストが使用した“鐘”の描写について分類してみました。これは僕の独断と偏見による分類です。例えば“葬送曲”や“ハンガリーの歴史的肖像 モショーニ・ミハーイ”のように、僕には“その音が鐘の音に聞こえる”という程度のものも加えました。他にもまだありそうですね。リストも、プルーストやベルトランと同じく牧歌的な風景に溶け込んだ、ノスタルジーを感じさせる“鐘”が多いことが特徴だと考えます。

≪リストが描写した“鐘”の分類≫※基本的にすべての項目において宗教性が含まれる。
I:神聖さ
・シュトラスブルク大聖堂の鐘 S6

II:信仰
(1)風景における鐘
・クリスマス・ツリー 第6曲“カリヨン”S186/6
・クリスマス・ツリー 第9曲“夕べの鐘”S186/9
・ジュネーヴの鐘 S160/9
・鐘の音 S238
・マイアベーア〜リスト “予言者”のイラストレーション 第3番:パストラール  S414
・超絶技巧練習曲第11曲“夕べの調べ” S139/11
・アンジェラス!   S162 
・マーリングの鐘 S328

(2)弔鐘
・ハンガリーの歴史的肖像第7曲 モショーニ・ミハーイ  S205a
・死の舞踏 ピアノと管弦楽のための幻想曲 “デ・プロフュンディス”バージョン S126i
・シューベルト〜リスト 弔いの鐘 S563/3
・葬送曲  S173/7

III:ヴィルトゥオジティの輝き
・パガニーニ〜リスト  パガニーニの“鐘”の主題によるブラブーラ風大幻想曲  S420
・パガニーニ〜リスト パガニーニの“鐘”“ベニスの謝肉祭”のテーマによる大幻想曲 第1バージョン S700
・パガニーニ大練習曲集 第3番 嬰ト短調 “ラ・カンパネラ” S141/3
・パガニーニによる超絶技巧練習曲集 第3番 嬰ト短調 “ラ・カンパネラ” S140/3
ふゆひこ ++.. 2006/04/30(日) 02:09 [138] [引用]

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III項の“ラ・カンパネラ”のグループですが、僕はこれらの曲に文学的なコンテクストを見出せないです。ヴィルトゥオジティの追求によって達せられた音世界だと思うので。僕の“ヴィルトゥオジティの輝き”という分類は分かりづらいと思うので(僕自身、苦しい(笑))、ジャンケレヴィッチの次の文章を紹介します。

『リスト ヴィルトゥオーゾの冒険』ウラディミール・ジャンケレヴィッチ著 伊藤制子 訳 春秋社 2001年
P35
“こういった歓喜に対して、鐘の交響曲であるリャプノーフの≪超絶技巧練習曲≫第三番<教会の三連鐘>、そしてさらにラフマニノフの二台のピアノのための幻想曲である作品五の≪音の絵≫第四番がもたらすのは、ある種の官能性と荘厳さである。天のいと高きところに栄光あれ!天のいと高きところに、ホザンナ!すべてにおいて、栄冠、賛美、歓喜、「勝利」が重要なのである。”

ふゆひこ ++.. 2006/04/30(日) 02:10 [139] [引用]

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『囚われの女』というのは、語り手の私に束縛されるアルベルチーヌのこと、続く『逃げ去る女』というのは、その状態から逃げ出すアルベルチーヌ・・・・と読む前は誰しもが想像します。実際そのとおりではあるのですが、意外だったのは、アルベルチーヌは、『逃げ去る女』の篇において、かなり早いタイミングで、語り手の私のもとから飛び出してしまう。そして驚くべきことに、すぐに事故死してしまいます。つまり『逃げ去る女』というのは、別れて離れていくアルベルチーヌというよりも、死して語り手の私の記憶から忘れられていくアルベルチーヌのことになります。ということは『囚われの女』もまた、物理的な束縛よりも、意識による拘束、恋愛と嫉妬の対象として執着される、という意味の方を強調して理解することが重要です。『失われた時を求めて』が、時間、記憶、感覚、意識をテーマにした小説であることの表れです。
ふゆひこ ++.. 2006/05/26(金) 02:09 [149] [引用]

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ルキノ・ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』においては、かなりトーマス・マンの原作の描写に忠実な面もあります。例えばタッジオの母親の描写。

トーマス・マン『ヴェニスに死す』岩波文庫 実吉捷郎 訳 P43
“それは実際、ほとんどねぶみもできないほどの装身具で、みみわと、さくらんぼ大の、やわらかく微光する真珠の、三重になった非常に長いくびかざりとから成っているのだった。”

この三重の真珠のネックレスは、そのままシルヴァーナ・マンガーノが身に着けてスクリーンに登場する。

ただし映画『ベニスに死す』にあって、原作『ヴェニスに死す』にない決定的な点。それは“母親”が美しい、ということです。トーマス・マンの原作をパラパラ読んでも、ヴィスコンティがシルヴァーナ・マンガーノを起用しなければならないほどの美しさは描写されていません。そしてタッジオの母親に対する愛、美しさへの賛美も特に描かれていない。トーマス・マンの原作では、あくまでもタッジオ中心。美の特権を感受する『恐るべき子供たち』のダルジュロスのような。
ふゆひこ ++.. 2006/05/26(金) 02:09 [150] [引用]

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ところがヴィスコンティは映画化に際して、母親に非常な美しさを与え、タッジオの母親への愛情、賛美をそこに生み出させる。タッジオとタッジオの母。それはヴィスコンティと母カルラ・エルバの関係でもある。それは柳澤一博氏が指摘しています。

ESQUIRE CINEMA&FASHION CINE BOOK VOL3 エスクァイア日本版11月号別冊1997年 P137
“ヴィスコンティ晩年の作品にはカルラ・エルバの姿が追想されている。『ベニスに死す』('71)の美少年タジオと母親(シルヴァーナ・マンガーノ)は明らかに少年時代のヴィスコンティと母親カルラの思い出が投影されている。”

この雑誌のP136には、『ベニスに死す』のワンシーンの写真が載っています。浜辺で遊ぶタッジオ、その姿を本を読みながら浜辺でイスに座り見守る美しい母親シルヴァーナ・マンガーノ。三重の真珠のネックレス。そして白いヴェール。

さらに前のページP133には、カルラ・エルバの写真が。その幻想的な立ち姿には幾重にも重ねられた真珠のネックレス。そして白いヴェール。
ふゆひこ ++.. 2006/05/26(金) 02:10 [151] [引用]

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そしてプルーストの方へ。語り手の私は、母親と二人でついにヴェニスを訪れる。

『逃げ去る女』P354
“さまざまな色をした大理石の欄干のうしろでは、私の帰りを待ちながらママンが本を読んでいたが、その顔を包むチュールのヴェールの白さは髪の白さと同じように痛々しい。母が涙を隠して麦藁帽子にこのヴェールをつけたのは、ホテルの人びとに「正装」しているような振りをするためではなく、喪の服装も終わり、悲しみも薄らいで、彼女がほとんど立ち直ったかのように私に思わせるためであるのが感じられた。”

この文章を読んで、僕の中で、タッジオとタッジオの母、ヴィスコンティと母カルラ・エルバ、そして語り手の私と母親のイメージがすべて重なったのです。

出典は不明ですが、柳澤一博氏が紹介しているエピソード。

ESQUIRE CINEMA&FASHION CINE BOOK VOL3 エスクァイア日本版11月号別冊1997年 P137
“ヴィスコンティは1920年頃に第一巻の『スワンの家のほうに』を初めて手に取った。彼は父親のジュゼッペ公爵が耽読しているのを目にし、自分でも読んでみた。そして、当時14歳のルキーノは「このフランスの作家は、会ったこともないのに、どうして僕のことがこんなに分かるのだろう」と感動した。(略)例えば、少年のマルセルは、母親を非常に愛している。そして、来客のために母親が彼にお休みのキスをしに来てくれないことを悲しむ。ヴィスコンティも少年時代に同じような体験をした。ヴィスコンティの母親カルラは舞踏会や豪華な宴会を愛した。そして、彼女が夜会に出かけると、彼女の帰宅を告げる馬車の音が聞こえるまで少年のルキーノは寝つけなかった。"
ふゆひこ ++.. 2006/05/26(金) 02:11 [152] [引用]

『ベニスに死す』への連想が続いたため、まるで『失われた時を求めて』のテーマ曲はマーラーの交響曲第5番の“アダージェット”であるかのように、頭の中をこの曲が流れ続けています。この『ベニスに死す』〜マーラー交響曲第5番は、“映画に使われたクラシック音楽”というカテゴリーで必ずベスト3に入るほど有名です。残りの2作は『2001年宇宙の旅』の“ツァラトゥストラはかく語りき”、『地獄の黙示録』の“ワルキューレの騎行”でしょう。これらは通常、それぞれの映画監督の音楽センスの良さの証明とされています。特にコッポラの『地獄の黙示録』〜“ワルキューレの騎行”は、戦闘ヘリの編隊をワルキューレになぞらえるという卓越したセンスだと、僕自身考えていました。第12巻『見出された時』を読んでいて、非常に興味深い文章を見つけました。休暇で一時的にパリに戻ってきているロベール・ド・サン=ルーとの会話。

第12巻『見出された時』P118〜P119
“私は彼に、夜のなかを上昇してゆく飛行機の美しさを語った。「たぶん下降する飛行機はもっと美しいよ」と彼は言う、(略)つまりこのとき飛行機は黙示録を作るんだ。星でさえ自分の居場所を維持できないんだからね。それからあのサイレン。あれはかなりワーグナー的なものじゃなかったかな?(略)空に上ってゆくのははたして飛行士なのか、ワルキューレの乙女たちなのか、分からないくらいだよ」彼はこのように飛行士をワルキューレの乙女たちになぞらえるのがいかにも嬉しいらしく、しかもそれを純粋に音楽的な理由で説明した、「もちろん、サイレンの音楽は一種の≪騎行≫だからね。じっさい、パリでワーグナーを聴くためには、ドイツ軍の到来が必要なんだ」”

『地獄の黙示録』のはるか以前に、戦闘機にワルキューレのイメージを重ねることがプルーストによって行われていました。

ふゆひこ ++.. 2006/06/21(水) 00:42 [169]

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PAST LOG の2002年2月6日のところに、辞典における“Evocation”の誤訳についての僕の投稿があります。もう4年も前の記事です。その記事で僕は“Evocation”と“Reminiscence”について、適切な訳語を探しており、それぞれ“喚起”と“回想”でよい、としている。その投稿をした頃というのは、ハワード13巻“システィナ礼拝堂にて”の感想を書いていた時でした。僕のサイトの13巻の感想から一部、引用します。

『フランツ・リストの回想』ふゆひこ http://www.asahi-net.or.jp/~nj8f-tkmt/howard_13.htm
“また着想のきっかけとしては、僕は次のように思います。この曲はそのままオルガン曲(S658)、ピアノ連弾曲、管弦楽曲にも編曲されるのですが、その際“Evocation(呼び起こす、喚起)”という言葉がタイトルに与えられました。どうもリストの中で、この“呼び起こす、喚起”という言葉がキーワードとなったのではないでしょうか。まずリストがシスティナ礼拝堂でミケランジェロによる壮大な天井画を見上げたとき、アヴェ・ヴェルム・コルプスの旋律が“呼び起こされた”のかも知れません。そしてリストはモーツァルトのアレグリの“ミゼレーレ”にまつわるエピソードを“呼び起こした”のでしょう。モーツァルトが記憶から“ミゼレーレ”を“呼び起こした”エピソードです。僕にはこの“Evocation”という言葉が、記憶による自由な編纂という意味で“Reminiscence”のまた別の形式と思えてなりません。”


この掲示板における『失われた時を求めて』のスレッドでも、半ば強引にリストと関連させるため、“REMINISCENCE”の“無意識的記憶”という訳語を話題にしました。その時は特にそれほど重要視しなかったのですが、最終篇『見出された時』に辿り着いたいま、プルーストの『失われた時を求めて』の意図、目的、テーマがまさに“REMINISCENCE”と“EVOCATION”であることに気付きました。“時間”がテーマである、というよりも、“時間”は“REMINISCENCE”と“EVOCATION”に存在する意味においてのみ重視されるだけであり、あくまでも中心は“REMINISCENCE”と“EVOCATION”です。
ふゆひこ ++.. 2006/07/09(日) 02:16 [175] [引用]

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“マドレーヌ体験”。僕はこの『失われた時を求めて』の最も有名なエピソードが、よく賞賛の対象とされる理由として、もちろんその文学的アプローチの素晴らしさに賛同はしながらも、1巻だけで放り出されることの多い『失われた時を求めて』の読者が唯一知っているエピソードだから、という皮肉めいた見方をしていました。

とんでもない。“マドレーヌ体験”こそが『失われた時を求めて』の核心です。最終篇まで来て、そのことが語り手によって説明される。語り手の私は、ゲルマント大公夫人のマチネーに向かう途中、近づいてきた車をよけるために身を逸らした際、敷石につまずく。

『見出された時 I』P302
“しかし、身を立て直そうとして、その敷石よりもやや低いもう一つの敷石に片足をのせたとき、私のいっさいの失望は、ある幸福感の前で消え去った。それは私の人生のさまざまな時期に与えられた幸福感、バルベックの周辺で馬車に乗って散歩しながら以前に見たと思った木を認めたときや、マルタンヴィルの鐘塔の眺め、お茶にひたしたマドレーヌの味、そのほか私が語ってきた―そしてヴァントゥイユの晩年の諸作品がそれらを綜合しているように思われた―数多くの感覚、そうしたものの与える幸福感と同じものだった。”

『見出された時 I』P303
“だが今度という今度は、ハーブティーにひたしたマドレーヌを味わった日にやったように、理由も分からずにあきらめてしまうような真似はすまいと、私は固く決心していた。”


その“幸福感”とは何か?その追求が、語り手のテーマとなります。文学的才能を持ちながらも、従来の文学の手法、意義に懐疑を持ち、文学自体に対して幻滅すらしている語り手が、ようやく自身の芸術的使命を見出す。

『見出された時 I』P322
“要するに、マルタンヴィルの鐘塔の眺めが与えてくれたような印象であれ、二つの敷石が不揃いだったことやマドレーヌの味などが与えた無意志的記憶であれ、いずれの場合にも思いをこらし、つまりは暗がりから私の感じたものを引き出して、それを精神的な等価値のものに変えようとつとめながら、感覚をそれに応じた法則や観念の表徴と解釈するように努力しなければならないのであった。ところで、私にはたった一つしかないと思われたその方法は、芸術作品を作るということ以外のなんであったのだろうか?”


“無意志的記憶”(訳語が微妙に違いますが)、この場面においてようやく“REMINISCENCE”というタームに非常な重要性が明確に与えられます。そしてP325のヴァン・ドンゲンの挿画のタイトルは“EVOCATIONS”―記憶の喚起―なのです。

ふゆひこ ++.. 2006/07/09(日) 02:17 [176] [引用]

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“REMINISCENCE”・・・・・・。リストはなぜ自身の一連のパラフレーズにこの語を与えたのでしょうか?他の作曲家も使ったのでしょうか?そもそも“REMINISCENCE”という語は一般的な語なのでしょうか?それほど特殊すぎる言葉ではないにしても“回想”という意味で用いる場合、“RECOLLECTION”や“MEMOIR”という語の方が一般的ではないでしょうか?“超絶技巧練習曲集”では、リストは類似の言葉として“RICORDANZA”という語を使っています。リストは“ダンテソナタ”の初期バージョンに“プロレゴムネス”“パラリポムネス”という特殊な語を使っています。リストはこれらの語をショーペンハウアーの著作から採ったのではないか、と僕は推察しています。同じように何かからの影響でしょうか?以上のことを、ウォーカーやワトソンの著作に何か記述がないかあたってみましたが、特に答えは得られませんでした。ですが、プルーストの次の文章がヒントになるのではないでしょうか?

『見出された時 U』P15
“『墓の彼方からの回想』の最も美しい一節は、あのマドレーヌと同種の感覚にかかっているのではなかろうか。”

『見出された時 U』P16
“また、この『回想』のなかで最も美しい二、三の文章の一つに、次のものがありはしないだろうか。「上品で心地よいヘリオトロープのにおいが、花をつけたソラマメの小さな花壇から立ち上がっていた。それはいささかも、祖国から吹き寄せる微風によってもたらされたものではなくて、ニューファウンドランドの荒々しい風、故国を遠く離れたこの植物とは無関係で、無意志的記憶や官能の共感も持ちあわせていないこの荒々しい風によって、運ばれてきたものである。この香りは、美しい人から漂ってくるものでも、その胸のなかで浄化されたものでもなく、彼女の過ぎたあとに広がるものでもなくて、まるで違った朝の光や農作物や世界からくる香りであるが、そこには悔恨と不在と青春のいっさいの憂愁がこめられていた」。フランス文学の傑作の一つであるジェラール・ド・ネルヴァルの『シルヴィ』には、『墓の彼方からの回想』のコンブールにかんする篇とまったく同じように、マドレーヌの味や「ツグミのさえずり」と同種の感覚が含まれている。さらにボードレールの場合、こうした無意志的記憶はいっそう数が多く、明らかに偶然ではなくて、それゆえ私の考えでは決定的なものになっている。”

シャトーブリアン、ネルヴァル、ボードレール。いずれもリストと生涯の一部が重なる同時代のフランスの詩人、小説家であり、3人ともリストと顔見知りあるいは友人です。

ふゆひこ ++.. 2006/07/09(日) 22:31 [177] [引用]

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“REMINISCENCE”についてポール・リクールの著作にヒントになる記述がありました。これはエドワード・ケイシーという学者の定義の紹介です。

『記憶・歴史・忘却 <上>』ポール・リクール著 久米博訳 新曜社 2004年出版
P76
“いずれにせよ、ケイシーはこの二つの集合の間に、彼が「記憶の様態」と呼ぶもの、すなわち「Reminding」(想起する)、「Reminiscing」(回想して言う、書く)、「Recognizing」(再認する)を挿入して、二つの集合の相補性を考慮に入れるのである”

P78
“Reminiscing についていうと、それは Reminding での活動よりも、もっと顕著な現象が問題となる。それは過去をいくつかの仕方で喚起し、過去をよみがえらせることである。すなわち、一方が出来事や共有する知識を思い出すのを、他方が助けたり、一方の思い出が他方の思い出を<思い出すよすが>(reminder)となる、といったようにである。”

Reminiscence には、回想して“書く”などの具体的な生産活動があることを条件としているような定義です。リストの“Reminiscence”もプルーストの“Reminiscence”も、この定義には合致している。しかしリストの一連の“Reminiscence”という名を付けられたオペラ編曲作品に、それほど名称の重要性を感じられません。“自由な編曲、パラフレーズ”という意味で、都合よく使われているだけのような気がします。リストの作品の中で“Reminiscence”の感覚に最も近い作品は何か、と考えれば、それは“スペイン狂詩曲”ではないでしょうか。
ふゆひこ ++.. 2006/07/29(土) 10:39 [179] [引用]

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『失われた時を求めて』の各篇のタイトルは、いくつかの意味が重ねられていることは、『逃げ去る女』を読んでいる時に紹介しました。最終篇『見出された時』も同じです。無意志的記憶によって“見出された時”の意味でもあれば、語り手の私が自身の書くべきテーマ、文学的使命を“見出す”篇でもあり、かつての社交界で名を馳せた人びとの醜く年老いた顔の上に“見出される”時の刻印の意味でもある。
ふゆひこ ++.. 2006/07/29(土) 10:40 [180] [引用]

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時の経過によって、語り手の私も含め、数多くの登場人物に変化が生じます。その中で、語り手の私に最も影響を与えたと思われる二人の変化。

まずはオデット。
彼女はなんとゲルマント公爵の愛人となり、ふたたび『囚われの女』となってしまう。

『見出された時 U』P181
“このひどく「王政復古調」の公爵と、彼の好む部屋着に包まれていかにも「第二帝政時代」を思わせる高級娼婦とは、時代おくれの古くさい情景を形作っていたが、そうした性格を完成させているのはスワンの集めた昔の絵で、それが「蒐集家」らしい配列で並べられてこの情景を見おろしていた。その下でバラ色のドレスの婦人は、ときおり公爵の話をさえぎってやかましくしゃべりはじめる。すると公爵はぴたりと話をやめて、凶暴な視線をじっと彼女に注ぐのだった。”

『失われた時を求めて』を読んでいると、ヴィスコンティの映画へ連想がつながるケースが非常に多いです。僕の場合だけでしょうか?とても偶然とは思えません。上記の場面において僕は、品のないオデットはそのまま、『家族の肖像』のブルモンティ夫人のイメージを、スワンが集めた絵画は、教授の邸宅に飾られる一連の『家族の肖像』の絵画を想起しました。

次はゲルマント侯爵夫人。

『見出された時 U』P157
“この上もなく貴重な存在に思われた彼女、純血種中の純血種だった彼女が、今ではおそらくヴィルパリジ夫人が社交界で没落する原因となった精神的な糧を求めるという遺伝的傾向に身をまかせて、彼女自身が新たなヴィルパリジ夫人になりきっていたのだ。”

前に紹介した、マリー・ダグーと、ヴィルパリジ夫人の共通点。そして一線を画していたはずのゲルマント侯爵夫人。なんとそのゲルマント侯爵夫人が一線を越えてしまったのです。この変貌は、特に語り手の私に衝撃を与えており、その落差に対しての描写に非常に多くの言葉が費やされています。
ふゆひこ ++.. 2006/07/29(土) 10:41 [181] [引用]

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『失われた時を求めて』と『魔の山』が共に“時間”を取り扱う文学作品であると以前に紹介しました。2作品とも、客観的な絶対的時間に対して、主観的な相対的時間の存在を主張するのですが、決定的違いがあります。『魔の山』で取り扱う、主観的な相対的時間は、過ぎ去る時間の長さが主観によって異なるにしても、過去から未来へと流れている時間であることに変わりはない。一方『失われた時を求めて』における主観的な相対的時間は、過去であると同時に、現在でもあり、未来でもあるという状態になっており、“流れ”の境界線が取っ払われてしまっている。『失われた時を求めて』は結果的に、長い“線”を巨大な“点”にすることに成功した作品と考えます。

時間の境界線を取っ払う(それは距離間の喪失でもある)象徴。それは“スワン家の方”の血を引くスワンとオデットの娘ジルベルトと、“ゲルマントの方”の血を引くロベール・ド・サン=ルーとの間に出来た娘、サン=ルー嬢です。サン=ルー嬢との対面がこの長い“線”を、一つの“点”にする。

『見出された時 U』P204
“私はジルベルトのわきに年のころ十六歳くらいの少女がいるのを見て、すっかり驚いた。その少女の高い背丈は、私が見ようとしなかったあの時のへだたりを示していたのである。無色でとらえることのできない時、それをいわば私がこの目で見たり、それにふれたりできるようにと、時は少女の姿で自分を実現し、一つの傑作のように彼女を作りあげたのである。”

サン=ルー嬢も“見出された時”の一つになります。つまり“時を見出す”というのは、いくつもの長い“線”を一つの“点”にする瞬間と考えられる。
ふゆひこ ++.. 2006/07/29(土) 10:54 [182] [引用]

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というわけで、読了しました(実は7月13日に読了してます)。非常に長かったです。昨年の7月末から読み始め、余裕で1年かかってしまいました。『失われた時を求めて』を、フランツ・リストと関連付けて読み解いていくという、奇妙な一連の文章もこれでおしまい。
ふゆひこ ++.. 2006/07/29(土) 10:54 [183] [引用]

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