皿洗いの極意

結婚してしばらくして、我が家では「料理をしなかった方が皿洗いをする」というルールができた。その頃、僕は週に2、3回夕食を作っていたと思う。しばらくして子どもが生まれ、奥さんが育児休業している間は、ほとんど毎日彼女が料理を作ったので、自動的に毎日僕が皿洗いをするようになった。その後、奥さんが仕事に復帰してからも、僕はあまり料理をしなくなり、皿洗いは固定的に僕の担当となった。つまり、僕が料理をした日も僕が皿洗いをするのである(そのかわり、奥さんは毎日洗濯をしている)。

皿洗いというのはそんなに楽しい仕事ではない。ご飯を食べた後はくつろぎたいものなのに、立って働かなければならない。それで、「まあ、とりあえずくつろいだ後で...」などと後回しにしているとますますイヤになり、明日洗うことにして寝てしまったりする。しかし、翌朝、洗い物のたまった流しを見るのはあまり気分のいいものではない。前の日を引きずっているようで、スッキリと新しい一日が始まる気分にならない。流しにたまった洗い物というのは不良債権みたいなもので、早く処理した方がいいに決まっているのだ。

村上春樹が「家事の基本は、流しに洗い物をためないこと」だといっている。お腹が減るからご飯を食べ、食事が済んだら自分の身体でお皿を洗う。さっさと洗い物を片付けるようにしていると、生活にリズムが生まれるのだ。それは自分の身体が作りだすリズムである。リズムに乗ると、物事ははかどる。村上春樹は「家事というのは永遠の後片付け」だという。たしかにそのとおりである。永遠だからリズムに乗らないとやってられないのだ。それにしても皿洗いは面倒くさい。しかし、面倒くさいことというのは何度も続けていると必ず面倒くさくなくなるのである。僕はそう確信しているので、なるべく流しに洗い物をためないようにしてみた。

僕は洗剤は使わない。太い化繊の毛糸を編んだ布で洗うと、不思議なことに洗剤は要らないのである。今は、奥さんの指導の元にオレンジ色の毛糸を自分で編んだものを使っている。ベタベタした汚れはシリコンゴムのヘラで取ると簡単にお皿がキレイになる。お湯もほとんど使わない。冬は水が冷たいが、しばらく水を使っているとだんだん地中深くの水道管に溜まっていた水が出てくるので(?)あまり冷たくなくなる。我が家のキッチンには食器洗い機というものも付いているのだが、お客さんが来た時くらいしか使わない。

そうやって、毎日毎日お皿を洗っているうちに、何も考えずにできるようになった。「面倒くさい」というのは頭が考えることなので、何も考えずにできるようになれば面倒くさくなくなるのである。今では、流しの前に立ってぼおっと他のことを考えているうちに、身体が勝手に洗い物を片づけてしまう。その間、ヤカンを火にかけておくと、洗い物が終わった頃にはお湯が沸いているので、お茶をいれる。流しが片づいていると、お茶も気分良く飲める。