サラリ−マンらしからぬ男

僕は昔からよく会社の先輩から「サラリーマンらしくない」と言われる。「サラリーマンらしくない」と言われつつも、もう16年も同じ会社に勤めている正真正銘のサラリーマンである。サラリーマンじゃない人(個人事業主の人なんか)に対して誰もわざわざ「サラリーマンらしくない」と言ったりはしない。サラリ−マン以外の何者でもないのに「サラリ−マンらしくない」と言われるのは、「お前は不完全なサラリーマンだ」と評価されているのである。別の言い方をすれば「お前はフマジメだ」ということだろう。

会社に入って2、3年経った頃、先輩から「もっと残業しろ」と言われたことがある。それは価値観の問題だ、というような返事をしたら、先輩は「アカン、こいつは哲学を持っとる、言うても無駄や」と嘆いていた。この先輩の言う「哲学」はあの難しい学問のことではなく、「自分の考え」という意味だ。では、なぜ「自分の考えを持っているとあまり残業をしない」ということになるのか。

サラリ−マンは「給与生活者」である。サラリ−マンは、会社を経営している人に雇われて、与えられた仕事をすることでお金をもらって生きている。会社を作った人は、我々の住んでいる社会の中で継続的に成り立つような仕事を作りだして、それを組織化したのだ。その人は「自分の考え」で会社を作ったわけである。サラリ−マンはその考えに従うべきもので、「自分の考え」などというものが本当にあるのなら、自分で仕事を作り出して事業主になればいいのである。

そういうわけで、ちゃんとした「自分の考え」を持っている人が脱サラするのは筋が通っている。しかし、僕はそれほど徹底した「考え」を持っているわけではない。僕の「哲学」はかなり中途半端なものだということになる。自分の考えをしっかり持っている人間は個人事業主や会社創業者となり、自分の考えが中途半端な人間がサラリ−マンになるのだ。サラリ−マンらしいサラリ−マンは、そういう中途半端な「自分の考え」などというものはどこかにしまいこんで仕事をするのだが、僕はそういうことができないので「サラリ−マンらしくない」と言われてしまう。

僕は、中途半端なものではあっても「自分の考え」をいつも抱えている。僕の考えでは日常生活というものが大事なのである。日常生活を大事にすると、「なるべく残業せずに帰る」というような方針になる。日常生活と残業は対立するのである。「もっと残業しろ」と言われると結構つらい。サラリーマンは日常生活を大事にしてはイケナイのだろうか。イケナイかどうかは別にして、低い評価をされる理由にはなる。僕は「ボ−ナスの査定が低いのはなぜか」と上司に聞いて「残業が少ないから」と言われたこともある。そう言われても、僕は相変わらずあまり残業しないのだった。

僕は入社以来ほぼ一貫して「同じ部署の中で一番残業時間が短いヤツ」である。「みんなが残業枠一杯まで働いているのに、僕だけ半分か3分の1しか残業していない」という状況の時もあった。その頃、僕は何人かの同僚に「なんでそんなに会社にいるのか」と聞いてみたが、根本的には「仕事があるから」という理由と「家に帰ってもすることがないから」という理由が複合しているようだった。そのあたりで僕は話が合わなくなる。「することがない」という状態があるからこそ「自分のやりたいこと」ができるんじゃないか。

しかし、最近は世の中の変化に伴って職場の雰囲気も変わり、「あまり忙しくもない時はなるべく残業しない」という人も増えてきた。すごく良いことである。残業をたくさんする人間がいい仕事をしているとは限らない。もちろん、残業をしない人間がいい仕事をするとも限らないが、同じ仕事なら短い時間でやる方が効率的だということにはなる。とにかく、残業をたくさんする方がエライというような価値観は崩れつつある。そういう考え方は右肩上がりの経済成長が前提じゃないと成り立たないのだ。