集中しながら気が散っているのがお気楽

僕は小学生の頃から、学校からの帰りに歩きながら本を読んだり、家ではラジオを聞きながら勉強したりする「ナガラ族」だった。そういうことをすると、危ないとか真面目にやれとか、とにかく叱られるのだった。そう言われても、僕はひとつのことに集中するよりいろんなことを同時にやる方が落ち着くのだ。今でも、僕が日常生活に求めるシアワセは「何か飲み食いしながら、音楽を聴きながら、本を読む」という過ごし方である。

いろんなことを同時に、とは言っても、本を読みながらテレビを見たり、音楽を聴きながらラジオの野球中継を聴いたりすることはできない。聖徳太子は9人の言うことを同時に聞いて理解したと言われているが、そういうのは凡人には無理である。僕が言いたいのはいろんな感覚をなるべく同時に満足させたいということだ。俳句で言うと「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」である。柿の色、味、重さ、鐘の音、時間の感覚、法隆寺の風景、という具合に、この句にはいろんな感覚が詰め込まれている。

この前、会社の帰りに家の近くの池の端を歩いていると、気持ちの良い秋の風が吹いて、草が揺れる音が聞こえた。空を見上げると丸くて明るい月が輝いている。コオロギも鳴いている。そういう風にいろんな感覚を楽しませることがあると、お腹も空いてくる。残った感覚も目が覚めるわけだ。

五感は外に向いた感覚である。それぞれの感覚はものごとの別の側面を捉えている。意識を集中すると、ひとつの感覚に気を取られてしまうが、集中を緩めてぼおっとすると、自分がいろんな感覚でいろんなものごとを同時に捉えていることにあらためて気付く。そういうのがリラックスした状態である。反対に、緊張したり興奮したりすると、周りがよく見えなくなる。リラックスするには気を散らせればいいのかもしれない。でも、気が散り過ぎると何が何だかわけが判らなくなるので、集中も保つ必要がある。

ところで、僕がこういう文章を書く時は、ものすごーく集中していて全然「ナガラ族」ではない。ほとんどキーボードから手を放さないので、飲み食いできないし、CDを鳴らしていてもほとんど聴いていないし、暑さ寒さもあまり気にならない。そして、あっというまに時間が過ぎる。その間、モニタ画面を見る以外、五感はほとんどどこかに忘れ去られている。ちょっとクールな気もするが、全然お気楽ではない。修行が足りないのだ。