少しぐらいは不安だってば

我々が現実の世界を生きていくことは、現実に関わるということである。現実に関わるみると、現実というのは何だかゴチャゴチャしていてワケが判らなくて不安になる。現実の世界のごく一部である我々が現実を完全に理解することは不可能だから、不安になるのは当然だ。「全て判った」とか「これで安心」と思えたとき、我々は現実を狭く捉えているのだ。そういうときは現実を捉えそこねているわけだから、逆に危険なのである。

だがしかし、やっぱり不安なのはイヤである。「判った」「安心」という状態に落ち着きたい。狭い範囲だけの現実を見ると「判った」とか「安心」と思うことができる。それで、我々は現実を狭く見ようとする傾向がある。狭い範囲だけの現実を見ていると、「判った」とか「安心」と思えるかも知れないが、同時に自分の可能性も限定してしまうことになる。自分の可能性は現実の条件によって制限されているように思えるが、実は自分の視野が狭いだけなのかも知れない。狭い範囲の現実ばかり見ていると、自分の可能性まで限定してしまうので、何となく窮屈な気分になってくるのである。

できれば「判った」「安心」と思いたいものだが、それは危ない状態でもある。となると、「だいたい判った」とか「とりあえず安心」というぐらいを目指すしかない。どこまで行っても「まだ判らないこと」や「まだ不安なこと」は残っているはずだ。それはつまり「いつまでも安心できない」ということだが、同時に「自分の可能性が残っている」ということでもある。不安と可能性は一体なのだ。

我々自身も我々の周りの世界も変化し続けているから、「だいたい判った」「とりあえず安心」という状態も長くは続かない。そういう状態を維持するためには、常に自分の可能性を開拓し続ける必要がある。可能性を開拓するのは、「不安なことをよく見て、それに対応できるようになる」ということでもある。何かができるようになるには時間がかかるので、不安でも焦らずゆっくりやるしかない。何かをゆっくりやるためには時間が必要で、時間の余裕を作り出すには早く始めるのが一番である。