想像するには勇気がいるのだ

想像というのはイメージを思い浮かべることである。自分が思い浮かべたイメ−ジは現実ではないが、現実とは違った感じのリアリティがある。つまり、我々は自分の想像力によってヴァーチュアル・リアリティを発生させることができるわけである。視覚的イメージだけじゃなくて、音や感触や味や匂いのイメージも思い浮かべると、よりリアルになる。イメージが変化する様子を思い浮かべることができれば、かなり現実に近づく。しかし、そういうリアルなイメージを思い浮かべるのはとても難しい。

スポーツ選手がイメージトレーニングをすることでわかるように、想像力と身体技能は関係がある。ある動作をちゃんと思い浮かべることができれば、現実に行うこともできるのだ。イメージを思い浮かべることは身体技能の一部なのである。現実に近いリアルなイメージを思い浮かべるには、それなりの訓練がいる。現実というのは、多様な物事がバラバラに変化しているものである。我々の身体だって、すごく沢山の筋肉や関節があるから、ただ歩くだけのことでも身体全体の動作を思い浮かべるのは大変である。

我々が何かの感覚のイメ−ジを思い浮かべることができるのは、その感覚を使って現実を感じ取ったことがあるからだ。イメージを思い浮かべるには、それと同じ感覚を現実に経験していなくてはならない。人間は紫外線の色や超音波の音色を思い浮かべることはできない。想像と現実は感覚の内容が違うのではなく、感覚の組み合わせやバランスが違うのである。自分にとってリアルなイメージを、頭の中だけでゼロから作り出すことはできないのだ。想像の前に、ナマの現実をありのままに感じ取る体験が必要なのである。我々が現実を経験するのは、想像力を養うためだと考えることもできる。

現実を言葉で把握しようとすると、自分の身体の感覚に無頓着になり、想像力は貧困になる。言葉は他人に対して自分を説明するためにある。我々が自分の感覚ではなく言葉で現実を把握しようとするのは、他人に対して説明するためである。ナマの現実をありのままに感じ取るには、言葉による説明をあきらめなくてはならない。説明というのは正当化である。ナマの現実を感じ取ると、自分を正当化できないから不安なのだ。その不安を乗り越えないと、想像力は身に付かない。

 → 頭の中の余白