獲物捕りに興じる少年達(ベトナム・フエ)
By M.Hayami(^_^)
近時、規制に対する風当たりが強く、規制緩和論がかますびしい。しかし、その実質は"総論賛成各論反対"の者も多く、もし規制緩和論が単に情緒的な"お題目"として唱えられているにすぎないのなら、下手にその尻馬に乗ると、しっぺ返しを食う恐れがある。そこで、規制緩和を前提とした対応戦略を立てるまえに、はたして規制緩和論は本物なのかという点を検討しておく必要があるように思われる。
なお、この問題については、一般に、わが国経済の発展段階の推移に着目して、終身雇用、系列、政官業の癒着、行政指導等日本型制度・慣行の「良さ」が発揮できたのは経済の持続的拡大が前提となっていたことを指摘し(佐和隆光「一刀両断・国是扱いの既得権益擁護」1996年5月6日付日経新聞朝刊s34頁参照)、発展途上段階では有効に機能した開発独裁型政府だが、既にその歴史的有効性は終わった(奥野正寛「やさしい経済学・三権分立の経済学」1995年12月27日付日経新聞朝刊21頁参照)とか、明確な目的に対して全国民を総動員するという「戦時体制」であった四〇年体制は、「成長」という総力戦に関してうまく機能し、高度成長を実現する基本的な要因となったが、このシステムは「変化」に対しては機能せず、高度成長が終了した今、この体制が未来に向かっての大きな桎梏となっている(野口悠紀雄「一九四〇年体制」東洋経済新報社151頁・174頁〈1995年〉参照)という観点から説明されることが多いが、以下ではもう少し経済戦略論的視点を交えて検討してみたい(もとより経済学の専門家でもなく、たかがM.B.A.の私が、自分なりの対応戦略を立てる必要上、その前提として、自前の知識を駆使して検討してみるだけのものにすぎないが・・・)。
一般的に、規制とは、競争の自由を制限し、本来何の違法性もない行為を禁止したり制約して、その違反を違法化する(刑法学上、法律によって禁じられて初めて処罰の対象となる行為を要素とするものは法定犯とされ、殺人、窃盗等、法律の規定を待つまでもなく倫理的な非難に値する行為を内容とする自然犯と区別される。大塚仁「刑法概説(総論)」有斐閣七八頁〈1975年〉等参照)等により、第一義的には全体利益の向上を意図するものであっても、客観的には、結果として一定の階層や集団の個別的利益を差別的に優遇するシステムと定義しうる(^-^)が、当然、規制緩和には、規制によって利益を受けてきた側からの強い反発が予想される(その場合、総論としての規制緩和の正当性・必要性を強く肯定しつつ、各論的な例外を主張するという論法をとるのが常套戦法である)。
そして、わが国の歴史では、「平家、海軍、国際派は結局敗北する」といわれるように、格好はいいが上滑りがちな開明派が、泥臭くても地に足の付いた保守派に、常にしてやられてきたのであり、その伝で行けば、今回の規制緩和問題も結局同じ運命をたどることになりそうにもみえる。
しかし、それは、これまで日本が常に、朝鮮半島、中国、ヨーロッパ、アメリカという、その時代、時代の先進地域との関係で、付加価値の低い産物に比較優位を有し、その時点での先端産業の産物は生産できないか、または生産できても比較劣位だったため、市場を閉ざしたり規制をかけて国内産業を保護する戦略に合理性があったからであり、その戦略を担う"源氏、陸軍、国内派"が勝ち続けたのも当然だった。
だが、今や日本がその歴史上初めて世界のトップグループに属するようになった結果、比較優位にある先端分野の産業を犠牲にして比較劣位の低付加価値産業を保護するために規制をかけることは自らの首を絞めるものであり、合理的な戦略ではなくなっている。
なぜなら、各自がその比較優位の産物を輸出し合えば、高付加価値の物を輸出できる側が有利になるが、その有利性を実現するためには相互に市場を開放し合う必要があり、比較劣位の低付加価値産業保護のために市場を閉ざせば、その代償として相手市場も開放されず、自己が比較優位を持つ高付加価値産物輸出のチャンスを減じるので、差し引きマイナスになるからである。
この観点から、最も付加価値の高い分野に比較優位を持つアメリカが規制緩和、市場開放に熱心なわけだが、日本も先進国の一員として基本的に同じ利害を持っている(なお、「資本が相対的に豊富な国は資本を使う財の生産で比較優位に立つ」というヘクシャー・オリーンの定理に基づき、八〇年代のアメリカが、規制緩和を通じて付加価値の高い産業の比較優位を高めるという原則を忠実に守り、復活したと指摘した上で、「処方箋は、日本でもまったく同じ」との大内俊昭日本興業銀行産業調査部長のコメントを紹介する、1996年4月9日付日経新聞朝刊5頁「負の経済学」〈滝田洋一〉参照。但し、アメリカ自身も国内に多くの規制を抱える国であることは、伊東光晴「規制緩和について」自由と正義〈日本弁護士連合会〉1996年4月号28頁の指摘されるとおりであり、アメリカの主張する規制緩和論が、自国の国益を実現するための戦略であることを看過すべきではない)。
もし、それにもかかわらず規制を維持するという不合理な戦略を選択するならば、日本が比較優位を持つ高付加価値企業は競って海外移転を図ることになるだろう(なお、ボーダーレス経済の下では、体質転換の切り札の規制緩和を怠ると、企業の日本離れを加速しかねないことを指摘する、1996年4月13日付日経新聞朝刊5頁「負の経済学」〈末村篤〉参照)。
すなわち、市場開放、規制緩和(規制は非関税障壁・参入障壁の最たるものである)は、単に抗しがたい外圧であるというにとどまらず、積極的に"先進国日本"が生き残るための不可避の戦略なのであり、その結果、今度こそ、これを担う"平家、海軍、国際派"の系譜に属する開明派の発言力が必然的に優勢になるだろう(もっとも、開明派が、上滑りになりがちな自己の欠点を自覚し、保守派の地に足の付いた足どりに学ぶべき必要性は、これからも依然として強いと、私は思う)。
したがって、個々の企業、個人のレベルでも、もはや規制緩和、市場開放は否応なく避けられないものと捉えて、これを踏まえた各自の戦略を立てることが有効かつ必要になっている、といってもよさそうである(予測には常にリスクを伴うので、幅広く情報を収集し専門家の意見を参照する必要があるが、他者の予測を信頼してそれが外れても予測者の責任を問うことはできず、結局、各人が自己のリスクで見通しをつけてそれぞれの戦略を立てるほかない。規制緩和が進むと自由度が増大する分、自己決断を迫られるから、なかなかにしんどい話ではある。もっとも、中条潮「規制緩和が法曹界の発展をもたらす」自由と正義96年4月号50頁は、消費者・生産者に代わって規制当局が意思決定してくれるという体質のもとで、選択の自由のない社会は、リスクも小さいけれど可能性も少ない社会であるといわれる)。
以上
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