イギリス ’74

Airport  最初の海外旅行は1974年に遡る。当時、父親が仕事で海外赴任を命じられ家族でイギリスは南ウェールズにあるブリジェンドという町へ行くために羽田を飛び立ったのが最初である。20年以上も前の話で当時は海外旅行人口も現在と比較して少なかった(年間240万人。ちなみに94年は年間1350万人)。乗った飛行機も日航のDC-8だったように記憶している。そういう状況だったので我々一家が出発する日は親戚一同が大挙して見送りに来てくれた。今から思うとちょっと考えにくいが、海外赴任であることと、当時は国際空港が羽田という都心から近い空港だったこともあり、この時の送迎と相成った。空港も今と異なり出発の飛行機が空港ビル屋上の見送り場所の真前に位置しており、飛行機の窓を通してみんながこちらに向かって大きく手を振っている場面は今だに鮮明に記憶に残っている。後に聞くところによると母親の両親や兄弟は涙を流していたそうである。現在のように海外旅行が一般的になってしまった時勢ではこういう劇的(?)な送迎シーンを見ることはできなくなっているような気がする。また場所を含め、空港の構造自体も大きく変わってしまった。古き良き時代と片付けてしまうのは感傷的すぎるかも知れないが…。
当時はイギリスまでの直行便はなく、モスクワで一度給油のため着陸したので空港で一時間位の待ち時間があった。印象として残っているのは、何もない待合場所に彫刻のようなオブジェと椅子くらいである。飛行機から空港に移る際に乗り継ぎパスのような大きめのカードを渡され、飛行機に戻るときにいかにもロシア人というような太ったおばさんが何か怒った顔をしてわめきながらパスを回収していた光景を含め、共産主義国家の暗さだけが全体の雰囲気として記憶に残ったモスクワ空港だった。
何だかんだでロンドンはヒースロー空港に到着してホテルにチェックインした。そのホテルは中庭があり、そこには木が生い茂ってちょっと南国風の雰囲気をかもし出していた。この中庭で強烈に印象に残ったのは所々に置いてあった火がめらめらと燃え盛っていた大燭台である。折しも時代は1974年、石油ショックの日本においてはトイレットペーパー、洗剤、砂糖などの生活必需品が店頭から姿を消し、石油はいずれ枯渇、節電節約の嵐、省エネルギー運動真っ盛りとパニック状態であった。そういう時期にイギリスに来て見るとホテルの中庭では単なる装飾としての燭台が煌々と火を燃やしている。「イギリスには石油不足はないの?」というのが子供心の素直な疑問であった。そしてその晩テレビをつけると突然目に飛び込んできたのは一糸まとわぬ女性がヘア丸出しで舞台で踊っている古い映像であった。この番組は何だったのかは今だに謎だが、イギリスではBBCですら必要がある場合においては(たとえばヌーディスト村のドキュメンタリーとか)日本でいう猥褻物の放送は堂々とオンエアされるので、恐らくたまたまそういうものに出くわしたのであろう。それにしても滞在初日から「日本と全然違う!」というものを改めて感じさせられた。この印象は後に色々な意味で「日本って違う!」という一連の印象の正に原体験となったものである。以上が後に6年に及ぶイギリス滞在の記念すべき第一日目の出来事だった。
画像はヒースロー空港 (当時の8 mm filmの映像より)。

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