空き缶に込めた自己満足

ある夏の日のこと、僕はお盆休みを久しぶりに実家で過ごしていた。実家は山間にあって、市街地に比べると、朝晩など幾分か過ごしやすい。ただ日中の暑さは市街地と変わらず、逆にクーラーのない実家のほうが暑く思えてくる。

東向きの窓がある僕の部屋には、朝6時にもなると陽射しが入り込み、じりじりと部屋の温度を上げていく。寝苦しさに負けず、何とか寝ていようとするものの、7時頃には暑くてギブアップしてしまう。そして、家の中で日陰を探す旅をする。都心から田舎へ帰ってくると、いろいろな違いに気付くことがある。その1つが、アラン・ドロンではないけれど「太陽がいっぱい(59年フランス)」ということ。それだけ空との間にさえぎるものがないわけで、夜になると、ベランダへリクライニングシートを持ち出しては、いつまでも星を眺めていることもあった。

実家を出て10年余りが過ぎ、帰ってきても僕にはすることがない。というより、体はここにあるものの、思考力も何もかもすべてアパートへ置いてきてしまうので、何もする気が起こらず、一日中、ただひたすら、ボーっとしている。ときどき何かしなきゃとむくむく湧き起こることがあっても、その先の結果が見えてしまうようで、それはすぐに失せて萎えてしまう。

そんな、実家にいるときはまるきり無気力な僕が、ある朝、早くに目を覚ました。暑かったからという生理的な理由ではなく、急に、帰ってきてからまだ墓参りをしていなかったことを思い出したのだった。実家は目の前にダムを塞き止めてできた湖があって、対岸に向かって大きな橋がわたしてある。そして、墓は対岸の少し小高い場所へ立てられている。

「そうだ、墓参りへ行こう!」

いったん思いつくと、自分でも驚くくらいに行動が速い。まだ6時過ぎだというのに、とっとと着替えを済ませ、仏壇から線香を拝借し、なぜか缶コーヒーを手に持って家を出た。

路肩を白杖で叩きながら大橋を渡る。考えてみると、見えなくなってから自分の足でこの橋を渡ったのはこれが初めてだった。見えているときは何度も歩いたことがあったけれど、こうして杖で歩いてみると、まるで知らない土地を歩いているような妙な感覚がある。橋を渡り終えると、道が二つに分かれる。そのまままっすぐ行くと隣町へ抜ける。もう一方は湖をぐるりと周回する小道になっている。僕は欄干の切れたところで左に曲がり小道へと進んでいった。

小道は車1台分の幅で、道の途中までは舗装もされている。右手はすぐに山の斜面で、夏の陽光にさらされて伸びた草が道のほうまで広がっていた。こうなると道と斜面の区別はあってないようなもので、ここは道だろうと信じて歩くほかない。左手は湖に落ちる斜面というか崖になっている。幸いなことに、ガードレールがついているので、間違ってもダイビングする心配はない、とはいえないけれど、可能性は低かった。

細い小道は山の斜面に沿って作られているので、小さなカーブと大きなカーブを繰り返している。僕は昔の記憶をたどりながら、「いまはあの辺のカーブだな」と自分の位置を想像しながら足を進めた。歩きながら、もし1人で山道を歩くことになったら、いったい何を手がかりに歩くのだろう、などと考えていた。

途中に小さな橋があって、その下を山から運ばれた清水によってできた小川が流れている。少し奥に入ったところには滝ができていて、ザーっという音をたてて、周囲の音までもかき消していた。その音は速くなることも遅くなることもなく一定の調子で繰り返されて、止まることがない。しばらくそれを聞いていると、滝の中へ吸い込まれてしまったような錯覚に陥る。

滝の冷気で一休みした僕はまた雑草の伸びた道を歩き出した。さっきまでよりも肌に当たる陽射しが強くなったような気がする。シャツの下から汗がじっとり湧き上がってきた。タオルを忘れたことを後悔しながら、シャツのすそをまくり、それでひたいの汗を拭く。顔の近くを小さな虫が飛び回り、じりじりした暑さをいっそう強くした。

どれくらい歩いただろうか。ほんの少し集中力が薄れて、白杖の動きがおざなりになったとき、僕の体が宙に浮いた、というか気がした。次の瞬間、僕は道の端のジャリの上にこけていた。いったい何が起きたのかすぐにはわからず、少しの間、倒れたままの姿勢で考えてみる。お尻と右ひじが痛い。右足は側溝に落ちていて、くるぶしの辺りまでぬれていた。幸い擦り傷程度だったものの、ぬれた靴の中はかなり気持が悪い。目が見えなかったことを改めて自覚し、杖をしっかり持ち直して僕はまた歩き出した。

「確か、墓はそろそろだったような・・・」
そう思いながら歩くうち、僕ははっとして足を止めた。またもやトラブルの発生だった。墓へ行くには、いま歩いている道をいったんそれて、墓につづく山道のほうへ上がっていかなければならない。その山道へのさしかかりを杖だけでどうやって認識するのか。墓の目前まで来ておきながら、僕は困ってしまった。右手の斜面を杖で突っつきながら歩いても、こう、雑草が生い茂っていては山道か斜面かの区別はまずつかない。田舎の小道なので、聞こうにも人の気配がない。僕は道の真ん中でひとり座り込んでしまった。しばらくじっとそのまま考えるうちに、あることを思い出した。

「そうだ、石碑があった!」
そう、山道への入り口前に大きな石碑があったのを思い出した。その石碑を杖で見つけられれば、墓への道はその反対側にある。僕は立ち上がり、斜面沿いではなく、今度は反対のガードレール沿いを注意しながら歩いた。

間もなく杖の先に固く大きな感触があった。果たしてそれは探していた石碑だった。そこで斜面のほうへ行ってみると、山道らしきところを発見した。この斜面を上がりきると、そこが墓だった。僕はそこを一気に駆け上がった。多少わきにそれても気にせず、ともかく駆け上がった。

やがて、草が切れてジャリになり、平らなところに出た。うちの墓はいちばん奥にある。石の囲いを杖で確認しながら先に進む。そして、墓の前に到着した。タバコの袋に突っ込んでいたライターで線香に火をつけ、小さく折れたそれを墓にそなえてから缶コーヒーを開けて飲んだ。何とも言えない達成感と満足感が湧き起こってきた。

長い時間、僕は草の匂いをかぎ、鳥のさえずりや風の音を聞きながら、遠くに見えるであろう大橋や実家のことを想像したりした。そして、墓に、また来るからと挨拶して山道を降りた。

大きな石碑があるところに戻った僕は、その下に缶コーヒーの空き缶を置いた。これは、墓に来たことを証明する証拠だ。家に帰って聞かれても、これを置いておけば誰も疑わないだろう。と考えたのだったか、いまはもう忘れてしまった。しかし、そんなことせずとも、誰も疑う者はいないはずだ。。ではどうして。それは、単なる自己満足に過ぎなかったのだろう。


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Last update: 2001/04/07