被災地とコロッケ

1995年1月17日午前5時46分、マグニチュード7.2という驚異的な地震が、神戸を中心とする阪神淡路地方を襲いました。
 当事僕は千葉に住んでいましたが、その日の朝は、昨日までのスキーの疲れでぐっすりと眠っていました。地震のことを知ったのは朝のニュースを見ているときでした。被害が相当な規模だったことは、ニュースキャスターの話しぶりからすぐにうかがえました。
 同時に、大阪に住む知り合いのことが思い浮かび、電話をかけてみたものの、話中のブザーが鳴るばかりで一向につながりませんでした。その知り合いはやはり前日まで新潟県の妙高高原スキー場へ一緒に行っていた人でしたが、その後、無事でいることがわかりほっとした記憶があります。

震災から1年後の5月、僕はひょんなことから2泊3日で大阪へ出かけることになりました。友達から、大阪行きのチケットに1人欠員が出たので一緒に行かないかと誘われたのです。要するに、単なる穴埋めだったわけですが、それに僕は賛同して行くことに決めました。

メンバーは3人で、2人は女性でした。3人とも視覚障害があるものの、2人はそんなことまるでおかまいなしといった感じで、大阪の街をかっぽれかっぽれと闊歩するのでした。夕方から大阪に住む知り合いと合流し、繁華街を案内してもらいました。案内といっても、行ったのは2人の女性の要望で食い物屋ばかりでした・・・。

何件目かの店でようやく落ち着いて座ることができ、ほっとして日本酒をちびちび飲んでいると、大阪の知り合いが明日はどこに行きたいか聞いてきました。女性二人は「くいだおれがしたい」ということで、すでに心は決まっているようでした。(おまえらまだくうんかい?!)と喉から出そうになりましたが、寸前のところでぐい飲みの中の酒とともに飲み込むことにしました。

「おまえはどうする?」
と大阪の知り合いが尋ねてきます。このときすでに、僕にはある計画がありました。それは、被災地を歩くことでした。震災から1年経過していたものの、復興はまだあまり進んだとはいえない状況だと当事の報道で聞いていました。なぜそこを歩いてみたかったのか、大した理由があるわけではありません。ただ実際に触れて感じてみたかったのです。

次の日の朝早く、まだ寝ている2人を横目に僕はホテルの部屋を出ました。いきなり、エレベーターの位置がわからなくなって迷ってしまいましたが、気を取り直してホテルの地下から電車に乗って、一路「西宮」を目指しました。

ほどなく電車は西宮の駅に到着し、僕はそこで電車を降りました。改札口へ向かう下り階段に1歩足を踏み出したとたん、そのまま体が硬まってしまいました。

「ゲッ、か、階段がゆがんでる!」
 そこにはベニヤの板が敷かれており、階段そのものが右上がりに傾いていました。不通に通れば1分もかからないような階段ですが、そこですでに数分を要してしまいました。

「やっぱり、行くのよそうかなぁ・・・」
などと早くもやる気が半分失せていましたが、実は引き返せない理由がありました。それは「三宮」で人と会う約束になっていたのです。もっとも、その人と会うのは三宮の駅構内でしたので、そのまま電車に乗って行けば済むわけですが、待ち合わせまではまだ6時間以上もありました。仕方なく、僕はまた歩くことに決めました。

西宮の駅を出ると、春の暖かい日差しが一瞬体を包んでくれました。それにつられて、またつい、篭に野菜を入れた行商のおばちゃんと一緒になって路肩へ座ってしまいました。少しだけ日向ぼっこしてから、僕は線路に沿ったかたちで「芦屋」へ向かって歩き始めました。

地図も持っていませんし、土地勘も全くありません。頼るのは線路だけです。しかし、線路沿いを歩いていけば、必ず芦屋まで間違いなく進んでいけるはずです。と思った僕が馬鹿でした。すぐに線路は住宅が立ち並ぶ中に消えてしまい、平行に歩くことが困難になってしまいました。それでも並行であろうと信じて道を歩きつづけました。さっきまでの暖かい日差しはどこへいったのか、アスファルトの道からは底冷えがしてきます。

途中、鼻水がたれてきたので、自販機でホットコーヒーを買うことにしましたが、あいにくその辺は全然通行人がありませんでした。仕方なく、勘を頼りに自販機のボタンを押してみると、なんと見事にホットコーヒーをビンゴすることができ、鼻水がたれていることも忘れて上機嫌で缶コーヒーを飲みました。

歩き始めて気付いたのは、やたらあちこちでトントンカンカンと金槌を打つ音が聞こえてくることでした。やはり1年くらいではまだまだ修復しきれないということなのかぁ、などと考えながら歩いていると、腹が減ってきました。

そこで、住宅街の細い道から太い道路へ出て、どこか店を探し始めました。すると、ある店の前でいいにおいがしてきました。そのにおいのするほうへ歩いていくと、そこは弁当屋でした。そこでおにぎりを数個買い、ついでに従業員用のトイレも拝借させてもらいました。

リュックサックにおにぎりを詰めた僕は、どこで食べようかとまたぷらぷら歩き出しました。しばらく行くと、複数の女性の掛け声が聞こえてきました。やはり、今回もその声のするほうへ歩いていってみると、どうやら学校らしく、掛け声は体育館らしい所から聞こえてきました。その手前は駐車場なのか少し広くなっていて、日差しも当たっていたので、僕はそこで弁当を広げて食べました。通行人に現在地を聞いてみると、芦屋に入っていることがわかりました。

このとき時間は午後1時を過ぎたころでしたので、僕は芦屋の駅を目指してまた歩くことにしました。芦屋に入ると、音の感じから新地が多くなったことに気付きました。そのせいか、砂ぼこりが舞っていて、なんとなく寒々とした印象を持ちました。それでも徐々に駅近くになってくると、人通りも多くなり、車のけたたましいクラクションが鳴り響いていました。

そこまで来たときには、ホテルを出てすでに7時間近く経っていましたので、集中力も薄れていました。半ばふらつきながら歩いていると、子連れの外国人の女性が声をかけてくれました。芦屋の駅までどれくらいか尋ねると、すぐそこだという返事がかえってきました。それを聞くと、もうたまらなくなり、そこまで誘導してもらえるよう頼みました。7時間の中で誘導してもらったのは、これが最初で最後です。

こうして無事に芦屋の駅に到着した僕は、電車で三宮へと向かいました。約束の時間には何とか間に合い、待ち合わせの人とも会うことができました。無事に会えたことで、少し元気になった僕は、その人と一緒に三宮の駅周辺を歩いてみることにしました。

表面はすっかり修繕されたように見える建物も、裏手に回ってみると、壁は剥がれたままで、いまにも崩れてしまいそうな感じの建物がまだまだありました。いちばん驚いたのはアスファルトに走る無数のヒビで、その隙間にはモルタルが打ち込まれていました。まるで地面いっぱいに書かれた絵のようなものを想像してしまいました。

そんな驚いている僕をその人はある所に連れて行ってくれました。それは、「コロッケ屋」でした

「三宮に来ると、必ずここのコロッケを買うんだ」
そう言いながら、広告の紙で作った袋で包まれた揚げたてのコロッケを2人で頬張りました。とても素朴な味で、被災地とともに忘れられない思い出となりました。


前へ 次へ トップページへ戻る
Last update: 2000/11/04