中国残留孤児井上鶴嗣さんの再婚した妻の娘2家族7人の退去強制問題報告
 ―福岡高裁の控訴審で逆転勝訴し、法務大臣が上告断念により勝利しました−

中島真一郎(コムスタカー外国人と共に生きる会)

1、事件の概要
 元中国残留孤児井上鶴嗣さんは、佐賀県出身の日本人父母の子として1940年に当時の中国の 牡丹江省(現在の東北地方 黒龍江省 )生まれました。5歳のときに中国の旧ソ連との国境に近い村で敗戦を迎え、両親と一緒に収容所に入れられました。その後、父親が死去し、母親とも離れ離れとなり、中国の養父母のもとで育てられました。1965年に、3歳と1歳の2人の幼い娘(長女 井上菊代、次女 井上由紀子)のある中国人女性(井上琴絵さん)と婚姻しました。1歳の娘は体が弱く、貧乏のためやむなく中国人の家に養女に出しました。その後、琴絵さんとの間に4人の実子が生まれました。文化大革命期間中、「日本人」であるために迫害をうけ、家族は農村へ下放させられ苦労しました。1981年に日本へ一時帰国し、日本の親族と再会しました。そして、1983年に妻と実子4人の6人で日本へ永住帰国し、熊本県内で仕事と家を見つけくらしていきました。しかし、長女の井上菊代さんは、年老いた養父のめんどうをみるため、そのときには中国にとどまりました。その後養父が死去したため、1991年に長女井上菊代さん家族を日本に呼び寄せるために入管に申請しましたが、「日本人父親と姓がことなる」といわれ不許可となりました。その後、長女の中国名の姓を父親と同じ中国名の姓に変更し、1996年に2回目の申請をしたところ許可され、長女の家族が来日することできました。養女となっていた次女の井上由紀子さん家族も、1998年父親と同じ姓に変更し、来日が許可されました。2家族は、日本での生活に苦労しながら就職し、子ども達は学校へ行き、両親である井上鶴嗣・琴絵夫妻の近くで仲良く暮らしていました。

2、福岡地方裁判所の第1審で敗訴
 ところが、長女の家族は来日後5年目、次女の家族は来日後3年目にあたる2001年11月5日早朝、福岡入国管理局は2家族7人(小中学生4人の子どもを含む)を摘発し、入管施設に収容してしまいました。摘発理由は、『日本人の実子でないのに実子を偽装して入国した』として、福岡入国管理局は、1996年と1998年の来日時の上陸許可が遡及して取り消される上陸許可取り消し処分を決定し、7人を入管施設に収容しました。娘二人は、井上鶴嗣さんの実子ではないが、再婚した妻の「連れ子」であり、家族としての実体があり、来日後平穏に暮らしてきていることなどを理由に法務大臣へ在留特別許可を求めましたが、2001年12月14日に法務大臣は不許可の裁定を行い、入国審査官は2家族7人に退去強制令書を発付しました。このため、7人は処分の取り消しを求めて、2001年12月25日に福岡地裁に行政訴訟を提訴しました。2003年3月31日第1審の福岡地方裁判所は、「原告の訴えを棄却する」敗訴判決を言い渡しました。原審判決は、原告が日本人と再婚した妻の「連れ子」とその家族であること、家族の実体があること、入国後平穏に暮らしてきたことなどは在留特別許可をあたえるかどうか判断する有利な事情となることを認めましたが、入国経緯に重大な違法性があることを重視して、原告の訴えを棄却しました。このため原告7人は2003年3月31日即日福岡高裁へ控訴しました。

3、福岡高等裁判所の控訴審の経緯
 控訴審では、当初原審判決(有利な事情とみなされた日本人の「連れ子」であること、家族の実態があること、入国後平穏に暮らしていることよりも、不利に判断された入国経緯の違法性を重視して訴えを棄却した)の比較考量論を土台として、中国残留孤児の歴史性や日本政府の責任、そして、退去強制が与える深刻な被害、とくに子どもの権利などを重点として立証しようとしました。しかし、福岡高裁の裁判官は、井上鶴嗣さんの再度の証人採用を認めただけで、2003年12月第三回口頭弁論で、次回で結審の意向を示しました。結審されれば敗訴必至と思えたため、弁護団として、控訴人の入国経緯に違法性がなかったことや、本件処分の先行処分である上陸許可取り消し処分の違憲・違法性の立証に重点を転換しました。2004年2月23日の予定が取り消された第4回口頭弁論は同年10月18日に変更となり再開されました。そこでは、控訴人が証拠として提出した大阪のMBSと福岡のFBSが製作報道した「中国残留邦人の家族の退去強制問題」を録画した2種類のビデオテープが証拠採用され、法廷内で上映されました。また、石塚裁判長は本件訴訟の争点として法務大臣の裁決に裁量権の濫用があったか否かということに加えて、上陸許可取り消し処分についても重要な争点であることを認めました。控訴審は同年12月15日第6回口頭弁論において、控訴人7人の意見陳述を行い結審し、判決言い渡しが2005年3月7日と決まりました。

4、福岡高等裁判書控訴審判決で逆転勝訴
 2005年3月7日午後3時30分福岡高裁501法廷(大法廷)は、支援者やマスコミ関係者で満席となるなか、福岡高裁の裁判官3人が着席し、石塚裁判長は、主文「1、原判決を取り消す」と読み上げました。傍聴席から、どよめきと拍手、感動して泣き出す人、法廷内は騒然となりました。そして、この判決は、3月15日南野法務大臣が「上訴を断念する」とのコメントを記者会見で公表し、確定することになりました。そして、同年3月24日福岡入管より控訴人7人に定住者(1年)の在留資格が与えられました。

5、控訴審判決の意義
 2005年3月7日福岡高裁判決は、在留特別許可の運用を国際人権条約の趣旨を尊重し、形式ではなく家族の実体を見て判断すること、中国残留孤児問題やその帰国の遅延についての政府の責任を指摘した内容を持つ判決として画期的意味をもつとともに、入管が事実上「不敗」を誇っていた入管行政をめぐる裁判(退去強制令書発付処分等取り消し訴訟)として、初めて政府を正面から訴訟で打ち負かし、上告を断念させ確定させた闘いとしても画期的意味があります。
 訴訟してもどうせ勝てないと思われたあり方から、訴訟すれば救済できるという事例を作ることができました。この高裁判決は、控訴人7人や井上鶴嗣さんらの家族の結束と子どもたちの学校の教員で結成された「『強制収容』問題を考え、子どもの学びと発達を守る熊本の会」の支援者(控訴人7人より少ない『史上最少の支援団体』)と、わずか3名の弁護団(控訴審途中から形成され、結成当初当時キャリア1年あまりの主任弁護人と、最初名前だけを貸してくださいとお願いして入ってもらった弁護人、弁護士資格なしの私という『史上最弱の弁護団』)の支援活動により生み出されました。7人全員を日本で永住させるという目的を実現する為に裁判を戦い抜き、そのための家族や支援者や弁護団の結束が最後まで維持され、国の違法性の根拠を具体的な証拠と事実の立証により崩していったことによる勝利でした。これまで誰もなしえなかったことを、最小の人数と費用(コスト)で最高の結果を導き出すことができたことは、経済力が弱く、支援を大きな組織にたよれない外国人の救援運動にとっても画期的であると同時に大きな希望を与えました。
 確定した2005年3月7日の福岡高裁判決は、入管行政を、これまでの「取り締まり」や「管理」優先から、国際人権条約の趣旨を尊重して外国人の人権を優先させるものへ転換させる可能性を大きく切り開きました。2001年11月5日の福岡入管による7人の摘発以降3年4ヶ月かかりましたが、政府(法務省入国管理局)の「厚い壁」に挑んだ闘いは、1審敗訴後の絶望的な状況下から、劇的な逆転勝利を遂げて、その目的を達しました。