「外国人の人権規定と人身売買禁止法の制定に向けた学習会」 =近藤敦氏講演報告 その1 =

  井上 幸雄(アジアに生きる会・ふくおか)

 去る12月4日に実施された、「外国人の人権規定と人身売買禁止法の制定に向けた学習会」おける九州産業大学教授 近藤敦氏の講演内容について以下報告したい。

1.外国人の人権規定

(1) 日本国憲法上の位置づけと改正論議
 外国人の人権に関して憲法改正の議論の中に少し出てきています。基本的には憲法9条の改正が特に自民党と民主党の人たちの考え方ですが、ただそれだけではなく、新しい人権の要素を取り入れていこうということをどちらの政党も言い出しています。
 基本的に外国人の人権は憲法上どうなっているかと言うと、外国人という言葉は憲法のどこにも出てきません。「国民」という言葉と「何人も」、誰でもという意味の言葉が出てきます。多くの国は「何人も」と書いてあれば、それは外国人を含み、「国民は」と書いてあれば、基本的に国民であると、そういう憲法の文言によって権利を区別しています。但し外国人の権利というのは「国民は」と書いてある条文であっても、社会状況が変わってくることによって、外国の人々のその権利を憲法上の保障するか、法律上保障するかは別にして、権利保障がどんどん高まっていますので、そういう意味で「国民は」という言葉はそれほど外国人を排除する上で強く考える必要はないと思います。日本国憲法では、解釈の上では、当初政府の役人は、これは「国民の権利及び義務」の章にあるので、国民の権利を保障している。外国人の権利というのは法律で保障するが、憲法上保障しないという、いわゆる無保障説という考え方をしました。しかし、判例上有力な考え方、いわゆるマクリーン事件最高裁判決があり、以後権利の性質で判断するという形の解釈が学説の中でも通説になってきております。判例もそうです。従ってそういう意味で憲法の条文を見ても外国人にどういう人権を憲法上保障しているのかを条文を見ても実はよく分からないというのが日本国憲法の今の現状です。どうせ憲法を改正するなら、その点を直し、新しい人権といわれているプライバシーの権利だとか、環境権なども入れていくといったことを、自民党も民主党も言っています。ただ9条を改正するというだけでは抵抗があるのでそういう新しい人権も入れて、できるだけ憲法改正に賛成する人を広げていこう、というのが本音であると思います。今後憲法改正の論議の中で、外国人の人権を憲法上どうするか議論が出てくることが予想されます。

(2)諸外国の状況
外国人の権利は諸外国ではどうなっているについては、アメリカは「全ての人」という言葉と「国民」(アメリカでは「市民」、その複数形の「人民」という言葉を使うことがありますが)とを分け、「全ての人」という主体を明記する権利は、外国人は当然含まれます。場合によっては「市民」とか「人民」と書いてあっても外国人が含まれる場合があります。
 憲法を作ってその憲法を為政者に守らせる。そういうことによって自分たちの権利や自由を保障するという考え方が立憲主義ですが、「何人も」と憲法で書いてあったら、それは誰でもと読まなければならずその権利を縮小する方向で解釈してはならないが、権利を伸張する方向で、例えば「国民」という語を広く解釈することは立憲主義からいって問題ない事となります。そういう立憲主義に根ざした性質説で考えていく必要があると私は考えています。
他の国の状況を見ると、例えばドイツの場合、憲法上「全て人」という規定は外国人全てが共有しますが、例えば移動の自由、結社の自由、集会の自由などは「ドイツ人」の権利として規定しています。それを別な規定で、例えば日本の憲法13条にあたるような「人格の自由な発展」という条文から、集会の自由とか、一定の職業選択の自由とか、結社の自由、色々な自由を外国人に保障しています。「ドイツ人」と書いてあるからと言って憲法は全く保障しないという風には解釈しないでわけです。

(3)日本での問題状況
 日本で問題となってくるのは、まず、自由権と社会権とは違うのだという発想です。日本の社会権に関する裁判所の判例は基本的に「国民」が中心で、外国の人というのは立法裁量がきき、法律によって判断せざるを得ない。それは財政上の事情だから、しかも国際人権規約も漸進的と言っているではないか。というのが裁判所が使う一般的な見方です。
それで日本でいくつかの点で問題があります。一つに在日コリアンの保障の問題、例えば戦争で傷害を負ったのに恩給や手当がもらえないことなどです。高齢者や傷害者で日本国籍がなくなって年金に加盟できなかった人が残っていますが、加入する可能性を認めてもらえなかった在日の人たちには認めていません。今裁判になっているところです。
 また、いわゆる民族学級の問題があります。民族学級とは公立学校で一定の少数言語を教えているもので、高槻市などでやっていたのですが、予算が同和対策のお金を回していたが、その同和予算がなくなったので高槻市が一切止めてしまった。そのことへの訴訟を大阪で起こしています。この問題の場合、教育を受ける権利は誰にでもあるのだということを国際人権規約には書いてあります。その点が一つと、文化的権利というものをどこかから読んで来なければならない。そういう新しい人権を憲法13条から取り込んでいく必要があります。ニューカマーの人たちの文化的権利の問題はこれから出てくるだろうと思います。裁判を通じて議論が憲法学とか国際人権法学に浸透してくるのだと思います。

(4)法律レベルでの問題
次に憲法レベルの問題ではなくて法律のレベルで法制度上どんな点が問題なのかという点について主要先進諸国と比較してみました。
 まず入管法の問題でいきますと、永住許可と家族呼び寄せの問題で、この永住許可を何年くらい居住していることで取得できるかの年数を比べてみました。いわゆる移民受け入れ国オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、アメリカという国では移民としての受け入れは居住必要年数はゼロになりますが、ドイツ、フランス、イギリス、オランダ、スウェーデンは一定程度の居住によって永住許可が可能になり、だいたい4〜5年くらいです。これは大体国籍を取得する年限、帰化の年限と同じか、それより少し短いのが一般的な傾向です。日本の場合は、98年頃までは20年という長い期間でしたが、だんだん規制が緩和してきまして、今は10年です。10年というのは非常に長い。もう一つは一定の生計要件というのが必要な国がある程度あるのですが、
場合によってはいらない国もある。日本の場合その辺は多少柔軟にして、事情を考慮して、原則として生計要件はつけておいていいと思いますが、例外をもう少したくさんつけた方がいいと思います。
 もう一つは請求権という考え方で、一定の要件を満たしたら役所の裁量なしに全てもらえる。オランダなどは5年が基準ですけれど、10年住んでいれば請求権みたいな形で申請すればもらえる。そういうものが、日本にはない。やはり、役所の裁量が必ず入ってくる。ある程度長く居住している人はそれはもう先ほどの生計要件と絡みますが、そういうものがなくても請求権として認めることがあってしかるべきと思います。
 次に、家族呼び寄せですが、今後日本で問題となるのは両親、親を外国の人が呼び寄せたいという時に、他の国には呼び寄せる枠があるのですが、フランス、日本などはどちらかというとない。制度はなくて、事実上今ある制度を運用しながら一部認めているということなんですが、ただこの場合の呼び寄せ条件として、本国に扶養できる家族がいないとかがあります。移民を受け入れる国なんかでは柔軟に受け入れを認めています。
次に、生活保護の件ですが、これもそれほど他の国と違いはない。ただ細かいことを言うと、非正規滞在者の医療について、緊急医療、生命に係わる医療のことになるのですが、このお金を生活保護に限って支出すれば、自治体とか病院は困らないことになるのですが、そういう緊急医療などの仕組みはある程度先進国はそろっているようです。次に公務就任権というのが実は大きな問題で、国レベルで、基本的に日本では認めておらず、他の国と比べるとかなり閉鎖的です。特に裁判で日本で問題となっているのが東京都職員の方のもので、もうじき最高裁の判決が出ます。(注−原告敗訴の判決) 日本の場合、職に就けても課長以上になれない。その法的根拠が無いのです。「当然の法理」という役所が出した解釈でしているわけで、最近の裁判ではそれは憲法の国民主権原理から導かれるという言い方ですが、国民主権原理などという抽象的なものから、公権力の行使と公の意思形成に参画する職には外国人は就けない、などということを導くというのは、アクロバット的な解釈だと思います。
 次に参政権の点ですが、これは明確に選挙権と被選挙権ともダメというのは、地方レベルでは日本だけです。他の国では、全て永住している人とか定住している人に認めるようなタイプとか旧植民地の人に認めるタイプとか、一定の自治体だけは認めるというところもあります。 帰化についてはそう短くしろということはないような気がしますが、帰化の一番の問題点は、生計要件が要る点で、永住資格と同じで、一定の場合緩和していいと思います。日本で帰化とか国籍取得があまり進まない。年間外国人が100人帰化できるような人がいて1人するかどうかの比率です。それに対してスウェーデンではかなりの高い率になります。その差は何かというと、重国籍を認めているかどうか、それともう一つ届け出という制度があるかどうかが原因です。届け出という制度はできた方がよいと思います。
 ( 2.人身売買禁止法をめぐっては、次号に掲載します。)