「オオムラ」の亡霊たち
―われわれは何者と闘っているのか―

挽地 康彦 移住労働者と共に生きるネットワーク九州・事務局


 大村からの帰りの車中は、いつも重苦しい空気に満ちている。はじめは面会した被収容者の情報などを交換したりするのだが、やがて情報は尽き、言葉を失い、沈黙が支配していく。シートに釘付けにされた身体がジワジワとこわばりはじめるのは、きまって大村I.Cを走り抜けた頃である。その日に直面した出来事を思い返すなか、薄紅に染まった大村湾が車窓を通して映し出されると、脳裏に刻まれた被収容者の像とのあまりの対照に発話を禁じられるのだ。《はたして、あの人々はわれわれが眼にする光景と同じ、斜陽に燃える大村湾を臨めるのだろうか…。》行く先を知らない情動が、何とか意識化するのを許されたかのように、ただ反響している。
 2006年11月14日の夕刻もまた、そのような時間がわれわれを襲っていた。この日、3回目を迎える大村入管との意見交換会が開かれ、例年どおり施設見学も部分的だが実施された。意見交換会では回を重ねるごとに新たなNGOメンバーが加わり、大村入管の内情も徐々に知られるようになってきている。やはり新たなる連帯の追求は、この活動を開いていくためにも必要だと改めて認識させられた。
 意見交換会のなかでは、今回も入管側から多くの内容が公表された。被収容者の属性を一端として挙げれば、119人の被収容者のうち国籍別では中国籍が約45%、性別では女性が約65%、年齢別では10歳代〜30歳代が約75%、そして九州外からの移送者が約90%であるという。この他にも、被収容者を取り巻く状況が入管の担当者から示された。
 これらの統計データを把握することは、大村入管の重層的なベールを剥ぎ取り、批判していくうえでそれなりに意味がある。データに基づいて、われわれは何らかの形で被収容者たちの「平均的」人間像を割り出し(被収容者の典型は、オーバーステイで検挙され東日本の入管施設から移送されてきた若年層の中国人女性だというように)、収容状況を確認し、彼/女らの要望を想定しながら入管側の矛盾を追及しなければならないからである。
 だが、どんなに事細かな数値を手に入れたとしても、被収容者の面々がいったい誰なのか、という素朴なところに手は届かない。この場所で被収容者の「顔」を知ることができるのは事前に名前のわかる者と面会するしか方法がなく、名前が明かされない被収容者は、誰にも知られることなくただ九州西端の箱の中に放置されている。
 こうした厳然たる事実に、われわれは想像力と洞察力を試されざるを得ない。入管にしてみれば、われわれはあくまでゲストであり、たとえ施設見学を許されてもそこは、境界線を少しばかり内側にずらされた入国管理センターの「外部」に他ならない。入管職員が被収容者について語り、施設内部を公開するのは、彼/女らの気配が完全にかき消された空間であることが保証されているからだ。それを忘れてはならない。
 匿名の世界は紛れもなく、すぐそばに広がっていた。にもかかわらず意見交換会では被収容者について語られても、収容という事態を生みだす構造の変革は留保されたままである。会自体がマンネリ化しているわけではないのだが、何かが腑に落ちない、空回りしているようなやりとりが続くばかり。
 それでも不意に発せられる首席入国警備官の言葉は、まだ見ぬ「リアルなオオムラ」をわずかながら開示しもする。勝手な物言いだが、わたしにとってこの意見交換会は彼が出席しないと意味をなさない。彼は国家主権の守衛の一員として振る舞いつつも、官僚制の言語に囚われない、自身の現場経験にそくした言葉で説得にかかる。あたかも世間知らずな子どもたちを大人の世界へ導くかのように。そうした彼の言葉は「大村」の歴史によってはっきりと裏打ちされており、わたしはその言葉/歴史を介して現在の「リアルなオオムラ」を想像するのである(大村入管の歴史については、本紙20号・23号所収の拙稿を参照)。
 この大村入管には、人権と暴力、自由と拘禁、職務と権力、タテマエと矛盾、これらが必要に応じて出し入れ可能になるよう折りたたまれている。そして、その姿を見守るかのように、制服を着た「大村」のかつての亡霊たちが彷徨っている。現在のハイテク施設にあって「保安上の理由」などの言葉がある種の正統性をもち、被収容者の自由を奪っていけるのは、「大村」の歴史を盾にしているからに他ならない。
 われわれは何者と向かい合い、闘っているのか。大村入管が抱え込む数々の矛盾を、われわれも知っているし、大村入管の職員も知っている。この施設は自らの存在理由を見出せぬまま、いやその理由とやらを必死で追い求めるかのようにこの場所にしがみついている。そしてその傍らでは、追放を待つばかりの者たちの「顔」がまた一人、また一人と埋もれていき、消え続けている。
 意見交換会を終えた後、わたしは他のメンバーとともに、今まさに埋もれようとしている一人の被収容者と面会した。その人物は、ミャンマー出身の政治難民でわたしとほぼ同世代の男性であった。難民申請者である彼は、自らの存在を認めようとしない偽りの「民主主義」国家日本の国民であるわれわれに、ミャンマーでの生活や残された家族のこと、日本にやって来た経緯などを話してくれた。おそらく彼は、フラッシュバックする闇の記憶を振り払いながら、入管職員の前で、弁護士の前で、面会者の前でと、幾度となく自身のことを語ったはずである。それを思うと、彼の眼差しに押し潰されるような気がした。
 あの時、わたしの顔は彼の瞳にどのように映っていたのか。帰途につく車内で底知れぬ不安をおぼえながら、わたしは大村湾を眺めるしかなかった。頭に浮かぶのはただ、金達寿の小説に残された密航者の詩。

  国を離れて まぼろし追うて
  星をたよりに ながれてきたが
  いまはとどかぬ はかない夢か
  瞼にうるむ 大村の月