大村入国管理センター探訪記2 ―過去の記憶/現在の憂鬱―
            挽地康彦(移住労働者と共に生きるネットワーク九州・事務局)

1.1968年2月23日:「朴絹子」事件
 1968(昭和43)年2月23日の昼下がり、大村入国者収容所の面会室でその出来事は起こった。この日、東京都在住の朴鐘模(35才男)は、大村収容所に収容されていた妻・韓礼子(29才女)と4人の子供の面会に訪れていた。当時の面会室は、現在と違い、被収容者と面会者の間の「仕切りガラス」はなく、家族のふれあいが曲がりなりにも可能だった(加えて、幼い子供であっても収容されていたことも現在と異なる)。そして家族にとって貴重な時間が残りわずかとなったその時、夫・朴鐘模は横に座らせていた長女・朴絹子(1才)を突然左手で抱きかかえ、右手に包丁を持って面会室を飛び出した。すぐさま立会中の婦警が急報し警備官等が後を追ったが、朴は正門横の中庭にエンジンをかけたまま駐車していた中型ダンプカーに飛び乗り走り出していった。
 我が子を抱いて走り去った朴鐘模はその後、大村市内の県道上で大村署員に逮捕され、同日の午後9時、朴絹子は再び大村収容所に収容された。警察の取調べに対し、朴は「絹子は病弱で韓国での治療が十分にできないことを心配し仮放免を願い出たが許可されなかったので、子供を連れ出し、新聞記者などの報道機関に訴えれば世間が同情し、妻子の日本在留がかなうかもしれないと思った」と自供している。
 朴絹子「奪取」事件。大村入管によってこのように表象される上述の出来事は、大村収容所の事件史のなかでも一際大きな事件として刻まれている。もっとも、それは「犯行」のすきをあたえた警備管理上の問題として、その意味で多くの反省点を残した大村収容所の汚点としてであり、なぜ朴がこのような行動に出たのか、なぜ彼の妻子が収容されねばならなかったのか、という事件の背景を問い直すものではない。それゆえに、この事件は大村収容所の存在とともに、戦後の日本社会が直面した課題としては風化し、大村入管の教訓としてのみ記憶されたといえる。
 ところが今回、大村入国管理センターとネットワーク九州の意見交換会のなかで、この朴絹子事件が、37年の時を経て現在の大村入管の問題として呼び起こされた。

2.2005年10月26日:大村入国管理センターの現状
 2005年10月26日、この日の大村はどんよりとした曇り空に覆われ、美しい大村湾も霞の海となっていた。午後1時、昨年に続き2回目となる意見交換会が、大村入国管理センターの会議室にて開かれた。ネットワーク九州の参加者は13名(北九州1名、福岡6名、熊本3名、長崎3名)、大村入管の出席者は4名(総務課長、総務課係長、首席入国警備官、総括入国警備官)であった。
 意見交換に入る前に、まず施設の1階・2階部分を総括入国警備官の案内で見学することになった。面会室、診察室、レントゲン室、カウンセリングルーム、学習室、検査室…など、見学コースは昨年とほぼ同じであったが、廊下を歩いていた時、中庭の運動場でバスケットボールやランニングをしている数人の若い被収容者の姿が目に入った。20才代であろうか、Tシャツとジャージ姿で身体を動かしている様子は、まるで学生が昼休み時間に遊んでいるように私には映った。学校と入国管理センターが錯綜した瞬間であった。
 案内役の警備官は、昨年は補佐役として同行していた人物で昨年は彼から直接話を聞けたものだが、今年は隊列の先頭に立ち、足早にわれわれを率いていった。警備官らも2回目で慣れたせいか、見学時間も今年は短かったように思う。
 その後の意見交換会は、ネットワーク九州が事前に提出していた質問に職員が回答するかたちで始まった。質問の内容は、@収容施設の状況、A職員体制、B被収容者の処遇に関するもので、27項目にわたった。以下で、大村入管による回答を、@収容状況に関する統計データとB被収容者の処遇を中心に概説しよう(A職員体制については、現在の職員数69名が前年度よりも減少した数字であること以外は、昨年から目立った変化はなかった)。

2.1 収容施設の状況
 収容定員800名を擁する大村入管の2005年9月末現在の収容人数は、99(うち女性60)名で、国籍別では中国74(45)名、韓国6(6)名、タイ4(4)名、ミャンマー4(2)名、その他11(3)名である。昨年(2004年9月)の意見交換会では、約300(うち女性100)名の収容人数で運用、2005年5月の段階では132(45)名という回答だったので、全体の収容人数は著しく減少していることがわかる。こうした減少傾向は、一時的なものかもしれないが、従来大村入管が担ってきた集団送還が入管体制のなかで見直され縮小されはじめていることに関係するのだろう。
 被収容者の内訳をみると、中国籍が大半であることは変わりないが、女性の被収容者が増加しているのが特徴である。また、これは昨年すでに明らかにされたことだが、これらの被収容者の多くは東日本入国管理センターからの移送者で、大村入管が担当する西日本(中国・四国・九州)在住の外国人は少ないという。
 平均収容期間は25日、最長収容期間は1年という回答であった。6ヶ月以上の長期収容者数は現在2名、旅券がなく領事館などから帰国のための渡航書を発効してもらう期間(3週間程度)収容される外国人が大半を占めていることが明らかとなった。長期収容者が少ないからか、収容施設内での被収容者による自殺未遂(自損行為)も相対的にみて少ない(2004年:3件、2005年1月-9月:0件)。被収容者の苦情申し立てもなく、ハンストも起こっていないという回答であった。
 仮放免が認められたのは、2004年5名、2005年(1-9月)2名で、その理由については回答を避けたが、多くは帰国準備のための仮放免と思われる。国費送還者は2004年16名、2005年(1-9月)6名、言うまでもなく入管側としてはこの数を減らしたいのが本音だ。

2.2 被収容者の処遇
 被収容者の直接経費は2004年度で5,500万円かかっている。1日一人あたりの経費は算出していないようだが、この経費には、食費、医療費、クリーニング代、毛布代、冷暖房費、そして移送費などが含まれている。10人定員の収容部屋には、一部屋平均6〜8人を入居させており、出身地、年齢、喫煙の有無などを考慮して同室者を選んでいる(男女は別棟)。同室者どうしのトラブル発生時などが心配されるが、被収容者本人が申し出れば他の部屋に移ることも可能だという。
 運動時間は、1日45分間のみ(土・日、祝祭日、年末年始、連休中を除く)。入浴は土・日を除く毎日1回(14:00〜16:00)、夏季は土・日も入浴可能。洗濯は自動洗濯機を利用できるらしい。運動と入浴は、基本的に入管職員の勤務形態に左右されており、とくに唯一外気を吸える運動時間が45分間というのは短すぎる。
 食事については気を遣っているようで、大村入国管理センター内に厨房があり、外部委託の業者がその厨房を使って供給している(1日2,200〜3,000カロリー以内)。つまり、弁当ではないということだ。業者が依頼した栄養士もいるようだが、入管職員は毎日食事を検食(?)しているという。
 また、被収容者への面会者は、2004年で延べ412人とやはり少ない。面会に行くと、入管職員は名札を付けておらず、そのせいか被収容者は職員を「先生」と呼ぶ。だが、職員はそのような指導は行っていないという。指導もなく発せられるこうした呼び名は、権力関係の現れ以外の何ものでもない。それを例証するように、被収容者のへの手紙は職員による検閲がはいることもわかった。外部への電話は自由なので、検閲がどういう意図で行われているのかは不明だ(憶測に過ぎないが、もしかすると電話も…)。ともあれ、大村入管の性格からして、受信物の検閲という行為は許されるべきではない。

3.意見交換:大村入管の歴史との対話
 大村入管の職員らが質問項目への回答を一通り終えると、双方による自由な意見交換に移った。今回はネットワーク九州から事前に提出した質問に加えて、被収容者の処遇に関する要望書も当日に渡しており、その要望事項も含めた議論が活発に展開された。
 この意見交換のなかで、議論が集中したのは次の3点であった。ひとつは大村入管廃止説、いまひとつは長期収容者の仮放免問題、そして最後に家族の面会のあり方についてである。

3.1 大村入管廃止説 
 まず大村入管廃止説について。収容規模に対して極めて少ない収容人数、それも大半が関東圏からの移送者、さらに被収容者の直接経費は2004年度で5,500万円だという(これは税金だ!)。こうした現状をみる限り、誰がみても大村に入国管理センターが存在する妥当な理由はない。しかしながら、首席入国警備官はこれに対して「廃止の話はない」ときっぱりと答えた。「1996年に現在の施設を新設してから間もないということも理由のひとつだが、何よりも「将来」の国際情勢(朝鮮半島有事や中台紛争など)如何で、集団密航などいつ大量に収容すべき外国人が発生するやもしれないから、大村入管は必要だ」というのである。
 あくまで彼の個人的な見解として「将来」の可能性を語ったのだが、これは明らかに大村入管の歴史的経験を下地にしている。なぜなら、そもそも大村入管は、朝鮮戦争時に発生した大量避難民に対応するために、彼(女)らを「密航者」とみなして収容・送還する目的で創設されたからだ。この隠された起源を考慮に入れれば、たとえ大村入管の現状が公式の存在理由にそぐわなくても、入管側にとっての「将来」は現実に正当性をもつことになる。

3.2 長期収容者の仮放免問題
 つぎに長期収容者の仮放免問題。先に、大村入管の長期収容者は2005年9月末現在で2名だと述べたが、これはあくまで大村入管での数字に過ぎない。つまり、被収容者のなかには、大村へ移送される前に、数ヶ月(場合によっては1年)以上他の入管施設に収容され、たらいまわしにあった者も実際に存在する。刑余者にいたっては、入管施設に収容される前に刑務所や拘置所に収監されていただろう。退去強制をうければ送還先で再度収容されるケースもあるだろう。収容に次ぐ収容、長期収容者はたえず収容先の移動を強いられることに想像力を働かせなければならない。
 そうであるなら、さしあたり被収容者の仮放免がいかに重要であるかがわかるだろう(もちろん、ビザがおりることに超したことはない)。大村入管で仮放免が与えられるのは、帰国準備、結核など感染性の病気治療、裁判係争中の長期収容者のケースに限られる。意見交換会のなかで中島真一郎氏(コムスタカ)は、日本人配偶者等の家族がいる被収容者で、裁判係争中や在留特別許可の再審請求中のケースなどについては仮放免を積極的に認めるように求めた。これに対して首席入国警備官は、「仮放免の運用はセンター所長の裁量であるがゆえに、東日本・西日本・大村の各入国管理センターごとに意見の相違がある。したがって、結局は前例に左右される。一定の基準がないのも問題なので、ご意見を踏まえて日本人配偶者や家族がいるケースについては本省と協議して検討していきたい。」と回答した。

3.3 家族との面会
 最後に、家族の面会方法について議論になった。これは被収容者と収容施設外部で暮らす家族との面会の問題である。われわれは、11項目からなる要望書のなかに「窓ガラスでの仕切りのない家族面会室を設置してください」という項目を入れていた。要望書に目を通した首席入国警備官は、この項目に即座に反応した。彼によれば、「被収容者どうしの夫婦や家族の場合は、センター内部の仕切りのない部屋(面会室とは別の)で面会できる」と述べた。しかし、外部の家族との仕切りのない部屋での面会については、返答を躊躇した。理由として「拉致」、すなわち「過去、外部の家族との面会時に、子どもを離さず釈放を要求する事件が起きたこと」を挙げた。
 朴絹子事件である。ショックだった。彼の言葉が私の耳に入った瞬間、現在の大村入管のなかに、かつての大村収容所の経験がまざまざと活きていることに驚愕した(頭では、わかっていたはずなのに)。
 普通に考えるなら、家族どうしの面会に仕切りを設けないのは自然なことだ(ここは刑務所ではない!)。実際に東日本入国管理センターでは、窓ガラス越しでない面会は可能だし、先述したとおりかつての大村入管でもそうだった。しかし、彼はこの面会については、過去の経験(もちろん朴絹子事件には直接言及しない)から「保安上、支障をきたすおそれがある」として否定的だった。そう、いつも逃げられるのはこの言葉のせいだ。

4.マジック・ワード:「保安上の理由」とは何か
 歴史的にみてもそうだが、「保安上の理由」というのは入管側の常套句である。だが、この場合の「保安」とはいったい何を意味するのか。入国管理センターは送還までの「単なる待機場所」ではないのか。この、ある種マジック・ワードになっている「保安上」という言葉について、私は面会問題の文脈から直接問うた―「保安上の理由とは具体的に何を指すのか」、と。返ってきた言葉は、やはり「逃亡」だった。
 被収容者が、面会中に、逃亡する(あるいは拉致される)…。もし、そういう可能性があるとするなら、並々ならぬリスクを負ってそのような行動に出ざるをえない状況とは、いったい何なのか。入管が考えなければならないのは、「保安」ではなく、むしろその状況の方であろう。けれども、そうはならない。なぜなら、その「状況」には、大村入管の過去の歪みが現在の大村入管の矛盾となって堆積しているからである。だからこそ、このマジック・ワードを使って回避するのだ。
 ここでの面会の問題は、日本人配偶者等の家族がいる被収容者の仮放免にもかかわっている。施設外部に家族がいる被収容者であれば、すぐさま仮放免するのが筋が通っているはずだが、許可に時間がかかる場合は、せめて仕切りガラスのない部屋での面会を認めるべきであろう。現実にも、そうした面会の実現に対する被収容者やその家族の要望は強いからだ。その要望を伝えると、「現在8つある面会室の1室を改造すれば、窓ガラスのない面会も可能になるかもしれない、検討する。」と首席入国警備官は最後に答えた。いつ、そして実際に実現するかどうかは入管次第だが、その言葉に期待したい。