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SIOPについてー2
掲載、第2回目です。
いままでBー36爆撃機が現役だった時代における爆撃目標について、資料を紹介してきましたが、もう1冊紹介したいと思います。SIOPとは(Single Integrated Operational Plan)すなわち単一統合作戦計画の略です。なぜ単一かというとアメリカの全3軍の核兵器を使用する唯一の戦争計画だからです。この本には第二次世界大戦終了後の冷戦黎明期から1980年代前期までの戦争計画について書かれています。
SIOP
アメリカの核戦争秘密シナリオ
ピーター・プリングル/ウイリアム・アーキン 著
山下 史 訳
朝日新聞社 1984年 刊
(Pー38)
2 核権力の始動
聖戦政策としての戦略爆撃
だがそのためには、どういう方法で攻撃が行われるのかを知ろうとするものは、誰ひとりとしていなかった。大続領や統合参謀本部ですら例外ではなかった。詳細はすべて、ルメイ将軍と彼の参謀に任せられていたのである。
アメリカが核を独占していたこの時代に、もしトルーマン大続領が自由世界の未来にとって脅威であるソ連に原爆をお見舞いすると決断したとすれば、部隊をどう動かすか、戦争をどう戦うか、さらにもっとも重要なこととして戦争にどう勝つかを決めるのは、ルメイであった。理論上では戦争は先制攻撃によって始まることにはなっていなかった。アメリカの国家としての基本方針は、核兵器を先制使用しないと定められていた。だがルメイは用心深く、先制攻撃の可能牲を除外しないでおいた。あらゆる事態に対処しうることを望んだからである。彼の戦争計画が国家方針と矛盾しないかとの質問に対して、ルメイは次のように答えている。
(先制攻撃をかけないという)この考えは、何度も耳にしたし、たいへんけっこうなことのように聞こえる。だが、わが国はそんなふうには動いてこなかった。独立戦争、一八一二年の戦争、インディアン戦争、さらには米西戦争をいったい誰が始めたのか、考えてみるがよかろう。私は、予防戦争をやろうなどといっているわけでは決してない。だが、もしもアメリカが窮地におちいり、身動きがとれないようなことにでもなれば、われわれは先制攻撃をためらわないであろう。
事実、ルメイは、報復能力を主体とする戦力を創設することなど一度として考えたことはなかった。かんじんなのは常に先制攻撃であった。第二次大戦は全面破壊能力をアメリカが持つことで終わったが、ことルメイにかんするかぎり、次の戦争の始まりもそうでなければならなかった。終戦直後のこの時期、ルメイのような考えに異を唱える者は皆無に近かった。戦略爆撃はペンタゴンの容認するドクトリンとなり、だからこそ戦後空軍の先兵部隊は戦略空軍と命名されたのである。
戦争に勝つ手段として、民間人を爆撃し、生き残った人々の戦意を喪失させるというドクトリンの歴史は古いものではない。その始まりは一九三五年のムッソリーニによるエチオピア空爆であり、続いて一九三七年の中国の諸都市に対する日本の爆撃、スペインの町ゲルニカへのドイツの攻撃がある。第二次大戦中、ドイツ空軍も連合国空軍も軍事・産業目標を正確に爆撃できないことに気付いたため、両陣営とも民間人への恐怖爆撃で満足し、これを「戦略」爆撃と呼んだ。連合軍はベルリン、ドレスデンを攻撃し、次いで東京に焼夷弾をあびせた。この〃新軍事哲学〃は広島と長崎でクライマックスをむかえた。戦略爆撃が効を奏したといえる証拠がないにもかかわらず−事実、民間人はそうした爆撃でおじけづかなかったことが証明されている−アメリカの空軍司令官たちはこの〃聖戦政策〃を戦後の時代にまで持ちこした。彼らはルメイ同様、戦後世界の目的は、「空軍力の使用を支配するものの善意と良識に、文明の存在をゆだねることである」と宣言した。
ルメイは、有事戦争計画を毎年作成し、まだ数の少なかった核兵器の使い方を提案した。建て前上は、このプランは統合参謀本部(JCS)の指針にのっとって作成されていた。どの目標を攻撃するべきか、どの程度の被害−軽度か、中度か重度か−を与えるべきかの指針は「統合戦略能力計画」として知られるJCSの世界有事計画の付録Cのなかに含まれていた。ここでキーとなる言葉は「能力」である。使える核兵器はほんのひとにぎりしかなかった−一九四九年には五○発にも満たなかった−ので、同戦争計画がそのすべてを使うものであったことは明白である。唯一の問題は、どう使うかであった。SACは計画を直接JCSに提出し、検討と承認を得なければならなかった。だが、ルメイがSACの独自性を大いに強化した結果、一九五一年から一九五五年までの間、JCSが戦争計画のコピーを受けとったことは一度としてなかった。ルメイは、作戦計画の詳細は厳密に守られるべき極秘事項とみなしており、その内容については誰に対しても固く口を閉ざしていた。むろん、彼に対して計画の提出命令を出すことはできたはずだし、やがてはそうなったのだが、きわめて重大な六年間というもの、アメリカの核戦争計画は野放し状態にあったのである。
ルメイが彼流の戦争計画をまんまと作成しおおせたのは、主として大統領府が関心を持たなかったためである。終戦直後、トルーマン大統領の唯一の関心は、核兵器にかんするなんらかの国際管理の実現にあった。彼は、一九二五年に毒ガスが禁止されたのだから、核兵器の禁止も可能だと信じていた。そのうえトルーマンは、自分がつくった二つの規則によってアメリカの核兵器庫は大統領の万全な掌握下にあると考えていたのである。二つの規則とは、第一に大統領のみが核兵器使用の決定を下すことができ、第二に大統領のみが分裂牲物質(ひいては核兵器)の新たな製造に承認を与えうる、というものである。だが現実には、みずからこのコントロールを放棄してしまった。トルーマンは、国務長官、国防長官、原子力委員会委員長からなる三人委員会を設置し、核政策のあらゆる側面について助言を求めることにした。この三人委員会で明確なコンセンサスが得られた後にはじめて、なにをなすべきかを「決定」した。こうしてトルーマンは、大統領権限の重要な一部分をこの三人に事実上、委託したのである。また強力な(上下院)合同原子力委具会が存在したために、大統領の核管理権は侵触された。同委員会は、核物質の製造をシビリアンコントロールの下におくことを定めた一九四六年のマクマホン法によって設置され、そのリーダーシップを握っていたのは、アメリカは持てるだけの核兵器を持つべきだと主張する核兵器狂信者のブライエン・マクマホン上院議員であった。マクマホンは「ミスター・アトム」と呼ばれることを好み、広島への原爆投下は「世界史上キリスト生誕に匹敵する偉大なできごと」である、と上院で発言したこともあった人物である。マクマホン委員会は核兵器製造ラインの拡張に強大な影響力を及ばした。その結果、議会の最終承認を得て行政府が政策を決定するという、行政府と立法府間の伝統的な分立があいまいになった。こと核問題にかんしては、大統領の助言と同意を得て議会が政策を決定することがしばしばであった。