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 ここのところずっとB-36爆撃機の時代背景についての資料を紹介してきました。この辺でそろそろB-36爆撃機そのものについて紹介していきたいと思います。といってもB-36爆撃機についての日本語で書かれた資料はほとんどなく、下記の資料が一番詳しいのではないかと思います。しかしこの雑誌は現在廃刊となっていますので、あえて全文をここに引用させてもらいます。(著者の田村俊夫氏、このページを見られましたらご連絡をいただきたいと思います。)

 紹介する文献は

航空ジャーナル 1978別冊

アメリカ空軍の翼

p70

成層圏の太鷲 コンベアBー36

田村俊夫 著

です。なお文中の写真、図版には省略しているものもあります。またリンクは小生が設定したものです。

史上最大のギャンブル

 第2次大戦でアメリカは,史上最大の科学のギャンブルに20億ドルを賭け,核兵器を完成させるのに成功して,賭けに勝った。そして以後のアメリカの戦略は核兵器を主体とするものになったが,当初の核戦略の担い手は当時核兵器を敵地まで運搬し得る唯一の手段を有していたアメリカ空軍であり,その配下の戦略航空軍団(SAC)だった。

SACはアメリカ陸軍航空軍が独立してアメリカ空軍となる1年半前の1946年3月に創立された。そしてその任務は世界のいかなる地点にも核兵器で攻撃をかけ得る能力の維持であった。創立当時のSACの戦力は,史上初の核兵器空中投下を行ったボーイングB‐29が約150機程度で,B‐29は初期の重い核兵器を搭載する能力はあったものの,足の長さでは海外基地を使用しない限り世界のいかなる地点へもの核攻撃はかけられない弱みがあった。このB‐29の航続力不足を捕い,世界をその行勤範囲に収めたのがコンベアB36である。本機の就役により初めて,SACはその任務達成にふさわしい戦力を備えることが出来,東西冷戦のさなかにあって睨みを効かせることが出来るようになった。SAC創立から1950年代半ばまでにSACに就役した爆撃機には,B‐29,‐36,−47,‐50があるが,アメリカ本土から無給油で世界を攻撃範囲に収められるのはB‐36しかなく,この意味ではB‐36はSAC,即ちアメリカの核戦略の象徴だった。

B‐36の開発

 このB‐36が就役を開始したのは1948年6月であるが,本機の構想が芽生えたのは太平洋戦争開戦前の1941年4月で,勿論この当時は核兵器の開発はアメリカではまだ本格的に開始されていなかった。ではB‐36の目的はと言えば,ヨーロッパがナチスドイツの手に落ちた時アメリカ本土からヨーロッパ大陸を爆撃出来ることで,1941年初めの状勢は西ヨーロッパの自由陣営ではイギリスのみが孤軍奮戦している有様であり,イギリスもナチスドイツに屈する可能性も当時としては無視出来なかった。このような状勢からルーズベルト大統領はアメリカの参戦も必至と見て大陸間爆撃行可能な大型爆撃機の開発を指示,陸軍航空軍は1941年4月11日に要求仕様をメーカーに提示した。それによると,本機は

1. 10,000ポンド(4,540kg)の爆撃を搭載して,5,000マイル(4,340nm)彼方の目標を爆撃して帰還可能

2. 航続距離を上記より減少した場合には72,000ボンド(32,688kg)まて爆弾搭載可能

3.飛行速度260−347kt

4.5,000フィ一ト(1,524m)の滑走路にて離陸可能

の性能を要求されており,いわゆる”Ten−Ten−Bomber”の巨人爆撃機の要求だった。当時の4発制式爆撃機ボ一イングB一17Dの航続距離2,600nm/爆弾1,135kg,最大速度237ktから見れば夢のような話で,後にマリアナ諸島から日本爆撃に猛威を振ったボーイングB‐29さえ前年の8月に原型機が発注されたばかりであった。なおこの爆弾4,540kg塔載というのは奇しくも広島・長崎に投下された原子爆弾の重量に相当し,核兵器が実用化された時本機がその運搬能カを有することともなった。

 陸軍航空軍が仕様書を提示したメーカーはボ一イングとコンソリデーテッドの2大大型機メーカーで,のちに非公式ながらダグラスとノースロッブの2杜が加わったが、悲観的な見方をするメーカーも多かった。これらのうちコンソリデーテッド(後にコンベア)社は自社内で長距離離爆撃機を研究していた関係から,仕様提示6か月後の10月6日に6発推進式巨人爆撃機の見横りを提出,ノースロップ社は社長のジャック・ノースロップの持論だった全翼機の4発案で応し,ボーイング,ダグラスも各々応した。各社見横りを審査するライトフィールドの陸軍航空軍試作部は独自で検討していた本仕様書型大陸間爆暴撃機案の6発推進機案とも合致し,かつ要求仕様を満足するコンベア社のモデル35を推薦,見積り費用として勝者のコンベア社には135,455ドル,敗者のボ一イング社には300,168ドルが支払われ,コンベア社は2機の原型機を1,500万ドル(モックアッブ製作・風胴試験などを含む)プラス80万ドルの固定科金て製作する契約を1941年11月15日に得た。時に太平洋戦争開始1か月前で,契約によれば1号機は30か月後,2号機はそれから6か月後以内に引き渡されされ,1号機XB一36は1944年5月に初飛行が予定された。

 なお4社提案のうちノースロッブ社の全翼機案は従来型の飛行機より揚抗比が25%もまさるため.アン・オーソドックスな形態ながら開発のメリットを認められ,1941年11月の同時期に2機がXB一35として発注された。(XB‐35に関してはAJサイクロンNo.11大空への挑戦Part3,「全翼機にかけた夢・天才ジャソク・ノースロッブの半生」を参照されたい)。

 契約を受けたコンベア社では当時B一24リベレーター,PBYカタリナ,PB2Yコロネードの生産および改良のほかボ一イングB29と同仕様のB32ドミネーターの開発に携っており,4発爆撃機の設計製作の経験があるとは言え,前例のない巨人機の開発は新たなるチャレンジだった。

 1941年の見積りでは本機は総重量120トン,最大速度320kt/12,000m,実用上昇限度12,000m,最大航続距離8,680nmの性能を持つものであり.これを実現するため発動機にはP&Wが開発中の14気筒のツイン・ワスブを28気筒にした3,000馬力級のワスブ・メジャーを選定,機体の好性能を得るため層流翼と、主翼の抗力を減少させるためあえて推進式の形式を採っており.機体外形上はコンベア社好みの双垂直翼を採用していた。コンベア社のエンジニア達はこれらの諸点を厳しい重量コントロールを課せられながらも解決しなげればならず,未開発の分野に手を染めざるを得なかった。

 まず機体材料としては大型機として始めてマグネシウムを軽荷重部に大量採用,マグネシウムがアルミニウムの約3分の2の比重のため約860kgの重量軽減を果たし,さらにこの鋲打ちをやめ,新たな金属接着材を開発して組立てを行なう工法を案出.マグネシウムの腐蝕防止には新たな被覆工法を案出して,これで約45kgの軽減を行なった。機体材料の主体となるアルミニウム合金でも通常の24S材でも人工的に枯らすことで強度が上がることを利用し約680kg軽減し,24Sより強度の擾れた75STも原型機に少量ながら取り入れ,両金属は生産型ではさらに大きな貢献をすることになる。

 機体構造の面ではワッフル構造を採用.胴体中央部の爆弾倉部は一般的なセミモノコック構造を取らず,2本の大竜骨構造を取り,与圧室にこの爆弾倉前後の乗組員用キャビンのみで,B‐36の全内部体積の1,647m3中約22%の365Gを与圧とLて与圧体積を減少させている。主翼内の6つの燃料タンクは当然のことながら重量軽減のためインテグラル構造にして,通常のラバー・バッグなどにより約3,100kg軽量化してあるが,防弾用ゴム・シーリングは外側・中央タンクのみに張られ,内側タンクは一番早く燃料消費するためシーリングを省略されている。

操縦系統では操舵は動力舵を採用せず,スプリング・タブ式を採用,フラップ操作には電気モーターを使用して軽量化を図り.また電気系統には通常の直流式から初めて交流式を採用,重量軽減と同時に高々度における電気障害をなくして,信頼性を高めた。

 上記はいずれも重量軽滅に払われた努力であるが,巨人機にとって問題な降着装置では初めの内は成功を見ることが出来ず,主車輪は直径実に2.79m‐幅1.17mの単車輪を使用せざるを得なくなり,滑走時のパンクの問題などや,使用滑走路が56cmのコンクリートの厚さを持っていなければ本機の重量を支えきれない難点を持っていた。

XB一36の発注から1か月後には太平洋戦争がぽっ発,これでアメリカも参戦となり,軍需産業は一層忙しさを増したが,XB‐36の作業は翌1942年春には26分の1の風胴模型が完成して風胴試験が始められる一方.同時期にはフル・スケールのモップアップが完成するまで進んだが,サンディエゴ工場に余裕がなくなったためXB一36開発チームの200人のエンジニアとモップアップはB一24量産用に新設されたフォートワースに移転することになり,同年8月はに移転したが,これで本機の基礎設計と風胴試験はサンディエゴ工場,その他の実機テストに至る作業はフォートワース工場が担当することとなった。そして同年9月にはモックアップが軍の資材調達本部(AMC)により承認されたが,本機のような開発に長期間を要する機体は戦局の推移により,開発優先度が高められにたり,低められたりするのは戦時の常だった。

 例えば1942年9月には日本軍の急激な進出からXB一35・36の開発は最優先に置かれ,同時にXB‐36のを主翼を利用したXC一99巨人輸送機が発注されたが,いずれも戦局の好転で優先順位を外された。翌1943年には中国戦線の危機から再び優先順位が上がったが,これも外され1944年7月にはコンベア社はマリアナ諸島からのB‐32の日本爆撃に備えて,B‐32に力を注ぐよう指令を受けるなど,作業の進展は混乱を極めた。このような状態と戦時においては試作機という少数生産では下請業者の方も熱がはいらず,コンベア社でさえ本機のエンジニアの平均経験年数が1年3か月に低下するほどで,したがって作業は遅れた。これを是正するためコンベア社は軍に量産命令の発行を依頼,1943年7月に100機の発注意向書を受げ取り,翌1944年8月には正式発注に切り換えられ,試作機の完成を待たずに量産に入ることになったものの優先順位は相変わらず低かった。

 そして終戦と共にこれまてコ社で優先されたB一24・32は一転してキャンセルされ,XB一36の方にも優れたエンジニア達が回されて来たが,本機の将来は戦後の空軍70個グルーブ整備案のなかで4グルーブが本機の配属を予定されているなどで安泰だった。だが,1944年5月に初飛行の予定が.第2次大戦終戦の日が来てもいまだにロ一ルアウトさえ出来ない状態で,計画は遅れに遅れていた。これは一つには戦時下の開発優先順位の変動にもよるが,巨人機開発の技術上の難点から来るものも多かった。例えば風胴試験では使用翼型の変更や後縁にパランスをとるため3度の後退翼を付け,当初の双垂直尾翼は操縦性に欠けるところから巨大な単垂直尾翼に変更した。これらより大きな問題は発動機関係で,使用発動機の試作機が完成してテストをしてみると冷却ファン部の大幅な設計変更となり,空気取入れ口や発動機ナセル部もこれに合わせて変更となり,風胴試験で満足出来るまで1943年末から1945年まで発動機の冷却テストが続けられた。また武装の面も当初の12.7mm機銃8基と37mm砲6門が,1945年初めには12.7mm銃10基と37mm砲5門に変更となり,さらに同年半ばにはこれは20mm砲2門を付けたGE製遠隔操作動力砲塔8基で,機首と機尾を除いては引込み式,機尾砲塔はレーダー標準とするよう改訂されたが,武装はB‐36Bになって初めて装備された。

 これらの設計変更は当然重量増加となり,1941年の見積りの総重量120トンは1945年8月には約125トン,最大速度301kt/9,144m,実用上昇限度10,997mに低下したが.これには上記の変更のほか政府支給品の規定重量超過も寄与していた。

つづく