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 Bー36爆撃機はどのような目的でアメリカ戦略空軍で使用されていたのでしょうか。それはソ連の核攻撃にたいする大量報復戦略のためです。1949年にソ連が原爆実験に成功したことにより「対ソ封じこめ戦略」の見直しをせまられたアメリカの戦略でした。これについては「核戦略批判 第5章 核戦略はいかにしてつくられてきたか」から引用させてもらいます。

核戦略批判

豊田利幸 著

岩波書店 1965年 発行

(Pー167)

 〜米国の初期の戦略は、原爆の独占体制を背景にした「対ソ封じこめ戦略」(NSC−20)てあったが一九四九年九月ソ連が原爆実験に成功し、本格的な戦略第一号が一九五○年の国家安全保障会議で決定された(NSCー68)。これは原爆塔載機を主体とする戦略空軍に最重点がおかれ、一方相手方、つまりソ連のそれにそなえて早期警報粗織を大々的につくり、同時に同盟国の再軍備を積極的に支援するものであった。大量報復戦略とよぱれるものである。ただし報復戦略といってもこの戦略で採用された戦略空軍がかなりの攻撃をうけてしまえぱ報復はできないし、空軍基地を十分に堅固なものにすることは困難であるから、第一撃戦略の一種ともいわれる。つまり戦争が始まったら第一撃に全力を投入して勝敗を決する行き方である。

 大量報復戦略では核兵器はもっばら戦略的に用いられ、米国の地上兵力や海上兵力はむしろ削減する方向を示すものとして、統合参謀本部の各参謀長ははげしく反対した。とくに、後に統合参謀本都長に返り咲き、さらに一九六四年から六五年にかけてヴェトナム大使をつとめたM‐テーラー大将は、一九五○年六月から始まった朝鮮戦争の例をあげ、大量報復戦略を軍事的観点から痛烈に批判して、その地位を追われた。その経緯は前記テーラーの著書にくわしい。

 大量報復戦略は核兵器の小型化がある程度可能になるにつれて、新しい装いであらわれることになった。ニュー・ルック戦略と呼ぱれるものがそれである。これは一九五三年のNSC−162においてはっきりした形をとったといわれている。封じこめ戦略、大規模な戦略空軍による大量報復、という性格はそのまま踏襲するが、戦術核兵器も陸海空軍の第一線に配備し、核兵器が大規模なすべての種類の戦争遂行に使われうると規定する点で、たしかに新しい外観をもつ戦略ということができる。さらにくわしくいうならば、軍事力の内容を核兵器をふくむ近代的兵器休系に転換し、人命の消耗を不可避的な前提とする戦闘力には、余り重点をおかない戦略である。すなわち巨大な近代兵器体系自身に、戦わずして勝つ抑止力を昔負わせようとするものである。軍備による戦争抑止の考えは昔からあり、歴史的にその誤謬が実証されてきたが、新しい科学技術の出現のたぴに、その技術の本質と限界を理解できない人々は、容易にその妄想にとらわれるものである。

 また、ニュー・ルック戦略という言葉が用いられた脊景には経済の問題があったことも無視できない。兵器体系の開発建設は、いわゆる「軍産業複合体」を産み出し、絶大な権限を与えられている大統領の力をもってしても、その「自己運動」をとめさせることは至難の業となってきた。兵器体系の開発には、電子工業から土木、造船にいたる「はとんどすべての近代科学工業が、はなれ難く結ぴついてしまった。その上、近代兵器は絶えずより性能のよいものに更新してゆかなくてはならないから、兵器の開発研究費は指数関数的に増大する傾向をもっている。事実、米国の新兵器研究開発費を一九五三年から一丸六○年にわたって調べてみると倍増年数約三年の指数関数になっている(ノェル・ベーカー『軍備競争』日本版への序文にある数宇から)。それゆえ、総体としての軍事費の増大をある程度押える必要がある。ニュー・ルック戦略では陸軍、海軍およぴ海兵隊の兵員数の約一七パーセントを削減し、その代りに核兵器の増強を進め、軍事費の「緊縮」を計るという大きな眼目があった。ここには戦術よりも戦略に重点をおく考えが見られ、陸海軍の強い反対を招いた。しかし、この戦略が採用された背景には、大量報復戦略の有効性の過信と、世界情勢の危機が米ソの対立だけによるものとの判断があったことはたしかである。〜

 大量報復戦略といっても報復というよりは”先制攻撃”に近い第一撃戦略のためのBー36爆撃機です。「ミッドナイト・スラスト」のミッションもその為の政治を飛び越した軍の行動だったのでしょう。さらに「核抑止力」という政治の道具でした。

 なおNSC (National Security Conference)とは国家安全保証会議のことです。

つづく