闇の胎児

町を南北に流れる川がある。溝川である。その溝川の浅瀬にはどうやって投げ込んだのかも知れぬ大型の電化製品がごろごろと捨てられてある。その中に、元は白かったのだろうと思われる汚泥に塗れた冷蔵庫がある。私はその溝川にどうやって降り立ったのかも分からないが、ただいつの間にかその冷蔵庫の前に立っている。川の流れる音がごうごうと響く。音はそれだけしか存在しておらぬようだ。膝まである川の水は冷たくなく体温に近い。濁流とその流れの中にある壊れた冷蔵庫しか視界に入れていないのだが、私には私の頭上にある空が灰色なのが分かる。雲は白いまま、青い空の部分がそっくり灰色になっていることを、私は天を仰ぐことなく知っているのである。まるで頭上を見る第三の眼でもあるかのように。
 

突如、私と無機物しか存在しない世界に、白い烏が舞い降りる。あまりに周囲の風景と釣り合わぬ、直視も躊躇われるほどに眩しい汚れなき無垢の白色。そして冷たく燃える炎のような深い赤の瞳。烏は冷蔵庫の上にふわりと止まる。嘴が私に何かを伝えようとするかのように閉じたり開いたりする。しかし濁流の音に消されて私にその声は届かぬのだ。白い烏は頭を垂れ、まるで嘴でその足元の冷蔵庫を指しているようである。すると申し合わせたようにその冷蔵庫の扉がぎいぎいと音を立ててゆっくりと開いた。ごうごうと川の流れる音は変わらず存在しているというのに、その扉の開く音だけは特別な意味を持つかのようにやけにはっきりと私の耳に響くのだった。
 

“地獄の扉が開かれたのだ。”
 

確かに聞こえた。烏がそう喋ったのである。“お前は今からこの中へ入り、鬼の出るのを食い止めなければならぬ。お前がこの中に篭ることでこの扉は完全に封じられるのだ。”私は導かれるままその冷蔵庫の中に四肢を折り曲げ体を置く。扉はやはり自然に閉まる。特別であるかのようにぎいぎいと私の耳に音を響かせながら。
 

視界が完全に闇に包まれた頃、またあの声が聞こえる。“この扉は今お前によって完全に封じられた。いずれ開かれるべき時がくるまで眠るのだ。”闇の中、私は静かに眼を閉じて眠りにつこうとする。眼を閉じて何処までも果てなく続く闇の中、鬼達の気配は私の様子を窺うばかりで近寄って来ようとはしない。私は闇の胎児。今はただ眠りにつく者。
 

私は明け方の夢から覚めた。顔を洗い歯を磨き、カーテンを開け窓を開放する。何層もある冷たい冬の空気は明鏡止水の如く、まるで絵画のように遠くにある風景を触ることが出来そうだ。澄んだ冬の景色とはまるで対照的な私の心はいつも羨望と嫉妬と独占の欲に掻き乱されている。何の欲も存在せぬかのような仮面も永くは持たぬだろう。烏のように白い息を吐いてそっと眼を閉じる。しかし夢の中のような果てのない闇は続かず、現実の眼を閉じた私の狭い闇の中で鬼は常に私のすぐ傍に在り、心に直接触れて食らっていく。夢の中の私が覚醒するべき時は、いずれやって来るのだろう。私の中の闇が鬼が外に溢れ出すその時。


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