夏の目隠し鬼

火傷の舌には氷をどうぞ。目隠ししたね、準備は宜しい? 鬼さんこちら、手の鳴る方へ。
 

猫舌が治りつつあったので油断した。目覚ましの為の熱いコーヒーを飲んで舌を火傷したのだ。小さい頃舌を火傷すると母がいつも氷を口に入れてくれた。氷を舌の上にのせて喋るので私の言葉は不明瞭になり、そんな私におかしそうに母が相槌を打っていたのを思い出す。母が蒸発してからもう何年経ったか忘れた。失踪宣告されたので7年、それから何年経ったろう。苦笑する。私は意図的に母が私の人生から消えた年数を思い出さないようにしている。
 

母が消えたのは夏の暑い日で、そのとき私たちは目隠し鬼をしていた。その日は休日で、父親はしかし仕事に出ていたので私たちは何処に出かけることもせず2人きりで休日を過ごしていたのだ。昼食後に母が雑誌をめくりながら飲んでいたホットコーヒーを飲みたがった私を母はとめなかった。猫舌なんだから火傷しても知らないよ、母が笑って私にカップを差し出す。案の定舌を火傷した私の口に氷を放り込んだ母は、唐突に目隠し鬼をしようと言った。白いタオルを手にした母が庭先から私を呼んだ。朝顔の植えられた熱い日差しの庭には土と草の香りが充満していて、私はすぐに汗をかいた。すぐに母がタオルで私に目隠しをする。じゃんけんもせずに鬼にさせられたので私は抗議したが、氷のせいでうまく喋れなかった。蝉の声にまじって母のおかしそうな笑い声が私の耳に届く。鬼さんこちら、手の鳴る方へ。
 

狭い庭なのですぐに捕まえられると思っていたが、視界を奪われると思った以上に声の出所が分からなかった。すぐそこに気配はするのに母は笑ってひらりと身をかわし、決して私にタッチさせない。私はすぐに肩で息をするようになったが、母の笑い声に意地になって音を上げなかった。私は大変負けず嫌いだった。母はそのことをよく知っていた。私は腋の下と背中に汗をかいていて、汗ではりついた服、額や首筋に伝う汗、全てが不快だった。タオル地のぼやけた闇で必死に母の声を追った。どれくらい経ったか、母の笑い声がそのうちしなくなり、ただ手を叩く音だけになって、そして蝉の鳴き声だけが残された。口の中の氷はすっかり溶けていた。
 

お母さん。そう呼んでみてもなんの反応も返ってこない。それでも私は目隠しをとらなかった。ルール違反だとでも思ったのか。夏の真中に置いてけぼりをくった私は、日射病で倒れていたところを隣の老婦人に発見された。
 

父が帰ってくるまで隣の老夫婦の世話になった。母は近所づきあいというものが苦手だったのだと思う。母に連れられて隣近所に行ったことなどなかったし、母は買い物以外ほとんど家から出なかった。道端で誰かと談笑していたりということがなかった。老夫婦は私に気を遣って面と向かっては言わなかったが、私を放ってどこかへ行った母に憤りを感じているようだった。ろくに挨拶もしてきたことがなかった、そんな言葉もまじっていた。初めて見る家の様子が珍しかったのか、元気になった私は目隠しされていたタオルを握りしめて、通された部屋を無遠慮にじろじろと眺めていた。老夫婦の出してくれたお茶は熱く、火傷の舌が少し痛んだのを覚えている。母にいい感情は持っていないようだったが、子供たちのとっくに巣立った夫婦2人きりの家で、老夫婦は私を歓迎してくれていた。あれやこれやと構ってくれる老夫婦に私はすっかり好感を持っていた。夕方にはごはんも振舞ってくれて、普段母の作らない料理に私は舌鼓を打った。
 

父が帰ってきた様子だったので、まず老婦人が呼びにいった。父は老夫婦に何度も頭を下げて私を引き取っていった。父が一度だけ質問した。お母さんはどうした。いなくなっちゃった、そう答えると、そうか、とだけ父は言った。
 

あのとき父は、なんとなくいつかそうなることを予想していたのではないかと今更ながらに私は思う。父の転勤で越してきた知り合いも友だちもいない土地に、母は馴染めなかったのだ。私はひりひりする舌の上に氷をのせる。じわりと口の中に水が広がった。仕事に行かなくてはならない。手早く準備を済ませてドアを開けると、むっとした空気が私を襲った。すぐに汗が滲むのが分かる。夏の空気の中でふと目を閉じる瞬間があると、今でもあのときの感覚が蘇る。タオル地のぼやけた闇、母の笑う声。ああ、けれど、母こそが闇の中にいたのだ。そしてあのとき、母は聞いてしまったのだろう。闇の中、呼ぶ声を。鬼さんこちら、手の鳴る方へ。母は声の主を捕まえられたのだろうか。そして目隠しをとることができただろうか。私は今でも、目隠しを取った母が笑いながらある日ひょっこり帰ってくるところを想像する。バスに乗って目を閉じると、蝉の声にまじって母の笑い声が聞こえたような気がした。私は母の笑い声が好きだった。母は、本当におかしそうに笑うのだ。火傷の舌に、氷がいたわるように溶けていく。


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