王の夜、夜の王

胃が痙攣した。関知しないと決めて忘却に呑み込んだ事柄が、耐えがたく再浮上するのを感じる。嘔吐感をこらえながら封印の鍵を探り出し、つるつるとしたその表面を撫でながら、確かに鍵をかけたと、縋るようにその事実を反芻する。波状する血液の音を聞いた夜の夢をいつか見た気がした。だが、それは意識から余りにも暗く、遠い。
 

誰だ。私の夜の闇で踊るのは誰だ。足を鳴らすのはよせ。おまのせいで闇がざわついている、不安がっている。闇を掻き乱さないでくれ、踊るな、異質の者よ。
 

カップの中のコーヒーは既に冷めている。表現は、それだけでは成り立たない。その奥にあるものが重要なのだ。だがどうだろう、私は表皮しか持たない人間だ。それを一番絶望しているのはこの私、当の本人である。皮の中の空虚に、絶望している。だが。私は暗闇にざらついた感触を、覚えている、覚えている。暗い指先が、覚えている。
 

衝立の奥から続く廊下は、これまで見たことのないほど豪華なものであった。にやけ顔の男が私を奥へ奥へと案内する。通された部屋はこれまた豪華絢爛といった様子で、見るからに高価な真紅の絨毯と、煌びやかに装飾された壁や天井が、私を圧迫した。だが趣味の悪いものではない。それらは夜の闇を凛と跳ね返す。男が案内したのは部屋の一段高いところにある立派な椅子であった。不意に問いかけられる。

「空の玉座は何の為かお知りか。」

「玉座」 (そう、これは玉座だ。)

「不在の主人の為である。私は案内人、然るべき場所へ然るべき人を案内する。さあ、あなたはあなたの場所へ」

にやけ顔の男がいやらしさの残る口調で恭しく頭を下げた。私は内心の動揺を隠していた。客人として招かれた筈であった。私をもてなす趣向なのであろうか。にやけ顔の男の去った部屋は、ただしんとしている。私は暫し立ち尽くした。(それとも私を試しているのかもしれない。)敢えて玉座を視界に入れず、素晴らしい内装のこの部屋を眺めて気を紛らわそうとした。だが私ひとりとあっては眩いばかりの内装も、どうにもぱっとしない。私はすぐに時間を持て余した。知識の明るくない私には、それらを見て楽しむ目がなかった。誘惑に負けるのに、時間はかからなかった。私は。私は招かれるようにそっと。そっと玉座に腰をかけた。(然るべき場所へ。)窪みにぴたりと嵌るように、私の体は椅子に、椅子は私の体によく馴染んだ。吸いつくようにぴたりと。途端に時間の流れが緩慢になる。私は玉座に身を任せ、部屋に時間の蓄積していくままにした。
 

どれほどそうしていたか、やがてぼそぼそとした話し声が部屋に近づいてくるのを聞いた。まずにやけ顔の男が入り、それに道化師が続いた。一礼をすると音もなくにやけ顔の男は退出し、道化師だけが残った。砂時計の底のような部屋で、私は道化師と対峙していた。片方の目から涙を流し、耳まで届きそうに口角のつりあがった赤い口の仮面の下で、それは静かに言葉を紡いだ。何か壊れやすいものを慎重に置いていくような喋り方だった。

「お久しぶりです、私の王。あなたが私を置いて出て行かれてから、一体どれほどの月日が経ったことでしょう」

「私を招いたのはおまえか。だが私はおまえを知らない」

「馬鹿なことを仰る、道化を演じるおつもりですか。あなたが道化を演じられては私の立場がございません」

道化師は白い肌の仮面の下から、静かに静かに、慎重に、言葉を置いていく。その声は私を全く落ち着かせなくした。全身を不安が蝕んでいくようだ。理由の判然としないまま、私は怒りに駆られた。これは一体なんの茶番か。私はこの場から去ってしまいたかった。だが私はまるで玉座に見えない触手で捕らえられているかのようだ。動けない。息苦しさを覚える。圧迫感。不意に気づいた。窓がないのである。

「私の王、あなたが望んだのです」

道化師はまるで私の心を読んだかのように絶妙のタイミングで口を開いた。いや、確かに読んだのかもしれない。ここではそれが可能のように思えた。

「あなたが世界の交わりを許さなかった、閉ざした、だが私の王よ、あなたは耐えられなかった、そして私を残して出て行かれた、夜の闇に置いて出て行かれた」

道化師の口調は段々と悲しみを帯びていった。私は先ほどまでの怒りも、不安も、圧迫も、全てを手放すのを感じた。記憶にもない自分の所業にじわじわと罪悪感が膨むのを為す術もなく、ただ道化師の言葉に耳を傾けていた。そして目を閉じて、夜の暗闇にぽつんと、しかし絢爛と光るこの屋敷のことを考えた。

「私の王よ、よくご覧になってください、あなたという意図をなくしたこの華美な内装を。贅沢につくられた屋敷を」

そこで一旦道化師は言葉を切った。

「そして、忘れ去られたこの道化を」
 

再び沈黙が部屋を覆った。はじめ、私は目の錯覚かと思った。真紅の絨毯が、ゆっくりと波打っているのだ。道化師を中心に、波紋を描いていく。道化師が、跳ねた。軽やかに、道化師の本来の役割を果たすように、私の前で、くるくると。それに合わせて、真紅の絨毯も、また踊るのだ。絨毯の赤色が飛び散っていく、道化師の体を赤く染めていく。私は涙のするすると頬を流れていくままに、ただそれを眺めていた。
 

ああ、夜毎、私の闇で踊っていたのはおまえか。道化師よ、私ではない者。指に残る、ざらついた感触よ。おまえは私を取り戻したか。私は、おまえを。
 

道化師は、踊りを終え、仮面の下からただ私を見ていた。私は彼に頷いてみせた。それは微かなものであったが、彼に確かに伝わったことを私は知る。忘却の快楽の、罪の名の玉座、その欲望を、私はそっと退ける。玉座は、その主人は、不在でなければならない。待つことこそが、欠け続けていることこそが、玉座の使命なのだ。その求めるものが、私であってはならない。ここが、私のつくりあげた世界である限り。

真紅の海に降り、道化師の前に立つ。そして、ゆっくりと、その仮面に触れた。ざらざらとした感触が、指先にある。


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