二人を繋ぐ。

雲が途切れて、僕は初めて自分が泣いていることに気が付いて、それから真っ白なワイシャツに真っ赤な手形がべっとり付いているのを見てつい先刻キオを殺そうとしたことを思い出した。それから急にこんな昼間から泣きながら歩いているなんて恥ずかしい気がしてきて、それで涙を拭おうとしたら、僕の両手にも赤がべっとり付いていて、このままじゃあ顔まで真っ赤になってしまうので、仕様が無く僕はまた両手をだらんとぶら下げて歩き出した。
 

ああ、それにしたって。キオを殺そうとしただなんて、僕はなんて大事なことを忘れていたんだろう。夏の陽射しは、僅か狼狽するそんな僕を容赦することなく貫き、ぼやけた輪郭の影を足元に落とす。じりじりと焦がされるように照り付けられたアスファルトはその不自然なほどに濃い僕の影を乗せたまま僕の視界でゆらゆらと揺らぎ、その輪郭を更に不明確なものにさせている。ああ、キオ、僕の両手も赤いけど、このみぞおち辺りに付けられた両の手形は間違いなくキオのもので、僕は彼をとても愛していたからその手形がとても愛おしく思えて、まるでそれは離れ離れになってしまった二人を繋ぐ唯一のもので、彼からの贈り物のようで、だけどただほんの少し脇腹の辺りに掌くらいの大きさの赤が滲んでいるのがそれを汚しているようで気に食わない。突然僕はキオの名を大声で叫びたい衝動に駆られる。だけど勿論僕はそんなことはせずに、まるで何にも無いみたいにして歩き続ける。
 

僕は一体何処に行こうとしているんだろう。破ったらキツイ罰が待っているかのような決められたルールに従うようにして僕は足を交互に出しては前進していく。足を止めることは罪を犯すことに似ていて、僕はまるで祈るようにして歩き続ける。歩き続けるものの、やっぱり行き先が良く分からない。けれど、と僕は思う。キオを殺そうとしたって言う大事なことも思い出せたんだし、きっとまた何かのきっかけで思い出すさ。
 

夏の陽射しは僕を刺し、僕の意識は混濁し始める。ああ、行き交う人々の顔は何処までもぼやけて、それはもはや僕にとって何の意味も成さない。僕の意識はまるで薄い膜に包まれているかのように外界の凡る音を受け付けない。そして、僕は全てキオのことだけを想う。キオ、キオ、そうだ、キオだ、僕のキオ。
 

夏の陽射しはいつだって僕を不快にするけれど、その手形のおかげか僕は全然不快なんかじゃあなかったし、むしろ気分は良かった。不明なままの目的地のことも、取るに足りない些細なことのように思うことが出来た。僕はもう一度キオの手形をじっくりと見て、それから僕の手の赤でそれを崩さないように、決して崩さないようにして、ワイシャツには触れないでその手形がまるですぐそこの空間に浮遊して在るみたいにして宙を抱きしめるような格好をする。
 

そうだ、僕はキオを愛していた。キオの全てが愛おしかった。彼はいつもはにかむようにして笑って、僕にはそれがまるで何かを懐かしがって眩しがっているみたいにして見えていた。僕は彼の笑顔が本当に大好きで、それでだから手形を眺めているうちに、僕はまだ彼が僕の傍に居た時で僕に初めて笑い掛けてくれた時のことを思い出していた。キオのその笑顔を想うと、僕の顔は思わず綻んだ。けれど、綻ばせた瞬間、何千何万という細い鋭い長い針がそれを合図にして一斉に僕の顔目掛けて飛んできて、そして刺さった。刺さったような気が勿論しただけで、そこには針なんて無かった。ただ視界が銀色にちかちかしているだけだった。僕はでもそれでとても吃驚して、思わず顔に触れようとしたんだけど、針が刺さったような感触のあとにはずっと鈍い重い痛みが僕の顔を支配していて、ぐあんぐあん頭の中で響いて、骨に響いて、顔の何処にも痛くないところなんて無くて、流していた涙まで沁みてひりひりしてきていたので、もうその時には僕は泣き止んでいたのだけれど、それで触れるのを止めておいた。それから、代わりに、というのも変かもしれないけれど、口の中のものを吐き出してみると、そうするだけで物凄く痛かったけれど、でも吐くと、それには赤が交じっていて、今度はキオに何度も顔を殴られたことを思い出した。
 

そこはキオの部屋で、僕は確か営業の途中で彼の部屋に寄ったんだと思う。彼の部屋は相変わらず殺風景で、六畳のフローリングにはベッドと大きくない冷蔵庫、そしてMDコンポが有るだけで、床に散らばったCDとMDが在る以外、そこには生活感なんてものがまるで無かった。僕は、彼が学生で一人暮らしをしていること意外何も知らなかったし、彼も僕の事なんて殆ど知っていなかっただろう。多分僕等はそんな事は必要無いと思っていたのだ。そして、
 


 

キオは僕を殴った。

どうしてそうなったのか今はちょっと思い出せないけど、キオは仰向けになった僕の上に馬乗りになっていた。キオは、胸のところに白く小さく NO PAIN とロゴの入った黒いTシャツを着ていて、ブリーチした髪の毛が彼の背後に在る窓からの陽射しに透けていた。
 

キオは、僕の胸ぐらを掴んで、僕に向かって随分と酷いことを、しかも汚い言葉で言った。僕はどうしてそんなことを言われるのか本当に分からなくて、だから、どうしてそんなことを言うのか、と訊いた。僕が訊き終わらないうちにキオは顔を真っ赤にして怒って、僕を殴った。口の中が切れたのか、鉄を舐めたような味がして、それと同時に、どうしてだろう、なんでだろうって言う疑問が凄い勢いで広がっていった。キオは泣いているみたいで、僕が手を伸ばして彼の顔に触れると、新しく彼の瞳から溢れてきた一筋の温かな涙が僕の指先を掠め、そして彼の頬を滑り落ちていった。途端に僕はキオが可哀相になった。キオは僕を見ていなくて、どこか宙を見据えて静かに僕の上で懸命に何かに耐えているようだった。僕は、黙ってキオを見つめていた。それから少しして彼が瞬きをしたので、また新しい涙が頬を伝い、それがまた僕の指に触れると、今度はそのまま僕の指を伝って流れ落ちてきた。僕は僅かに震えた。堪えられないくらいの悲しみが僕を襲ったのだ。物凄く悲しかった。僕はキオの為だけに存在しているのに、なのに僕はキオに馬乗りになられて罵倒され殴られ、キオを泣かせるままにしている。
 

僕の目からはみるみる涙が溢れ、それは僕の視界をぼやけさせた。キオの姿までぼやけさせてしまったので、僕は自分の涙を拭って、それからもう一度キオの頬に触れて、そっと彼の涙も拭った。でも彼はその時にはもうしゃくり上げて泣いていたので、後から後から新しい涙が零れて、僕の行為は余り意味を成さなかった。キオは、それでも微かに声を漏らす以外何も喋らなかった。

纏わり付くような夏特有の湿気を多く含んだ空気の中、遠くで蝉の鳴き声がしていた。彼の背後からの光の中では埃が静かに宙を舞っていて、まるで海の底の微生物がゆらゆらと光届かぬ地で光の存在を知らぬままに泳いでいるみたいだと思った、それは、光の中を舞っているというのに。閉めきられた空間は何処からも隔絶されているみたいだった。この部屋の周りを取り巻いているものはいつもと変わらない日常の風景だ。蝉の声、街の喧騒。だがあれらはあんなに遠い。僕らは一体何処に居る。
 

ぱた、とキオの汗がフローリングの上に落ちて、その音に僕は妙に覚醒した気持ちになる。ダメだ、この部屋の空気は思考を拡散させてしまう。息を吸い唾を飲み込み、キオ、そう呼び掛けようとしたその瞬間、キオの涙が僕の顔の上に落ちてきた。キオの頭の位置がずれて、丁度僕の頭の上に来ていたのだ。キオの涙はそれから連続してぽたぽたと僕の顔の上に落ち、数滴は見開いた僕の目に飛び込んできた。僕の目の中のキオの涙は温かくて、本当は今そうしてあげたいんだけど出来ないので、キオを抱きしめる替わりに瞬きをして、僕はキオの涙を包み込んだ。僕の背中でじんわりと汗が滲んでいた。
 

それから、キオは随分長い間黙って泣いていた。こんな時どんなに言葉が役に立たないかを僕は知っているつもりだったので、ただ黙ってキオを見つめていた。その間もキオの涙は相変わらず僕の顔の上に落ちてきて、そのうちの幾つかが僕の目に落ちてくる度に僕はキオの分身を抱きしめた。キオの泣き顔は無防備で何かに耐えているような分だけそのときのキオの脆さ強調しているみたいだった。ああ、キオは本当に無防備で、それはひたすらに僕の心を揺さぶり、僕はとうとう我慢出来なくなって、愛してるよ、とキオに言った。それはまるで時報を告げるようにごく自然に僕の口を突いて出て来て、僕はこれほど理想的な愛の告白は無いんじゃあないかなんて思った。でもキオはその瞬間に僕を睨み付け、そして叫んだ。
 

まるで音から遠のいた世界に在った僕の拡散した意識はその突然の強烈な音に一気に収縮し、耳の奥でキーンと何かが微かな痛みと共に鳴って、目の前が一瞬だけ銀色に霞んだ。多分、先刻彼に殴られた特、一緒に鼓膜も少し痛めていたんだろうと思った。その叫び声は、僕の中に余韻としていつまでも残った。それはまるで僕への罵声のようにも聞こえたし、全然意味の無い咆哮のようにも聞こえた。泣きじゃくりながら、同時にキオは僕を殴って、そしてそれは今度は一回じゃあ済まなかった。キオは何かをひたすらに喚き散らしながら僕を殴って、そして僕はそんな風にして泣くキオが愛おしくて愛おしくて、可哀相で、どうして僕はキオの力になれないんだろうって思ったら胸がどうしようもなく締め付けられて、それで殴られながら僕は馬鹿みたいに愛してるよ、愛してるよって繰り返していた。
 

キオは手加減なんて全然しないで、僕を十分かそこらくらいずっと殴り続けていた。最後の方はもう殆ど力なんてこもっていなかったけれど、殴られ続けた僕の顔にはそれで充分痛かった。僕は、その間中ずっと意識を失わないようにするのに大変だった。意識を失って僕の視界からキオの姿が消えてしまえば、そのまま本当にそこからキオが消えてしまうような気がして怖かった。その考えに、僕は本気で怯えていた。
 

だから、キオが僕を殴るのを止めた時、取り敢えずは意識を保てた事に僕はほっとしていた。キオは肩で息をしていて、僕の上に乗っかったまま手で顔を覆い、泣いていた。僕は彼の顔を見ることが出来ないのが不安で堪らなかった。僕も泣きそうになったけど、そうはせずに彼をじっと見つめていた。殴られ続けた僕の顔も酷かったと思うけど、殴り続けた彼の拳も随分ぐちゃぐちゃになっていて、僕のだか彼のだか知れないけれど、最終的に彼の手は真っ赤に染まっていた。それを見て、彼の姿はなんて痛々しく、僕は本当に僕のことなんてどうでも良くって、ただキオのことが悲しくて仕方が無かった。キオのその一連の行為が、物理的にと言うよりむしろ精神的に、本当に僕を苦しませたし打ちのめした。僕は必死で泣きそうになるのを堪えながら、出来るだけ穏やかな顔で、ただキオを見つめていた。彼がいつ僕の方を見てもいいように、彼を安心させることが出来るように、僕はまるでそこに痛みなんて存在しないかのようにしてその時を待っていた。待っている間に、なんだか鼻がぐずぐずしていて呼吸しづらいことに気が付いて、僕は鼻の粘膜は弱い方じゃないのに、なんて酷く場にそぐわないことをぼんやりと考えていた。
 

暫くして、キオは僕の視線に応える気になったのかどうかは分からないけど、ゆっくりと顔から手を外した。そしてその赤に染まった両手は彼の体の横にそれぞれ力無く提げられた。彼の顔には、覆っていた手の赤が移っていた。彼はもう泣いてはいなかった。しばらくぼんやりと僕を見つめた後、キオは、もう泣いていなかったんだけど、また泣きそうに顔を歪ませて、分からないといった感じで、どうして怒らないんだ、と呻くように声を絞り出した。こんなに酷いことをされて、なんで抵抗もしないんだ。キオはそう言った。僕は吃驚して急いで何かを言おうとした。したけれど、僕の口は言うことなんて全然聞いてくれなくて、勿論声なんて出なくて、その行為はただ痛みだけを明確に僕の顔に残していっただけだった。そして、キオが僕を殴ったことで傷付いているということが分かって、僕は本当に自分のことが情けなくなって、どうして僕はこんなにもキオの力になってあげることが出来ないんだろう、と強く思った。歪な凹凸をした僕の顔を僕の涙がゆっくりと濡らしていくけれど、僕はいつまで経っても声を出すことが出来なかった。
 

意識も大分朦朧としてきていたんだと思う。少しでも油断をすれば、僕はすぐにでも眠ってしまいそうだった。そして、実際、汗でべとべとのシャツとか痛みとか、そんなこと全部どうでもよくって、シャワーも傷の手当ても要らないから、今この瞬間の全てを放り出して引き摺り込まれるままに意識を失って、何の夢も見ない真っ暗な、ひたすら真っ暗な眠りに落ちてしまいたかった。でも、キオがここにこうして居る限り、勿論僕にはそんなことは出来なかった。
 

それでも、ほんの少しだけ意識が途切れていたのか、気が付いた時には僕の体からキオの重みが感じられなくなっていて、それで焦ってキオの姿を探そうとして頭を動かした瞬間、とてつもなく硬くて重い巨大なハンマーが、思い切り僕の顔に振り下ろされたみたいな痛みが僕を襲った。同時に後頭部にも鈍い思い痛みが走って、殴られた分だけ床に頭を打ち付けたからだ、そう思ってから、何を冷静に考えてるんだ、早くキオを探すんだって思ったんだけれど、勿論この時の僕は全然冷静なんかじゃなかった。
 

と言うか、多分僕は苛立っていた。僕はキオのもので、キオの為だけに存在していて、だからキオは僕に何をしてもいいんだよって、僕に酷いことをして幾ら傷付けたってキオが胸を痛めることは全然無いんだよって、僕の事でキオが傷付く必要なんて何処にも無いんだよってことを、本末転倒かも知れないけど、兎に角その時の僕は、そういうことを殴ってでもキオに分からせてやりたかった。僕のことでキオが傷付いているという、その事実に腹を立てていた。
 

それで、キオにそういうことを伝える為に、頭を動かしさえしなければただじんじんするだけでハンマーに打たれたみたいな痛みはやって来ないことが分かったから、僕は瞳だけを動かしてキオの姿を探した。そうしてるうちにキオの息遣いが聞こえてきて、それで僕はキオが僕の頭の方側の壁に縋っているようだということに気付いた。その方向を眼だけで完全に見ることは無理だったので、僕は力を振り絞って声を出そうとした。僕の事で傷付くことは無いって、そういうことをきちんと説明しようと思った。それで思い切って口を開いてみたら、顎と頬の辺りに冷たいような熱いような鋭い痛みがして、もしかしたら罅が入っているのかも知れないと思った。でも僕の顔の骨が粉々に砕けるより、キオが傷付かなくてもいいんだって伝える方が僕にとっては大事な事だと思って、もう一度声を出そうとした。出そうとしたら、ぐぶっていうくぐもったような不快な音がして、それをきっかけにして僕は噎せて、咳き込んで、そしたらやっぱりくぐもったような音が喉の奥の方でして、口の端から何かが流れ出た。咳き込んだおかげで首から上の全部がぐあんぐあん響いて、危なく僕の意識は飛んでしまいそうだった。それから、先刻鼻がぐずぐずしていたのはあれは血で、それが喉に溜まっていたんだなって思った。
 

でもそんなことが分かったからってこの状況が変わることは無いから、痛みついでに僕は首を捻ってキオが見えるようにした。見るとキオは青褪めていて、僕を見ているんだけど見ていなくて、つまり焦点が全然合っていなくて、それで僕はもしかしたらキオがどうかなってしまったのか、或いはどうかなってしまうんじゃあないかって心配になった。途端、僕の体中の汗が急速に冷えていって、それこそ僕の方がどうにかなってしまいそうだった。怖い、それは怖い。凄く凄く怖いことだ。キオを失って僕は生きていけない。キオ、キオ、君を失ってどうして生きていくことが出来るだろう。
 

痛みで割れそうな頭を右手で支えながら、左手でなんとか上半身を起こす。僕の頭の中は出来の悪い小人が真新しいハンマーを振り回して暴れているみたいだった。顔あちこちがずきずきして、絶えず頭の奥が鈍い重い、だけど何処が鋭い痛みに貫かれていたし、視界は相変わらずぼやけていた。それでも僕はなんとかキオの方を向き、有らん限りの力を振り絞って言った。手を伸ばしていった。
 

君を愛してるんだ。僕は君だけの為に居て、好きにしていいんだ。君が僕の全てなんだ。君の為の僕で、君が僕に何をしようと、君は傷付かなくていい。お願いだ、キオ、君を愛してる。愛してるんだ。
 

何を言ったのか細かいところは良く覚えてないし、何処までが音となって声となって彼に届いたのかは分からないけど、大体そんな感じのことを言った。言っている間中僕は何度も意識を失ってしまいそうだった。視界は常に銀色にちかちかして眩んでいて、喋る度に顔の何処かの骨がぴしぴしいって砕けているみたいだった。言い終わった後も痛みは全然僕を解放してはくれなくて、それどころか更に酷くなっていた。
 

そうやって僕が痛みと葛藤していると、キオは壁に縋ったままでずるずるとその場に腰を下ろした。声を上げないで、だけど涙をぼたぼたと零しながらキオは大きく首を横に振った。真っ赤な手で顔を覆ったせいで付いていたキオの顔の赤を、その既に乾いた顔の赤を、キオの涙が伝っていく。僕は両手で頭を押さえてなんとか痛みと戦いながら膝を使ってキオの傍に行こうとする。でもキオは壁に沿って僕から遠ざかろうとしたので、僕は近寄るのをやめなければならなかった。僕はどうしていいのか分からなくなってじっとキオを見つめていた。キオのTシャツのロゴを見て、ああ、キオが本当にそうならいいのに、と思った。NO PAIN。キオは、全然泣き止みそうもなかった。
 

「オレ、アンタのこと好きだよ。」不意にキオが口を開く。

「アンタのこと好きだけど、ダメなんだ、オレ、いつかアンタを殺しちゃうよ。」

そう言って、本当に小さな子供みたいに泣くキオに僕は優しく、そうしていいんだよ、と言う。けれど言い終わらないうちにキオはまた激しく首を振って、ダメだよ、とまたぼたぼたと涙を零す。優しく微笑んで少し息を吐き、僕は少しずつ、ゆっくりと近付いてキオの横に並ぶ。僕はキオを見て、もう一度あやすように微笑んでからそっとキオの赤に染まった手を取って、痛くないように口付けをする。キオは泣きながら、だけど僕から目を逸らさずにまるで僕という存在の輪郭を確かめるみたいにして僕の赤い顔を彼の赤い両手で包み、何度もゴメンとしゃくり上げて、それから、それから……、
 


 

膝の力がかくんと抜けて、僕はその場に崩れ落ちて両手を突く。暑さのせいもあるんだろうけど、それにしたってなんだか物凄く汗をかいている。おかしいな、おかしいな、と思ってまた立ち上がろうとするんだけど、お腹に全然力が入らなくて、上手く立ち上がれない。もう涙は乾いていたけれどその代わりに幾筋も汗が僕の顔を伝っていて、いちいちそれが傷口に沁みて痛い。大体ずっと警報が鳴っているみたいに頭ががんがんしている。くらくらする頭でアスファルトに落とされた僕の影を見ながら、あれ、なんて呟いているとなんだか酷く間抜けだ。通行人たちは何か異質なものを見るみたいにして僕を避けていく。それがなんだ。彼らが僕にとって一体何の意味を成す。
 

顔を上げて空を見上げると無数の銀色が眼前にちかちかして僕は意識を失いそうになる。まるで針みたいに細く長く余韻を残してそのたくさんの銀色は空を覆うようにして飛び交っている。ああ、そうか、これは叫びなのだ、僕は不意に啓示を受けた敬虔な信者みたいに頭の中がクリアになって目の前に在る全てを理解する。世界はこんなにも叫びに満ち満ちている。叫びはそして途切れることなく次々に新たな叫びを誘い、決して絶えることはなく世界は銀色に覆われていくのだ。僕を襲った先刻の針はこれだったんだって思って、叫びの余韻に浸りながら僕はよろよろと立ち上がりまた歩き出す。歩くことは祈ることと同義で、僕は祈り続けなくてはならない。誰の、そして何の為に。分からない。今はまだ。けれど、

ああ、全てはキオ、君の為であればいい。
 


 

……僕はキオを落ち着かせてベッドに寝かせた。キオの顔や手を拭いてあげようとタオルを取りに行こうとしたんだけれど、キオが行かないでと目で懇願するので、僕は仕方が無くベッドに腰を掛けてキオの頭を優しく撫でてあげた。キオはとても疲れたらしく、すぐにでも眠ってしまいそうだった。僕は全然眠たくなんてなかった。キオの方から好きだなんて言ってくれたのは初めてだったから、多分その事で少し舞い上がっていたんだと思う。首から上の痛みも、頭の中で何かが響いているだけでそれを痛みだとは感じなかった。覚醒と半覚醒を行き来するキオの額に口付けて、ああ、いつまでもこうしていられればなあ、と僕は思った。キオの目が殆ど閉じた頃に僕は腕時計を見て、ここに来たのがお昼前だからって考えてみると、まだ二時間も経っていなくて、だけど僕はなんだかあれから随分遠くまで来てしまったみたいに感じていた。
 

窓に目をやると、強烈な陽射しに目が眩んだ。薄暗い部屋の中で窓からの光に切り取られたその領域はまるで、ほんの少しでも邪気を孕んでいたら有無を言わさず消されてしまいそうな、完全な聖人でなければ入ることの出来ない完璧な聖域のように思えた。光によって切り取られた領域を、僕は暗がりの中からぼんやりと見つめていた。熱気だけが肌に伝わってきていた。僕の意識はすぐにでも拡散してしまいそうになっていて、僕は賢明に意識を保とうとしていた。その光の中をゆらゆらと埃が舞っていて、いや、あれは、あの銀色だ、僕は休息に意識が遠のきそうになるのを感じる。汗が頬を伝う。僕の目が眩んでいるのは、一体何のせいだ。ああ、蝉の声。夏の陽射し。滲む汗。この眼前に舞う全ての銀色。僕。そしてキオ。此処は、何処だ。此処は……、ああ、いつまでもこうしていられればいい。だけどキオ、
 

僕たちはいつまでもこうしてはいられない。
 

僕の意識は部屋中に拡散して、全てはスローモーションのような視界。微睡む彼の左の瞼にそっと、触れるか触れない程度に軽く口付けをして、それから僕は自分のベルトを外して抜き、それを、キオの首に。掛ける。刹那、僕の頭の一点を何かが貫く。キオの目が見開かれる。細く、長く、鋭く、貫かれる。目が眩んで何も見えない。
 

銀色、、。それは叫びだ。キオの口がぱくぱくと動く。キオ! 叫んでいるのは、僕だ。声にならない声。僕は無言のまま叫び続ける。ぎりぎりと僕のベルトがキオの首に食い込んでいく。声は全て銀色のそれに還元されて帰っては来ない。たとえやって来たとしても、僕を貫いて行くだけだ。それは、もう、僕のもとには還って来ないのだ、僕の中に収まることは二度と無いのだ。そうでなければ、一体どうしてこの世界にこんなに叫びが溢れているんだ。
 

僕は全身で叫び続ける。キオ、君に見えるだろうか、この銀色の叫びが。キオの目は大きく見開かれたまま新しい涙が頬を伝っていって、赤に染まった顔はそれで斑になっていく。赤いそれと涙に濡れた彼の顔は怖いくらいにキレイで残酷で、そんな彼の青褪めた顔を見ながら僕は、彼はこの世に最後の一人として産声を上げてしまった赤ん坊のように無垢な存在なのだと思った。彼のそんな痛々しさに涙しそうになる。穢れを知らないことは、悪意を知らないことは、強さであり、そして罪なのだ。キオ、君は自分の中に有る醜悪ものに気付くべきだ。僕等は汚泥に塗れ自分の負の部分を抱えて生きなくてはならない。自分に内在する負の、黒の、それらの感情に苦しめられながら惨めな姿を晒し、内からどろどろに腐りながらそれでも歩みを止めてはならないのだ。目を逸らす事が出来ず、捕らわれ続ける僕のそれは弱さだろうか。哀しいほどに狂いながら、自分の弱さを汚さを黒さを痛烈に思い知らされ続ける。けれど、だから僕は、キオ、君を想ったんだね、残酷に白くて狡い、罪深い君を。僕の中にある、何処までも濁りながら、けれど間違いなく自分の一部であるそれはなんて純粋な気持ち、キオ、君を愛してる。
 

腕に込める力を更に強くしながら僕はキオの上に馬乗りになる。キオの腕が苦しそうに宙を掻き、それから僕の顔に当たって、べちゃっと嫌な音を立てる。痛みは既に微塵も無く、しかし感覚は危うい。僕は穏やかに彼に微笑み掛ける。キオが微かに首を横に振り、キオの手は僕の顔を離れ今度は両手で弱々しく僕の胸の中央辺りを押す。絶え絶えな息。キオの全てが愛おしい。キオ、キオ、もうすぐだよ。人を好きになってしまうと、どうしても最終的にその人の手で殺されたくなる。その人を殺したくなる。それは何だ、一体何だ、
 

それは愛だ。それが愛でないなら何だって言うんだ。
 

内から湧き上がるこの感情達。何の違いが在る。

そして脇腹に甘い痛み。僕は崩れ落ちる。ベルトが外れ、咳き込むキオ。キオの手にはナイフ。僕の頭の中が白に冒されていく。目の前に在る映像と事象がうまく結び付いてくれない。出て行け、とキオが叫ぶ。先刻までキオの首を閉めていたベルトで僕を追い払おうとする。キオ、キオ、それはね、僕らを繋ぐものなんだよ、つい先刻まで僕らはひとつだったんだよ、僕らはひとつになろうとしていたんだよ。キオは僕の言うことなんて全然聞かないで僕を激しく追い立てる。非難の罵声を浴びせ掛けながら、キオが僕をドアの外へと蹴り出す。君が受け入れ、必要としたのは、有りの侭のこの僕では、無かったから。そして、恐らく僕も。

僕は部屋中に拡散した僕の意識と一緒に、世界に放り出される。そして、
 

君も僕を受け入れることが出来ないんだね。
 

ガチャン。ドアを閉める音。

あちらとこちらを断絶する絶望的境界。

さようなら。
 


 

視界がぐるぐる回って、そうか、キオに刺されたんだって思い出して、もう一回腹を見ると、先刻の掌くらいの大きさの赤はじわじわと広がって既にワイシャツの三分の一くらいを染めていて、キオの手形がだんだん侵食されようとしていて、ベルトはキオのところに在るからこの手形が消えたら僕とキオを繋ぐものが無くなってしまうじゃあないかって僕は泣きそうになって、あ、キオが呑み込まれた。
 

そしてまた僕は歩き続ける。世界を覆う銀色は決して終わらないで僕の前でちかちか瞬き続ける。瞬き続けるだけで、それは僕を救うことは無いし誰を救うことも無い。それは純粋に叫びで在り続けるからだ。この銀色の世界で一体僕らに何が出来る。僕らはただ分かり合うことも出来ないじゃないか。そして多分だから僕らは叫び続けるのだ。悲しさが、僕らを叫ばせるのだ。叫びは何時までもそこに浮遊し、そして永遠に辿り着けない。僕らが望む何処にも。僕らはそれと知りながら、しかし叫ぶことしか出来ないんだろう。
 

愛は。愛だと思っていたのは愛ではなくて、でもその全てが虚像であったとは、僕は信じないから。
 

先刻からまた頬を涙が伝っているんだけど、僕はそれに気付かない振りをして、全然気付かない振りをして、呟いてみる。何処へ行く? 僕は何処へ行こうとしていた?
 

隔絶された世界。二人を繋ぐ場所。
 

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