SP復刻版 ああ懐かしのジャズ・ソング


ビクターファミリークラブ

瀬川昌久


●日本のジャズソング第一号は、
二村定一の「青空」と「アラビアの唄」


 昭和三年(一九二八年)という年は、日本のジャズ・ポピュラーの歴史にとって、一大エポックを画した記念すべき時となった。放送開始後三年を経て全国の聴取者数が急速に増えつつあったラヂオから、堀内敬三訳詞による「青空」と「アラビアの唄」が、二村定一や天野喜久代の歌唱によって放送されて大評判を呼んだ。映画演劇の娯楽のメッカであった浅草興行街の電気館に、関西から上京したばかりの井田一郎率いるチェリーランド・ジャズ・バンドがアトラクションに登場し、二村定一が、「青空」「アラビアの唄」「ヴァレンシア」などを歌って、人気の的となった。ラヂオと並んで、普及しつつあった蓄音機レコードに、電気吹込みという新技術が導入され、驚く程の鮮明な録音で、「青空」と「アラビアの唄」がレコード発売された。驚いたことに、同じ年に、先ずコロムビア社から、続いてビクター社から、共に二村定一の歌入りでこの二曲がレコード化され、何れも十数万枚という当時としては考えられない程の枚数が売れた。アメリカ帰りの音楽青年、堀内敬三の名訳による「砂漠に日が落ちて、夜となる頃……」と、タ暮れに仰ぎ見る、私の青空……」という親しみ深い歌詞は、日本国中津々浦々にラヂオとレコードによって忽ち広まった。皆、恐らくアメリカ製の唄ということなど意識せずに口ずさんだこの両曲が、ジャズ・ソングというタイトルで売り出されて大ヒットした第一号であった。以来、舶来、和製を問わず、ダンス・テンポで演奏される流行歌をすべてジャズ・ソングというタイトルでレコード会社が売り出すようになる。
 アメリカの一九二○年代は、「ローリング・トウェンティーズ」と呼ばれ、禁酒法とギャングのシカゴにジャズが栄え、ビートニク作家、スコット・フィッツジェラルドが盛んに小説の中に、ジャズのサキソフォン奏者やボールルーム・ダンスを登場させた。彼のいうジャズ・エイジとは、その時代の文明そのものの担い手であった。日本の昭和一ケタ代(一九二六年から一九三.四年)は、アメリカより約五年おくれて始まったジャズ・エイジであり、「ジャズ・ソング」とは時代のモダンな気風を象徴するハイカラな大衆流行歌の代表であった。明治大正以来の文明開化の進展と、第一次大戦の好景気の影響で、急速に都市化が進んだ日本のインテリ層や文化人は、旧来の、日本の俗謡や新小唄にあきたらず、ダンス・テンポのジャズ・ソングにとびついていった。
 ジャズ・ソングという言葉は、従って、今日でいうジャズ・ヴォーカルと同義ではなく、アメリカ製のみならず、タンゴ、シャンソン、ラテン、ハワイアンなども含めた西洋生まれのポップ・ソングの総称であった。昭和一ケタ、二ケタの戦前期に青春を送った人達が、今もなつかしく思い出すいわゆる、「軽音楽愛唱歌集」にのった舶来流行歌の類がそれである。このアルバムの中で、きいて項く歌曲の殆どは、今でも広く歌われ演奏されているおなじみの唄だが、中にはいつの間にか忘れ去られて殆どきかれなくなった曲もある。今改めてきき直すと、実に美しく、優雅な旋律に満ち溢れていることに気付く、そういういわば新曲を本アルバムの中から掘り起こして頂き、これからも歌いつがれるようになったら、楽しいことであろう。


●全国を風靡したジャズ・ソングの大流行

 昭和三年(一九二八年)の二村定一の歌った「青空」と「アラビアの唄」の大ヒットに気を良くしたレコード会社は次々と舶来のポップ・ソングの中から日本人向きの曲を選んで日本語の歌詞を付けて、レコーディングを行った。まだ専門のジャズ・ヴォーカリストなどが育たぬ時とて、オペラ出身の歌唱力ある歌手が起用され、男性では二村定一、女性では井上起久子、天野喜久代などがその最たるものだった。
 二村定一は浅草オペラで活躍した口木初のクルーナーともいうべき歌手で、大正末頃に既に、「テル・ミー」「ウィー・ハブ・ノー・バナーナ」「ヴァレンシア」などを吹込んでいたが、何といっても、「青空」と「アラビアの唄」のヒットで名を成した。以降昭和五年頃までの間に、「アマング・マイ・スーヴェニア」「ウクレレ・ベイビー」「洒落男」「乾杯の唄」「雨の中に歌う」「ソーニア」「ペトルーシカ」「エスパニョール」など沢山のレコードを出した。また新進作曲家の佐々紅華や塩尻精八の書いた和製ジャズ・ソングの多数を歌ってヒットさせたのも二村であった。最も有名な「君恋し」を始め、「浪花小唄」「海のメロディ」「かちどきの唄「バッカスの唄」「神田小唄」など、まだ演歌調歌謡曲が一般化する前に、二村の唄で流行ったモダンな歌曲として記憶されるべきであろう。
 二村の他、初期に活躍した歌手は、徳山れん、奥田良三、内海一郎など何れも音楽学校を出てオペラ界に進んだ人達で、ジャズのリズミックなセンスよりも、先ず譜面を正確に歌える能力が要求された。「ラモーナ」「バルセローナ」「月光価干金」「フー」「ティティナし「スウィート・ジェニー・リー」などの曲が、各レコード会社によって競って吹込まれ売り出されて、愛唱された。この頃は、レコード会社がまだ演歌調歌謡曲を大量生産する前だったので、時として舶来のジャズ・ソングの方がよく売れる、という珍しい現象も起きた。日本製流行歌の第一号は、中山晋平作曲の「波浮の港」であるといわれるが、流行歌作曲者の第一人者、古賀政男が「影を慕いて」を作ってレコード化したのが、昭和四年である。流行歌の形式を決定的にした大ヒット曲「酒は涙か溜息か」の発売か昭和六年で、この頃から流行歌の主流に演歌調が登場するようになった。同時に、舶来のジャズ・ソングは、大衆の中でもよりハイカラでモダンな層の好みを満足させるために、専門的な歌手を要求するようになって来る。折から、東京には、ダンス・ホールがどんどん出来て、ダンス・バンドを常用し、歌手もダンス・ホールで英語で.歌えるような、高度の技術とセンスを必要とするようになって、流行歌手とは区別されたジャズ・シンガーが出現するに至った。..


●ジャズ・エイジの開幕を告げた
関西プロ・ジャズメンの東上


昭和三年(一九二八年)三月の或日、まだ寒風吹きすさぶ東京駅頭に、井田一郎に率いられたチェリ-ランド・ジャズ・パンドの一党六人が、ボロボロの楽器を持って降り立った瞬間に、日本の真の意味のジャズ・エイジは始まった。井田一郎(バンジョー)をリーダーに、平茂夫(ピアノ)、加藤一男(ドラムス)、芦田満(アルト・サックス)、小畑光之(トランペット)、谷口又士(トロンボン)の六人は、何れも関西で少年時代から楽器を習って育った純粋のプロ・ミュージシャンだった。大正末に関西に林立したダンス・ホールやカフェで、ジャズを演奏し、神戸を通ずるフィリピンや白系ロシアの外来ジャズメンから、アドリブ奏法をも盗みとっていた彼らは,年齢こそ井田を除いてまだ二十才にもなっていないが、腕前にかけては、トップのプレイヤー揃いだった。
 四月に日本橋三越ホールで、ジヤズ・コンサートを開いた時は、六人組のジャズをきかんものと、東都の熱心な学生や新響のプレイヤー達で一杯になった。翌五月から、井田のバンドは、浅草電気館に出演し、二村定一を歌手としてジャズ・ソングを歌って、好評を博した。その後、バンドのメンバーには、幾人かの変動が生じたが、井田は自分のバンドを維持して、ピクター・ジャズ・バンドの名前で、多くのレコーディングを行った。
 東京にもダンス・ホールが続々と開店し、引き続いて、関西から多くのジャズメンが東上して、東都ジャズ界が活況を呈するようになった。ジャズ・ソングの流行と並んで、ジャズ・バンドの数も増え、演奏技術も向上していった。


●東京で初めてジャズを演奏したのは
慶応や法政犬学のバンドだった


 井田一郎の率いる関西プロ・ジャズメンが東上する前に、東京日本橋の三越ホールでは既に大学生達によるジャズ・コンサートか開かれていた。昭和三年一月のレッド・エンド・ブルー・ストムパース・ジャズ・バンドの第一回公開演奏会がそれである。リーダーはビアニストの慶応大学生菊池滋彌で、同じK0ボーイのジャズ狂を集めて立派なバンドを作って、東京や京浜のホテルなどに出ていた。菊池滋彌は、衆議院議員菊池武徳の長男に生まれ、大正十年にアメリカにおける国際全議に出席する父に同行して渡米、ワシントンで初めて黒人ジャズのディキシー・ミンストレル・ショーを見て感激し、ディキシーランド・ジャズのレコードを買つて帰った。恐らく日本人で本場アメリカの黒人ジャズを見聞してまともに研究したのは彼が初めてであろう。彼のバンドには、同じK0ボーイの品川御殿山の男爵益田太郎氏の御曹手達や政友会幹事長高橋光威氏の息子など、そうそうたる名士が集まり、昭和三年からは、ハワイ生まれの多才なアメり力・ミュージシャン、アーネスト・カアイが指導者格で加わった。カアイは、サックス、トランペット、ピアノ、ギターを奏し、編曲もうまかったので昭和四年からは、カアイ・ジャズ・バンドの名で、各地でコンサートを開いたりした。この間、ピクター・レコードに、多くの吹込みを行い、当時としては尖端的な洒落たサウンドをきかせている。
 もう一つ昭和初めの東京のジャズを推進した学生バンドの代表が、法政人学のラッカンサン・ジャズ・バンドであった。この慶応と法政の二バンドは、また良きライバルであると共に良き友人として仲良く協力し合った。法政人学の校友会音楽部は、瀬戸口藤吉を指揮者に立派なシンフォニー・オーケストラを持っていたが、その中からサンセット・ランドという小規模のバンドが出来て、無声映画の伴奏や時折ジャズ演奏も始めた。大正十三年には、「幸福と太陽」(Luck and Sun)からもじった、「ラッカンサン」という名を付け、昭和二年に第一回演奏金を開いたというから、随分古い。次いで、三越で第一回ジャズ・コンサートを開き、幕開きに、「ラッカンサンが揃ったら、ジャズろうじゃないか」と合唱しながら演奏を始めた他、幾つもの学生らしい新機軸を出した。ジャズに編曲が必要だ、と力説して自らすべてのアレンジを担当し、ソロ.プレイのフェイクに至るまで譜にした作間毅(ドラム、リーダー)は、英語がうまくて、ジャズ・ヴォーカルも歌った。後にコロムビアの楽長になった渡辺良は、トランペットを吹いていた。サックスの久留島仁は、バンドのテーマ曲を考えたり、仲々のアイデア・マンで、その後エノケン一座で活躍し、津田純と改名して今も健在。ビクターから吹込みの話があったのは昭和三年秋で、翌年春までに九曲をレコーディングしたが、学生バンドとは思えぬ位、ジャズ的に充実したプレイで、唄なども二重唱の英語でハモったり、とにかくモダンなセンスの横溢した坊ちゃんバンドだった。


●ポールルーム・ダンス大流行の中心
フロリダから輩出した有名バンドやシンガー達


 昭和三年(一九二八年)、関西から初のプロ.ジャズメンのバンドとして東上した井田一郎チェリーランドに引き続き、多くのバンドが東京とその周辺のダンス・ホールに専属として、やとわれるようになる。日本のジャズ・エイジの開幕は、また昭和六年(一九三一年)に始まる一九三〇年代前半の数年間、華やかなダンス・ホール全盛期を現出した。どのダンス・ホールも、競って優れたジャズとタンゴのバンドを専属にして特色を出すことに努めたので、ダンス音楽の内容が格段の進歩をとげた。その中でも一頭地を抜いたアカ抜けた経営で、絶えず音楽にも新機軸を出した一流のホールが、赤坂溜池に出来た「ボールルーム・フロリダ」であった。昭和四年八月に東京でも一番広いフロアーをもって開館し、名支配人津田又太郎氏の見識と努力によって、一流のバンドとダンサーを集めた品の良い社交場を売り物に、各界の名士が相集う場となった。
 昭和五年三月には、東京のホールで最初の昼間バンドとして、慶応大学出身の菊池滋彌の率いるキクチ・エンド・ヒズ・カレジアンスを出演せしめた。学生出身の腕利きジャズメンを集めた若者バンドは、新聞に「新ニッポンの横顔」と題して紹介され、また菊池寛の朝日新聞小説「勝敗」にも登場する程の人気を集めて、満員のダンス客を呼んだ。同年秋に、米国からウェイン・コールマン・バンドを高給を以て迎え入れ夜のメイン・バンドに据えた。昭和七年には、フランスからムーラン・ルージュ・タンゴ・バンドを呼び、初めて本格的なタンゴ・リズムを日本に紹介して、フロリダ名物となった。
 突然昭和七年八月に火事が起きてフロアーを焼失したが、改造工事によって十月から復旧し、夜のメインに、菊池滋彌をリーダーとするオールスター・パンドを編成した。このバンドは、昼間出ていたコロムビア・オーケストラの一流奏者を主体に特別に作った日本一の強カバンドで、南里文雄(トランペット)、角田孝(ギター)、谷口又士(トロンボン)ら、日本ジャズ史を担ったスター.プレイヤーを集めて、フロリダの黄金時代を現出した。昭和九年に、アメリカから黒人歌手ミッジ・ウィリアムスが突然来日して、天与のジャズ・ヴォーカルをきかせ、兄弟達のニコラス・ブラザースのタップと共に、フロリダのファンをアッといわせたのも、この頃である。
 昭和九年秋には、アメリカから再ぴアル・ユールス楽団を呼んで、多彩なダンス音楽をきかせ、翌十年秋には、黒人ばかりのA・L・キングのバンドをニューヨークから招いて、二年間出演させた。カウント・ペイシーやデューク・エリントン楽団とは比べるべくもないが、黒人楽団らしい独特の粘りある合奏、リズム、ショーマンシップはやはりハーレム・ジャズの香りに満ちて、大きな話題をさらった。また昭和十二年には、ダンスのルンバ流行に目をつけた津田支配人が、はるばるキューバから、五人組のルンバ楽団を呼んで、本場のラテン・リズムを紹介するなど、常に時代の尖端をいく音楽の提供に努めた。
 この間、フロリダの舞台を通じて、世に出た歌手も非常に多い。戦後も大活躍した女性ジャズ・シンガー水島早苗は、相良よし子の名でフロリダからデピューしたし、シャンソンやタンゴをたくみに歌った中川まり子(芸名マリー・イヴォンヌ)や、アズマニアンズと共に出演した清水君子も、フロリダ出身。この三人の女性トリオで、ボスウェル・シスターズを範としたジャズ・コーラスを華やかにきかせたのも語り草になっている。淡谷のり子やディック・ミネも、フロリダで歌ってあのような大人気歌手になる端緒をつかんだ。
 昭和十年(一九三五年)前後を頂点に、赤坂の夜、フロリダに集まったバンドメン、歌手、ダンス客達の華やかな交歓は、戦前日本のモダン文化を代表する社交界を見る思いであった。


●華やかな足跡を残した二世歌手違の魅力

ダンス・ホールが繁昌して、多くのジャズやタンゴのバンドが競演するに連れて、一緒に歌う歌手にも、本場のフィーリングが要求されるようになる。また欧米のダンス・レコードが沢山発売されてきく方の耳も肥えて来る。浅草オペラ出身者や、学生のアマチュア歌手の唄で創生期をに.ぎわした日本のヴォーカル界に、原語で歌えるバタ臭いセンスの歌手が、昭和七、八年頃から次々と登場した。アメリカから続々と来日した日系二世歌手達がそれである。その筆頭は、昭和七年(一九三二年)末に十六才で来日した川畑文子。コケティッシュな風貌と美しい姿態によるアクロバット・タップで一躍注目を集め、コロムビア専属となって、「三日月娘」「泣かせて項戴」などのヒットを出した。昭和九年秋にテイチクに移籍して、十年春に米国に帰るまでの数ヵ月間に、ディック・ミネのプロデュースで、二十数曲の吹込みを行った。日活映画にも数回出演し、「踊りはジョセフィン・ベイカー、唄はマルレーヌ・ディートリヒ」の宣伝文旬で非常な人気を得た。彼女のタップの弟子として、後を追って来日したまだ十五才にも満たぬチェリー・ミヤノは、アドけない可愛さと、度胸の良さで、リズミックなホット・ナンバーを奔放に歌いまくった。やはり川畑文子の親友で昭和八年にやって来たベティ稲田は、戦後も長く滞在したので、一番なじみが深い。ジャズとダンスだけでなく、ハワイアンやフラダンスも得意とする大変派手で陽気な性格のチャーミングな娘だった。フロリダやステージのショーにも度々出演し、ディック・ミネと組んで長く巡業に出たこともある。戦後も活躍し、今はロス・アンゼルスに住んでいるが、最近も度々来日して、ディナー・ショーで歌ったり、ミュージシャンとの付き合いが深いので音楽のセンスが良い。
 昭和九年四月に十七才で来日してすぐピクター専属となり、十二年春に米国に帰るまでに十六曲余りのレコードを吹込んだヘレン隅田の名前は、今日殆ど忘れられているが、ちょっと個性の強い魅力的な女性だった。彼女はブルースからバラードまで広い音域を持ち、ジャズのリズム感にも秀で、最もショーマンシップにとんだ表現で歌い踊った。タップやトウ・ダンスもうまく多才で、自らピアノも弾いた。
 この他、昭和八年に来日したリキー宮川と宮川はるみの兄妹、昭和十二年に二世バンドと共に来たダリー藤岡など、数多くの二世娘がヴォーカルとダンスの両面で日本のショービジネスに残した功績は、今日再認識して良いものであろう。彼女らの特徴は、血筋は日系でもアメリカ育ちの故に、表現の方法が極めてバタ臭いことで、日本語も外人よりはうまいので、日本語と英語の両方で歌えるのが強味だった。このパターンは、戦後の一時期も流行した唱法であり、大変になつかしさを覚える方も多いに違いない。


●稀代のジャズ歌手ディック・ミネの大活躍

 昭和五十七年(一九八二年)五月十七日の夕、東京ヒルトン・ホテルのパール・ボールルームは、映画やTV界の長老スター達のなじみの顔で満席の華やかな雰囲気に包まれていた。日本の生んだ稀代の大ジャズ歌手、ディック・ミネの五十年に亘るキャリアに残された数千曲のレコーディングの中から、選び抜かれたゴールデン・ディスク、百一曲アルバムの完成を祝う豪華なディナー・ショーの一夜であった。当年七十二才とは思えぬ若々しいミネは、昭和九年のデピュー曲、「ダイナ」「黒い瞳」から、戦後の「夜霧のブルース」までアルバムに収録されたヒット曲の数々を、スウィングとディキシーのコンボ、ビッグ・バンド、ハワイアンをバックに三時間近く、元気な、張りのある声で歌いまくった。立教大学の後輩灰田勝彦を始め、昔からの共演ミュージシャン、フィリピンのフランシスコ・キーコ(ピアノ)やレイモンド・コンデ(クラリネット)、戦後の後輩笈田敏夫、マーサ三宅その他多くの歌手がお祝いにゲスト出演したその夜のプログラムは、ミネの半世紀に亘るレパートリーの広さを示すと共に、日本のジャズ・ポピュラーの歴史そのものを物語るショーでもあった。
 ディック・ミネ、本名は三根徳一。明治四十一年(一九〇八年)生まれ。立教大学生時代から角力、英語、音楽が好きで、バンドを作って、ドラム、ギター、ウクレレをやった。初めタンゴ・バンドでギターを弾き、メガフォンを口にあてて歌ったりしていたが、昭和九年末、「ダイナ」の思いがけない大ヒットで、テイチク専属となり、ジャズ歌手としてデビュー、各地のダンス・ホールに出る傍ら、続続レコードを吹込み、昭和十年から三年間位の間に、実に百曲以上ものジャズ・ソングを世に出した。その中には、ミネの尊敬したキャブ・キャロウェイ楽団の「ハーレムから来た人」や、デューク・エリントン楽団の「スイングが無ければ意味無いね」などのホット・ジャズ・ナンバーから、コンチネンタル・タンゴ「イタリーの庭」、アルゼンチン.タンゴの名作「ラ・クンパルシータ」、シャンソンの「暗い日曜日」、ハワイアンの「アレコキ」に至るまで、実にあらゆる舶来ポップスを絶妙のフィーリングと天賦の声の甘さで、個性的に表現している。当時のテイチクの文芸部長は古賀政男であったが、古賀は自らが演歌系であるに拘らず、ミネに好きなように曲を選ぴ、伴奏のミュージシャンやバンドを使用させたので、音楽的にも極めて水準の高い演奏となった。古賀自身の作品、「二人は若い」「夕べ仄かに」などの流行歌も歌ってヒットしたミネは、後に大久保徳二郎や杉原泰蔵といったジャズ出身の作・編曲家のペンによる和製ポップスの「上海ブルース」「或雨の午后」「東京プルース」「スイング東京」などを大ヒットさせて、名実共に日本最高の男性ポップ歌手としての名声をほしいままにする。


●日本にもスウィング・エイジが花を開いた

 スウィング・エイジ、いわゆる「黄金のスウィング時代」は、アメリカの一九三十年代後半から四十年代半ばまでの約十年間、ベニー・グッドマンやグレン・ミラーを始めとするスウィング・バンドが、何百、何干と各都市のホテル、劇場、ボールルームで、昼夜スウィング・ジャズを演奏し、専属歌手やコーラスが、バンドと共に、ヒット曲を歌った時期である。キング・オブ・スウィングの呼称を持つベニー・グッドマンが楽団全員と共に主役を演じたパラマウント映画「ハリウッド・ホテル」が作られたのが一九三八年。昭和十三年に封切られたこの映画は、日本のジャズ界にも大きな影響を与え、日本のバンドは競って、ジーン・クルーパの演ずる「シング・シング・シング」のドラミングを真似た。既に日本の杜会環境は、大陸戦争の拡大に伴い、軍国主義的風潮が高まり、ダンス・ホールは男女の享楽を助長するとの理由で弾圧されかかっていた。しかし、昭和十五年末に遂にホールの全面閉鎖が警察の手によつて実施されるに至るまで、自由に憧れる人達によってダンス・ホールは繁昌し、バンドの演奏水準は、ジャズもタンゴもハワイアンも飛躍的に向上した。ホールの閉鎖後は、職場を失ったバンドが、どっとコンサートや劇場のアトラクションに進出して、バンド演奏が盛んとなり、レピューや軽演劇ショーの舞台にも、バンドや歌手が沢山出演した。
 このような盛況も、昭和十六年(一九四一年)末の日米戦争の勃発によって、ジャズ禁止を命ぜられて一挙に停頓するの已む無きに至ったが、それまでの数年間は、日本にも華やかなスウィング・エラが実在したのである。アメリカでは既に標準となったビッグ・バンドの四サックス、五ブラス、四リズムの十三人編成が、日本でも漸く採用され、編曲技術も向上して、個性的なアレンジャー、服部良一、杉井辛一、杉原泰蔵、平茂夫、佐野鋤などが出現した。欧米の楽曲のみでなく、日本の古謡や民謡、歌曲を題材としてスウィング・ジャズにアレンジしたり、ジャズ、コーラスで歌ったりする試みも活発に行われた。折からのアメリカ享楽文化排撃思想と、日本独白の文化創造という国策に添うために、「隠れ切支丹」ならぬ「かくれジャズ」としての日本メロディーのスウィング化という苦肉の策が演奏側やレコード会社により巳むを得ずとられた面もあった。しかし結果として、極めて創造的な手法を内包したオーケストレーションが、昭和十五ー六年頃の各バンドやコンボにきかれた事実は、評価されて良かろう。


●タンゴとラテン音楽も早くから導入されて
立派に育っていた


日本に社交ダンスのリズムとしてタンゴやルンバが導入されたのは、ジャズの由来するフォックス・トロットよりもだいぶ後のことであった。タンゴの輸入レコードによるレッスンは僅かに行われていたが、ダンス.ホールにタンゴ・バンドが現われたのは、昭和六年頃、日米ホールやフロリダが初めてであった。室内音楽協会の松原操が、モンパルナス・タンゴ・アンサンプルを組織してホールに出たのが同年十月。七年にはフロリダにパリからムーラン・ルージュ・タンゴ・バンドが来演して急速にタンゴ熱を高めた。八年には浅野太郎のテイト・モンパレス・タンゴ・バンドが発足し、昭和十年までに各ホールに続々タンゴ専門のバンドが出来た。しかしこの頃は、バンドネオンもアコーディオンも備え、アルゼンチン系、コンチネンタル系の両タンゴを演奏し、またルンバを始めラテン・リズムも同時に演奏していた。昭和十一年に高橋孝太郎の編成したオルケスタ・ロサは、本格的にアルゼンチン・スタイルを目指した専門バンドとして画期的なものであった。
 この頃、レクォーナ・キューバン・ボーイズのレコードがどんどん出て、ラテン音楽への関心も高まり、専門に研究するバンドも現れた。前述のフロリダが昭和十二年にキューバから呼んだキューバ・ナショナル五重奏団は、フランシスコ・モンテスを楽長に、マラカス、クラベス、ギロ、ボンゴなど多くのラテン固有の打楽器を持参して演奏したので、日本のミュージシャンに多大の刺激を与えた。昭和十一年秋に、見砂直照が率いたカムパニア・クリオーロは、明らかにラテン系を目指したバンドだった。
 中南米音楽は、劇場のステージ・ショーの中にも多く採り入れられ、斯界の権威、高橋忠雄が昭和十三年、中南米旅行からの帰朝土産として発表した日劇ショー「南十字星」は、その中で「ルムバ・タンバ」を淡谷のり手の唄で初めて発表して、大ヒットとなった。淡谷のり子は、この頃から、タンゴ、ラテンと並んで、シャンソンにも意欲をもやし、ルシャンヌ・ボワイエの歌った「きかせてよ愛の言葉を」や、リス・ゴーティの「巴里祭」などを日本に紹介して、シャンソン熱をあおった貢献者であった。日本が今日、中南米音楽、シャンソン、コンチネンタル.タンゴの分野においても、絶大なファンを有している素地は、戦前に既に十分に育っていた。宝塚レピューが多くのシャンソンを採用して普及したことも忘れられない。


●独自の発展をとげて万人に愛好された
ハワイアン音楽


日本にハワイアン音楽が入って来たのも古く、大正末期にさかのぽる。昭和に入って、前述したアーネスト・カアイがスチール・ギターを既に弾いていたし、四年に開場したフロリダは、開設時に「ジョース・ハワイアン・セレナーダス」の六人組ハワイアンで、南国調のセッティングでお客にアピールした。その頃、独協中学の仲間から灰田晴彦を中心としたモアナ・グリー・クラプが既に誕生し、やがてパーロフォンやビクター・レコードで流行歌の伴奏にも出演し、昭和九年に、テイチク発足時、十二曲ものハワイアン・メロディーを吹込んだ。弟の灰田勝彦が歌っているが、レコードにはまだ名前がクレジットされていない。
 同年に、神戸商大に入学した村上一徳(スチー・ル・ギター)が、サウザンクロス・カレジアンを結成して、関西におけるダンス・ホールや、放送局に出演して、ジャズを含めた広いレパートリーの演奏を姶めた。村上は、その後も沽躍を統け、昭和十七年からは、朝吹英一の主宰するカルア・カマアイナスに入って、スチールと作曲を担当した。彼の作ったスチール・ギターの独奏用曲「熱風」は名作の誉れ高く、今もスチール奏者の聖典とされている。
 ハワイから来日したバッキー白片は、今日もなお健在で、子供達をメンバーにしたアロハ・ハワイアンズで.元気一杯演奏活動を続けており、恐らく最もポピュラーなスチール奏者といえるだろう。バッキーとアロハ・ハワイアンズは、昭和十年頃から活動を始め、各ダンス・ホールで評判となった。昭和十五年にテイチクに吹込んだ頃は、ハワイアン.グループに加えて、ハワイアン・オーケストラの名称でジャズのホーン奏者を加えた大編成で、ジャズ風な演奏も行つた。
 灰田晴彦、勝彦兄弟は、モアナ・グリー・クラプを率いて、戦争中も人気グループとして活躍を続けた。ビクターに数多くのハワイアン曲の吹込みを行った他、晴彦の作曲したハイカラ流行歌「鈴懸の径」「森の小径」を勝彦が歌って大ヒットとなり、流行歌部門にも進出したことは、よく知られている。戦後も、ニュー・モアノの名の下に、兄弟グループが、日劇ショーその他で絶大な人気を持続した。


●ジャズ、ポツプスのステージ大量進出で
最高頂に達した戦前日本の軽音楽


昭和十五年(一九四〇年)末に、戦局拡大に伴う非常時下の精神作興対策の一環として、ダンス・ホール営業が禁止され、全国のホールは一斉に閉鎖された。今日から考えると、全くこっけいかつ非合理な弾圧であるが、ジャズの演奏につれて男女が相擁して踊る、ということが日本の淳風美俗を破壊する、という議論がまじめに横行した時代。全国に百以上を数えたジャズやタンゴの楽団は、忽ち職場を失ったが、皮肉なことに、街の映画館や芝居劇場では、そのアトラクションやショーの重要な出演者として、きかせ見せるためのいわゆる軽音楽のバンドが大量に要求された。軽音楽といっても、別に新しい種類の音楽が一晩で出来上るものではなく、それはスウィング・ジャズであり、タンゴであり、ハワイアンであった。こうしてステージ・ショーとしての軽音楽全盛時代が現出し、おびただしい数の楽団と歌手が舞台に堂場した。各レコード会社の専属オーケストラも、自社の専属歌手と込みで実演に進出した。踊るための演奏ではないがら、当然リズムの変化や演出上の工夫も要求され、素材と編曲の良否が重要視され、競争を通じてバンドや歌手の水準も著しく向上した。この盛況も、昭和十六年(一九四一年)十二月の日米開戦後は、ジャズが公式に祭止され、ジャズ系の演奏が出来なくなって以降は、急連に衰えていくが、それでもタンゴやハワイアン(南海音楽)は、何とか存続して、激しい戦局下の、音楽ファンにとっての唯一の憩いの場を提供した。一世を風靡したタンゴの桜井潔楽団、ハワイアンの灰田晴彦、勝彦のモアナ・グリー・クラブは当時最も人気を博した軽音楽団であった。