- 八日目、ドバン(Doban)の朝は快晴だった。本流を吊り橋で渡り、左岸の斜面を進んだ。松の木が多く、サルオガセが下がっていた。サラガーリ(Sallaghari)(松の森の意)で昼食休憩した。Sallaghariからは眺めの良い草地になった。雪が2cm位積もっていた。イタリアンベースキャンプにテントを張った。すでにスイスの若い女性二人組のパーティがテントを張っていた。夕方にはダウラギリの西面が赤く染まって見えた。夜には時々雷鳴のような雪崩の音が聞こえた。
- 九日目、スイスのグループは8時過ぎに出発していった。午前中ダウラギリ側の丘まで登った。ダウラギリⅤが見えた。午後はテントで休憩した。昼過ぎまで日が差して暖かだった。イタリアンベースキャンプにもう一泊した。
- 十日目、留守番のポーター2人を置いてジャパニーズベースキャンプに向かった。少し登った後、左岸から流れ落ちる氷河へと下った。雪が1-2cm積もっていた。ストックをしっかり突いて慎重に下った。ガイドP氏がメンバーの一人に軽アイゼンを貸してくれた。下りきるまで留守番のポーター一人がサポートしてくれた。右岸へ渡り絶壁の下を横切って進むとスイスベースキャンプに着いた。草地になっていた。スイスベースキャンプからは広い圏谷(U字谷)になった。両側が2000-4000m切り立ったU字谷は、米国のヨセミテ谷を一回り大きくした感じだった。ここはダウラギリ側から落ちる雪崩の危険地帯との事で、先頭を歩くガイドのN氏は、「ビスターリ、ビスターリ(ゆっくり、ゆっくり)」と言いながら、全く休んでくれなかった。氷河末端に着くと、先着のポーター二人がサポートに戻ってきてくれていた。氷河末端の20cm位の石が今にも落ちそうだった。ポーターのサポートを受けながら沢を左岸へ渡り、氷河へと登った。氷河上をしばらく進むとジャパニーズベースキャンプに着いた。石屑がゴロゴロしていて、一見したところでは氷河の上とは思えなかった。夕方、ダウラギリの稜線に半月が見えてきれいだった。一昨日から飲んでいた高山病の予防薬ダイアモクスの影響で夜中にトイレに4回起きた。
- 十一日目、朝のテントの室温は0.9度だった。往路をイタリアンベースキャンプへと向かった。氷河末端の約20cmの石はまだ落ちていなかった。最後の氷河からの登りでは、行きの道は危険なので上方を巻いた。留守番のポーター一人がサポートに来てくれた。イタリアンベースキャンプではダウラギリサーキットを歩くと言うフランスの若者4人組のパーティがいた。サラガーリ(Sallaghari)まで下った。小屋番から昨日とらえた鹿のもも肉を購入した。夜はたき火を楽しんだ。
- 十二日目、Dobanへと下る途中でダウラギリサーキットとアンナプルナサーキットを一度にやると言う30歳くらいの西洋人一人とすれ違った。Dobanでミルクティをガイドからご馳走になった。Doban先の水場で昼食休憩した。温泉まで下り宿泊した。ガイドN氏はこの下に出身の村が有るとの事で、先へ下って行った。温泉で久々に体を洗った。
- 十三日目、二つ目の村でガイドN氏と再合流した。切り立った道は、次第に乾燥してほこりだらけになった。ナウラ(Naura)南のロッジで昼食休憩した。カーラ(Khara)まで進みロッジ横のバナナ畑にテントを張った。ガイドP氏がロッジからお酒(ロキシ)と羊を1匹購入した。ニワトリ2匹と羊1匹が同じ値段だったので羊にしたとのことだった。ロッジに集まって打ち上げをした。ポーター達がネパールの踊りと歌を披露し、我々も日本の歌「上を向いて歩こう」を歌った。ガイドのP氏も日本語を習った時に最初に教わった歌との事で喜んでくれた。最後はポーター達と一緒にネパールの踊りを踊った。
- 最終日、朝からセミが鳴いていた。途中で振り返るとダウラギリがまだ大きく見えた。車の待つバルバン(Barbang)で、出身村に歩いて帰ると言うガイドN氏、ポーター達と別れた。N氏から餞別のバナナを一房もらった。
- 結局、トレッキング中に出会ったのは5パーティだけだった。