鹿島鉄道 夏紀行

(一九九二年)
 

 3日間のささやかな夏休みのうちの一日、たまには子どもを連れて日帰りで鉄道に乗りに行こうと思い立った。行き先(乗り先というべきか)は、東京から無理なく日帰りできる範囲で、子ども(8歳と5歳)があまり退屈しない程度に変化があること、帰省ラッシュのじゃまをしないこと、などを勘案し、茨城県の鹿島鉄道をめざすことにした。といっても、実は、近いところで私自身がまだ乗ったことがない線区はだいぶ少なくなっているので、あまり選択の余地はなかったのだが。

 朝、といってももう九時すぎ、さて出かけようかといっていたら、今日は仕事に行くはずだったかみさんが「今日の仕事、なくなっちゃった」といってついてこようとする。幼児は別にしても2人と3人では動きやすさがまるで違うし、交通費もかかるし…、と思ったが、まあやむを得ず、ぐずぐず仕度するのを待っていっしょに出発する。
 

  1.常磐線
 上野発一〇時一七分の常磐線快速に乗る。座席がうまり、立っている人が少し、という程度の混雑だったが、かろうじて席を確保した。

 今日かばんに入れてきた本は、日本の鉄道文学の開祖内田百*間による古典的名著『第一阿房列車』(福武文庫)(著者名の最後の文字はJIS第二水準になくて、ワープロでは書けない)。だいぶ前に買ってあったのをひっぱりだしてきたものである。戦後の混乱の中でも無目的な旅を続けた偉大な先駆者は、最良の旅の友である。

 東北本線から見る関東平野は田んぼがまっ平らにどこまでも、という感じだが、常磐線の風景は同じ農村でもかなり変化がある。景色をながめては文庫本を数ページ読み、といったことを繰り返しているうちに、まもなく土浦に着くころとなった。時刻表では四分停車となっているので弁当を買う予定にしていた。ところが土浦では「前7両は切り離しです」という。あわてて荷物をまとめ、後ろの四両に移ったが、後ろは自由に歩けないくらい混んでいて、網棚もいっぱいだった。ともかくやれやれと思ったとたん弁当のことを思い出し、ホームを走る。

 途中スーパーひたちに抜かれたりして、二〇分ほどで鹿島鉄道の始発駅、石岡に着く。鉾田行きが出るまでに時間があるので、駅の待合室で弁当を食べる。土浦の駅弁は夏のせいかあまり種類がなく、幕の内にしたのだが、これがまた本当に平凡で古典的な幕の内で、私の主食はビール2缶だった(キオスクにはビールの自動販売機があった)。 しかしまあ、ファミリーレストランなんかに行くよりはよほど安上がりである。
 

  2.鹿島鉄道
 鹿島鉄道の鉾田までの切符は、駅弁よりも高かった。もっとも、駅弁と違って子どもは半額だが。

 跨線橋を渡って5番線へ行くと、新旧の2両を無理につないだ列車が止まっていた。前の新しい車両は白地に淡い2色の帯のワンマン用、後ろは分離以前に塗られた関東鉄道の色で、顔は昔の湘南電車風。前にはもう立っている人もいたので、後ろへ。2両の間にはもちろん通路はなく、後ろには車掌さんが乗っていた。一二時三〇分、ディーゼルエンジンがうなりを上げ、発車。子どもは「あれ、バスみたいな音だね」などという。すぐに市街地を離れ、草いきれの中を走る感じになる。非冷房車に自然な風が入る。最後尾は特等席で、鉄道には興味のないかみさんも子どもといっしょにおもしろそうに見ていた。

 やがて右手に霞ヶ浦が見えてくる。もう少し湖に近づくとよいのだが、いっこうにある線を越えない。トンネルもなく比較的平坦な道である。途中の駅は大部分無人駅で、発車時刻表は漢数字で書かれ、最近時刻改正になったところだけ白いペンキを塗って修正してある。直した部分もその他の部分も筆跡は同じだ。昔書いた人がまた各駅を回って書いたのだろう。ところどころに燃料輸送用の貨車が止まっていた。

 玉造町が途中での最大の駅らしい。前の車両もすいたようだが、最後尾が捨てがたいのでそのまま居残る。玉造町を出ると左へカーブし、霞ヶ浦に背を向けて少し登りとなる。駅の間隔もこれまでより広いようだ。

 子どもはさすがに外を見るのにはあきたようだが、自由に歩きまわれるので独自に遊んでいる。少し眠気に襲われながらのんびり風に吹かれているうちに、市街地というほどでもないところで突然停止した。終点の鉾田だった。所要五〇分あまり。
 

  3.鹿島神宮へ
 さて、当初ばくぜんと頭に描いていたのは、新鉾田まで歩いて鹿島臨海鉄道に乗ることだが、駅できいてみたら歩いて二〇分かかるという。暑いし子どもづれだし、どうしようかなと思っていたら、鹿島神宮行きのバスがもうすぐ出ることがわかった。私は前に鹿島臨海鉄道には乗っているので、バスでいっこうにかまわない。

 バスは一三時四〇分発、冷房がきいている。鉾田の町を出るまではかなり渋滞した。東京から帰省してきて、することなくて車を動かしている人が多いのかな、などと思った。町を出て、新鉾田駅に立ち寄ったが乗客はなく、あとは田園の狭い道を快調に走る。北浦が近くなったり遠くなったりしてきらめいている。

 約五〇分で鹿島神宮駅前着。バスも駅弁より高かった。ずっと昔、鹿島臨海鉄道ができる前に来たときには、駅の前は赤土のかたまりだったが、その後きれいに整備されて、れんがの道が鹿島神宮へと続いているらしい。

 東京までの指定券を買ってなお時間があるので、鹿島神宮まで行ってみることにした。れんがの道を登り、左に折れると貫禄のある並木道となり、大きな鳥居が迎えてくれる。神社のわきの家の住居表示は「宮中一丁目一番一号」となっていた。木かげはさすがに涼しい。本殿は、日光の東照宮のようなけばけばしさはなく、落ち着いた雰囲気だった。
 

  4.帰り道
 駅へ戻ると、特急あやめ八号が待っていた。ただし、佐原までは普通列車扱いである。一五時三八分発。出発してすぐ北浦の上を渡るのは爽快な気分だ。しばらく高架で眺めがよい。水郷にも一度来てみたいと思う。

 最初はがらがらで、これは指定席の分損をしたかなと思ったが、佐原でほぼ満席となった。かみさんはわずかにあいていた席に移ってまどろみ、子どもはあいかわらずふざけあっている。

 成田で空港からの線が合流してくる。時刻表を見ると、あやめは成田エキスプレスの合間をぬって運転されているような感じだ。成田空港へ降りるときに日本の緑の美しさが目にしみるが、成田線・総武本線はその緑の中を走る。ゴルフ場だけが、人工的な違う緑で気にくわない。その緑が遠のくと千葉、そして一七時二九分、東京駅地下ホームに到着した。

 『第一阿房列車』はまだ2割ぐらい残っている。第二、第三が楽しみだ。